第9話 浩平の思惑
これ以上、由紀子を追求しても、得られる答えは混乱した中からしか出てこないと考えた恭一は、話題を変えることにした。
由紀子は、加奈子の弟の浩平を知っていると言っていた。どういうことで意気投合したのだろうか?
「由紀子ちゃんは、浩平君と意気投合しているみたいだけど、どんなお話をしたんだい?」
と恭一に訊かれて、
「浩平君はね。見ていると、いつも悩みを持っているように思えてきたのよ。私はいつもお姉ちゃんがいてくれて、お姉ちゃんが私の悩みをよく聞いてくれていたんだけど、やっぱり血の繋がった本当の姉妹だから、分かることってあると思うのよね。でも、浩平君の場合は、お姉ちゃんと血の繋がりもないし、年齢も離れているので、姉弟と言っても、イメージがわかないみたいなのよ。浩平君の方ではお姉ちゃんを慕っているつもりらしいんだけど、お姉ちゃんがだんだん大人になるにつれて、お姉ちゃんがお姉ちゃんではなくなっていくのを感じたんだって。それを聞いていると、自分のことのようで可哀そうに感じられたのね。私は血の繋がった姉妹だけど、でも、今はお姉ちゃんはすでに死んでしまって、同じ土俵にいないわけで、何よりお、二度と会うことはできない関係。浩平の気持ちは、私だから分かってあげられるという気持ちになったのも大きいカモ知れないわ」
と由紀子は言った。
恭一は、加奈子の絵画に対しての話を思い出していた。
「絵を描くということは、目の前にあることを充実に真似るわけではなくて、大胆に省略できるところを見つけることができるかどうかなんだと思う」
と言っていた。
――彼女の、庄らyくできる部分というのは何なんだろう?
とさっき考えていたのだが、それが今では、
「弟の浩平なんじゃないか?」
と感じるようになった。
何かを省略すると言った時の加奈子の表情には、何か遠くを見ているような表情があり、その中にはどこか恍惚の表情にも見えたのだ。
遠くを見つめる表情には不思議なものはなかったが、恍惚な顔には、それがどこから来ているのか、実に興味深かった。それが弟の浩平を見ているのであって。見つめた先の浩平が、加奈子と同じ高さの視線だったことから、
「成長した姿を想像していたんだろうか?」
と感じた。
やはり、加奈子の一番のネックになっているのは、血の繋がりではなく、年の差なのではないかと、加奈子に対して感じた。
では、浩平はどうだろう?
そのあたりは、由紀子の方が分かっているかも知れない。
「その二人の兄弟なんでけどね。弟の浩平から見て、姉の加奈子さんをどう感じているんだろうね?」
「どういうこと?」
「もし、姉弟として違和感を持っているのだとすれば、それは血の繋がりがないことに対してなのか、それとも、年齢の差に対してなのか。もちろん、どちらもなんだろうけど、違和感を持つとすれば、どちらか強い方だと思うんだよ。浩平君はどっちなのかと思ってね」
と恭一は由紀子に聞いてみた。
「私が感じた気持ちだけど、年の差なんじゃないかって思う。血の繋がりなんて、どちらかというと本能的なことでしょう? でも年齢的なことはどうしようもないことであって、それは私が一番身に染みて分かっているつもり。だから、私が浩平を気になったのも、そのあたりにあるのかも知れないし、浩平が私を気にしてくれたのも、私の中に、同じ匂いを感じたからなのかも知れないわ」
というではないか。
――やはり、由紀子も二人の間の年の差を意識していたんだ――
と思うと、同じ考えが頭にあることで嬉しい気持ちになった恭一だった。
それから、この疑問によるものなのかどうか、一つの事件が勃発した。
それは、その日から、翌日に代わる前後くらいに思ったことで、バーによっての帰りに、恭一、由紀子、そして加奈子、浩平のそれぞれの変則義兄弟とは別に、宿泊していた唯一のカップルである立花夫妻が深夜十二時までやっているバーで飲んでの帰りのことだった。
ペンションの宿泊室はすべてが二階にあり、一階にはロビーやバー、食堂があった。つぃまりバーから宿泊室に戻るには階段を利用することになり、階段を上がって一番奥の部屋が、夫婦の部屋となっていた。
部屋に赴くために、腕を組んで階段の手すりを持つ形で二階に上がっていった夫婦だったが、途中で旦那が急に歩を止めて、身体を固くしたのに、奥さんはビックリして、何が起こったのか分からないまま、
「どうしたの?」
と訊いた、
「あ、あれ」
と言って、旦那が腕を組んだ手を離したので、奥さんは階段を二段ほど上がって旦那の視線の先を見ると、そこに向こうを向く形で俯せに倒れている一人の少年の姿を発見したのだ。
「きゃあ」
という声が静かなペンションにこだました。
その声を聴いて最初に飛び出してきたのが、恭一だった。
「どうしたんですか?」
と、最初に声の主の奥さんの方を見て、反射的に叫んだ。
すると奥さんは震える指を突き出して、目の前の廊下に横たわる少年を差したのだ。恭一もそれに気づき、足元を見る。すると、そこに倒れている少年にやって気付いたのだ。
「浩平君」
まさにそこに倒れているのは、疑いようもない、浩平ではないか。
由紀子が、おそるおそる扉の手前から覗き込んでいたが、身体が震えて動くことができない。無理もない話ではあった。ここずっと、姉と恭一が交通事故に遭ったり、恭一の自殺未遂があったりと、不幸なことが多かった由紀子には、衝撃的だったはずだ。しかも、恭一を探すために、一緒になって協力し合おうと話をした相手だけに、ただの他人というわけでもなかった相手である。
二人が精神的にきついと思っているその時、やっと、表の状況に気付いたのか、恭平の部屋の正面から、加奈子が飛び出してきた。
加奈子はすぐに足元を見た。最初から視線が足元にあるのは、女性としては珍しいことではないので、開けた瞬間に、足元に転がっている少年を見て、弟だと認識したに違いない。
加奈子は先の二人が発見した時のような大げさなリアクションはなく、最初に旦那が発見した時のような身体が硬直状態になって、その場を動くことができなかった。
騒ぎを聞きつけたペンションの管理人夫婦が急いで上がってくると。
「落ち着いてください」
と言って、まず旦那さんが幕を見たようだ。
「大丈夫、脈はあります。どうやら頭を殴られて気絶しているようですね。急いで救急車を」
と、奥さんがすぐに一一九番したようだった。
その後すぐに警察にも連絡を入れ、警察もすぐにやってくるということであった。
さすがに、管理人は落ち着いていた。どうやら、以前にも人が殴られた事件があったようで、その時も今回のように助かったということだったが、その時の経験からか、慌てずに今回は処置できたようだ、
「皆さん、とりあえず、現場にはなるべく触らずに、下のロビーに集合していましょう」
と言って、皆がしたのロビーに集合していた。
そのうちに救急車がやってきて、姉の加奈子が付き添って病院に向かったが、他の人たちは、ロビーに集合した。とりあえず命に別条がなければそれに越したことはないのだが、さすがに、誰の顔にも緊張が走っていて、しかも被害者がまだ中学生の少年であるということが、一番の衝撃だった。
つい最近、自殺未遂を心似た恭一の顔色は真っ青だった。まだ、記憶がすべて回復していないという後遺症のようなものを抱えているだけに、人が負傷している姿を見るというのは、かなりのショックだったに違いない。
「皆さん、お茶でも飲んでくつろいでください」
と管理人さんがお茶を入れてくれたが、さすがにくつろいでくださいと言われて、
「はい、そうですか」
ともいかず、貰ったお茶を口にするのも、反射的な行動でしかなかった。
救急車にけが人を運び、出発してからすぐ、警察の人が数人入ってきた。
「すみませんが、皆さん捜査にご協力ください」
ということで、事情聴取が行われた。
最初は全体像をつかみたいということが、全員への聴取となったのだが、とりあえず、全体の話としては、前述の状況以外には新たな話が出てくることはなかった。
「じゃあ、個別でお願いしましょうか。それではまず、立花健一郎さんからお願いしましょう。他の方は、申し訳ありませんが、こちらで控えていてください」
と言われ、まずは立花さんの旦那さんが、目下の捜査本部ともいうべき、バーに呼ばれた。
立花夫妻の取り調べは、さほど時間が経っていたわけではない気がした、それぞれに数十分程度のものに感じられた。それが長いのか短いのか、微妙な気もしていた。
次に呼ばれたのは、恭一だった。
「坂出恭一さん。三十七歳。あなたは、かつて交通事故に遭い、婚約者を失ったり、自殺未遂を起こしたりして、実は今も捜索願が出されているようですが、違いますでしょうか?」
と訊かれて、さすがに恐縮しているのか、顔色は青かった。
「ええ、その通りです、最初の事故は本当に不幸な事故だったと思いますが、自殺未遂にしても、失踪してしまったことも、迷惑をおかけした方に対しては申し訳ないことをしたと思っています」
「あなたの立場的にはお気の毒な印象を深く感じますが、私どもは今回の殺人未遂事件の捜査ですので、そのおつもりでお付き合いください。さっそくですが、あなたは被害者が倒れているのを見て、すぐにそれが被害者であると分かりましたか?」
と聞かれ、
「ええ、少年であることは俯せでしたけど分かりました。宿泊者で少年といえば、柏木浩平君しかいませんからね」
「ということは、被害者が浩平君であるということに最初に気付いたのは、坂出さんだったわけですね?」
「あっ、いえ、最初に被害者が倒れているのに気付いたのは、立花さんたち夫婦だったんです。私は奥さんの悲鳴を聞いて、扉を開けた時、初めてそこに死体があるのに気付いたんですよ」
と答えた。
「私が言っているのは、被害者が誰なのかということなんですが、事情から考えるとあなただということになるんですよ。なぜかというと、二階の廊下に被害者は俯せに倒れていた。それを階下から上がってくる途中で、夫婦が見つけたんですよね。つまり目線は二階の廊下の平行線場だったわけです。つまりは、負債が見えたのは、足の先から胴体に掛けてだったので、被害者の顔も見えなかったはずあにですよ」
というと、
「でも、服装だったり雰囲気で分かるかも知れませんよね?」
と答えると、
「なるほど、そうかも知れません。ただ、立花夫妻は二人とも分からなかったと答えているので、やはり最初に気付いたのはあなただということになるんですよ」
「そういうことなら、分かりました」
恭一はそう答えたが、なぜ、最初に被害者を認識したのが誰だということにこだわるのか分からなかった。
「立花夫妻のお話だったんですが、一つ気になることを言われていたんです。それは、恭一さんが最初に飛び出してきた時、すぐに目の前の死体を気にすることなく、階段の方を振り向いたのかということをですね。そして、足元を指摘すると、その時初めて恭一さんが被害者に気づかれたというんですよ。どうにも違和感があるとおっしゃっていましたがその件に関してはいかがでしょう?」
「私が扉を開けたのは、女性の悲鳴が聞こえたからだったんですが、それが階段の方から聞こえた気がしたので、扉を開けて、咄嗟に階段の方を見たんですが、それが何かおかしいですか?」
と、まだ刑事が何をいいたいのか分からなかった。
「普通なら足元に何か転がっていれば、そちらを見るものではないかと思うんですが、違うでしょうか?」
「普通の人ならそうかも知れませんが、私はまだ自殺未遂の後遺症が少しは残っているので、咄嗟のことであれば、そういうこともあるかも知れません。そのあたりの詳しいことでしたら、K大病院の岡崎教授に聞いていただければいいのではないかと思います。岡崎教授が私が自殺未遂とした時の主治医でしたから」
というと、刑事は手帳にそのことを書きこんでいるようだった。
「分かりました。岡崎教授には後ほど、連絡を取ってみます」
と言って、ちょっと間があったが、また刑事の質問があった。
「あなたは、すぐにそれが少年であると分かったようですが、顔は見えたんですか?」
「いいえ、扉というのが、ちょうど階段の方に向かって出ていくような作りになっていますので、立花夫妻の様子は一目稜線で分かったんですが、足元に倒れている浩平君の姿は、下半身くらいまでしか見えませんでした」
「なるほど、分かりました。今のところはそのあたりでいいでしょう。では次に綾羅木由紀子さんを呼んできていただいてよろしいでしょうか?」
「ええ、分かりました」
と言って、恭一は解放された。
次に由紀子が事情聴取を受けることになったのだが、由紀子の方はさすがに女性ということもあり、精神的にもショックが大きいようだった。刑事の前に現れた時は、かなりの憔悴感があるようで、視線も定かではないように見えたので、刑事の方としても、あまり重要な話は聞けないことは覚悟していたようだった。
「綾羅木由紀子さんですね ご足労いただき、恐縮です。さっそくですが、この宿に来るまでに、被害者である浩平少年とは顔見知りだったようですね?」
と訊かれて、
「ええ、私は行方不明になっている恭一さんを探しにペンションを巡っていたんですが、その途中で知り合ったのが、浩平君でした。浩平君の方もお姉さんを探しているということだったので、お互いに同じ目的だということで、連絡先を交換して、情報を訊き合っていたりしたんです。でも、浩平君が恭一さんがここにいるのを教えてくれたんです。でもまさかそこに浩平君が探していたお姉さんまでいるなどという偶然までは想像もつきませんでしたけどね」
と、由紀子は答えた。
「じゃあ、先に浩平君が、二人を見つけたということですね?」
「ええ、浩平君の情報で、私もここに来ました」
「浩平君と、あなたは、仲が良かったんですね?」
「ええ、私と浩平君には、共通点があると思ったんです。その共通点が、血の繋がっていない兄弟を探しているという共通点ですね。血の繋がりのない兄弟というのが、相手が異性だとすれば、きっとどちらかは、血の繋がりがないということの本当の意味に気付いて、それで悩むことになると思うんですよ、しかも、その思いは相手にも伝わるようで、その伝わった思いが相手を苦しめるということに、私も浩平君も分かっているんです。浩平君のような中学生が分かっているというのはすごいと思いましたが、でも相手を追い詰めているかも知れないと思いながらも、苦しんでいる相手が自分の苗から姿を消したら、相手の気持ちを本当なら思い図って、探さないようにするのが、本当なのかも知れないんですが、どうしてもそうはいかないんです。それはきっと、今まで血の繋がりはなくとも、相手を兄弟だと思っていた自分がいるのと、言づいてしまったことで相手を追い求める自分がいることで、どうしようもないジレンマが襲ってくるんですよ。だから、いても経ってもいられなくなって、相手を求めて行動してしまう。私と浩平君が知り合ったのも、恭一さんと浩平君のお姉ちゃんが同じペンションにいたというのも、私の中では偶然ではあるけど、それだけでは説明できない何かがあるとすら考えているくらいなんです」
と説明した。
「なるほど、由紀子さんの考え方はよくわかりました。恭一さんは、やはりあなたにとってはかけがえのない人なんですね? だからこそ、追いかけてしまう。その気持ちはきっと浩平君も同じではないかとお思いなんでしょうね。分かりました。貴重なご意見、ありがとうございます」
と刑事は答えた。
由紀子は、他にも、二、三の質問を受けたが、形式的な質問であり、別に大きな問題とも思えなかった。
ただ、由紀子は刑事の質問に何か、挑戦的なものがあることに気づいたが、それが自分に対してのものではないと、直感した。最初はホッとしたのだが、次の瞬間、言い知れぬ不安が襲ってきた。
――ということは、刑事が疑っているのは、私ということではなく、恭一さんということになるのかしら?
と思えたからだ。
なぜ刑事が恭一のことを疑うのか分からなかったが、恭一は自殺未遂の経験があり、しかも失踪中である。自殺未遂の時の後遺症も残っている。それを考えると、どうもそのあたりを刑事は不審に思っているのかも知れない。
由紀子は、さっきの自分の話が恭一を追い詰めることになりはしないか怖かった。少なくとも次に何か聞かれた時は、恭一のことを考えながら話さなければいけないと思うのだった。
その日はとりあえず、そこまでの話で終わった。もっとも最後に、管理人負債の話も聞かれたが、そこではこれと言った話もなかったのである。その間に届いた情報によると、
「浩平少年の命には別条ないが、安静を必要とするので、少しの間は集中治療室で精密検査を行うということ、そして、その間の付き添いは加奈子が行うということで、翌日、加奈子には事情聴取を行うが、浩平少年の事情聴取は、医者の許可が出るまでは難しいだろう。できるとしても、まだ数日は無理だろう」
ということであった。
警察の印象としては、
「どうも、怪しいとすれば、坂出恭一の行動が私は気になるかな?」
と山田刑事が言った。
それを聞いていた坂口警部補は、
「俺は、綾羅木由紀子の方が怪しい気がするんだ。動機という点で考えると、由紀子の方が強い気がするんだよな」
というと、
「動機という点でいくと、坂出も怪しいですよ。もし、坂出が加奈子を気になっていたとすれば、弟が現れて、浩平から姉の何か諦めざるおえないような話を訊かされたとすると、そのことに対してのジレンマから、浩平を殺そうとするかも知れないじゃないですか」
と山田刑事は言った。
「だけどな、坂出には、婚約者を交通事故で亡くしていて、さらに自殺歴、そして今回の失踪事件と、いろいろなことを引き起こしているんだ。何か彼の中で鬱積したものがあったとして、いまさら、殺人を犯すようなことをするだろうか? そちらの方が不自然な気がするんだ」
というのが坂口警部補の意見であった。
「じゃあ、由紀子が怪しいという根拠は?」
「由紀子には、坂出に対する女としての意識があった。加奈子に嫉妬したという気持ちが一番一般的なのかも知れないが、そうであれば、浩平が殺されかけたのは、辻褄が合わない。だが、由紀子が浩平の気持ちを操作する形で、姉を説得しようと心居たとすれば、浩平は由紀子に操られたということになる。浩平のような少年が、慕っている姉以外の女性のために、いくら姉のためとはいえ、操られたと感じたとすれば、由紀子に対して憎悪の気持ちを持ったとしておかしくないよね。その気持ちをお互いにぶつけ合った時、それぞれに最初は言葉だけ罵りだったものが、次第に相手を攻撃する気持ちになってきたとすると、そこに殺意が芽生えたとしても無理もない。いや、殺意まであったのかどうかは難しいところで、衝動的な行動だったのかも知れないよね」
と坂口警部補は言った。
「じゃあ、あの場面で倒れていたというのは、どういうことでしょうか?」
と山田刑事は言った。
なぜあの場所で被害者が倒れていたのか、それは正直、被害者の意識がハッキリして、供述を取ってみないと何とも言えない。ただの想像でしかないことをあれこれ言ってみても仕方がないが、そもそも今ここで二人の捜査員が話をしていることも、まったくの想像に過ぎないレベルの推理でしかなかった。
「それが、今のところ一番の謎なのだと思うんだけど、供述の中で分かったこととしては、倒れこんでいる被害者より前に最後に見たのは、どうやら、綾羅木由紀子ということになるんだろうね。由紀子は午後十時頃、お風呂に入ってから、戻ってきたところで、ロビーの自動販売機のところにいる浩平を見ている。その時に何かを話したというが、その話はお互いに遭いたいと思って探していた相手に出会えてよかったという話だったらしい。ただ、由紀子の中で、その時に浩平が何となく複雑な表情になったということを言っていたけど、それは後から考えてから思ったことかも知れないと言っているくらいなので、どこまでが本当の意識なのか、由紀子にも分かっていないのかも知れないんだ」
と坂口刑事は言った。
この供述は、皆の話を総合して解釈した時に出てきたのであって、まだ最後の一人である加奈子と、実際の被害者の浩平の供述が取れていない段階なので、あくまでも、今の時点でというだけのことであった。
それともう一つ分かったこととしては、恭一の供述の中にあった岡崎教授に連絡が取れ、彼が言っていた供述を話すと、
「まさに彼の言う通りです」
という答えが返ってきた。
これで、恭一の証言には信憑性があることが証明されたと言ってもいいだろう。
翌日、病院に赴いた山田刑事と坂口警部補は、
「一応集中治療室での安静状態ですが、数日後には事情聴取はできるようになります」
という話を主治医から聴くことができた。
それを聞いた加奈子が、安心しているということは、主治医からも聞かされていた。
「柏木金夫さんですね?」
と、山田刑事が声を掛けた。
「はい、そうです。私が柏木加奈子です」
と答えた。
「さっそくですが、いろいろお話をお聞かせください。加奈子さんは、被害者である弟の浩平君とは血の繋がりがないと伺いましたが、本当でしょうか?」
と聞かれ、別に動揺する様子もなく、
「ええ、その通りです。弟は連れ子だったので、血の繋がりはありません。しかも年も離れているので、弟というよりも、甥っ子のような気持ちが最初は強かったんですよ。だから、弟がまだ小さい頃、私も小学生だったんだけど、子守りのようなこともしていましたね。本当に可愛かったんですが、私も高校を卒業して大学生になると、弟も中学生になり、思春期を迎えたんです。私は思春期に異性を好きになったり、意識したりすることはあまりなかったんですが、結構告白なんかもされたりしていたんです。そのたびに興味がないと言って断ってきたんですが、そのせいもあって、高校時代には、同性からも異性からも嫌われていました。だから、自分の味方は弟しかいないんじゃないかと思うようになってしまったんです。それで私は弟を慕うような目をしてしまったのが災いしたのか、浩平は私のことを女として見るようになったんじゃないかと思うんです。血がつながっていないということを私も浩平も知っていますから、浩平にとって障害は何もないと思っていたのでしょうが、私が浩平のそんな気持ちに違和感を持ったんです。それで義姉弟の間がとたんにぎこちなくなってしまって、私は弟から距離を置くようになりました。でも、弟はそんな私の気持ちを知ってか知らずか、私が離れていくのを余計にたまらない気持ちになったようで、どんどん接近しようとしてくるんです。やはり、今が思春期の真っ只中とでもいえばいいのか、私は、彼の前からしばらく隠れていることに決めたんです」
と、加奈子は話した。
「それで旅行に出られたんですね?」
「ええ、そうです。ちょうど大学に入ってから始めた油絵を、いつか書く旅に出たいと思っていましたので、絵の道具を手に持って、旅行に出かけようと思ったんです。ペンションを渡り歩いて、描きたい景色を見つけたら、しばらくそこに逗留するつもりでした。ちょうどここのペンションが私は気に入ったのもあって、ペンションのまわりをいろいろ散策していると、絶好の写生スポットを見つけました。それでしばらく逗留することにしたんです」
と加奈子は言った。
「ここに辿り着くまでにも、いろいろ回られたんですか?」
「ええ、何か所かいたことがありました。それなりに絵を描きたいと思う場所もあったので、そこでも数日、絵を描いて過ごしました。でも、ここで感じた感動ほどではなく、今までは旅の途中というだけでしかありませんでした」
「じゃあ、ここには、今までに感じたことのない何かを見つけられたんですか?」
という山田刑事の質問に、加奈子は少し苦笑いをしながら、
「見つけたというんでしょうか? 見なくてもいいものがあることを見つけたとでもいいましょうか」
といい、
「何か禅問答のようですね?」
という山田刑事も苦笑いをするしかない返事をさせてしまったのだ。
これは、前述の恭一との会話をご存じの読者諸君であれば分かってくれることなのかも知れないが、
「絵を描くというのは、目の前のものを充実に描くだけではなく、笑楽できるところは大胆に省略するものだ」
と言っていたことを示しているのだった。
さすがに刑事にそんな話をしても分かってくれるはずもなく、しょせんは、事件に関係のあること以外は、聞き飛ばすという加奈子とは逆の発想を持っているので、刑事たちとは平行線でしかないと思ったのだ。
刑事の場合は情報を集める時に、最初から取捨選択をするが、加奈子のように絵描きというのは、すべての情報を与えられ、その中から必要のないものを省いていくという意味での減算法である。刑事たちのように、
「推理を組み立てる」
という加算法ではないのだ。
それを思うと、なかなか自分と同じ考えを分かってくれる人というのは少ないのだと感じる加奈子だった。
さすがに加奈子の言いたいことが刑事に分かるはずもなく、何か不思議な言い回しだということを感じながらも二人は、そこで話をスルーした。
「弟さんが訪ねてきた時は、どう感じました?」
と、今度は坂口警部補が訊いた。
「それは、ビックリしましたね。そこまで私のことを思ってくれていたのかという意味でですね」
「じゃあ、嬉しかったと判断すればいいんですか?」
「ええ、正直、素直な気持ちで嬉しかったと思いました。嬉しくもあり、何か複雑な気持ちもありです」
と加奈子がいうと、
「複雑というのは、嬉しさとは反対と意味だと解釈すればよろしいのでしょうか?」
と挑戦的な言い方をした坂口警部補だった。
「ええ、それで結構だと思います。でも私の中で、それが果たして言葉にできることなのかという考えが浮かびましたので、複雑だという表現をさせていただきました。だから、複雑というのは、本当に複雑という意味で、曖昧な感覚でもあるということだとお考え下さい」
と、加奈子は少し悲しそうな表情をしながら話した。
「浩平君は家ではどういう感じなんですか? いつもお姉ちゃんに甘えている感じなんですか?」
と、今度は山田刑事が訊ねた。
「ええ、そうですね。普段は甘えてきます。でも、私が大学生になって弟が中学生になってから少し違ってきたような気がします」
「それは弟が中学生という思春期を迎えたからということでですか?」
と山田刑事が聞くと、
「そうじゃありません。私が大学生になったからだと思います。もっと厳密にいえば、私が絵を描くようになったからと言った方がいいかも知れませんね」
「絵を描くようになって? それはまたどういう感覚なんでしょう?」
という山田刑事に対して、
「私が大学に入学してからというのも、別に弟は様子が変わった感じがしませんでした。弟が中学生になってから、思春期を迎えた時期は、私から見れば分かっている気がしました。でも、弟が私を見る目を変えたのは、思春期に入ってすぐではなく、私が絵を描き始めてから少ししてのことなんです。あれは、一度弟が、私に絵のモデルになってあげようかと言ってきたので、お願いしたんですけども、その絵が完成したのを見てから、弟の感情が変わったかのように思えてきたんですよ」
と、加奈子は言った。
「浩平君が自分から言い出して、弟をモデルにして絵を描いたんですね? その絵は完成したんですか?」
「ええ、完成して、弟にあげました。弟は喜んでくれたんですけど、ある日のこと、弟の部屋に入ってから、ビックルしたんですが、私が描いた弟の顔に、バツを書いたようにナイフのようなもので切られていたんです。もちろん、弟がやったんでしょうが、それを見て私は怖くなりました。弟と距離を持たなければいけないという気持ちが真剣身を帯びてきたのが、この時だったんですよ」
というではないか。
「お互いに、何かすれ違いのようなものがあったんでしょうかね?」
という山田刑事に、
「分かりません、ただ、私はその切り刻まれているその絵を見た時、怖くはなりましたが、逆の意味で、絵に対して挑戦的な気持ちになったのも事実なんです。だから弟の前から姿を消すという目的だけではなく、絵を描きたいという思いから、今回のペンション巡りを始めたんですよ」
と加奈子は答えた。
「それで、ここで坂出さんとお知り合いになられたわけですね?」
「ええ、そうです。あの方はもうお話をお聞き化と存じますが、今までにいろいろな経験をされて、苦しんでこられた。記憶の欠落もあったりして、しかも、境遇のようなものが私に似ているところがあったものですから、お互いに他人に思えなくなって、いろいろ相談に乗ったり、乗ってもらったりしていたわけです」
加奈子はそういうと、ふっと溜息をついていた。
加奈子が何を言いたいのかまではさすがに刑事たちには分からなかったが、絵を描くことに感じて、人並みならぬ意識を、加奈子が持っているということは分かった気がした。
「絵というものと、省略というものの間にあるものが、今回の事件に関係しているんだろうか?」
と、漠然と考えている山田刑事だった。
次の日、被害者のものが恭一の荷物から見つかった。このことが今後の事件捜査に大きな影響を与えることになった。
見つかったものは、被害者が身に着けているもので、恭一の荷物の中から見つかったという。
しかも、それは恭一が自ら差し出したもので、少し厳しい取り調べを行うと、犯行を白状したという。
「はい、私がやりました」
「動機は?」
「加奈子さんのことが気になってしまい、加奈子さんのモノなら何でもいいと思って、筆を盗んだんですが、それがどうやら恭一君のものだったようで、それを指摘されて、、加奈子さんにバレるのが怖かったので、思わず殴ってしまいました」
と言った、
だが、それから二日後、回復した浩平から証言が訊けた。
「ええ、僕の筆をあの人が持って行ったので、脅してやったんですよ。すると、あの人は姉に言われるのが怖いと言って土下座するんですよね。みっともないったらありやしない。だから、あの人が僕を後ろから襲うということはできないと思うんです。僕が死んでしまったら、何もかもおしまいだって言ってましたからね」
と言っていた。
犯人は自分が犯人だといい、被害者は、犯人と思しき相手をかばっているかのようだった。
恭一は、荷物を盗んだのは由紀子だと思った。由紀子であれば、浩平に命じて、加奈子の持ち物を持ち出せるからだ。だが、その時、由紀子が浩平から、加奈子への恭一の脅迫を知ったのだ。もちろん、脅迫などはなかった。しかし問題なのは由紀子がそれを信じてしまったことだ。由紀子に疑われたというよりも、信じてもらえないと言った方が一番適格な話で、辛いことでもあった。
そのことが、さらに由紀子に追い打ちをかける。浩平が由紀子を脅迫してきたのだ。だから、排除のために、由紀子が浩平を殺そうとしたのだと思い、その罪を被ろうとしたのではないかという推理もあった。
だが、もう一つの推理として、そのヒントになったのが、加奈子の言っていた。
「大胆な省略」
という画家としての考え方であった。
加奈子は絶えず、弟の存在を疎ましく思っていて、いつかは排除したいと思っていた。ちょうどそんな時に知り合ったのが、恭一で、恭一に罪をかぶせることで、浩平を大胆に省略しようとしたのではないかという考えだ。
「一種の粛清のようなもの」
と言ってもいいだろう。
どちらにしても。誰が犯人にしても、恭一は犯人ではない。それは浩平が気が付いてからの証言が物語っている。
浩平は目が覚めてからの意識が曖昧だった。まるで一部の記憶がなかったようにである。
「一部の記憶が欠落した患者?」
浩平の後遺症を考慮した最初に運び込まれた病院の医者が先輩であり尊敬している先生に彼を預けることにした。
「K大学の教授。岡崎教授」
である。
それからしばらくして犯人が捕まった。加奈子であった――。
「加奈子は由紀子であり、恭一が浩平のようなものだと言ってもいいのかな?」
とそんな言葉が、山田刑事から聞こえてくるかのようだった……。
( 完 )
血の繋がりのない義姉弟と義兄妹 森本 晃次 @kakku
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