リリー、私は貴女を知らない

秋山善哉

第1章

 リリーがいなくなった。


 私は自分の布団の上に正座して、電線で騒いでいる雀たちを呆然と眺めていた。

 昨日も掃除したはずなのに、主人のいない部屋は妙に埃臭かった。

 長方形の部屋は中央の軍事境界線を境に、綺麗に二分されている。窓側が私の領土で、入り口側がリリーの島だった。

 この部屋に来た人は、どちらがどちらの領土なのか瞬時に見抜くことができる。片付いている方が私で、散らかっている方がリリーだった。

 誰がどう見ても散らかっていたが、汚いと思ったことは一度もなかった。理由はリリーが物たちに魔法をかけているからだ。彼らは、紀元前からそこにいたような佇まいで、それぞれの場所に鎮座していた。それは不思議な調和を生み出し、鎮守の森のような神秘的な空間を生み出していた。

 リリーは天性のバランス感覚で、この独特な空間を生み出していた。そのバランス感覚こそが彼女の最大の魅力だった。ただ管理人を失った物たちはお互いの調和を忘れて悲鳴を上げていた。彼女の神域はもう既に崩れ始めていた。



 リリーと初めて出会ったのは西荻窪駅の前にある不動産屋だった。

 三月の終わりにやっと東京の女子大学に合格し、慌てて栃木から出てきたところだった。

私は東京の人口密度に圧倒されないよう、黒いキャリーケースの柄を目一杯握って不動産屋のガラス貼られた広告を見ていた。目を皿のようにして探したが、単身者用のアパートで八万円を切る物件はほとんどなかった。

私は勝手に「地元の相場に、二、三万足して、六、七万あれば足りるだろう」と思っていた。だがそれは、田舎の生娘が思い描く妄想に過ぎないようだった。

 時間になったら入店して物件を見せてもらう算段だったが、私は自分がとんでもなく世間知らずな気がしていたたまれなくなっていた。

 自分の顔がみるみる赤くなって、身体が火照っていくのが分かる。私は、わっ、と叫んでこの場から逃げ出したくなった。

 そう思ってウズウズしていると、隣からやたら低い女性の声が聞えてきた。

「高いなぁ」

私は自分の世間知らずを悔いることに忙しく、真横に人が来たことにすら気付いていなかった。そのことがまた、自分のことばかり考えているみたいで恥ずかしかった。

 女性は長い金髪を流して、栗色のコートを羽織っていた。手には私と同じようにキャリーケースを持っている。

 雰囲気は大人びていたが、顔を見ると随分若く、私と同い年くらいに見えた。

 肌は白く、張りのある唇は紅く薄い。二重の目は、少し釣り目で三白眼だった。

 ちょっと怖いと思ったが、ふと「チベットスナギツネに似てるな」と思うと怖くなくなった。

 女は視線に気づいて、私の方をじっと見る。それから時間をかけて私の顔を観察し、口を開いた。

「大学生ですか?」

「はい、春から入学です」

「へえ、大学では何を勉強されるんですか?」

「民俗学をしたいなと思って……」

 私の入学する大学は人文系が強いことで有名だった。

「そうですか。北野天満宮って知ってますか?」

「はい、菅原道真の」

「そうです。あの辺が私の地元なんですが、実はあそこには河童の手というのが納められているんです」

「河童の手ですか!」

「ええ。でも北野天満宮だけじゃないんです。うちの近所には至る所に河童の伝説が残っていて、なんでも筑後川には九千匹の河童がいたそうなんです」

「へえ!」

 私は筑後川の中で芋洗い状態になっている河童たちを想像して吹き出してしまった。

「しかし、この九千という数字は不思議なんです」

「どういうことですか?」

「例えば、河童がたくさんいることを表したければ、一千とか一万でいいでしょ?」

「ええ、確かに」

「ということは、誰かが数えた結果、約九千だったということでしょう。つまり一人一人、いや一匹一匹か、マイケルとか、ステファンとか名前がついていて、個体を識別できたはずなんです。じゃないと重複してしまいますから。そして一匹ずつ数えた結果、大体九千匹いたということだと思うんです」

 私は声を上げて笑ってしまった。

「まあ、これは冗談ですが、でも一万ではなく九千と書いたのには何らかの理由があるような気がするんですね」

 そうしてわざわざ河童の小話をしてまで言いたかったのは次のことだった。

「私は田舎から出てきて、あまりお金もなく……。要はフリーターで、まだ二十歳にもなっていないので……。その、もしよろしければシェアハウスできませんか。そうすれば家賃は半分です」

 彼女は「家賃は半分です」だけ堂々と私の眼を見て言った。私はその提案を喜んで引き受けた。

 

 私は彼女と生活することで、彼女の特異さを目の当たりにすることになる。

 例えば、彼女は毎朝六時半になると目を覚ましてラジオを付ける。

赤いラジオからはプロテスタント系のお説教と賛美歌が聞こえてくる。彼女は私を跨いでカーテンを開け、朝日を浴びながら、じっとその説教と賛美歌を聞くのだ。

その時の彼女は一片の穢れもない天使のように見える。

だが、その放送を聞き終わると、また一時間ぐらい寝て、起きたら「早死にしてもいいんだ」と言い訳しながら、ガーリックバターをたっぷりと塗ったトーストに齧りつくのだ。

 彼女の不思議なところは、神々しさと人間臭さの間を自由に行き来しても矛盾を感じさせないところだった。

 善と悪、世俗と脱俗、上品と下品、ハレとケ。彼女は様々な二項対立の間を反復横跳びし、かつその矛盾を内包しながら「宍戸リリー」という一つの対象に統一していくのだ。

 そんな彼女の卓越的センスは彼女を特別な存在にし、私に憧れと妬みの感情を抱かせた。

 しかし、彼女を特別にしているのは、何も彼女のセンスだけではなかった。彼女には「秘密」があった。その秘密がより一層、彼女をミステリアスな存在にしていた。

 一緒に生活し始めて数ヶ月が経ったある日、部屋に警察がやって来た。

 若い府警と年配の男の警察官だった。彼らが来たのはちょうどキリスト教のラジオが終わった頃だった。

 リリーは特に抵抗もせず、「行ってくるわ」と嫌に落ち着いた調子で行ってしまった。

 それを見ていた私はもちろんリリーのことが心配になったが、同時についに彼女の秘密を暴くことができると思った。その頃の私はリリーの秘密を暴くことに躍起になっていた。そうすることで、リリーを自分と同じ凡庸な存在にできるのではないかと考えていた。

 彼女は夕方になって何食わぬ顔で帰って来た。

「おかえり、大丈夫だった?」

 私は自分のつまらない下心を気取られないように、それとなく尋ねた。

「うん、お昼は取り調べ室でカツ丼だった」

「へえ、それで何の用で呼ばれたの?」

「バイト先でちょっとお金の問題があったらしくて、事情聴取をしに来たらしい」

「へえ……」

 彼女は嘘を付いていた。

 その嘘を聞いたとき、私の嫉妬心は全く別の感情に塗り替えられてしまった。私は信頼していた人に突然裏切られたような悲劇的な気持ちになっていた。

 だが、私には最後の手段が残されていた。それは日記だった。彼女は毎晩一言日記をノートに付けている。それは私と出会う前からずっと書いているようで、その日あった一番面白い出来事を記録しているようだった。

 私は何でもないような顔で夜を過ごした。そして、彼女の寝息が聞こえてきて半時間ほど経って、そっと動き始めた。

 自分でもなぜこんな下卑たことをしているのか分からなかった。普段の私なら人の日記を覗くようなことは絶対にしないだろう。

 私は心地よい興奮に突き動かされていた。当然、理性は私に「止めろ」と命じる。だが、私は内心「彼女が教えてくれないのが悪いのだ」というわけの分からない言い訳で自分を納得させていた。

 日記は無造作にキャリーケースの上に置かれていた。私は手を伸ばして日記を取る。それから自分の領土に戻って、布団の上に座った。

 ドキドキしながら適当なページを開く。乾いた紙が擦れる音がする。リリーは小さな寝息を立てていた。

 ゆっくりとページを捲る。その枚数が私たちがともに過ごした時間を表していた。

 青い月明かりがカーテンの隙間から入り込んできている。私はその青い光に彼女の角張った文字を照らしてゆっくりと解読していく。

 私はその青い薄暗闇の中で知るべきではない秘密を知った。

「六月二十日 警察が来た。バレた。千賀南のときのように佐々木莉里も殺すしかない。それはとても悲しいことだ」

 思わずノートを落としてしまう。先ほどまでの高揚感は消えて、妙な肌寒さが全身を包んでいる。

 私は彼女の日記をそっと元の場所に戻すと、背中を丸めて頭から布団を被った。何とかして寝ようと思ったが、どうしても眼が冴えて眠ることができなかった。

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