主なしとて
一人の上等兵が、自室で目を覚ました。
この部屋は、軍の同じ部隊に所属する同僚であり、また幼少期からの幼馴染でもある男との共用の私室として与えられた場所だ。
こじんまりとしたこの部屋には、二人分の寝床とちょっとした物入れ等があるくらいで、他には特に何かあるわけでもない。軍の中ではまだまだ下っ端と言っても過言ではない上等兵たちに何故か上層部から二人一組で与えられた宿舎の一室であるこの部屋は、基本的に寝るくらいしか使い道はないのである。
今は夜更け頃だろうか。目を覚ました彼は身体を起こすが、体にかけていた布団が引っ張られるような感覚に、隣へ目を向けた。
その隣には、幼馴染の姿があった。本来ならこの寝床の主である筈の彼は、隅に追いやられるように、こちらに背を向けて静かに寝息を立てている。
わざわざそんな狭い所で寝なくてもいいのに。
呆れかけたところで、彼はすぐに思い直す。一人の寝床が、堪えたのだろうか。
無理もない。〈彼〉の"死"から、まだ一週間も経っていないのだから。
ほんの数日前、〈彼〉は彼らの前から突如姿を消した。
榛瀬蒼維。彼らとは軍の同期であり、階級は同じ上等兵であった。
しかし、先日とある任務の最中に致命傷を負い、面会謝絶のまま死亡。殉職扱いとされ、その葬儀は秘かに済まされた…と、彼らは聞いている。
いかにも優男風といった外見に反して、性格は真面目で勤勉で、その内に根性と強い正義感を秘めた男だった。
この国の軍人とは、国の為に命を捧げるのが仕事。だからこそ、”そんなこと”が起こることくらいは、彼にも当然分かっていた。それくらいは覚悟の上だ。
次は我が身か、それともこの幼馴染か。覚悟に覚悟を重ねて、彼は此処に居る。
そんな割り切った考えができていた彼だって、あの日から心に芽生えた虚無は未だ消えないのだ。
一見人と馴れ合わない一匹狼に見える癖に、その実は気を許した人間に対して情に熱い所のあるこの男なら。その心中を慮るのは彼でなくとも難しくないだろう。
薄い壁の向こう側から、かた、という微かな物音が彼の耳に届いた。
あの男もまた、隣室で一人、まんじりともしない夜を過ごしているのだろうか。
もう一人の友、
背格好といい性格といい、〈彼〉とどこか似た所のある男であるが、あれ以来すっかり憔悴しきってしまって、目も当てられない状態である。
近頃は食事も碌に取らず、僅かな自由時間のほとんどを部屋に籠って過ごしているという。
この部屋の隣で、彼は今も一人佇んでいるのだろう。〈彼〉はもう、二度と戻って来ないあの部屋で。
月明かりだけが差し込む、薄暗い部屋の隅には、酒の瓶と二人分の杯が並んでいる。
昨日は年に数回ほどしかない休息日だった。だから、普段ならば許可されていない酒でも飲みつつ三人で過ごすつもりだったのだ。今の彼らにできることと言ったら、それくらいしかなかったから。
しかし、部屋の扉を叩く彼らの声に、いつも通り呆れたように答える声は無く、返ってくるのは沈黙ばかり。
扉越しに声を聞くことすら、叶わなかったのである。
〈あれ〉以前、彼らは基本的に四人でつるんでいたものだ。
当時の彼らはどんな男たちだったかと言えば、上官も手を焼くほどの問題児で、彼らの『悪事』は挙げて行けばキリがない。
休息日ではない日にこっそり酒を手に入れて、この部屋か隣部屋で晩酌をしてみたり。
時々課せられた街中での任務中に、上官の目の届かない所で昼寝をしたり、観光がてら街を冷やかしてみたり。
勿論そんな悪巧みばかりしていた訳ではなく、勉学や鍛錬やそれぞれに課された任務についてだって、時に協力し、時には競い合ったりしながら取り組んでいたものだ。
優秀な友人たちと切磋琢磨しながら職務を全うし、『悪事』に手を貸せば「これでお前らも共犯だ」と笑い合う。
自分たちの果たすべき義務と背中合わせではありながら、基本的には穏やかで、充分すぎるくらいには満ち足りた日々だった。
こんな日々が、いつまでも続いてくれたなら─現実から全力で目を背けつつも、そう願わずにはいられなかったあの日々。
それも、全てなかったことになったというのか?
(…こんなのって、あんまりじゃないか)
お国のため、大恩ある父母のために、軍人は戦う。
それこそが今を生きる我々の為、そして、この世界の未来を担う子供たちの為になる。
そんな綺麗事を、彼らは何度も聞かされてきた。それこそ、戦争蔓延るこの世界に生を受けたその瞬間から常に。
でも、そんなことをして何になる?
仲間を、友を、大切な人を、─時には人の心すらも─失って。
そうまでして戦って、彼らには一体何が残る?何を残せる?
「お国の為」。聞き飽きた常套句は、今の彼には最早一欠片も響かない。
あるのは、どうにもならない無常観ばかりである。
寝床の上で体を起こした彼は茫然と思念していた。
何度自問自答しても答えは出ない、いや、答えなど存在するかも定かではない問いだ。相変わらず、答えは出ない。
その時、眠っている筈の幼馴染が僅かに身動ぐのが、視界の端に見えた。
思索から現実へと引き戻されて、彼は隣で眠る男を見つめた。
壁際に追いやられるように収まった寝顔は、普段のどこか不機嫌そうな容貌からは想像もできないようなどこかあどけないものだ。その姿に、彼は思わず笑みが零れた。
少々窮屈そうなその頬を軽く撫でてみれば、意外にも柔らかな頬の感触と、仄かな熱がそこにあった。
この幼馴染は、今確かに生きている。
その証たるそれらが、この時の彼をどれだけ安堵させたか。そんなものは、態々説明するまでもないだろうか。
生まれてこの方、彼の隣にはこの幼馴染がいた。初めて会った時から、幼年学校を経て、今に至るまでずっと。
たったそれだけの事が、彼にとってどれだけ救いとなっているか。そんなこと、この幼馴染には知る由もない。
未来永劫教えるつもりもないがと、彼は一人ほくそ笑んだ。
「なあヒロ。…お願いだからさ」
幼馴染の頬に残るのは、一筋の涙の跡。
それを指先でそっとなぞりながら、彼は小さく独り言ちた。
─お前だけは、僕を置いていかないでおくれよ。
東風吹かば 駒野沙月 @Satsuki_Komano
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