第7話
そして社会見学当日。
「…………」
「ねえねえ真人君、私と一緒に行こうよ」
「えーっ!私と一緒よ!」
「私!」
「私よ!」
「ちょっ!?み、みんな待って!」
兄さんは女の子たちに囲まれていた。
おい。
今日は下級生を上級生が面倒を見る日だろ。
なに私の兄さんにまとわりついてるんですか。
「きょ、今日は妹と回る約束をしてたから、悪いけど皆と一緒には行けないんだ」
「えー!」
「ぶーぶー!」
「そんな!僕だって真人くんと一緒に回りたいのに!」
なんなんですかこの人たちは。これじゃあせっかく兄さんと一日いられる日が台無しじゃないですか。
と言うか最後に喋ってたやつ、見間違いじゃなきゃ男だったような気がするのはなんでなんですかね?
ですが、改めて私の兄さんがすさまじいことに気づきました。
兄さんの周りの男の子たちも、「けっ!月のない夜は背後に気をつけておけよ!」とか「なんで真人ばっかり!不公平だ!」なんて言いながら兄さんを小突いたりしているが、どれも本気じゃなくじゃれあってるようなものだった。
兄さんも痛がった振りをして笑っている。
ここまで皆に好かれているなんて、予想以上だ。
というか、綺麗な女の子ばかりで兄さんも内心嬉しいでしょうね。
『楽しそうでよかったですね、兄さん』
思わず握ったボールペンが音を立てて割れた。
『ひっ!?どうしたのエマちゃん?顔が怖いよ!』
『なんでもありませんよ茜』
『アッハイ……』
おや?
なんだか茜との間に距離ができた気がしますが、どうかしたんでしょうか?
「はいはい!皆も今日は真人君にばかりかまってないで、ちゃんと下級生の面倒を見てあげるようにしなさい!」
はーい!と兄さんの担任である若い女性教師の言葉で、ようやく兄さんの周りから人がいなくなった。
「ありがとうございます先生!おかげで助かりました!」
「い、いいのよ真人君!君も人気者で大変ね」
あははと笑う兄さんを見て、ほんのりとその先生の頬が赤らんでいる。
お前もか。
それでいいのか教育者。
『来るのが遅れてごめんねエマ!』
兄さんが人の輪を抜けてこちらに来てくれた。
嬉しいけど、私は放っておかれたようで面白くない。
『……ずいぶん楽しそうでしたね』
そっぽを向いて、不満げな声がでてしまった。
『エマ、ひょっとして怒ってる?』
兄さんが不安そうな顔をしている。
正直、そんな顔を見せられたら何があろうと許してあげたくなるのだが、最近の兄さんは私に対するスキンシップが足りないと思うので、もうちょっと冷たい態度をとってみる。
『今日のエマはすっごく可愛い服を着てるんだから、せっかくならエマの笑った顔を見せてほしいな』
『あっ』
兄さんが私の手を握ってくれる。
今日のためにママと一緒にすごく悩んで選んできた、上品な色をしたオールインワンの服。上下が一体となっていて、ママがこれを着ていけば大人っぽく見られて、兄さんの隣を歩いていても子供に見られないと言ってくれた服だ。
それを兄さんがほめてくれた。
すました態度をとっているが、内心は嬉しい気持ちでいっぱいになった。
でも、朝から会う機会がなかったとはいえ、ようやく言ってくれたかという気持ちと嬉しいという気持ちが混じって、つい機嫌の悪いふりをしてしまう。
『まったく、言うのが遅すぎます。
こういうのはもっと出会った瞬間にほめないと、他の女性では許してくれませんよ』
『えっ、そうかい?
うーん。じゃあ、どうやったらエマは機嫌を直してくれるかな?』
『……このまま手を握っていてくれたら許してあげますよ』
『それなら喜んで』
兄さんが笑顔で言う。
本当はさっきみたいな言葉でも嬉しいんだけど、こうして私に触れてくれることのほうがもっと嬉しい。
『エマちゃんって、お兄さんと本当に仲がいいんだね』
そう言う茜に、私は自信を持って返答した。
『はい。私と兄さんはとても仲良しなんです』
そうだ。今はこれでいい。
なにせ、今日は楽しい日なんだから、めいいっぱい楽しまなくちゃ。
「……なによあの子、妹だからって真人君にべたべたしちゃって……」
その時の私は浮かれていて、にらみつけるような視線にも気づかなかった。
「はい皆さん!ここが会社の作業場になります。
ここでいろんな物が作られていくんですよ」
作業場にやってきた集団を、従業員たちがものめずらしげに眺めていた。
「ああ、そういえば今日は小学生たちが工場見学に来る日でしたか。
なにもこんな場所に来るなんて、物好きなものですね先輩」
「あほ。こんなとこなんて言って、子供たちに聞かれたらどうするんだ。
夢を壊すようなことを言うんじゃない」
「夢ねぇー。
僕はこの会社に入って、来る日も来る日もアホの上司に振り回される毎日でうんざりしてますよ。これじゃあ、夢もなにもあったもんじゃないですよ」
「言うな、余計にうんざりするだけだぞ」
そのとき、小学生たちの団体に、太って禿げている中年の男が近寄ってきた。
「やあやあ皆さん!本日は我が工場にようこそ。
私はここの主任をつとめているものです」
「うわっ。
部長、わざわざ自分からあの子達に近づいていきましたよ。
普段なら、子供なんて大っ嫌いなやつなのに、なんでですかね?」
「おおかた、あそこの先生が結構な美人さんだからじゃないか?
あんな中年が、美人さんにお近づきになったからって、いったい何が起きるっていうんだか…」
部長と呼ばれた男は、子供たちに設備の案内や紹介をするふりをして、先生の胸やお尻しか見ていない。
先生も、そんな様子にはとっくに気づいてはいるが、立場上言うに言えないというのが傍目からでもわかる。
「先輩。これはちょっとまずいんじゃないですか?」
「だな。いくらなんでも露骨すぎだ。ここはお叱りを受ける覚悟で、俺がどうにかするしかなさそうだ」
そう言って、先輩と呼ばれていた男が立ち上がろうとしたとき、一人のメガネをかけた少年が先生を無理やり引っ張っていった。
「へー。あの子供、部長ガン無視で先生を連れて行きましたね。先生が困ってるのわかってたのかな?」
「なんにせよナイスだな。見ろよ、無視された部長が顔真っ赤にしてイラついてるのがわかるぜ」
話し込んでいると、二人に見られていることに気づいた部長が、鼻息も荒く近づいてきた。
「お前たち!何をぼさっとしてる!とっとと仕事に戻れ!」
「……わかりました」
「……うっす」
そのまま話をしていてもいいことはなにもないので、さっさと仕事に戻ろうとした二人だが、そういえば言っておかなければいけないことがあったのを思い出した。
「そういえば部長。前から言ってる裁断機なんですが、とうとう壊れて、勝手に動いたり止まらなくなったりしてるので修理が必要です」
その裁断機は作業場に置かれている古いタイプのもので、ベルトコンベアが裁断したい物を運び、大きな回転式の刃で主に紙や布などを切り刻んで細かくするものだった。
だが、相当昔から使っているせいか、故障も多く様々な不具合が出ていた。
「ふん!だからどうした!
あんな大して使わないものにいちいち金なんてかけていられるか!
それとも、お前が自費で直してくれるっていうなら話は別だがな」
「それは、できませんが……」
「じゃあそんなくだらないことでいちいち俺を呼び止めるな!
俺はお前らと違って忙しいんだ!」
二人を突き飛ばすようにして、その場を去っていく部長。
二人は重苦しいため息を吐いた。
「あの人ってマジで害悪ですね。
暇だからあの小学生集団に絡みに行ったのに、何が忙しいっていうんですかね?」
「どうせ仕事もせずに、スマホを触ってるだけだろうけどな。
まったく、何度言っても裁断機の修理すらしてくれないんだから、本当になんのためにいるんだよあの人……」
さっきの問答で心底げんなりとした二人は、これ以上仕事を続けるのもバカらしくなったので、少し早めの昼休憩に移ることにした。
「やめやめ。気分転換に外に飯食いに行こうぜ」
「そうしましょう。あんなやつと話してると、それだけで仕事やる気が失せますよ」
そのまま作業場を後にしようとした先輩が、思い出したように言った。
「そういえば、一応裁断機が壊れてて危ないってことは、作業員の皆には言っておくようにしておけよ。危ないから」
『どうですか兄さん……』
『うん、おいしいよエマ!』
『……!よかった……』
心からほっとした。
昨日から仕込みをして、朝の五時から準備をしていたお弁当だ。不味いなんて言われたら、どうしようかと思っていた。
『本当にすごいよ!どれもこれも美味しくて、こんなすごいお弁当を作ってくれて、ありがとうエマ!』
『はい!喜んでもらえてなによりです』
兄さんが気に入ってくれてよかった。
今日は、兄さんと一緒に珍しい機械や作業している場所を見ることができて楽しかった。
それに、こうして美味しそうにお弁当を食べてくれている兄さんを見るだけで、胸が温かくなる。
ああ……、兄さんが好きだ。
兄さんの胸に飛び込んで、好きなだけ甘えられたらどれだけ満たされるだろう?
出会ったときから意地なんて張っていなければ、妙な距離感なんてできなかったのに。私のバカ。
でも、大事なのは今だ。こうして、兄さんが隣に居てくれるなら私はそれだけで満足だ。
今日は本当に良い日だと思っていると、誰かが近づいてくる気配がした。
「なーに話してるの、真人君?」
一人の女の子が兄さんの後ろから覆いかぶさるように抱き着いてきた。
ミシ!
反射的に握ったお箸が、きしむような音を立てた気がした。
「菫(すみれ)ちゃんじゃん。どうしたの?」
「べっつにー!なんか真人君たちが楽しそうだったから、私も混ぜてもらおうと思ったの!」
瞬間、菫と呼ばれた女が私を見て、あざ笑うような顔をした。
直感的に理解した。
この女は、私と兄さんの邪魔をしにきたのだと。
「そうなんだ。
あっ、知らないと思うけど、この子は俺の妹のエマって言うんだ」
「へー、外国の女の子が妹なんて、真人君はすごいね!
私菫っていうの、よろくね妹ちゃん!」
菫はこちらにひらひらと手を振ってきているが、それは挨拶というよりも宣戦布告のような気がした。
「ええ、よろしくお願いします、菫さん。
兄さんからは一度も、名前すら聞いたことがありませんでしたから全く存じませんでしたが、今後は一応覚えておくようにします」
あんまりな私の言い草に、菫の顔が引きつった。
ついでに、兄さんの顔も引きつった。
一瞬にして、私たちの間には一触即発な空気が漂った。
「なによ、あんた喧嘩売ってんの?」
「おや、事実を言っただけですが」
「それが喧嘩を売ってるっていってんのよ。
なによ、その下手くそな話し方。『日本語話せますか?』」
「あなたのように性根が汚い人よりはマシですよ」
兄さんを間に挟んで私と菫の間に火花が散った。
「あのー、二人ともどうして初対面でいきなり喧嘩腰で話し合ってるの……?」
兄さんがおろおろしているが、関係ない。
この女は間違いなく兄さんに対して好意を抱いている。じゃなければ、いきなり背後から抱きついたりなんてしない。
ならば、この女は敵だ。
だから、一ミリも容赦してやる気は無い。
ふと、菫の視線が、兄さんのお箸でつまんでいるおかずにいった。
「真人君のお弁当美味しそうだね!これちょうだい!」
それを菫は何の断りもなく、横から食べた。
「あっ」
兄さんのために作ってきたお弁当が、横から盗られた。
瞬間、私は反射的に菫の頬をひっぱたいた。
パーン!
結構大きな音になった。
菫は一瞬何が起きたかわからず呆然としていたが、打たれた頬を押さえてこちらを睨みつけてきた。
「い、いきなりなにすんのよあんた!」
『黙れ!それは兄さんのために作ってきたものだ、この泥棒!』
一気に感情が沸点まで上昇した私は、本気で菫を罵倒した。
何を言われているのかわかっていなさそうな顔をしていたが、関係ない。
兄さんのものを盗っただけでなく、兄さんが口をつけていたお箸にまで口をつけたのだ。 絶対に許せない。
「な、なに言ってるのよこの子……意味わかんない」
そう言って菫は泣き出してしまった。
『うるさい!そうやって泣いて兄さんの気を引こうとしてるんだろ!
卑怯者!兄さんに謝れ!』
『エマ』
強くも、大きくもない、兄さんの声。
だけど、その声を聴いた瞬間、私は兄さんが怒っていることをはっきりと感じ取った。
『エマ、菫ちゃんをいきなり叩くのはやりすぎだよ』
『で、でも兄さん!その子がいきなり兄さんの……』
『俺は気になんてしてない。
でも、エマのやったことはいけないことだよ』
兄さんの強いまなざしが、私を貫く。
どうして?
私はただ、兄さんのためにしたことを踏みにじったこの子が許せなかっただけなのに。
『菫ちゃんに謝るんだ、エマ』
そう言われたとき、まるで足元が崩れたかのような気持ちになった。
なんでそんなことを言うの?
私は悪くないのに。
兄さんはいつも私の味方だと思っていたのに、私よりもその子のほうが大事だっていうの?
じわりと、目から涙が溢れてきた。
『兄さんのバカ!どうしてそんなこと言うの!?
私の気持ちなんて知らないくせに!』
耐え切れなくなって、私はこの場から走って逃げた。
『待って、エマ!』
後ろから兄さんの声が聴こえたが、今は振り返りたくなかった。
『兄さんの……バカ……』
とっさにあの場から逃げてきたが、誰ともすれ違わなかったのはありがたかった。
こんなにぐずぐず泣いている顔を見られたくない。
兄さんが私のことを初めて拒絶した。
あの責めるような眼を思い出すだけで、胸が張り裂けそうなほど痛い。
本当は、兄さんも私のような妹は嫌いなのかもしれない。
だから、私が作ったお弁当だって、他人にあげてしまうんだ。
あの子は可愛かった。
あの子と比べて私なんて、つり眼気味で愛想はないし、体は小さくて胸だって大きくない。
私にはない愛嬌というものがあるような気がしたし、突然抱きつかれていた兄さんも嫌そうな顔はしていなかったような気がする。
ひょっとしたら、もうあの二人は付き合っていて恋人同士だったのかもしれない。
悪い想像は消えない。
今はとにかく誰もいない場所に行きたかった。
長い廊下を歩いて、突き当たりの扉を開ければ、そこは先ほど見学に来ていた作業場だった。
とぼとぼと歩いて、部屋の隅っこでずくまったら、なんだかまた泣けてきた。
ポケットからハンカチを取り出して、溢れてきた涙や鼻水を拭いた。
その時、開けっ放しにされていた窓から強い風が吹いてきて、私の持っていたハンカチが飛ばされてしまった。
『あっ、待って!』
飛ばされたハンカチはふわりと宙を舞い、奥のベルトコンベアの上にのってしまった。
『届かない……!』
手を伸ばして取ろうとしても、私の体では微妙に届かなかった。
これは、一度ベルトコンベアの上に乗って取るしかなさそうだ。
こういった機械の上に乗るのはダメだとは思うが、周りには誰もいないし、私のハンカチをそのままにしておくわけにもいかない。
私はベルトコンベアに上ると、四つん這いで落ちていたハンカチを拾った。。
『よかった……』
ハンカチをポケットにしまって、ベルトコンベアから降りようとしたとき、後ろから引っ張られるような抵抗を感じて、私はしりもちをついてしまった。
『きゃっ!』
見れば、今日着ている服の端がベルトとベルトの隙間に挟まっている。
はいずりながら移動しているときに引っかかってしまったんだろう。早くはずして、ここから降りないと、誰かに見つかったら怒られてしまうかもしれない。
そう思ったとき、いきなりベルトコンベアが動き出した。
『えっ?』
『おーい!エマー!どこにいるんだー!』
エマが飛び出していった後、泣いていた菫ちゃんを泣きやませてから、俺は一人でエマを探しに来ていた。
頭の中は、あの時ああしていればという考えでいっぱいだった。
正直、あの場でエマを叱ったのはまずかったかもしれない。エマに妬いていた菫ちゃんと、俺のために作ってくれたお弁当をとられたと思ったエマ。
挑発をした菫ちゃんも悪いのかもしれないが、叩いてしまったのはやりすぎだった。
こういうときに、どっちの角も立たずに丸く治める方法をメガネが教えてくれたらいいのに。
「こいつも、役に立つときは立つんだけどな……」
メガネを指で叩いてみる。
最近はなんとなくこいつの扱い方にも慣れてきて、いろいろと便利であることは実感している。
けれど、このメガネは万能の道具ではない。
メガネのおかげで友達も増え、俺を好きになってくれるような女の子も増えたが、何もかも上手くいくわけではない。なまじ相手の好感度が読めてしまうのでそれに振り回されてしまうこともあり、味方もできるが、同時に厄介な敵ができることもあった。
好感度の上がり下がりを気にして生きてるうちに、時々自分は本当にそんなことがしたいのか、なぜそんなことを考えていたのかがわからなくなる時がある。
まるで、メガネに全部決められてるみたいだ。
頭に嫌な考えが浮かんだ。
「やめやめ!今はエマを探さないと」
暗い方向に行ってしまいそうになる思考を戻す。
まずはエマを見つけて、菫ちゃんと仲直りもさせて、この体験学習を楽しむことのほうが大事だ。
菫ちゃんも良い子だし、ちゃんと話せばわかりあえるはずだ。
そして、エマのお弁当をまた二人で食べるんだ。
そうすれば、いつか今日という日を振り返っても、色々あったけど、二人で楽しく過ごした記憶として残ってくれるだろう。
『助けて!』
「今の声……、エマ!?」
通路の奥から突如聞こえた、悲鳴にも似たエマの声。
とっさに駆け出し、突き当たりのドアを蹴破るような勢いで開ける。
するとそこには、流れていくベルトコンベアの上で、必死にもがいているエマがいた。
『エマ!』
『兄さん!』
エマの乗っているベルトコンベアの先には大きな裁断機があった。その機械の取り込み口には、いくつもの細かい刃が連なっている太い鉄のローラーが回転していて、流れてくる物を粉々に粉砕しようとしている。
考えるよりも先に体は動いて、裁断機に近づいているエマに飛びつくことができた。
『兄さん!服が挟まって、とれなくて……!』
『わかった!待ってろ、今すぐに助けてやるから!』
見るだけで危機的状況なのがわかる。
とにかく、周りに助けてくれる大人の人がいないか、大声で助けを求めてみる。
「誰か―!誰か助けて!助けてください!!」
返事はない。
『くそっ!それなら、機械を止めてやる!』
周りを見渡すと、ちょうど手の届くような位置に、エマージェンシーと書かれた赤い大きなボタンがあった。
それが緊急停止ボタンだと判断し、叩くようにボタンを押した。
『よし!これで止まる!』
1秒2秒待った。
だが裁断機は止まらなかった。
おかしいと思い何度も押すが、反応がない。
『おいおいおい!なんで止まらないんだよ!』
『兄さん!』
ボタンを押してる間に、エマがさらに裁断機に近づいてしまった。
必死にエマを引っ張るが、ベルトコンベアの上からエマを降ろすことはできず、服を固く噛んだローラがエマを無理やり引きずっていく。
『エマ!服を脱ぐことはできないのか!?』
『ママに着せてもらったから、どうやって脱ぐかわからないの!』
『マジかよ!くそっ、この服どこから脱がせればいいんだ!?』
全身を覆うように、一枚の生地でつながっているこの服は、男の俺からしたら、見たこともないような作りになっていて、どうやって着たのかさっぱりわからなかった。
ならばと、服を引きちぎろうとしたが、子供の力じゃせいぜい生地が伸びる程度だった。
エマが徐々に裁断機に近づいていくのを見て、もしもこのままエマの体が、刃の中に入ってしまったらどうなるのかを想像してしまう。
回転する刃が、流れてきたエマの細く白い小さな足を容赦なく切り刻んでいき、絶叫と共にエマが血で染まっていく。そんな光景を、俺は見ていることしかできない。
『外れろ!この、外れろよー!!』
蹴ったり叩いたり、大声で喚き散らしても、機械はびくともしなかったし、誰も来ない。
このまま、頭の中の想像が現実になってしまわないように、焦りながらも歯を食いしばってエマが助かる方法を必死に考える。
しかし、タイムリミットは刻一刻と迫っており、回転する刃はもう手が届きそうなほど近くになってきた。
『いやー!』
エマが必死に首元にしがみついてくるが、機械の力は強く子供の力では到底どうにかできるものではなかった。
その時、足元を見ると、ふと自分が履いてるスニーカーが目についた。
「…!これだ!」
スニーカーを両方とも脱いで、刃の中に押し込んだ。
地面が揺れるほどのすさまじい振動が起こった。思った通り、この回転している刃は、柔らかいものを細かく切り刻むことはできても、硬い物を切り刻むようには出来ていない。
だから、こうして子供の靴を入れただけで、大きな負荷がかかっている。
このままいけば、回転する刃に靴が詰まって、物理的に回らなくなるか、機械の安全装置が働いて、止まってくれるのではないかと思った。
しかし、裁断機は何度も止まりそうになりながらも、スニーカーを全て飲み込んでしまうと、先ほどの勢いを取り戻したように刃が回転を始めた。
『嘘だろ!?あれぐらいじゃダメなのかよ!』
他に何か裁断機に突っ込めそうな物がないか周りを見てみるが、そんな物は手の届く範囲には何もなかった。
『兄さん!服が!』
ついにエマの服の裾が刃に巻き取られた。大きな音を立てながら服が裁断機の中に入っていき、エマの体もそれに引きずられていってしまう。
『ダメだ!行くな行くな行くな!』
『やー!』
服の裾を切り刻まれながら、裁断機に引きずられていくのはどれほどの恐怖なのだろう。
エマは涙を流しながら、悲壮な笑顔を浮かべた。
『に、兄さん…、ごめんなさい。
私のせいで…、こんなことになって…。
本当は、私あの人に嫉妬してたの……、あんなに仲良さそうなの、うらやましかった…。
こうなったのも、全部…私が悪いの…。本当に…ごめんなさい、兄さん…ありがとう、大好き…』
――好感度 89
やっと言えた。
エマの好感度の横に、たぶん、エマが考えていることが見えた気がした。
瞬間、怒りのあまり目の前が真っ暗になった。
『なっ、に、諦めてんだよ!!お兄ちゃんがついてるんだぞ!諦めんな!絶対に助けてやる!!』
そうは言いつつも、どうすればいいのか、全くわからなかった。
この際誰でもいい。誰でもいいから、俺にエマを助けるすべを教えてくれ!
そう願ったとき、視界のすみに小さな光が点った。
何かと見てみると、俺の右腕に光が灯っている。
これを俺は『フラグ』と呼んでいた。
このメガネを通してものを見ているとき、ごくたまに様々なものに光が点ることがあった。
それは、たいてい誰かの好感度に関係のあるもので、前にエマの友達の茜ちゃんの鍵を探し出したときも、このフラグが光っていたおかげですぐに見つけることができたのだ。
それが今なぜ、右腕についたのか。
その理由を考えたとき、全身に鳥肌が立った。
カタイモノナラ、ココニアルジャナイカ
このときになって初めて俺はこのメガネを怖いと思った。
それは幻聴だったのかもしれないけど、俺は今、確かにこのメガネの意思を感じた。
これが、メガネを使って人の心を操ってきたことへの代償なのだろうか?悪魔は願いを叶える代わりに、対価を要求するという。
できるのかと自問自答する。
エマを見る。
俺の可愛い妹。
宝石のような青い瞳に、白い肌に燃えるような赤髪が例えようもなく綺麗だと思っている。
笑えばこの世の誰よりも可愛いと思うし、怒った顔でさえ魅力的に見えた。
そんな大事な存在を泣かせたくない。
腹は決まった。
『ねえ、エマ』
『兄さん……?』
ぎりぎりの状況であるのに、なぜか落ち着いた声がでた。
涙で濡れた瞳に、気味が悪いくらい穏やかに映っている自分が見えた。
『必ず、俺が助けてあげる。だから、目をつぶって何も見るな!』
そう言って、右腕を振り上げた。
『……えっ?』
なぜだか兄さんの笑顔が、死にゆこうとしていたパパの笑顔と重なって見えた。
だから、目を閉じられなかった。
今まで聞いたこともない、怖気づくような音がする。
兄さんの腕が指先から消えていくのを、私は瞬きもせずに見つめていた。
ぴちゃっ
何か、赤いものが、顔についた。
「もう!真人君もエマちゃんもどこにいったのよ」
真人のクラスの先生が、ぷりぷりとしながら会社内を歩き回っている。
その前には、先ほどの部長と、部下である先輩と後輩が一緒に探しにきてくれている。
「皆さんもすみません。
仕事もあるでしょうに、わざわざ迷子を捜してもらって」
「いやいや!ああいった子供は、すぐに私たちのような大人の手を焼かせて先生も困っているでしょう。
なに、見つかったら一度痛い目をみさせれば、ちゃんと言うことを聞くようにもなるでしょう!」
「あのー……、私の生徒に暴力はちょっと……」
「何を言うんですか!私が子供の頃は、ちょっと小突くくらい、暴力のうちに入りませんでしたよ!
聞き分けの無い子供には、ガツンとやってやることも大事なんですよ!」
先導を歩く部長は、聞かれてもいないのに延々と自分の考えを先生に向かって話し始めた。ちなみに、部長は結婚していない。
後ろで歩いている先輩と後輩は気の毒そうな顔をしている。
「出たよ……部長の聞いてもいないのに語られる自論。
あれを聞かされるほうはたまったものじゃないですね」
「まあ、あの先生には気の毒だが、問題は居なくなったっていう子供たちの方だ。
お前、作業場の鍵がかかってるの見たか?」
「えっ?かかってませんでしたよ。
大体、鍵は部長が持ってるんですから、かけられるわけないですよ」
「だとしたらまずいぞ。もしも作業場に子供たちが入り込んだりして、機械とかを触って怪我したら色々と問題になってくるぞ」
先輩と後輩は、もしもそうなってしまったことを想像して憂鬱になった。
その時、通路の奥からかすかに女の子の泣き声が聞こえてきた。
「この声……エマちゃんかしら?」
四人がその声を頼りに、作業場まで行くと、身を切るような悲痛な泣き声が響いていた。
『ごめんなさい!!ごめんなさい、兄さん!!』
『大丈夫だよ……エマ』
奥で座り込んでいる二人の頭が見えた。
「もう!二人とも、勝手にいなくなるなんてダメじゃない!」
先生が注意しようと近づいていくと、そのときになって機械に遮られて見えていなかった真人の体が、ようやく見えてきた。
真人の右腕はなくなっていた。
肩先からは、細く切り刻まれた骨と肉が、腕があった時の名残のようにプラプラと体に合わせて揺れていた。
断面からは赤い血がだらだらと流れ出て、二人の足元で薄い血だまりになっていた。
「ひっ……ぎゃああああああーーーー!!」
あまりにショッキングな光景に、先生が悲鳴を上げた。
後ろについて来ていた者たちも、凄惨な光景に息を呑んだ。
右腕のなくなった真人は、血の気の失せた青白い顔になりながらも、妙に穏やかな顔をしていた。
胸にすがりつき泣き喚くエマの頭を、しきりに左腕で撫でている。
「きゅ、救急車!!救急車呼んでー!!」
「わ、私の責任じゃないぞ!
ガキども!お前たちがこんな場所で遊んでたからこんなことになったんだぞ!」
いきなり子供たちを責め始めた部長に先生が切れた。
「うおら!」
「へぶし!」
先生が繰り出した右ストレートが部長の頬に突き刺さり、すごい距離までぶっ飛んだ。
「うだうだ言っとらんと、とっとと救急車呼ばんかボケがぁ!!」
「は、はいーー!!」
部長が慌てて救急車を呼ぼうとする。
周りが騒がしい中で、エマは真人に謝り続けた。それしかできなかった。
けれども、どれだけ謝っても、目の前の現実が変わらないことが、エマをより一層絶望させた。
なのに、真人はほっとしたような顔をして、エマの頭を撫で続けた。
「エマが無事でよかった……」
なんでそんなことを言えるんだろう……。エマの胸が強く締め付けられる。
ますます泣き声は大きくなり、エマは救急隊員が到着するまでの間、ずっと真人の胸の中で泣き続けた。
「……兄さん!」
眼が覚めた。
気がつけば、ベッドから跳ね起きていた。
嫌な夢を見た。
兄さんの腕が無くなった日の夢。
ずっと後悔している出来事だ。
今でも鮮明に覚えている。
刃に吸い込まれていく腕。
飛び散る肉と、赤い血。
でも、兄さんは歯を食いしばって、悲鳴一つ漏らさなかった。
「兄さん……どこ……?」
周りを見渡して、ようやくここが自分の部屋だと気づいた。
記憶は、兄さんとデートに行った時から途切れている。
その意味は一つしかなかった。
「私また……」
私には、超能力みたいなものがあるらしい。
私自身は覚えていないのだが、私の感情が昂ると、炎を操り世界を溶かしてしまうような現象を引き起こすらしい。
そして、その間の出来事は一切覚えていない。
信じられないような話だが、兄さんが言うのだから本当なのだろう。
この能力の源は、自分の感情だと聞かされたことがある。
胸に手を当ててみる。
どろどろとした感情が渦巻いてる。
私は兄さんが好きだ。
心の底から愛してる。
でも、その愛情は身勝手で、貪欲で底がなく、自分どころか周りの全てをめちゃめちゃにしてでも愛されようとする。
この想いは、まるで制御がきかず、自分でも抑えることができない。
だからなんだろうか……。
昔、兄さんが腕を犠牲にしてくれたとき、私は、本当は、心のどこかで喜んでいたのかもしれない。
私にはそれだけ想われているということを実感できたから。
たまに心の中でゾッとするときがある。
兄さんの献身を、愛情を貪って成長する、見たこともないようで、どこか私に似てもいる獣。
その獣がいつか兄さんを食い殺すような夢を見る。
一瞬の高揚。
その後に、もうこの世界には兄さんがいないことに気づき、絶望する。
そんな夢。
悪い妄想だ。
ふらふらと起き上がって、兄さんを探す。
「どこ……?どこにいるの兄さん……?」
呼びかける声は、まるで子供が泣いているかのようだった。
心細くてしかたない。
こうして眼が覚めたときは、いつも不安になる。
早く、あの声で名前を呼んでほしい。
頭を撫でてほしい。
強く抱きしめてほしい。
兄さんの存在を感じたい。
部屋を出ると、ふわりと香ばしい匂いがした。
「この匂い……」
階段を降りて、キッチンまで行く。
そこに兄さんがいた。
「ひっ!」
息を呑んだ。
普段兄さんがつけている、右腕の義手がなくなっていた。
先ほどの夢がフラッシュバックする。
「あっ、起きたエマ?」
兄さんがこちらに気づいて振り返った。
「に、兄さん……その腕は……」
「ああ、これ?さっきちょっとね」
「……私のせいですね」
状況から考えて明らかだった。
何度も何度も後悔してきたことを、私はまた自分の手で繰り返してしまった。
「エマのせいじゃないよ。全部俺のせいだ」
泣き出しそうになる私に、兄さんは頭に手をおいてよしよしといいながら撫でてくれた。
「実はさ、久しぶりにビーフシチューを作ってみたんだけど、片手じゃ用意するの大変だから手伝ってくれないか?」
「はい……」
涙を拭いて、兄さんを手伝う。
本当は言いたいことはいっぱいあったが、たぶん言葉にできない。
私は兄さんが好きだ。兄妹なのに。
たぶん、お互いのことを思えば、二人は離れるべきなのかもしれない。
でも、私がそれに耐えられない。
身勝手で、浅ましく、兄さんの負担にしかならないのにすがりつく。
ドロドロとした思いはいつまでたっても消えてくれなかった。
「あとさ……」
兄さんが正面から見つめてくる。
「俺はエマのことが好きだ。愛してる。
だから、結婚しよう」
「…………」
かー、っと顔が赤くなる。
「えっ!?ちょっ!?
ににに兄さん!そ、それって……」
チーン
「あっ、パンが焼けた」
思わず転びそうになった。
トースターから良い匂いのするパンを取り出している兄さんの背中を見ながら、私の内心はすさまじい混乱と、計り知れないほどの喜びで埋め尽くされていた。
だって、こんなタイミングでそんな告白をするなんて、普通は思わない!しかも、シチューと焼きたてパンの香りが充満する家の中で、そんな大事なことを言うなんて!
「やり直し!やり直しを要求します!」
ばんばんとテーブルを叩いて抗議する。
こうして告白してくれることは、夢に見るほど想い焦がれていたことだった。
けれど、こんな手抜きをされたら、文句の一つや二つだって口から出てしまう。
「えー……」
「えー、じゃありません!さっきの言葉はもっと良い雰囲気と場所で言うものです!」
なんだかさっきまで考えていた嫌な気持ちが、兄さんの雑な対応のせいで消えてしまった。
食卓の配膳を、兄さんは片手でも慣れた手つきで行っていく。
時々兄さんが何を考えているのか、何年も一緒に過ごしてきてもわからないことがある。それは特に、女関係とか女関係とか女関係とかに発揮されることが多いのだけど、けれど私の兄さんはとてもすごくて、とてもかっこよく、そして大好きな存在だということはずっと変わっていない。
「はい、どうぞ召し上がれエマ」
兄さんが差し出してきてくれたシチューを受け取る。
口に入れてみれば、それはいつものなじみ深いシチューで、私の心とお腹の両方を満たしてくれた。
「美味しいです……、とっても」
「よかった!エマの作ってくれたシチューが美味しかったから、ずっと練習してきたかいがあったよ!」
そうして嬉しそうに笑う顔は、子供の頃からちっとも変わっていなかった。見ているだけで落ち着いて、胸のわだかまりが消えていく、私の大好きな顔だ。
けれど、とりあえず、これだけは一つ言っておこう。
「それで、結婚しようって、あと何人に言うつもりなんですか?兄さん」
兄さんの笑顔が固まって、顔からだらだらと滝のような汗が流れ出てきた。
さあ、まだまだ夜は始まったばかりだ。
自室に帰ってきて、思わず安堵のため息をついてしまった。
『もう!無茶して!シチューを作ってる最中に死んじゃったらどうするんですか!?』
「ごめん、ごめんってノエイン」
足に力が入らなくてベッドに倒れこむ。
レーナが残しておいてくれた、医療用ナノマシンで吹き飛んだ右半身を覆っていたが、やはり治りきるには時間が足りなさ過ぎた。
先ほどエマを正気にするために、派手な自傷をしたのだが、あの時の爆発のせいで右半身がほとんど吹き飛んでしまっていた。もしもノエインが爆発の被害を最小限に抑えてくれていなければ、間違いなく死んでいた。
右足なんて皮一枚でつながってるようなものだったし。
心臓をいたわるように、左胸を撫でた。
「ありがとうノエイン。こうして生きてるのも、君のおかげだよ」
『そう思うのなら、そうして自分の命を度外視して好感度を上げようとするのはこれっきりにしてください!
マスターが死ぬのなら、私も絶対に後追い自殺しますからね!』
「ノエインが死ぬのは嫌だな。だから、ほどほどに死なないよう頑張るよ」
『もう!マスターは私と出会ったときから全然なんにも変わってませんね!』
そんなことはない、と思いつつも、いい加減今日の戦いのせいで疲労困憊だったから言い返す言葉が口から出ることはなかった。
その代わり、昔の頃の、ノエインと出会ったときの光景が、閉じた瞼の裏で見えた気がした。
『ひょっとして、あなたは私のマスターですか!?』
あの時、滅んだ世界で、ノエインは希望に満ちた目で、俺にこう言ってきたのだった。
好感度見えるメガネ拾った cheese3 @cheese3
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