肩代わりの神様と女の子

七海 司

本文

 かつてこの地には神様が住んでいました。そこにいつの間にか人間たちが暮らすようになりました。初めのうちは神様と人間たちは仲良く暮らしていました。ところが、神様がいると良くないことが起こるのです。小さな事故から大きな災害まですべての現場には神様がいました。誰かが言いました。

「疫病神だ」

 その一言で神様は底なし沼に追いやられることになりました。

 神様をしずめた人間達は、浮かんでこないようにと祈り、そこを禁足地としたのでした。

 そんな昔のことは誰もが忘れてしまいました。今では禁足地地も四方を柵で囲われ、石造りの鳥居が設えているだけになっています。

 そんな民話が残る門前町に中学生の夏海が住んでいました。

 今は草木も眠る深夜1時。国から支給されたiPadで総合の宿題を進めていた手が止まりました。スライドに写真が一枚もない事に気付いたのです。

「どうしよっかなー」

 うーんと大きく背をそらせながら伸びをして呟きますが、答えは既に出ています。

「宿題のため。しゃーない」

 禁足地を写真に収めるために、夏海は忍足で家を抜け出してしまいました。


 群青色の闇に等間隔で街灯の白色が垂らされた夜道を歩いて行きます。今は夏と言えど夜気は冷んやりとしていて、小学校で行った鍾乳洞探検を夏海に思い起こさせました。音楽室のように音が夜に吸収される町の気配に心が踊っている自分に気がつきました。

 石造りの鳥居の先には、小さな小さな御社があります。鳥居の全景がタブレットに収まる位置を探してパシャリ。写真を撮りました。そこには写ってはいけないものも映っていました。和服の女性が狐のお面越しに夏海を見ているのです。カメラを通した時にだけ見ることができる不思議な女性です。

 どこか寂しそう。お面越しで表情は分からなくても所作が物悲しさを語っていました。声をかけるために夏海は鳥居を潜りました。

 とぷんっ。境内に入った瞬間、ゆっくりと水に潜ったような感覚がありました。やはり、そこには和服の女性がいました。

「帰りなさい人の子よ。ここは疫病の神を祀る社なるぞ」

 ぞっとするような低音の声が投げかけられました。暗雲が空を覆い、ぽつりぽつりと境内の石畳に黒い染みができていきます。水でできた黒い斑点は次第に数を増やしていきます。雨が降ってきました。

「雨……」

 雨粒が石畳にぶつかりザーザーと音を立てます。

「えっ……」夏海の目は大きく目を皿のようにしました。和服の女性は雨の中にいるのに、全く濡れていないのです。

「来なさい。人の子よ」

 夏海は驚きのあまり、大きな目をさらに大きく見開くしかありませんでした。踵を返した女性の先には、いつの間にか大きな神社がありました。

「何を呆けている。庇を貸してやる」

 雨水で目を覆うように張り付いた髪をかき上げて、夏海は庇を借りる決心をしました。

 雨足は強まるばかりで、一向に止む気配はありません。時間が勿体無いと思った夏海は先ほど撮った写真を資料の中に入れていきます。

「あ……写真、使っていい?」

「構わぬが、今の人の子はいちいちそのような瑣末なことにも許可をとるのか」

「一応、ね」

「気安いな。うむ。気安く懐かしくもある」

 その言葉に夏海はiPadから顔を上げて申し訳なさそうな、困ったような表情を浮かべました。変な女性ではありますが、目上の人にタメ口を使っていたことに気づいたのです。

「ーー」

 何かを言うよりも速く、女性は夏海の唇の前に人差し指を立てます。これから言おうとしている言葉はいらないとジェスチャーで示されたのでした。

「そのままでよい。まだ人と関わっていた時のようで心地よい」

 狐面の覗き穴から杏色の目が優しく語りかけてきます。

「どれ、肩代わりしてやろう」女性がそう言うや否やずぶ濡れだった夏海の服が完璧に乾きました。ですが、代わりに女性の着物がずぶ濡れになってしまいました。

「明日もまたくるが良い。そうすれば何か肩代わりしてやろう。そうさな供物は何か暇を潰せるものが良い。人の子よ名は?」

「……夏海」

「善き名だ。では夏海、明日もまた話そうぞ。もし、来なければ厠に行けなくなる祟りにあうやもな」

 驚き、辛うじて名前を告げることができた夏海は、ぽつねんと禁足地の外で立ち尽くしていました。

「なんだったんだろ……トイレ行けないとか嫌すぎるんだけど」


 翌日手芸部での事です。

 ちくちく、ぬいぬい。少し厚手の布に針を刺し、糸を通してぬいぐるみを作ります。

「先輩が起きているー。珍しいー」

「あはは。今日はなんかぐっすり寝れたのか疲れがないんだ」

「働きすぎは毒ですよー」

 毒気のない無邪気な後輩からの言葉がチクチクと夏海の心に刺さります。針で刺した指のように夏海の心がぷっくりと赤い血の珠を吐き出します。

「肝に銘じます」


 夏海が家事と復習を終えたのは昨夜同様に月が傾き始める時間でした。

「よう来た。人のーーいや夏海よ。待ち侘びたぞ」

 水に沈むような、薄手のカーテンを潜るような感覚が過ぎ去ると昨夜の女性が待っていました。

「祟られたら嫌だからゲームを持ってきたよ」

 リュックから取り出したゲーム機を掲げて軽く揺すりました。

 それは友達と遊ぶために買ってもらったコントローラーと画面が分かれるタイプの携帯ゲーム機でした。夏海は慣れない手つきで画面からコントローラを引き抜き、和服の女性へ渡しました。

「何をやろうか」

 イカスミによる陣取りゲームと兄弟を叩き落とす乱闘ゲームの2種類が提示されます。

 夏海は月光に照らされて眩しいほどの笑顔を浮かべています。早く遊びたくて仕方がないという年相応の子供らしい笑顔です。

 一人と一柱は時を忘れて遊びました。

「夏海――」女性は働きすぎだという言葉を飲み込みました。

「ーー楽しいのう」

「うんっ」

 一人と一柱は遊びます。今まで遊べなかった時間を取り返すように。遊びの輪に入れなかった孤独を無かった事にするように必死に遊びました。

「あーっ楽しかった。また、遊びに来てもいい?」

 夏海が楽しく誰かとゲームをしたのは実に5年ぶりの事でした。

「構わぬ。いつでもくるが良い。歓迎しよう」

 友だちができた夏海は、家事と宿題を終えたら深夜に家を抜けて参拝するのが日課になりました。するとどうでしょう。不思議な事に遊べば遊ぶほど疲れが無くなり、元気が湧いてきました。


「夏海、何をやってるの! 心配したんだから」

 着の身着のままな格好で探し歩いていた母親に、禁足地から出たところを見つかってしまいました。

「ちょっと、気晴らし。この時間しか遊べないんだからいいでしょ」

「深夜に遊び歩くだなんて不良みたいな真似やめて」

「朝ごはんとママのお弁当を作って、帰ったら食器を洗って洗濯して夕飯の用意をして保育園にお迎えに行って! 私はいつ友達と遊べばいいのっ!」

 怒りが夜の静寂を破って響き渡ります。不運は重なります。居眠り運転のタクシーが夏海に突っ込んできました。

 どん。軽い衝撃が来まします。そしてそのすぐ夏海の耳に肉を叩く音が届きました。夏海の身代わりに母親が跳ね飛ばされてしまったのです。タクシーは逃げていきました。

「ねぇ、ちょっと!」

 倒れた母親はどんなに揺すっても意識が戻りません。

「肩代わりしてやろう」

 禁足地から声がかけられました。

「お願い、たす――」

 二の句が告げなくなりました。境内に居た女性の顔は狐面の代わりに疲労の色で覆われています。鏡で何度も見た事のある表情です。

 女性の言う肩代わりと最近の体調の良さが繋がりました。

「……全部私の代わりに」

 思い返せば出会った時からそうでした。ずぶ濡れになったのを肩代わりしてもらっていました。カタカタと足が震えて止めることができません。

「肩代わりしてやろう」再度告げられます。

 縋りたい衝動を必死に抑えながら、夏海は問います。口内が乾燥して上手く言葉を紡ぐ事ができなくなっています。

「肩代わりしたら、どうなるの?」

「決まっておろう。そこの親は元気になる」

「違う。あなたはどうなるのかを知りたいの」

 ピントのズレた返答を受けて誤魔化された気がしてイライラが膨らんでいきます。

「全く同じ怪我をするだけだ。なぜ、その様な顔をする。神に祈り、そして救われるのだから良いではな――」

「友達を犠牲にするなんてできない!」

 遮りました。

「ならば、そこな母親は亡くなるぞ」

「それも嫌っ。友達に自分の都合で死ぬほど大怪我をさせるのも嫌」

 大怪我をするのは友達か母親か。選べない二択を迫られ、夏海は血の気がどんどん引いていきます。顔は青白く、呼吸は浅く回数だけが増えていきます。

「致し方なし。選択の辛さを肩代わりしよう」

 やめてと言う前に夏海のストレスが消えました。女性の眉間には深く皺が刻まれ、苦悶の表情を浮かべています。夏海はそんな彼女を見ても何とも思わない自分に吐き気を覚えました。口から吐かれたのは、「ママを助けて」という願いの言葉でした。

「聴き届けた」

 怪我が移って行きます。女性から痛みに耐える声が聞こえても何も感じません。代わりに女性がより辛そうになります。

 人の心はこんなにも軋むものなのか。女性は心の傷の耐え難い痛みを耐え、杏色の瞳で夏海を見つめます。苦痛を肩代わりしたから夏海の思いを知ってしまったのです。

「死別はさぞ、辛かろう。それも肩代わりして進ぜよう」

「ダメ! それは私の気持ちだから。私だけのものだから――肩代わりしてほしくない。辛くても乗り越えるから」

 ぽつりぽつりと境内の石畳に黒い染みができていきます。水でできた黒い斑点は次第に数を増やしていきます。夏海は泣いていました。


 ちくちく、ぬいぬい。夏海は自分と神様を模ったぬいぐるみを作っています。ぬいぬい、ごめんなさいという気持ちを込めてちくちく。

 友達と喧嘩してできた心の怪我の特効薬は、素直にごめんなさと伝える事です。

「言葉で伝わらないなら、この想いを肩代わりさせてやるんだから」

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肩代わりの神様と女の子 七海 司 @7namamitukasa3

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