感傷雨

霜月透乃

感傷雨

「はぁ~あ。雨に降られちゃった……」

 残業帰りの夜。線路の真ん中に容赦なく高い草が生え、ときどきボン、と錆びた鉄の屋根を雫が大きく叩いて音を空虚に響かせる、駅の中。人っ子一人いないのをいいことに、私は腑の奥底から漏れ出る大きな溜め息を遠慮なく鳴らして髪の毛をいじる。

 溜め息の矛先はもちろん、目の前でバケツをひっくり返したように降る雨。今朝の予報ではオレンジ色の晴れマークが元気に横並びしていたのに、空は裏切って水滴を降らした。季節柄か、最近雨が多い。そんなことわかってるくせ、わざわざ晴れにして外すなんてタチが悪い。

 大体一時間に一本、時間帯によっては三時間も来ない隙間だらけの時刻表を見ながら、一番下に書いてある終電をせわしなく髪をいじりながら待つ。ふと、先ほど頭の中に浮かんだ言葉を最初に発したのは誰だろうと小さな好奇心を抱いた。

 バケツをひっくり返したような、そんな素っ頓狂かつ的確な雨の表現を思い浮かべる才はそうそういないだろう。クリシェにまみれた言葉でも、私はこの言い得て妙な感覚に好きを囚われている。

 けれど、そんな胸のときめきとは裏腹に、髪の毛をくるくると弄ぶ指にはこれ以上ないほどの怨恨が籠っていく。

 くせっ毛の、湿気を孕んで膨らんだ姿。ちぢれ麺のようにうねりながらちりちりになっているその姿は、敵にやられた姿だ。

「雨殺す……」

 戦友が殺されてしまったような、殺した敵への憎悪が露わになった言葉が溜め息とともに漏れ出る。先ほどまでときめきを感じていたはずなのに、バケツさながらのひっくり返りよう。

「雨……お嫌いなのですか?」

「うえっ?」

 突然後ろから声をかけられ、ビクッ、と肩を跳ね上げて振り返る。

 神秘的な雰囲気。最初に目に入ったのはどうしてかそれだった。流水のように真っ直ぐと垂れる長い黒髪、夏へ切り替わる季節にふさわしい爽やかな白の半袖から見える、透けるように白い肌。寂れた駅には到底似合わないものが目の前に現れ、数瞬意識を奪われた。

 はっ、と自分が戻ってきたのは、静かな神秘を纏った雰囲気のその人が、前髪がかかって仄かに隠れる目元を見てもわかるくらい、はっきりと悲しげなかんばせをしているのに気づいたとき。

「あ、いや、全然。好きですよ、雨」

 嘘つけ。胸の内で自分に毒を吐いた。さっき髪をいじりながら吐いた言葉には、自らの茶髪よりも暗い黒の感情がぐつぐつと煮込まれていただろうに。

 けれどそんな黒も押し込んでしまわないとダメだと思うほど、繊細で儚い表情を目の前の女性はしていた。その女性は安堵の色を浮かべたのち、すぐさま悲しげな表情へと戻ってしまった。

「申し訳ありません……私の、せいで」

「はい? なんのことです?」

「この……バケツをひっくり返したような、雨のことです」

 胸の内を見透かされたような、そんな感覚がした。なにもおかしなことはないと語る表情に、私は大きく首を傾げる。

「えっと……なんでです?」

 疑問が膨らみすぎてまともな文章が口から出てこなかった。それでも慣れたというふうにすべてを汲み取った女性が、自己紹介をするように改まって言った。

「雨女……ですから」

「は、あ……」

 言葉と同時にゆっくりと頷いた。けれど顰める眉が示す通り一つもわからない。目の前の不思議に頭の中をぐるぐると巡らせていると、なにかに気づいたように不思議さんが私の後ろを見つめ、その方向に手のひらを指した。

「電車、来ましたよ」

 その言葉に頭の中から戻ってきて、とっさに後ろへ振り向く。すると電車が待ち侘びているといったふうにぴたりと止まって扉を開けていた。

「え、あ、ごめんなさい!」

 車掌さんか、目の前の電車か、はたまた女性に対してか。誰に対して放ったわけでもないような私の謝罪が雨に消える。

「ふふっ。それでは、お気をつけて……さようなら」

 いつもならすぐさま電車の後ろ側に行ってしまうのだが、小さく手を振り微笑む女性に、どうしてか釘付けになった。汽笛が鳴り、扉が閉じて、雫とともに彼女が窓を流れ去っていくまで。

「……不思議な人」

 白昼夢……にしては、時間が遅いか。夢うつつな感覚のまま、私は電車の後ろ側の、お気に入りの席へと足を運ぶ。

 誰もいない、一両編成の電車。車掌さんと私しか運ばない電車も、きっと退屈している。

 小さな溜め息とともに向かい合わせの席に一人座って、雫が小さな川を作る窓の外に流れ去る景色を眺める。

(さようならって、返せなかったな)

 小さな悔いを胸の奥に滲ませながら、電車の壁にもたれかかって、窓を打つ雨の音に微睡んだ。



 次の日、夜を待っているかのように残業を続け、終わるころにはとっくに深い黒が空を覆っていた。といっても、昨日もその前までも同じ空を見続けてきた私にとっては、変わりのないいつもの風景だった。外に出ると、窓越しじゃわからなかった暗くて厚い雲が空を覆っていて、そこから水を降らしていた。今日は予報も雨を当てていたから、昨日ほど驚くことはなかった。

「髪の毛さえどうにかなればなぁ……」

 会社から十分程度歩いて、寂れた駅へと辿り着く。誰もいないことをいいことに吐いた愚痴が、雨の音にかき消された。残業中に髪の毛が嫌な感じになっていくのがわかったので、窓越しじゃわからなくても雨が降っていることは感知していた。外に出ればわかることをわざわざ煩わしさで教えてくれる、便利でもないセンサーだ。

「くせっ毛さん……大変そうですね」

 雨から音を拾ったのだろうか、雨に放り投げたはずの愚痴を聞かれて、たじろぐように後ろを振り返る。そこには昨日出逢い、自らを雨女と呼んだ女性がいた。

「子犬さんみたいで……可愛らしいと、思いますよ」

「いや、それは大変さを知らないからですよ。体験するとその感情が恨みへと変わっていきます」

 おそらくはただ今自分が感じているだけの恨みだが。悪魔のように指を曲げ怪しいポーズをとる私に、女性はくすりと笑ってくれた。

「あなたは、綺麗な髪してますね。ちょっと羨ましいです」

 本当はちょっとどころじゃなく羨ましいけれど。もし次の生があるなら、私は毛が真っ直ぐ生えたものになることを願う。人間じゃなくても。

「そうですね……雨は、自ら曲がらないからでしょうか」

「雨?」

「ほら、雨女……ですから」

 その言葉に、私は目をぱちくりさせながら首を傾げた。もしかして、この人なりのジョークなんだろうか。雨と同じ軌道で真っ直ぐと落ちる髪を揺らし、楽しそうに小さく笑う姿に惑わされる。

「あ……電車、来ましたよ」

 その言葉に促されるよう線路を見ると、眩しい明かりをつけた電車がホームに入ってくる姿が見えた。どうしてかその瞬間、寂れたホームのような物悲しさが胸の内を過ぎ去った。未だ微笑みを残す女性を見て、その悲しさが揺らいだのを感じた。

 そんな思いに耽っているうち、電車は無機質にホームへ留まり、扉を開いた。私は女性の眼差しに背中を押されるよう、一歩、電車の中へと足を乗せる。

「あ、あのっ!」

 両足を乗せたのち、私は意を決したように勢いよく振り返る。

「さようなら……!」

「……ふふっ。はい。どうか、お気をつけて……さようなら」

 優しい微笑みが、胸の寂しさにじんわり広がっていく。昨日の後悔を果たそうと必死になって、おかしな雰囲気になってしまったけれど、笑ってくれたから、よかった。私たちは扉が閉じてお互いが見えなくなるまで、雨の電車で手を振り続けた。



 次の日も、その次の日も雨が降り、残業帰りの駅で女性と出逢った。電車が来るまでの、お互いの名前すら交わせない、二言ふたこと三言みことの時間。それが私の心を満たす雫になって、電車がホームに辿り着くとすべて流れ出て行ってしまう、儚く寂しいものでもあった。

 とある日。天気予報が晴れを告げて、空はそれに応えるように雲を消した。寂れた駅の中、雨がなくなって音の消えたそこでどれだけ待っても女性は現れなかった。出逢った日から初めて彼女に逢わない日だった。人生で初めて、晴れを憎んだ。

 その次の日。雨が降った。土砂降りの雨だった。私は窓の外に目を輝かせた。知らない世界を見つめる子どものように。

 早めに残業を切り上げ、雨の中に走り込んだ。歩いて十分の駅への道を、水溜まりを跳ねさせながら駆け抜けた。

 息を切らして駅へと辿り着いたとき、人影が一つあった。その影が私の方を見た瞬間、雨の女性であることがわかって、私の心は一瞬で満たされた。

 その日の会話は止まらなかった。早めに駅に着いたから、いつもより電車の待ち時間が長かった。家から電車で小一時間かけて通勤してるとか、家のある方より会社のあるこっちの方が田舎でへんてこだとか、そんな他愛もない話しかしなかったけれど。

 雨の音楽を聴きながら、名前を交わすことすら忘れて話し込んだ。雨に交じって聞こえてくるその人の声が心地いい。あまり変わらないトーンに、人よりゆっくりなスピード。破裂音すら耳に優しく触れる。雨の音の方がさんざめいて聴こえるくらいだ。

 来る日も、来る日も、私たちは雨の降る日に出逢う。言葉少なな時間を、寂れたホームで待ち侘びる。雨が続く季節だけの、期間限定の儚い味かもしれないけれど。

 雨の日の記憶は残る。どれだけ儚くたって、心の中に染みついていく。

 匂い、湿気、雨音、前髪で仄かに隠れるあの人の優しい笑顔に、胸の鼓動の早さ。――全部全部、憶えてる。



 とある晴れの日。私は電車で寝過ごした。

 残業続きで疲労が溜まっていたのだろうか、寝不足の電車に揺られながらうつらうつらとしてしまい、気づけば終着駅まで行ってしまっていた。そして追い打ちをかけるように次の電車は三時間後。隙間だらけの時刻表の、一番隙間が大きな部分に当たってしまった。

 私は電話で遅刻の旨を伝えた後、すぐさま会社へと帰る方法を模索し始めた。いつも降りる駅より栄えている終着駅にはバスがあったけれど、わざわざ人のいない駅まで送ってくれる物好きなバスはないようだった。歩くことも考えたけれど、ここから歩くとするとおそらく一時間以上かかる。

 結局タクシーを呼んで、長距離移動させてしまう申し訳なさに打ちひしがれながら後部座席に座り会社へと戻った。着いたのはいつもより一時間くらい遅い時間だった。

 その日はその後も酷かった。寝過ごしただけの短い睡眠時間じゃ疲れなんて取れるわけもなく、いつもはしないミスをボロボロと出し上司に怒鳴られた。何度も揺すぶられ脆くなった心のまま昼を迎えると、いつも電車に乗る前に調達している昼食を買ってくるのを忘れたことに気がついた。近くにコンビニすらない田舎を恨みながら、無理矢理飲み物で空腹を押し込んだ。脆弱な心の欠片がぽろぽろと崩れ落ちてくる、そんな痛みを感じた。

 時間が過ぎて、明るく元気な夏の長い日すら落ちて行って。残業が終わるころには、空腹すら感じなくなっていた。私は窓の外で広がる黒に今日を振り返らないようにしながら、会社を出た。するとそのとき、空から冷たいものが降ってきた。

 雨だ。小さな雨が降り始めた。風に雨が混じるような、大気中の空気がところどころ水になってしまったような、そんな感じの雨。霧に包まれる感覚のする、弱々しい雨。それでも。

「今日、雲一つない快晴だったんだけどなぁ」

 今朝目にした天気予報を思い出す。オレンジ色の晴れマークが珍しく元気に横一列で並んでいた。日中はそれが指し示す通りの天気だった。寝過ごした私に追い打ちをかける、煩わしいほどの夏の陽射しを憶えている。

 けれど目の前の空気には水が散っていて、一日中晴れだと言った予報を裏切った。今スマホで天気を調べようものなら何食わぬ顔で予報を曇りか雨にすり替えていることだろう。

 陽射しだけじゃなく、雨までも私を追い立てる。雨に応えて膨らんでいく髪を感じながら、私は胸の奥底にあった欠片がすべて崩れたような感覚を覚えた。

 雨とは違う、熱い雫が頬を伝った。風が運ぶ物悲しさに、私の心は置き去りにされてしまった。なにかに寄りかからなきゃ倒れてしまうほど弱い私を、一人残して。

 ふと、脳裏によぎった。雨の日だけに現れる、不思議な女性の姿。初めて出逢った日も、こんな、天気予報に裏切られた雨の日だった。心が揺らいで、そのまま消え去ってしまいそうな私は、一縷の望みにかけて拠り所を求めた。

 折り畳み傘を鞄から取り出して、雨の中へと飛び込んでいく。日をまたいで張る深い水溜まりが跳ねるのも気にせず、私は一心不乱に駆け抜けた。傘を差しているけれど、横から入り込む雨が何度も身体に打ち付けられる。しばらくして雨を遮ることすらできない、空気を孕んで膨らむだけの傘を走るのに邪魔と感じ閉じた。

 行かなきゃ、一秒でも早く。このベタつく雨を、癒しの雨に変えてくれる人がいるんだ。

 本当にいるのかなんてわからない。今日みたいな厄日なら、いなくて当たり前なのかもしれない。それなのに、私の足は止まらなかった。止めたくなかった。

 衝動に身体を突き動かされるなんて、小中学生のやることだ。私の青の時代は、遠く過ぎ去ったというのに。

 やがて駅へと辿り着いて、切らした息もそのまま、高揚した足をホームへと運んだ。

 線路の真ん中に濡れた高い草が生え、雨が錆びた屋根を弱々しく打って、硬い音を鳴らす。そんなホームには、人影一つなかった。

「……そうだよね」

 馬鹿な自分を笑おうとした。めいっぱい、これ以上なにも考えなくて済むように。けれど浮かんだ笑顔は風に混じる雨よりも弱々しくて、笑っているのに涙が零れてきた。

 傘を差し直すこともしないまま、降り注ぐ雨に包まれる。夏でも確かな冷たさを持った水滴に、身体のぬくもりが奪われていくのを感じる。電車が来るまで、ずっとこのまま――。

「傘も閉じて、浴びてしまうなんて……ふふっ」

 突然後ろから声が降り注いできた。優しく耳を撫でる声。崩れて砂になった心の形を、その一言で全部保ってくれた声。私はその声に涙を止めて、ゆっくりと振り返った。

 先ほど私の身体を突き動かした青い時代の、淡い桃色の感情みたいに、その人を見た瞬間胸の中でぱっ、となにかが弾けた。熱い感情が目の奥で滾って、溢れ出てしまわないように瞼をきゅっ、と瞑った。けれど手遅れなそれは次第に滲んできて、止まらなくなっていった。

 雨が降っていたからだろうか、女性は私に近づいて、傘を差し伸べてくれた。優しく、微かに笑いかけてくれるその顔に、私は自分に降り注いだ雨を袖で乱暴に拭った。

「ごめんなさい、私っ……!」

 そんな私に女性は仕方なさそうに笑って、ハンカチを差し伸べてくれた。雨のように透き通った、白いハンカチだった。

「私、今日はもうダメかもって思ってて、けど、あなたの姿が見れたらって、どうしてか思って、走って……ごめんなさい、こんなこと……けど……あなたに出逢えて、よかった……!」

 拙い言葉の端々を必死に紡いで吐き出す。名前も知らない、駅で逢うだけの相手には、とてつもなく重たいものかもしれない。けれど女性は私にさらに近づいて、溢れる雫を掬い取ってくれた。

「雨女な私でも……あなたの雨を晴らせることができるのなら……それは、嬉しいです。だから……笑ってください」

 眩しくない微笑みで私の心を照らしてくれて、優しい声色で私の心に触れてくれる。雨に打たれて冷えた身体に、それはとても暖かく沁み渡った。その女性に向かって、私は今日初めての笑顔を浮かべた。

「雨……お好きですか?」

 雨の女性は柔らかく笑って言った。初めて逢ったあのときのように、改まって。

 前髪がかかって仄かに隠れる目元を見てもわかるくらい、はっきりと嬉しそうなかんばせを浮かべている。その繊細で儚い表情を、崩したくない。そんな思いを伝えるよう、私は涙の晴れた、微笑みを返した。

「――ええ」

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