中編

 サトリとの生活も、はや二年の月日が経とうとしていた。

 私たちも十二歳の誕生日を迎え、少しは成長が見られたのだろうか。場所を限定してなら麓の町へ降りることも許可される。その場所ってのが、サトリのお客さんがいる店ってのは何とも言えないが。

 活動範囲の広がりをソニアは喜んではいたものの、私の心境は複雑だった。いつかの猟で聞いた言葉を、今でもねちっこく覚えているせいだ。

 町に出るようになって分かったけど、どうも私たちは人目を惹く。サトリやソニアは私から見ても美形だったが、私もそこそこ顔立ちが整っていたようだ。

 それを引き合いに出すのは、自惚れているようで恥ずかしい。しかし本音ではずっと思っていた。放っておいたらいつかちょっかい掛けられるぞ、なんて。つまるところ、子供っぽく拗ねているだけなのであった。


「あら、いらっしゃい」

「こんにちは。今日はイノシシの燻製」

「ふふっ。いつも助かるわ」

「お互い様だから」


 骨董屋の女店主に肉を渡し、店の奥に案内される。食料を交換条件に、私たちは売り物であるはずの書物に触れることが許されていた。


「また一人? ソニアちゃんと喧嘩でもした?」

「……そんなんじゃない」


 痛いところを突かれ、途端に不機嫌になる。あまりに分かりやすかったからか、店主もそれ以上踏み込んではこなかった。

 彼女の言う通り、ちょっと前まではソニアと一緒に来ていた。何なら、ソニアが店主と話を付けて通うようになったのだ。私自体は、本とか読む性質じゃなかったし。

 だけど最近、ソニアは食事で拘束される機会が多い。この前なんか、三回とも彼女単独の食事だった。

 それが面白くないから、彼女を置いて町へ降りてしまう。サトリに直接言えばいいのに変なプライドが働いて、ソニアにまで冷たく当たってしまう。彼女の対応が易しければ優しいほど、自己嫌悪に陥るのだった。



 家に帰るとサトリは出かけているようで、ソニアが一人で台所に立っていた。出迎える笑顔が眩しく、心中の影が一層濃くなる。


「手伝う」

「んー、じゃあ野菜洗って?」


 何ともない様子にホッとしつつ、隣に並んで作業に取り掛かる。黙っておくのも不自然だから、後ろめたさはあるけど今日見てきたものを話す。


「またあの店で調べてきたよ」


 サトリの正体を探ろう、と最初に言い出したのはどっちだったろう。ともかく謎に満ちた彼女について、何か一つでも知りたいという欲求が私たちにはあった。そこで町唯一の骨董店に目を付け、今に至る。


「こっちの地方の伝承とか、精霊についてとか。大した情報はなかったけどね」

「……悪魔、とかは?」

「悪魔?」


 やけに具体的な名称を口にする。悪魔っていうと、さっき読んだ経典に記述があった。神様に仇なすもので、人の心を惑わす存在。


「確か、悪魔は人間の心は読めないんだって。神様と同じことはできないみたい」


 心を惑わすってのは当たっているけど。あの店主だって、毎月のように足を運んでいるし。


「……そっか」

「それよりね、すっごい東にある島国に——」


 喋るのに脳の容量が取られ、いつの間にか手は止まっていた。それとなく指摘され、照れ笑いをする。

 和やかな空気の裏には、ソニアの懐の深さがあった。反省と感謝と一緒くたにして、肩を寄せ合う。


「たっだいまー!」


 玄関からサトリの声が聴こえてくる。彼女の噂をしていたからか、急な帰宅にソニアは狼狽えていた。そんな彼女をからかいつつ、声を揃えて「おかえりなさい」を言う。そんな私たちに安堵したのか、サトリは廊下の奥でクスリと笑い声を零していた。



 今日もまた、サトリはソニアでしか食事をしようとしない。その意図がだいぶ見えてきたから、前ほど心境は複雑ではないが。

 久々に食事に呼ばれた際、サトリはむさぼりつくように私を抱き締めた。理由はついぞ語らなかったが、流石に察しが付く。つまりは私が鬱屈とした想いを溜め込むだけ、彼女にとってはおいしい感情になっていたということだ。

 扱われ方への不満はあった。ただ、そもそも私たちは奴隷の身分である。そのくらいは許してやるとしよう。


「あら、いらっしゃい」

「こんにちは。今日はシカの足だけど……いる?」

「もちろん。私は結構好きよ?」


 取引は無事成立したが、今日は店に要はない。おつかいの帰りに立ち寄っただけだった。しかしなぜか、ずるずると呼び止められる。雑談かと思いきや矢印は定まっており、本題に踏み込むタイミングを図っている様子だった。


「……何が言いたいの?」

「ご、ごめんね? 遠回りな言い方して」


 意を決したのか、店主は口を開く。


「単刀直入に言うわ。サトリさんは危険だから、早く逃げた方がいい」

「……危険? どういう意味?」

「言葉の通りよ。あの人、前々から悪い噂が絶えないの」


 冗談には見えない様子に、こちらも態度が強張る。空気のヒリつきを感じてはいるのだろうけど、店主は続ける。


「その、あなたたちって養子よね? 近頃多いのよ。連れてきた子供を虐待したり、その、殺しちゃったり。あの人も昔そんなことがあったって、噂が絶えないの」


 店主が私を一瞥する。その意味に気付いた瞬間、カッと頭に血が上るのを感じた。


「あれだけ情けなくよがり声を上げて、骨抜きにされといて説得力無いと思わないの? 独占したいがための嘘だとしても、ちょっと許せないよ」

「わっ、私だって、本当はこんなこと……」


 言い訳も無駄だと悟ったのか、店主はそれ以上何も言わなかった。もう二度と訪れないであろうこの場所を、一刻でも早くと逃げ出す。


「あっ、お帰りラトリア」

「ただいま。これ、頼まれてた香料」

「あら、おつりは使ってきて良かったのに」

「いい。それより、えっと……」


 周囲を見渡し、ソニアが部屋にいないことを確認。物音からして、裏庭にいるのだろう。だったら——。

 サトリの腰に手を回し、ぎゅうっと抱き締める。みぞおちのあたりに顔を埋め、服を濡らしながら恨み言を並べる。


「……あの女嫌い。サトリのこと悪く言うの」

「ラトリア? そう、嫌なことがあったのね」


 そんな私に戸惑いながらも、サトリは何も聞かずに受け止める。やがて彼女の髪が、私の耳を覆うようにはらりと垂れた。


「ふーむ。こういう時のラトリアは、特別おいしいわね」

「……ひどい」


 わざとやっているのだろう。ズズズッ、ゾゾゾッと不要な咀嚼音が垂れ流される。おかげで涙も引っ込んでしまった。それでもまだ、泣き止まぬ振りをしてくっつき続けた。

 

 そうして私は、店主の言葉に蓋をした。

 そんな風だから、都合の悪い話から目を背け続けたから、唐突に感じたのだろうか。いくらでも目を凝らせば、予兆はあっただろうに。



 季節も冬に移り変わろうという時期だったからか、隣から失われた体温にいち早く気付いた。もぞもぞとベッドを抜け出し、部屋をぐるりと見渡す。

 ソニアがいない。普段は眠りの深い彼女だから、珍しいとは思った。早く帰ってこないかなと、毛布を被りながらもぞもぞ体をくねらす。


「んっ、む……」


 その時、サトリの寝室から呻き声のようなものが聴こえてきた。うなされているのだろうか、ガタガタと激しく寝返りを…………違う。これは椅子の音? 

 胸騒ぎがした私は、毛布を跳ね除ける。その際、机に放置しておいたナイフが目に入った。

 何か理由を……そうだ。強盗が入ってきたのかもしれない。このナイフは、万が一の際の自衛用。そう思い込むことで、正当化する。

 私は明らかに冷静さを欠いていた。物音を消そうともせず駆け出し、そしてサトリの部屋の前に。鍵は掛けられておらず、扉はいとも簡単に開く。

 室内には煌々と月明かりが差し込んでいた。照らし出されたホコリがベールのようになって、椅子に拘束された人影を薄っすら覆っている。


「ん!? んーっ!」


 口を布で覆われながらも、ソニアは叫び続ける。しきり首を振って、早く逃げろと言わんばかりに。

 当然無視する。私の視線は一点に釘付けにされ、しかし凝視することはできなかった。彼女の瞳から逃げるように、動く口元だけを映している。


「あら、見つかっちゃった」

「……言い訳ぐらい、したらどうなの?」


 今ならまだ、許してあげる。

  その手元にある刃物だって、床に滴る真っ赤な液体だって、手の込んだ冗談だったで済ましてあげられる。

 だから、そんな顔しないでよ。

 開き直るような、薄っぺらい笑顔を向けないでよ。


「痛がるソニアはとってもおいしいのよ。だから食べる。何も後ろめたいことはないわ」

「初めから、こうするつもりだったの? 私たちも、そのために……」


 今更それを聞いて何になるというのか。未練がましく私たちの関係を問うも、失笑される。


「来ないで! これ以上近づいたら——」

「ふふっ、刺せるわけないじゃない」


 余裕溢れるサトリの表情には、確信めいたものがあった。

 その通り、私は刺せない。彼女にナイフを向けるのさえ、心のどこかで拒否反応を起こしている。

 視界いっぱいに、サトリの体が映る。その瞬間、ナイフを握る手が緩んだ。体が先に、彼女と敵対することを拒んだのだ。


 ——ごめんね、ソニア。

「……ごめんね」


 ソニアへの言葉が、なぜかサトリのささやきと重なった。

 彼女の場合、何に謝っているのか分からなかったが。

 次の瞬間、あまり慣れない感触が両手を伝った。ソニアに任せっきりで、一向に得意にならない肉をさばく感触。


「サトリ……? サトリ!」


 わけが分からなかった。私の手にはしっかりナイフが握られていて、それでいて深々とソニアの胸を貫いていた。今引っこ抜けば噴水みたく溢れ出すような想像を、ナイフの先の脈動が搔き立てる。


「ど、どうしよう……血が……」


 私たちの手でどうにかなる傷ではなかった。町まで降りる? いや、この傷じゃ体を動かせない。だったら——。


「サトリ!? 離して! 今、人を呼んでくるから!」

「……その必要は、ないわ」


 あろうことか、この期に及んで彼女は食事を始めた。普段より強い手付きで私を捉え、頬擦りする。浅い呼吸が前髪をくすぐり、甘い吐息となって返ってくる。


「サトリ……んっ……」


 それだけじゃ飽き足らないと言わんばかりに、サトリは自身の唇を押し付けた。私の口をこじ開けるような、柔らかい感触が思考回路を狂わせる。

 唇とは違う湿った感触が歯の裏を撫でる頃、サトリは吐血した。口の中を塗り潰し、喉の奥にべったりと張り付く鉄の香り。

 精神的なものか、単なる酸素の不足か。急激に視界が揺らぎ始める。脳に霧が掛かったみたいになり、末端の神経の感覚は失われる。


「ごちそうさま。今までありがとね」


 薄れゆく視界の中で最後に見たものは、果たして現実のものだったのか。

 死の際に瀕しているというのに、彼女はあまりにも安らかで、それでいて艶やかな微笑を浮かべていた。

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