東風吹かば

駒野沙月

匂いおこせよ梅の花

 眼を開ければ、そこは無明の闇。微かな光明の一つさえ見出せない暗闇に、彼は放り込まれていた。


(ここは…)


 左を向こうが右を向こうが、その場には塵の一つも見出せない。

 当然、人っ子一人も存在しない暗がりに、彼はいた。


 空気はあるようだが、差し込む光も無く、音の一つも聴こえないこの場所で、彼が知覚できるものと言えば自分自身くらいというものである。

 時の流れがあるのかすらも、彼には分からなかった。


 先程まで、自分は何をしていた?何処に居た?

 彼はこれまでのことを必死に思い出そうとするが、何も思い出すことはできない。

 記憶すらも抜き取られていくような無明の中、もしその声がかけられることがなかったなら。彼は暗闇で一人、狂ってしまっていたとしてもおかしくなかっただろう。


「ようやく目覚めたか」


 尊大な口調でありながら、その声色は穏やかだった。

 しかし、そのたった一言から放たれた、落雷を受けたかのようにびりびりと震えるような衝撃に、彼はすぐさまその場にひれ伏した。


「こうして言葉を交わすのは初めてであるな、榛瀬蒼維はるせあおい上等兵」


 突如耳に届いたその声は、男性にしては高く、女性にしては低い。子供のような無邪気さを秘めながらも、大人びた落ち着きをも兼ね備えているその声から、持ち主たる人物の姿を想像するのは極めて困難そうだ。

 聞いたことがある筈もないその声に、何処となく聞き覚えがあるような気がしたのは気のせいだったのだろうか。


「今日ここに其方を連れて来たのは、他でもない。其方に話があったからだ」


〈彼〉が言葉を発する度、目には見えないものの確かに目の前に存在している〈彼〉が微かに身動く度、彼はこれまで感じたこともないような妙な威圧感を感じていた。

 この人物は、ただ者ではない。彼は、そう確信していた。


 ─我が半身と為れ、榛瀬蒼維。


 受け入れられることが当然であるかのように、〈彼〉は告げる。

 彼には分かる。今この場で、自分にこの命令を拒絶する権利はないのだと。


「…発言を、お許し頂けますでしょうか」

「構わぬ。遠慮は無用だ」


 だとしても、少しくらいは知っておきたかった。

 この男のことを。今後自分が放り出されるであろう運命のことを。


「まず、…やんごとなきお方とお見受け致しますが、何とお呼びすれば宜しいでしょう」

「…なんだ、そんなことか」


 深刻そうな雰囲気の中、最初に発せられたその問いに〈彼〉は拍子抜けしたらしい。だが、「好きに呼んでくれて構わんよ」と溜息交じりに言われたとて、一介の上等兵に過ぎない彼にとっては困惑の種でしかない。


(…「好きに」、と言われても)


 しかし、これ以上黙っていたとて話は進まない。相手の機嫌を損ねない内にと、彼は平伏したまま口を開く。


「…では、『閣下』と」

「うむ」

「それでは閣下、一つ二つ質問をお許しくださいますか」

「…其方も律儀よの。いちいち許可を取る必要は無いぞ」

「寛大なお言葉、痛み入ります」

「…早くその質問とやらを述べるが良い」


 失礼の無い様言葉を選んでいた彼だったが、相手は迂遠なやり取りに段々と辟易してきたようだ。

 一見穏やかな返答の中、込められた静かな苛立ちに内心冷や汗をかきつつも、彼は言葉を続けた。


「それでは…貴方様は私に一体何をお求めでいらっしゃるのでしょう」

「言った通りだが」


 其方、私の元で仕える気はないか。〈彼〉はそう尋ねた。

 その仕事は、〈彼〉を支え、代わりに表舞台に立ち、万が一の事態が起きた時には代わりにその刃を受けること。

 直属の部下と言えば聞こえはいいが、要は影武者。〈彼〉の盾となってその命を捧げよと、〈彼〉は言っているのである。


「近頃はどうもきな臭くてな。それほど心配せずとも問題ないが、万が一のことがあっても困る。信用できる人間を傍に置いておきたいと考えたのだ」


 彼も、その言葉には頷ける部分があった。


 彼は昔から、他人より耳が良かった。ただそれだけなのだが、たったそれだけで、知りたくもないものまで聞こえてくる。

 だからこそ、〈彼〉の言う『きな臭さ』については彼もいくらか耳にしていた。


 そして、彼の優れた耳は、〈彼〉の存在をも捉えていたのである。─今にして思えば、それも又〈彼〉の策略だったような気がしてならないが。


 この国で起こる全てを裏で操る黒幕。"風"のような男。

 途切れ途切れの噂話の中でそう称されていた当人が、今彼の眼前にいる。


 初めてその声を耳にしたあの時からずっと、彼はそれを肌で感じていたのだ。


「…何故、私なのでしょう」


 彼は一言、そう呟いた。どうしても、分からなかったからだ。


 これが、ただの影武者というのならば別にいい。

 詳細は分からないし、出来る事なら踏み入るのも避けたいものだが、眼前の『閣下』は一兵士如きからは想像もつかない程に大きなものを背負っているようだ。だからこそ、万が一に備えて使い捨ての”盾”が必要となるというのは、理解できる。しかし、そんなものは普通の兵士で充分ではないだろうか?


 それこそ、上等兵でなくてもいいだろう。もっと簡単に使い捨てられて、代わりのきく人間。

 そんな存在、〈彼〉ならば掃いて捨てるほど従えていたっておかしくはないのだ。


 しかし、〈彼〉は確かに『半身』と言った。

〈彼〉が求めるのは、片腕となり得る優秀な人材ということ。


 だとしても、その役目を課すならば、こんな一介の上等兵如きではなく、もっと適した存在がいるのではなかろうか。

 同じ上等兵にしたって、もっと優秀な人間─それこそ、友人たちだっていい─なんて、いくらでもいる筈だ。…何故、自分が?


「何度も言わせるでない。其方が気に入ったからだ」


 何の気なく零れた言葉に、〈彼〉は即座に答えた。


「勤勉で、忠誠心も高い。この国を良くしたいという野心もある。何より、私に対面して全く物怖じせぬその度胸も気に入った」


 内心はともかく、その声色は嘘をついているようには感じられなかった。

 その評価がいずれも過剰であることについて訂正することも諦め、彼は更に頭を深く下げた。


 それでは最後に。そう前置きして、彼は最後の質問を述べた。


「…貴方様は、一体何者でしょう」

「さあ。私にも分からぬ」


〈彼〉は少し考えたようだったが、静かにそう答えるばかりだった。


 彼は更に言葉を重ねようとしたが、その耳にしゃらん、という音が聞こえてきた為にすぐにその口を閉じた。

 微かな足音が鳴る毎に、しゃらんしゃらんと、涼やかな音色が鳴り響く。


 先程までよりも尚一層頭を深く下げた彼の視界の端に映ったのは、翠色の着物の裾と、西洋風の履物に包まれた足元。涼やかな音色は、着物の裾で揺れる銀の装飾によるものであったらしい。


「蒼維、顔をお上げ」


 到底顔を上げる気にはなれずにいると、その男は目の前にまで歩み寄って来て、青年に手を差し伸べる。

〈彼〉が僅かに体を揺らす度、漂う甘い香りが彼の鼻をくすぐる。この香りは…梅か何かだろうか?


「別に取って食おうなどとは思っておらぬ。早うせい」


 急かされてしまっては、もう拒否する方法はない。

 彼は恐る恐る、ゆっくり顔を上げる。


 其処に立っていたのは、一人の男だった。顔を薄布で隠していることさえ除けば、何の変哲もない普通の男であるようにしか見えない。

 精々、思っていたよりも細身で小柄なのだな、というくらいで。


 しかし、身に纏う衣服と雰囲気は、〈彼〉がただ者ではないことを言外に伝えていた。

 身に纏う衣服は、先程見えた通り緑地の着物。こうして眼前で目にすれば、着物に施された青糸の刺繍や銀装飾の精緻さには驚かされるばかりである。そういうことにも疎い彼にも分かるくらいだから、相当な高級品に違いない。

 眼前に差し伸べられた手は、並の人間とは思えないほどに白く、生まれたての子供であるかのように若く張りがある一方で、歳を重ねた老人であるかのように硬く筋張ってもいた。


 不思議な男である。

 確かに〈彼〉は、其処にいる。それは分かっているのに、一度目を離せば見失ってしまって、手を伸ばしてもどこかにふっと消えていきそうな空気を、〈彼〉は纏っている。紫の薄布によって覆われたその顔は、輪郭すらぼやけて見えるようだ。

「儚い」というのともまた違うその様を、自由気ままな『風』と称するのも、分からなくはない。


 しかし、優しく穏やかな『風』というよりは、寄る辺なく漂う『蝶』や死の間際の『幻』のような。

 美しくも妖しげで、どこか神聖さすらも感じさせる。そんな男だった。


「ふむ。やはり良い眼をしておるな」


 見込んだ通りだ、と満足気に呟く〈彼〉は、どうやら微笑んでいるらしい。薄布の下に隠されたその表情は、存外豊かなようである。


「蒼維、覚えておきなさい」


 そう告げたかと思うと、〈彼〉は青年に顔を寄せた。


 自らの顔を覆う薄布に手をかけたその瞬間、二人を取り巻く空間にぶわっと強い風が吹いた。

 勿論、錯覚である。優しく温かな春風ではなく、吹き荒れる嵐のような強い風は、青年の髪を荒々しく撫でる。


 ─これが、お前の半身となる男である。


 薄布の下にあった〈それ〉に対面して、青年は息を呑んだ。


 彼が目にしたそれは、其処には絶対に在る筈の無いもの。それでいて、─〈彼〉が、他の誰でもないあおいを選んだ、本当の理由であった。



 それから、一体どれだけの時間が経っただろう。


 後から思い返せば、実際は一瞬の出来事であったに違いない。

 しかしその時が数刻、或いは数日経っていたと言われても驚かなかったと、彼は思う。それくらいには、衝撃だった。


 声も出せずにいる青年に対し、〈彼〉は悪戯が上手く行った子供のように口元を歪める。

 形の良い口を開いては、〈彼〉は青年に問うた。


「蒼維よ、心は決まったか」


 改めて問われるまでもない。初めて〈彼〉に対面した時から彼の心は決まっていたし、そもそも逃げ出すことなど不可能だ。


 どうせ、元より身寄りもない身である。その身に何が起ころうと、気に掛ける者はいない。

 どれだけ重傷を負おうとも、たとえ命を散らそうとも。彼の為に涙を流してくれる者は、もうこの世にはいないのである。


「…貴方様の、御心のままに」


〈彼〉の目前で改めて平伏し、彼は遂に"その言葉"を口にする。

 紡がれた言葉が意味するものは、俗世との決別。


「そうか。これからの其方の働き、楽しみにしておるぞ」

「…はっ」


 ─もう、これまでの暮らしには戻れない。


 だが、彼にはたった一つだけ未練があった。それは、この場所で出会い、血の繋がった兄弟以上の親しみと絆を築いた3人の友のこと。

 彼がこの世から姿を消すと知った時悲しんでくれる人間が、この世にまだ存在するならば。

 それはきっと、時に切磋琢磨し、時に笑い合った彼らくらいなものである。


(すまない、友よ…)


 晴れて片割れとなった青年を、素顔を晒した〈彼〉はどこか妖艶な笑みを湛えて見つめ、彼の頬に触れそっと上を向かせる。その姿は、さながら眷属を得た神のようであり、気に入った玩具を手に入れた純粋な子供のようでもあった。

 青年はその手を拒むこともなく、真摯な眼差しで〈彼〉を見つめていた。

 その切れ長の双眸からは、一筋の涙が流れていた。

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