第3章
梅雨が終わり、ついに夏が来た。あいつが現れたのは、息も詰まるような暑苦しい真夏日だった。
その日はちょうど考査期間で、珍しく三時ごろには帰路についていた。
そしてその帰宅途中、私はアパートの前にギラギラと波打つ光を見つけた。リリーの金髪はカラス除けのCDみたいによく光を反射した。
だが近づこうとして止めた。というのも、彼女が知らない男と話をしていたからだ。
男は、メガネの奥の瞳をいやらしく細めてリリーに何か語り掛けていた。一方、彼女の方は全身で「どっかにいけ」というオーラを放っている。彼女は決して私の前では表情を崩さない。あの男がリリーの表情を崩せるのは、きっと彼女の秘密を握っているからだ。
そう理解した瞬間、身体の内側からヘドロのような憎しみが湧き上がってくる。
今、私はこの負の感情に包まれた両手であの男の首をへし折ってやりたい気分だった。
しかしその一方で、私は自分自身を冷静に分析していた。
要はリリーのことが好きなのだ。そして、自分以外の人間がリリーの神域を踏み荒らすことが許せないのだ。
彼女の精巧なバランスを崩すことはあってはならないことだ。それは美のイデアへの冒涜であり、断罪されるべきことなのだ。
怒りに震えていると、リリーは乱暴に男を突き放し、こっちに向かって歩いてきた。男に背を向けた瞬間、彼女はいつものつまらなそうな顔に戻っていた。
リリーは私に気付いて一瞬こちらを見たが、すぐに目を逸らして私の真横を通り過ぎていった。彼女は何も言わなかった。
そして、リリーは帰って来なかった。
リリーが姿を眩ませてから二週間が過ぎていた。
彼女はこの部屋と私を置いて、二度と戻ってこないつもりなのだろうか。彼女の場合、あり得る話だった。
ただ彼女が戻って来たとして、私はどういう顔で接すればいいのか分からない。彼女はレズビアンは悲劇名詞だと言った。私は今、その悲劇名詞を胸の内に抱えている。
もしかしたら、彼女はあの卓越したセンスで、既に私の気持ちに気付いていたのかもしれない。そして、悲劇を避けるためにひっそりと私の前から消えたのだ。
「う……う……」
口から嗚咽が漏れる。
私は泣いていた。
私の涙が何を意味しているのかは私にも分からない。思考がぼやけて上手く考えがまとまらなくなってくる。私は夏用の薄い掛け布団を頭から被って、わっと声を上げて泣いた。
ちょうど涙も枯れてきた頃、部屋のチャイムが鳴った。
リリーではない。部屋に帰ってくるとき、彼女がチャイムを押したことなど一度もなかった。
私は玄関まで行き、丸い覗き穴を見る。
そこには以前リリーと言い争っていた男が立っていた。その男の顔を見た瞬間、強い憎しみが込み上げてくる。
男がもう一度チャイムを鳴らす。
出ようと思ってドアノブを握った瞬間、腹の底から冷たい恐怖が顔を覗かせた。私は憎しみを力に変えて、無理矢理ドアノブを回した。
「あ、こんにちは」
男は目を細めただけの奇妙な笑顔で私に挨拶をした。
身長はかなり高く、百八十センチは優にあった。だが腕や足は異様に細く、その気になれば私でも投げ飛ばせそうなほどだった。
私は相手を見上げて睨む。
男は私の言葉を待っているようだったが、私は敢えて何も言わなかった。彼は不自然な沈黙の後、少し困ったような顔で再び口を開いた。
「すいません、ここに佐々木莉里さんがいるって聞いたんですが」
私はその名前を知っていた。それは彼女の日記に書かれていた名前だった。
「そんな人、いませんけど」
「本当ですか?」
「ええ」
「私、佐々木莉里の父なんですが、実は娘が家出をしまして」
その言葉を聞いた途端、私はハッとした。ついに点と点が繋がった感じがした。
「本当にここに佐々木莉里はいませんか?」
「……いません」
「……すいませんが、ここは貴女が一人で住んでいるのですか?」
「いえ、二人で住んでいます」
男は明らかにリリーを探している。だが、ここにリリーがいることは絶対に教えてはならなかった。
なぜなら、この男こそが、リリーが東京に来た元凶だからだ。
リリーはおそらくこの男から逃げる必要があった。そして、足取りを掴まれないように、偽名を使って東京に来たのだ。彼女の「佐々木莉里も殺す」という言葉はやはり幼少期のときのように名前を変えて佐々木莉里という過去の自分と離別するということを示していたのだろう。
「一緒に住んでいる人の名前を教えてください」
「嫌です」
「……」
戦わなければならない。自分よりもずっと大きな体の男と睨み合うのは怖い。だが、避けては通れない。
「どうしてです? 佐々木莉里がいないんだったら言えるでしょ?」
「自分の友達の個人情報を知らない男に教えるわけにはいきません。さようなら」
私は勢いに任せて扉を閉めようとする。だが、男は足を扉の間に無理矢理挟んで閉められないようにした。
いつか見たリリーの背中の火傷痕を思い出した。足が竦む。予想だにしない暴力性に手が震える。
直接攻撃されたわけではない。だが、温室育ちの私を委縮させるには十分だった。
「手荒な真似はしたくない。少し部屋に上がらせてもらえないか」
私たちの聖域に入れてはいけないと頭では分かっている。だが、全身がジンジンと痺れて思うように動けなかった。
男は拒否しない私を見て同意したと受け取ったのか、靴を脱いで部屋の中に上がろうとした。
その瞬間、突如リリーとの思い出がありありと蘇ってきた。
「ハハハッ!」
私は思わず笑ってしまった。男はぎょっとした表情で私の方を振り返る。
彼女は、自分の背中にある火傷痕を人間の愚かさの象徴だと言った。一部の人間は自分の暴力性を固持して初めて自分の自尊心を満たすことができるのだ。目の前の男はまさにそうだった。
「何だ?」
男は細い目を丸くして私を見ていた。
「それより出て行ってください。警察呼びますよ」
「……」
男は私を睨む。だが、リリーの言葉を思い出してしまった私にそんなものが効くはずがなかった。
「出て行ってください。叫びますよ?」
そいつは舌打ちをして私から目を逸らすと大股で部屋を出て行った。
私はほっとして思わずその場で尻餅をついた。
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