怪盗ゲノム
ナカムラマイ
鯨の涙
「あれが『鯨の涙』か……」
今夜の目標である特大の宝石。
きっと誰もが目を奪われるような輝きを
展示会の参加者は全員、高級そうな服やアクセサリーで身を包んでいる。
その中の一人。初老の男性に、僕はヌルリと近づいて行く。こちらの気配に未だ気づいていない男性。足を止めることなく向かえば、お互いの身体がぶつかるのは必然である。
「おっと、これは失礼いたしました。鯨の涙につい目を奪われていたもので」
少し白々しすぎたか?
男性はチラリとこちらを訝しげに見る。しかし、僕が
「いえ……私の方も暫く立ち尽くしてしまっていたので。これを前にしたら誰だって周りが見えなくなりますよ」
男性は鯨の涙をじっと見つめている。
何か思い入れのあるものなのか、あるいは宝石に目がないだけか。
もはや睨んでいるとも言える男性の宝石を見る目に、僕は息を呑んだ。
「──もしもし、聞こえてる?」
彼女、アンズの第一声はいつも同じである。
意識的なルーティンとしているのか、無意識なのかは確認したことがないので不明だが、それが僕を現実に連れ戻した。
……今夜の仕事が終わったら真相を聞いてみるか。
「いつも通り良好な音質だ」
まるで直接聞いているかのような声をお届けしてくれているこのイヤモニの製作者に感謝。と言いたいところだが、その者は性格が
「そろそろ時間ね。それじゃあ健闘を祈ってるわ──」
アンズが言い終えると、展示会の会場であるフロアのみならず、建物のすべての電気が消える。
暗視ゴーグル装着。
ウォーターツリーと名付けられたこの建物は、その名の通り水中から水上にかけて伸びているロマン溢れるタワーだ。10フロアからなるこのタワーは水上に6フロア、水中に4フロアという構造をしており、僕がいるこの展示会場は海面から水中へ数えて3フロア目である。
すでに日の沈んでいる今の時間、人工の明かりがなくなれば水中は黒一色となる。
突然の停電に参加者は何事かとざわつき始めたが、この展示会では携帯電話などの持ち込みが禁止されているため、彼らに為す術はなかった。
「……準備完了」
僕が小声でアンズへ合図を送ると、会場のある一点から光が放たれる。
「──明かりよ!」
参加者の一人が声を上げた。
当然、その場にいる人々は暗闇の中に現れた唯一の光へと目を向け始める。それは鯨の涙の両脇に立つ警備員も例外ではなかった。
皆の視線の先には、僕が先程ぶつかった初老の男性が少しだけ困惑した様子で光を放ちながら立っていた。この状況では、誰しもが停電の犯人は彼だと考えるだろう。
もちろん真犯人は僕だ。
だがしかし。彼には悪いが、僕が鯨の涙をこの手に持つまでは引き続き注目を集めてもらう必要がある。
僕は二人の警備員が男性の方へズンズンと向かっていくのを確認しながら、鯨の涙が入ったショーケースの裏へ回り込んだ。
「まあ、僕にかかればこんなショーケースの鍵なんてあってないようなものだけどね……っと御開帳!さすが僕!」
「……自画自賛もいいけど宝石取ったなら早いとこ撤収してちょうだい」
まったく、アンズはせっかちである。
とは言え確かにうかうかしている時間があるわけでもない。恐らく警備員もあの男性が無関係であるということにそろそろ気づいただろう。
しかし、彼の靴や背中に小型のライトをいくつか仕込んだだけでここまで注意を引けるとは……。それに仕込む際も、彼は随分と鯨の涙にゾッコンだったから非常にやりやすかったものだ。
「ご協力感謝します。名も知らぬお方よ……」
「なにすかしてんのよ。電気、点けるわよ」
アンズにはロマンというのがわからないらしい。ただひたすらにカッコよさを求めるのが男の生きがいであるというのに。
それはまさしく、華麗なる犯罪に利用した見ず知らずの一般人へお礼を言うことである。
「──おい!鯨の涙がないぞ!」
「なんだと!まさかさっきの停電中に──!」
やっと気づいたか。
僕はもうこの展示会場の扉に手をかけているんだぞ。あとは階段を登り、この建物を出てしまうだけだ。
今夜の仕事はいささかスリルとクールさに欠けたものであったがまあ良い。僕にはとっておきの切り札があるからな。
おほん。
「──さようなら諸君。鯨の涙は確かに頂いて行く」
扉がパタリと閉じる。
……決まった。
「毎度、その寒いセリフを聞かされる私の身にもなってよね……」
「……アンズか。車の用意はできているんだろうな」
「アンズか。じゃないわよ……まあいいわ。もう到着してるから早く登ってきなさい」
やはり、アンズにロマンは早すぎたか。
「あと1分で来なかったら置いてくから」
なるほど。どうやら階段を駆け上がることになりそうだ。
怪盗ゲノム ナカムラマイ @koiji_usohema
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