第2章

 私たちの日常は何も変わらなかった。

 あれから警察が来ることもなかったし、私もノートの言葉を忘れかけていた。

「いやにロマンチックだ。喜劇名詞じゃないか?」

今思えば、この頃が一番楽しかった。私は自分が彼女にはなれないことをついに悟り、素直に彼女を尊敬し二人での生活を楽しんでいた。

 その頃私たち二人は、名詞を喜劇名詞と悲劇名詞に振り分けるという、ある小説に出てきた遊びに熱中していた。

「じゃあレズピアンは?」

「レズビアンね……」

 彼女は布団の上に仰向けになって、腕を組みながら私の質問の答えを考えていた。彼女はじっと天井の一点を見つめていた。

「レズビアンは悲劇名詞だ」

「え、なんで?」

「昔、レズビアン小説短編集というのを読んだことがある。その大半が女同士の恋愛を叶わぬ恋として描いていた。儚げな雰囲気は良かったが、喜劇とは呼べないな」

 私は彼女の意見に納得できなかった。

「でも、それは時代背景の問題でしょ? 今の時代だったらレズビアンも叶わぬ恋じゃないでしょう」

「うーん、どうだろう……」

 リリーの煮え切らない態度にさらにムッとして言い返す。

「リリーは前、異性愛は悲劇名詞だって言ったわ。だったら、同性愛は喜劇なはずじゃない」「うん、でも、恋愛そのものが悲劇なような気もする……」

 彼女は基本的に自分の意見をはっきり述べる。ただ、この時だけは私の様子がいつもと違うことを察して言葉を濁した。

「まあ、いいや。ちょっとお風呂入ってくる」

 彼女は長い金髪を揺らして立ち上がった。レズビアンの話は切り上げるつもりらしかった。

 納得できなかったが、私はそれ以上追求しなかった。

 リリーは風呂場に入り、内側から鍵をかけた。

 彼女はいつもお風呂に入るとき、必ず鍵をかける。だが、その時だけは妙に鍵の音が耳に残った。

 半時間ほどするとリリーが濡れた髪を拭きながら出てきた。彼女はもう既にピンク色のパジャマを着ていた。私は彼女が風呂に入っている間に、自分の違和感の正体を突き止めていた。

「ねえ、リリーって、なんで私に裸を見せないの?」

「ああ……」

 リリーはキャリーケースの前に座って顔に乳液を塗っていた。彼女はテカテカした顔で私の方を見るとニヤッと笑った。

「実は、私の背中には鯉の入れ墨があるんだ」

「鯉?」

 また嘘だった。私の直観に間違いはなかった。


 その日の夜、私はあのノート見たときと同じ高揚感に包まれていた。そしてまた心の声が「教えないリリーが悪い」と私に耳打ちする。

 私は自分でも説明できない興奮に後押しされて、寝ているリリーの傍まで行った。

 彼女はいつも胸の前で手を組んで祈るように眠る。私はそっと彼女の身体を横にした。幸いリリーはぐっすり眠っていた。

 そっと服を捲る。やはりそこに入れ墨などなかった。

 彼女の背中は雪原のように白かった。だが、腰の辺りに円形の痣のようなものが三つあった。その痣は綺麗な正三角形を描いていて、どうやら人為的なもののようだった。

 私はその三つの痣こそが、彼女の魅力の根源であるような気がした。私はそっとその痣に触れる。他のところよりも皮膚が硬くなってザラザラとしていた。

「ンあ……」

 リリーが寝返りを打つ。

 私は慌てて自分の領土に戻る。私は急に自分のやったことが怖くなった。

 彼女の秘密を無断で奪ったのだ。それはとんでもなく不道徳で軽蔑されるようなことのような気がした。

 その不安は結局消えず、翌朝リリーはすぐ私の様子がおかしいことに気が付いた。


「希海、私の背中を見たな?」

 彼女は食パンを齧りながら尋ねた。彼女の唇はマーガリンの油で妖艶に光っていた。

「……うん」

「仕方ない。私の秘密を教えてあげよう」

 彼女の「秘密」という言葉を聞いた途端、私の胸の内から言い知れぬ多幸感が湧き上がてくる。私は口角が勝手に上がらないように、キュッと口を閉めて彼女の前に座った。

「三つの火傷跡があっただろう?」

 リリーは宝箱の在り処を教えるみたいに小声で静かに語り始めた。

「うん、あった」

「あれは、人間の矮小さを表しているんだ」

 彼女は私の顔を見てニヤッとした。そして自分の小さい頃の話をしてくれた。

「私は自分の本当の父親を知らない。だが、家には男がいた。ママの彼氏だ。そいつが下らない奴で、気に食わないことがあると私やママを殴り飛ばすんだ」

 彼女は天気の話でもするような調子で淡々と話す。そこに悲嘆の色はどこにもなかった。

「それである日、私は彼の気に障るようなことをして、ぶん殴られた。私は大泣きだ。いつもだったら数分で泣き止むんだが、その時は違った。私は半時間ほど泣き続けた。それでその男が私が泣き止まないことに怒って、私をベランダに出したんだ。そして、彼は吸っていたタバコをね……」

 彼女は笑いを堪えているみたいだったが、私には惨い話のようにしか聞こえなかった。

「彼は私の服を捲ると、持っていたタバコを私の背中に押し付けた。熱いというよりも細い待ち針で刺されたような感じだった。私は悲鳴を上げた。そしたら男がもう一度、タバコを押し付けた。だが、今度は痛くなかったから声を上げなかった。男は不思議に思ったみたいで、最後にもう一度背中にタバコを押し当てた。その瞬間、私はあまりの面白さに大声で笑ってしまった」

「どういうこと?」

「分かったんだよ、人間の愚かさが。あの男は私やママの悲鳴を聞いて初めて自分が生きていると実感できるんだ。そうしないと自分の自尊心を保てなかったんだ。その証拠に、大笑いしてから殴られなくなったからね」

「そうなんだ……」

 私は碌に言葉も出なかった。だが、これで私は彼女の人生の秘密を手に入れたのだ。私は興奮しながらも慰めるような目でリリーを見ていた。

「結局、ママと私は男から逃げたよ。名前も変えてね。昔、私は千賀南だった。ちなみにママは新しい男と同棲中なんだけどね」

「千賀南」

 思わず口から零れてしまう。それはノートに殺したと書かれていた少女の名前だった。

「まあ、昔の元服みたいなものだな。私の幼名だ」

 既に私の頭の中には新たな疑問が生まれていた。千賀南はリリーのことだった。だとしたら、あのノートに書かれていた佐々木莉里もリリーのことだろう。リリーにはまだ何か秘密があるらしかった。

 私の中で焦燥が湧き上がってくる。掴んだと思った瞬間に指の隙間から抜けていく液体。リリーはまさしくそんな人間だった。

「希海、大丈夫か?」

「あ、うん!」

 何にどうして焦っているのか分からない。

 初夏の熱さのせいか、私は額には嫌な汗が浮かんでいた。

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