君を見て
咲良幸汰
第1話
人の話し声、足音、時折歓喜の叫びや慟哭すら聞こえてくる。机やら何やらで埋め尽くされた狭い空間は、喜怒哀楽のすべてが凝縮された世界のすべてであるように思えた。外に咲くピンク色の花は窓をガタガタと震えさせるほど強い風に当てられて花びらを舞わせている。
四月の朝、とりわけこの日は人々が一層賑やかに騒いでいた。机の上に広げられた「クラス分け」の文字が目立つプリントに踊らされ、制服に身を包んだ半分は友人と陽気にハイタッチを交わし、残りの半分は涙を流して友人と抱き合っている。喧騒に湧く教室から逃げ出したとしても、きっと数分もすれば甘い空気が後を追ってくるのは想像に難くなかった。化粧室も、食堂も、中庭も、この日だけは彼女が独占することは許されないだろう。今日は誰もが、ささやかな出会いとほんの一時の別れを惜しんで心弾ませている。
だというのに、彼女は喧騒に耳をふさいで、まわりの楽しい空気を妨げる壁を部屋の隅に作っている。時折聞こえてくる「よろしくねー」という声にひらひらと手を振り返すと、カバンから取り出した分厚い本を眺めながら邪魔な前髪を耳にひっかける。毎年、一年おきに決まって起きるイベントで、同じ空間にいることは確かであるものの、彼女は幾度か挨拶の言葉を吐くとまた他人事のように周囲を一瞥した後にまた手元の本に視線を落とすのだった。
望んで希薄な人付き合いを保っているわけではないものの、現状にどうしようもない不満があるわけでもない。どうしても周囲に誰もいなくて、けれども誰か暇をつぶせる話し相手が欲しい。そんなクラスメイトが時折話しかけてきて、談笑する――そんな時間が決して嫌いなわけでもない。数学の授業の時間よりよほど有意義であるといえる。
ただ、彼女は誰にとっても、他者より優先される友人ではないというだけの話である。
何度も何度も、教室にいる人数の四分の一ほどの回数だろうか、首を挙げては下げることを繰り返す。昨日テレビでバンドマンが激しくこんな動きをしていたことを思い出す。確か、この動きはヘッドバンキングと言うらしい。鼻歌のリズムに合わせて控えめにこれをするとなんだか楽しい気分になった。
ハッとして我に返ると、やはり、隣から小さな笑い声が聞こえてきた。必至に抑えているけれど、こわばった力の抜ける拍子に少しだけ声が漏れ出てしまう、そんな笑い声だった。彼女は衝動的に手に持った本に顔を埋め、笑い声の主から上気した頬を隠すために背を丸めた。二、三秒えも言えない時間が流れ、それの倍ほどの時間をかけてゆっくりと顔をのぞかせる。すでに笑い声は止んでいて、けれども肩をわずかに震わせている。手に持った本を机の上において、ごまかすようにわざとらしい咳ばらいをする。その態度を見て、これ以上笑ってはいけないと察してくれたらしい。
「ごめん、ごめん」
バツの悪そうに、けれども楽しそうな笑顔を向けた彼女の名前は、一年前からよく覚えていた。自分と同じように、喧騒を眺める傍観者に徹していた彼女――佐藤若菜の名前は、高校生になって初めて、授業で習った簡単な英単語よりも先に覚えたものだった。
「あの、佐藤さん……」
何か話したい話題が浮かんだわけでもなく、けれどもそのままでは妙な空気が離してくれなさそうで、つい名前を呼んでしまった。一年間同じクラスで過ごしていて、けれども話したことがない。それでも苗字くらいは知っていて当然であるような気もするけれど、確信が持てなかった。驚かせてしまわなかっただろうか、小さく心臓がはねた。
一度目をそらして、またすぐに佐藤の目を見る。笑っているのとも、俗にいう笑顔ともまた違う、目を輝かせているといった風の表情に変わっていた。むしろ、周りの空気間にぴったりな表情だった。
「ねえ、山田さん!」
今度は大きく心臓がはねた。唐突に名前を呼ばれて驚いてしまった。どうやら、クラスメイトの苗字くらいは知っていて当然らしかったが、初めて話す相手から自己紹介もなしに名前を呼ばれると驚いてしまう。それと同時に、他のクラスメイトとは違って名前で呼ばれないことに新鮮なものを感じた。きっと目を輝かせているのも同じような理由からなのではないだろうか。
とは言え、困ってしまった。初めて話すクラスメイトから、久しく聞かなかった単語で呼ばれている。少しだけ返事に困った表情を浮かべたのは、もう一言、佐藤に譲ろうという合図だった。
佐藤は前置きを一つつけて、そのあと単刀直入に尋ねた。「いきなりごめんなさい――もし、迷惑でなかったらなんだけれど、放課後の予定を私にくれませんか?」
「……えっと――何か予定はあったかな」急な誘いに戸惑って、逃げるようにスマートフォンを眺める。画面は真っ暗なままで、こんな自分であるから、他の何者かとの予定など皆無であることは見え透いているだろうと自分でも思ったが、なぜだか侮られたくないような気分だった。
彼女には強引に誘いを受けさせようといった雰囲気もない、名前を呼ばれた一声とは違い、指先を絡ませて遊ばせながら続けた。
「今日、駅の近くのコーヒーショップで新作が出るから……」
おもむろに上着のポケットに手を入れると、縁に切り取り線の欠片が見える小さな正方形の紙を二枚取り出した。それは、新聞の折り込みチラシなんかに付けられているクーポン券のようだった。「二枚あるから、良ければどうかなって」
「私と、一緒に?」会話の流れや頭数合わせではなく、自分が名指しで誘われた事実が間違いではないことを確認する。
「うん、どうかな」再三問われるが、彼女はうだつが上がらない返事に苛立っている様子はなかった。
人が自分と二人で出かけてくれることに了承してくれるだろうか――そんな風に考えているのだろう表情に、鏡を見て、シンパシーを感じた。そして、彼女の眼は真っすぐに自分だけを見ているのだと確信して、そしてようやく、本来であればもう数分前に済ませてしまうはずの返事が口を出る。「私でよければ、ぜひ」二人がようやく互いの予定を確保したころ、周囲はすでに終業式が終わった後、昼食はどうしようかと悩ましい午後からの予定を具体的に決め終わっていた様子だった。
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何時からだっただろうか。多くの知り合いとは離れて一つ街を挟んだ向こうの高校に通い始めたときか、急激に自身の精神性が現在に近づき始めた中学生になったころ――はたまた、それよりももっと前、自分の名前すらまともに書けなかった子供のころからかもしれない。人と付き合うことにあまり向いた性格ではないのだろうと知った。周りの有象無象とは違うのだと粋がってそんな風に思っていただけなのかもしれないけれど、母親に「あなたももう大人ね」なんて言われるような背丈になった今でも、そう思う心は変わっていないのだから、きっとそれは正しいのだろう。
そんな彼女だから――まさか自分が、誰かと二人きりで制服を着たまま流行りのコーヒーショップに足を運ぶことになるとは考えてもみなかった。
初めてここに来たわけではない。コーヒーが「やばい」ことと、授業で習った物理学が疑わしくなるほどにクリームの積まれたパンケーキが「やばい」ことを知っている。それらを目にして同級生がそんな風に話していたのを近くで聞いていたのだから。
「さくら味って、どんな味なんだろうか」やけに真剣な表情で、親指と人差し指に挟んだクーポン券をひらひらさせながら佐藤が言う。
「さあ、どうだろうね」
そこから会話は続かなかった。
昼食の時間に来たのが悪かったのだろうか、一人であれば躊躇してしまう列の最後尾に並んだのが三十分ほど前の話で、二人は今、列の中腹ほどの位置にいた。ただただ空の時間が過ぎていく中で、二人はやはり辺りの浮かれた空気になじんでいなかった。しかし、一歩進むごとに口角のゆがむ佐藤の表情は、浮かれて頭に上った熱がそうさせているようだった。
しばらくの間、一言ずつ会話を交わして一歩前に進むことを繰り返していると、ようやく目の前に店のガラス扉が見える位置にまでたどり着いた。
店の入り口に立ってすぐ、二人は店員に促されて店の一番奥にある二人用の席に座る。机の大きさは二人がそれぞれ二枚のパンケーキを頼めば埋め尽くされてしまうほどで、メニューはそんな机を少しでも広く見せるために、壁に数枚の紙にまとめて貼り付けられている。
「山田さんは、さ……」目当てのものを店員に注文して、二人同時にコップに注がれた水に一口付けた後、満を持して、といった感じで尋ねられた。
その後、立って並んでいるときに幾度かした、取るに足らない会話を続けた。中学校はどこだったのか、好きな教科は何か、放課後は家に帰ってから何をしているのか。そんな、ありきたいの、明日には夜見た夢と一緒に忘れてしまうだろう味のない会話をした。
注文していたものが席まで届いた後も、しばらくは会話を続けた。これほど長く誰かと会話を続けたのはきっと初めてのことだろう。傍から見れば面白みに欠ける会話に聞こえるものの、二人には妙な心地よさがあった。
「土曜日や日曜日――お休みの日って、何をしているの?」会話の流れで――流れるほど重みのあるものは一つもなかったけれど、そんな質問をされた。
「……えっと」
答え難かった。
当然、時間をつぶすための手段はいくつも持っている。楽しいと思う趣味も持っている。ただし、それを人に教えることは彼女にとって難しいことだった。それは、その答えを告げた相手全員から同じような返事をされたためだった。だが問いに対して答えるべきものは、それ以外に思いつかなかった。
「えっと……少し、つまらない趣味なんだけれどね」と、よく聞かされた答えを前置きにして。
「私、原付の免許を持っていてね――それで、いろいろなところに行って、見た風景を絵に描くんだ」
「へぇ――」
短い返事の後に、会話が途切れる。この答えには覚えがあった。きっと、この後にも覚えのある答えが続けられるのだ。
佐藤とする会話は当たり障りのないものではあったけど、それでも温かみを感じて――好きだった。しかし、はじめてそんな風に感じた相手にも自分は受け入れてもらえない。そう考えると、より自分は人付き合いに向いていないのだという考えが確信に変わっていく。
長い髪を右手の人差し指でくるくると遊ばせながら、手持無沙汰になった左手で初めて注文したコーヒーに口をつける。カップを大きくはみ出して山にされていたホイップクリームはちょうど溶け切って、猫舌の人でも満足のいくちょうどよい温度になっていた。飲んだ後にふと時計を見ると、このコーヒーが運ばれて来てからすでに十分ほどが経過しているようだった。吐いた息に合わせて、花やかでありつつも落ち着いた香りが鼻を抜けていった。
そのまま辺りを見回して、会話に躓いて無理矢理に態勢を立て直そうとするものの、空返事に続けられた重い言葉に再び態勢を崩される。
「それは、とてもいいね」
誰かが店を出て、空いた席を埋めるために別の誰かがガラスの扉をくぐる。ちょうどよく吹いた風が店内に入り込んできて、充満していた生暖かい空気を連れ去っていく。中身のない十の誉め言葉はいつもこんな時には逃げて行ってしまうのに、彼女から言われたたった一言はしばらく心をつかんで離さなかった。
「どんな所に行ったの? 特にお気に入りの場所はある?」
暖かいコーヒーのおかげで熱が上がったのか、エンジンがかかったように質問が具体的になる。その質問に対する返事はすぐに、口を突いて出た。それからしばらくの間、他の会話をしなかった。春休みに行ったところ、立ち寄った観光地の店で食べたもの――気が向いたときに使う、タブレット端末の中に描いた風景画なんかを見せた。何を話しているのか、内容も聞かないままうなづいていた時と違い、きっと今話したことは十年後でも鮮明に思い出せるだろう。確信はないが、そんな気がした。
ゆっくりと時間をかけてようやくカップの底が見え始めたころ、ようやく椅子に接着されていた腰と佐藤への視線が外れた。コーヒーはすでに人肌以下の温度に下がっていた。
立ち上がった時、隣からスマートフォンのカメラ機能――そのシャッターを切る音が聞こえた。この一時間ほどでよく聞いた音だけれど、空のカップに向けて発せられたものは初めてだった。佐藤は、取れた写真の出来栄えをしっかりと確かめて、「初めて誰かと一緒に来た記念に」と言った。
初めて誰かと一緒に来た――ああ、記念の写真を取り忘れたなと後悔した。
人が多いせいでやけに狭く感じる店内の通路を抜け、外に出る。二人は制服を着ていて、今は放課後だというのに、外はまだ明るくて、太陽の位置は南と西の中間といったあたりだ。昼食直後の時間に比べれば幾らか落ち着いているものの、それでも店の前はいまだにに賑わっていた。
「それじゃあ」店から少し離れたところまで歩くと、佐藤は後生大事にスマートフォンを胸に抱えて、物憂げに顔を伏せた。「今日はありがとう、急に誘ってしまって迷惑だったかもしれないけれど、楽しかったよ」
その言葉を聞いて思った。彼女は物憂げというより、自身がなさげだった。
やはり、そんな彼女にはよく見おぼえがあった。この後彼女は、家に帰って夕飯を食べた後、お風呂に入って、ベッドにうつぶせながらこんなことを考えるのだ。
彼女は楽しんでくれただろうか。また一緒に遊びたいと思ってくれただろうか。あの時の会話はつまらないと思われなかっただろうか。質問するために綴った言葉は適切なものだっただろうか。そして最後に、こう考えるのだ。彼女は私を好いてくれただろうか。
二人は軽く手を振りあった。佐藤はしばらくの間手を振っていたようだったが、山田はすぐに手を下ろして視線をスマートフォンに向けた。画面には「今日は楽しかった」と一言だけが目の前の相手に向けて送信されている。
「また明日、ね」
山田がつぶやくと、佐藤は驚いた顔をした。
楽しかった。また一緒に放課後は遊びに出かけたいと思った。彼女との他愛ない会話は間違いなく十年先でも覚えているだろう。細かいことなどどうだっていい――自分の日常を肯定してもらえたことがうれしかった。そして最後に、こう思った。そういえば、自分の家にも同じクーポン券のついたチラシが届いていたな、と。
そうして二人は別れた。一人は先に自宅があるのだろう方角に消えていって、もう一人はその後を追いかける勇気がなくて、なんとなく近くのアイスクリーム屋に立ち寄った。
君を見て 咲良幸汰 @haikakinsya
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