第9話 コインランドリーの十年後
マナの長い話が終わった。
「大人になったマサシと二人でここにいた日、あの日も雨だったな」
「うん。よく覚えている。早川アオイさんが傘を差していたから、下から潜り込むように近づいたんだ」
マナは大人になったマサシの恋人を殺した。マサシに恋人殺しの罪をなすりつけ、警察に逮捕させるために。でも、それは上手くいかず、お互いに警察に訴えられないマサシとマナの戦いは、腕力によってマサシに軍配が上がった。
「整理すると、マナが経験した小学六年生では、放火はマナの単独犯で、僕とマナ、そしてマサシが生き残った。そして、現在、マナの行動によって過去は変わり、マサシはあの火事の日に死んだ」
「そう。スマートフォンからもメッセージの履歴が消えている。最初から竹下マサシという人間はいなかったみたいに。代わりにやり取りしていたのが、竹下ヒロ君」
マナはスマートフォンを振ってみせた。そこには、竹下ヒロ、つまり僕からの、会いませんか、という内容のメッセージが表示されている。
「私も聞きたいんだけど、ヒロ君の記憶ではどうなっているの? 過去が変わったとしたら、あの火事で起こったことも私の記憶とは違うかもしれない」
「僕の記憶では、マナと僕は共闘した。マナは灯油を持っていたから、マサシとミナコ、タイキ、それとコウヘイの四人を二人で殺し、マサシの部屋が火元に見えるように細工をして火を放った。引火しやすいように施設内の各所に油を仕込んでいたから、燃え広がるのは早かったよ。と言っても、僕とマナは裏山で証拠を隠したり、納屋の中で寝ていたりしたから、よく見ていないんだけどね。結局、僕たち以外全員、合計二十一人が焼け死んだ」
「火元の細工か。なるほどね。それは私一人のときには考えてなかったなあ。コウヘイ君も殺すことになったのは、仕方ない判断だったと思う。そのバックアップデータの存在を予測できなくて大変な目に遭ったから」
苦笑しながら言うマナは、マナというより桜坂さんだった。いや、同一人物なのだけれど、僕にとってはそう見える。その一方で、所々にマナの面影が見えて、ああ、本当にマナなのだ、と感慨を得た。
そんな声、そんな喋り方だったんだな。本当は、五十音全て喋れるようになったとき、僕も立ち合いたかった。
「ごめんね。同室の子を殺すことにさせてしまって」
「マナの同室は小野サヨっていったっけ。同室といっても、僕とコウヘイの関係は違ったよ。恨みがあったわけじゃないけど、友情もなかった。ただ、許せない気持ちはあったかな」
僕は小野サヨについて顔も思い出せない。だが、マナの話を聞く限り、彼女もまた深い傷を負い、必死に生きていたようだった。
コウヘイだって、真面目に生きていた。でも、そういうことではないのだ。僕にとって大切な人は、僕のために動いてくれる人であり、上っ面でない厚意をくれる人。小野サヨの言葉を借りれば、僕は大事なものを迷わなかった。
マナは少し悲しそうな顔をした。同室への思い入れがあるのだろう。そこは僕たちの境遇が違うのだから仕方ない。せめて、小野サヨが元気でいることを祈らせてもらおう。
「火事の時僕が負ったという怪我は、そんなに酷かったのか」
「うん。視力も戻らないって話だったし、かなり目立つ火傷になっていたの。顔の右半分がただれて、眼球も白濁していた」
「それは、酷いな」
今の僕の視力は両目共に1.0と少し。華やぎ館ではゲーム機が少なくて目を酷使しなかったので、僕の視力はいい。
「売れ残るのも、仕方ない」
マナの記憶では、マナとマサシには里親がつき、僕は別の施設に行くことになったという。傷物は敬遠されるか安売りされる。当たり前のことだった。
「つまり、マナの記憶でマサシの里親となった竹下家に、顔が無事な僕を養子縁組させる。それが目的の一つだったというわけ、かな」
僕の名前は、宮城ヒロ改め、竹下ヒロ。
マナの話の中に出て来たマサシの新しい名字も竹下だった。
引き取り手が見つからなかった僕の為、マナはマサシの席を僕に与えた。マサシを殺すことで、火事の後、僕に身寄りを与えた。
「ヒロ君、心配なことがあるんだけど、聞いていい?」
「どうぞ」
「ヒロ君の里親は、いい人たち?」
僕は微笑んだ。
「もちろん。いい家に引き取られたよ」
マナの心配事はすぐに分かった。マナいわく、マサシが中途半端にやさぐれた理由が、里親の家庭環境にあるのではないかと考えたのだ。
それはないと断言できる。新しい父さんは尊敬できる人で、僕の話をちゃんと聞いてくれる。新しい母さんは優しい人で、いつも僕の心配をしては、過保護ではないかと父さんに諫められている。
父さんは金属加工の技術者で、産みの父さんと似た雰囲気の人だった。だからなのか、話や価値観が、すんなりと頭に入ってくる。僕は華やぎ館にいる間に考えていたいろいろなことを、最初の一年間で父さんにぶつけた。父さんの返事は結構ドライで、合理的で、一つ一つ僕の心に収まっていくようだった。
「僕は虐められていたけど、どうしてだろう」
と僕が聞くと、父さんは、
「虐めが無いコミュニティーの方が珍しい。古来、村八分に代表させるように虐めはあった。共通の敵を作ることで集団の結束を固める。よく取られて来た手法であり、古典的で時代遅れな方法だよ。それによって、理不尽に誰かが被害者になる。確率的にヒロがその対象になってしまったんだ。言ってしまえば運が悪かった。そして当然、虐めは虐める方が悪い。なぜ自分がこんな目に、だなんて考えるのは時間の無駄だからやめよう。恨み言を聞いてほしいならいくらでも聞く。でも、その後は必ず未来について考えるんだ。過去よりも将来にこだわった方が建設的だよ」
という具合に。そして僕は、建設的って何? と質問していく。
母さんはよく、「また難しい話をして」と苦笑しながら紅茶でも淹れて参加し、僕と父さんで結論を語って聞かせた。
僕には、産みの母さんの記憶がほとんどない。どうやって母親という存在に甘えればいいのか、今もよくわからない。でも、無理に甘える必要もないのだと、父さんは言った。
「助けが必要なときに、父さんと母さんはここにいる。それが大事なことだ。帰る場所があれば、どこへだって行ける。俺たちは子供の世話をしたくて、子供に面倒をかけてもらいたくて、ヒロを引き取った。それは俺たちの贅沢であり、ヒロが責任を感じて甘える必要なんてない」
華やぎ館は帰る場所ではなく、戦う場所だった。僕はその言葉を聞いて、おそらく初めて、二人の前で涙を流した。
僕はマナに向かって言う。
「最高の父さんと母さんだ。マサシのことは、あいつ自身に問題があったに違いないよ。もしかしたら、あいつも被害者なのかもしれない。産みの両親がもっと愛情深い家庭を築けていたなら、マサシが華やぎ館に来ることもなく、暴力的な性格にもならず、マナが経験した記憶の方でも、上手くやれていたのかもしれない」
今となっては確かめようがない。人間の性格なんて、些細な出来事で変わることもある。
「それにしても、テレポートだと思っていたら、タイムトラベルだったとは。そこの壁のカレンダー、マナが意図的に外して俺を呼んでいたんだろ」
「あ、ばれた?」
悪戯っぽく笑うマナに、ふん、と鼻で返事をする。
「そうそう、ここ、カレンダーが掛かっているんだけど、年月日を見られるとさすがにまずいと思ってね。暑さ寒さは、場所によって気温が違うから、で誤魔化せるけど、日付はね」
「しかも、僕の能力だと思って自惚れていたら、実はマナの能力で、毎回こっちの行動パターンに合わせて呼ばれていただけだったなんて、恥ずかしくて涙が出るね」
「結構大変だったよ。なんとかやり抜いたけど」
「本当のことを教えてくれてもよかったんじゃねえの」
「あの時点で話したものか、判断できなかったんだよね。そういう意味で、私が渡辺マナだってばれるようなヒントも与えたくなかった」
「ヒント? 何が」
少しわかりにくい。考えればわかりそうだが、答えが遠い。
「マサシやミナコちゃんから逃げられる確率、ちょっとずつ変わっていたよね。子犬の事件の前後で、私はよく捕まるようになったと思わなかった?」
「ああ、そうだったかも。それが?」
「私は子犬が死んでから一時的に、「接続」ができなくなってしまったの。だから捕まってしまう確率が上がってしまった。「接続」が私の能力だとわかったら、その辺のことから渡辺マナと同一人物で、未来の姿なんじゃないかって、悟られる気がしたんだよ。そしたら絶対ヒロ君の未来について聞かれるし、混乱させると思って隠していたの」
呆れた用心だ。悟れるわけがない。
「どんな思考をしたらその答えに辿り着けるっていうんだ」
「ヒロ君は頭がいいから、そんなこともあるかもなって」
「たかが小学生だぞ」
「常識を疑ってかかるような答えには、子供の方が簡単に辿り着けるかもしれないじゃない」
それは、まあ、そうだ。
笹木からマナの連絡先を聞いてから今日まで、延々考え続けた。未来に繋がっていたという仮説は早々に立ったが、それを信じることができないまま何日も何週間も唸ったものだった。
小学生の僕だったら、そういうこともあるよね、とあっさり受け入れられたかもしれない。
……それはさすがに小学生の僕を過大評価しているか。
「話はだいたいわかった。僕の推測が的外れだったことも理解した。でも、まだ納得できないことがある」
マナも心当たりがあるようで、穏やかな表情のまま、何でしょう、とほほ笑んだ。
「マサシは、なぜ死ななければならなかったのかってことだ。僕に身寄りを与えるためなら、火傷しないように、事前に華やぎ館から遠ざければよかった。竹下の家ではなかったかもしれないけど、他の里親が見つかる可能性だって大いにあったと思う。何しろ、ニュースに取り上げられて里親候補が名乗り出るくらいだったわけだから、もう一家庭くらいは出てきてもおかしくない。あのときの写真が問題になったなら、そのデータを削除するように仕向けてもよかったよな。忍び込んでデータを消すだけで済むのだから、殺すことに比べたらよっぽどハードルが低い作業だ。マサシを殺す必要があった理由は何だ」
僕の手には、コウヘイ、マサシ、ミナコ、そしてタイキの命を奪った感触が残っている。そのときの僕は正常ではなかった。実に冷静に、的確に、四人の生命活動を停止させた。今、同じことをやれと言われたら怖気づく。
当時のことに罪悪感があるわけではないので責めないけれど、何か違和感があった。マサシを必ず、確実に殺すように誘導された気がするのだ。たしかに十年後、マサシはマナの障害になる。だが、データさえ削除すれば回避できたこともたしかだ。
なのに、十年前の僕は写真のデータを削除しろと一言も言われていない。
「復讐させてあげたかった、じゃ、ダメ?」
「ちょっと弱いかな。マナらしくない気がする。僕は復讐したがっているように見えたかな」
マナはゆるゆると首を振った。
復讐したという満足感も理由にはなるけれど、なんとなくマナの話から感じる印象には似合わなかった。マナは基本的に逃避を選ぶ。戦うのは、どちらかといえば僕が選ぶやり方だ。マナが危険を冒すときは、合理的な、やむにやまれぬ理由があるときだと感じている。あの火事を起こした理由も、あれ以上耐えることができなかったからだ。
それに、復讐心なんてものを理由にする人間が、早川アオイを手にかけはしない。相手に罪や恨みがあるかどうか、そんなことはマナの殺意と関係ない。
「マサシは、確実に殺さないといけなかったの。復讐させてあげたかった、というのは嘘。本当は、後の憂いを失くすために殺したかった」
させたかったではなく、したかった。
僕ではなく、マナの都合ということか。
「マナが脅されて、沢山の酷いことをされたから、か? いや、それだと違うか。憂い?」
雲を掴むような気分だ。まだ情報が足りていない。
「竹下マサシが存在していたとき、ヒロ君はどうなっていたと思う?」
そのときようやく、大人になったマナの話の中で、彼女と同様に成長した僕が登場しなかったことに気付いた。
竹下マサシが存在していたとき。つまり、マナが過去を変える前の世界。僕は当然、竹下ヒロではない。里親がつかなかったなら、宮城ヒロとして生きていたと考えるのが自然だ。笹木も探したことだろう。
その僕は、マナに連絡を取ろうとしなかったのだろうか。マナも、笹木から僕の連絡先を入手して、また共同戦線を張ろうと思いつかなかったのだろうか。
僕は笹木からマナの連絡先を聞いた。竹下マサシも同様だった。この二つの世界で何が違ったんだ。
マナは姿勢よく座り直し、僕を真っすぐに見た。覚悟の顔。怯え、立ち向かう顔。
「私とマサシが再会したとき、ヒロ君は既に殺されていた」
◇
早川アオイの殺害についてマサシは証拠不十分で拘留を解かれ、私を襲った後、こう言い残した。
「ヒロは助けには来ないぞ。お前らにとって、あの写真は無視できない。それは実証済みなんだよ。どれだけ強がったって無駄だ。お前らはあれをばら撒かれることに耐えられない。ヒロは死んだ。あいつの中学に写真をばら撒いてやったら自殺したよ。何度殴っても生意気な顔していたあいつが、たかが印刷物数十枚で死にやがった」
その後ようやく動けるようになったとき、私はマサシの言葉の意味を理解し、公衆電話で黒草に繋いだ。幸い、今は手が空いていて、すぐに調べてくれるとのことだった。
一週間後、黒草が部屋に報告に来た。またも膨大な資料を持参し、ローテーブルに広げていく。
「宮城ヒロ君、火事があった当時十二歳の足取りから追いましょう。その後、児童相談所を経由して、県内の別の児童養護施設に引き取られました。中学校での成績は良好、というか、図抜けたものだったようです。学年でも常にトップ3に入る秀才。顔の傷と施設暮らしということもあり、学校ではかなり目立っていたみたいですね。しかし問題行動があったとは聞いていません。部活には入っていませんでしたが協調性もあり、友達もいたようです」
ここまで聞くと、普通の環境に行ったヒロ君という感じだ。彼は元々協調性も知性もあって、とても優秀な人なのだ。
「風向きが変わったのは中学二年の秋です。申し訳ありません、はっきり言いますが、その……桜坂さんと性交させられている写真が、無加工で学校中に貼られるという事件が起きました」
ひっ、と声が出た。
黒草は一度話を止め、こちらを窺う。私は胸に手を当て、爆発しそうな心臓を必死になだめた。
想像すると、そのまま卒倒しそうな光景だった。どれほどの規模の中学校なのかわからないが、少なくとも数百人、ヒロ君を知る人がそれを目撃したことになる。小学六年生と中学二年では、顔立ちだって大きく変わらない。同一人物だとわかっただろう。
「続けてください」
「はい。その写真は宮城ヒロ君の名前付きで、ほぼ全校生徒、全教師の目に触れました。あなたの名前は書いていなかったそうです」
「そうですか」
何の慰めにもならない。そこにいたヒロ君の気持ちを思うと、地面が揺らぐような不安が想像できる。
「人の口に戸は立てられず、貼られた紙も処分しきることはできませんでした。町中でヒロ君の噂は知られたみたいです。不幸なことに、聞き込みは簡単でした」
誰が、なんて聞くまでもない。
「マサシがやったのでしょうか」
「十中八九そうでしょう。データを管理していて、ヒロ君に対して接点がある人物は竹下マサシしかいません」
「どうして。どうしてそんな酷いことを」
私が零した言葉に、黒草は頷いて資料を捲っていく。
「ここからは推測になります。なぜ、このような行為を行ったのか」
私はなんとか力を入れて座り直した。そこまで調べてくれたのか。
「調べてみると、竹下マサシと宮城ヒロ君の中学校は近所でした。約三キロしか離れていません。当然、共通の知り合いがいくらかできたと考えられます」
なるほど。そもそも、私たちはお互いの居場所を知らなかった。そこから考える必要がある。
「そして、当時の竹下マサシの様子も調べてきました。あまり素行の良くないグループにいたようです。といっても、派手に罪を犯すような悪さではなく、教師に反抗したり、隠れて煙草を吸ったりといった程度の悪さですがね。しかし、学業の成績自体は悪くありませんでした。平均点は大きく上回っていたようです。ですが、どうやらその頃、親と大喧嘩したみたいなんですよね。学業を怠けているのが許せなかったようで」
「怠けていたのですか? 平均は超えていたのでしょう」
「養親の目にはそう映らなかったということです。もっとできるはずだと」
腕を組んで考えた。たしかに、マサシの小学校での成績はかなり良かった。中学校に上がっても、普通なら上位10%は堅いくらいの実力だったはずだ。それが、平均点と比べるような成績になった。
「たしかに、少し怠けているように感じてしまうかもしれません」
黒草は頷いた。
「親御さんもそう感じたのでしょう。もっと真剣に学業に励めと叱った結果、大喧嘩になったそうです。ご近所さんが話してくれました。予想ですが、彼にとって、勉強でつまずいたのは初めてだったのではないでしょうか。挫折し、そこから持ち直す方法を知らなかった。友達は不良。親とは喧嘩中。頼れる相手もいなかった。それでも勉強は先へ先へと進んでいく」
「そして、中学校の勉強に振り落とされた」
「そういうことでしょうね」
私は一度、小学校のうちに挫折を味わっている。失声症で質問できないから、わからない部分が放置されてしまった。ヒロ君や里親に教えてもらって、小学校卒業時にはなんとか追いつけた。勉強のやり方はそのとき身につけたような気がする。
マサシは大した努力も要さず、高い学力を維持できた。だからこそ、一度崩れた後、努力する方法を知らなかった。
「親御さんとの関係はそれを機に悪化していきます。さらに折り悪く、養子だということを学校でいじられたみたいですね。それを虐めと呼ぶのか、ネタにされたと呼ぶのか、現場にいなかった私にはわかりません。しかし、聞いた印象では、彼がそれを許容できるタイプでないことはわかります」
「ええ、そうでしょうね」
私やヒロ君を虐めて、学校や社会から向けられる目線のストレスを発散していたマサシは、裏返せば、人一倍周囲の目を気にしている人間だと言える。ただでさえ社会の偏見に晒される私たちだ。発散する相手がいない、あまつさえ、自分がからかいの対象にされていることは、耐えられなかったのだろう。
「そして、同じ施設出身の生徒が近くの中学校に通っていることを彼は知った」
「ヒロ君……」
なんて不幸な巡り合わせだ。竹下家の住所がもっと遠ければ、全く違う学区だったなら。
「あとはまあ、想像できますね。溜まったストレスを発散するために、昔から隠し持っていたデータを印刷し、ばら撒いた。それを目撃したときのヒロ君の様子を、見ていた人はこう言っていました。紙のような顔色で、学校の玄関で突然倒れた、と。……大丈夫ですか?」
「すいません」
涙が堪えられなかった。感情移入しても仕方ないというのに、溢れるものが止められない。
「もう少しなので続けますね。三日後、宮城ヒロ君は施設内で首を吊り、死亡している状態で発見されました。以上です」
私は何度も頷き、目を拭った。次から次へと涙が出る。ヒロ君は、本当に死んでいた。しかも、マサシに殺されたようなものだ。
報酬を払い、一人になった部屋で天井を見上げた。
マサシを殺していれば。
十年前、逃げる隙も与えず殺してから火を点ければ、ヒロ君は死なずに済んだ。秀才として、一目置かれながら普通の中学校生活を送ることができたはずなのだ。「接続」によって、過去の私の行動を変えることは難しい。そして、このままではマサシは生き延びてしまう。十年前の火事を止めたくはない。あのまま華やぎ館にいては心が死ぬ。華やぎ館を焼き、なおかつ、マサシの確実な死という要素を付与する必要がある。
私が関われるのは当時の、火事より前のヒロ君だけ。火事の後は居場所がわからないから「接続」で呼べない。ならば、ヒロ君にマサシを殺させるしかない。彼の手を汚すことになるが、このままでは中学生で死んでしまう。生かすために、殺させなければならない。
人殺しは私だけでよかったのに。こんなことになるなんて。
◇
「僕は中学で死んでいたのか」
「落ち着いているね」
「まあ、今は生きているから」
意外と驚きは小さかった。マサシは、僕のことを強くないと表現したらしい。僕自身、それは頷ける。意地を張って耐えていただけで、僕は決して強くない。華やぎ館にいた頃、自殺を考えなかったわけではないのだ。
何かあれば、僕の精神はいつでも限界を迎える。そうわかっていたから、華やぎ館では気を張り続けた。
「バックアップデータを確実に削除できるかどうか、私にはわからなかった。データが何箇所にコピーされているのかもわからなかったし」
「僕がマサシに殺されないためには、データよりもマサシ本人を狙う方が確実だった。もっと言えば、データが無い場合、中学生のマサシがどんな方法で僕を攻撃するかわからない。マサシは僕の命を、少なくとも生活を奪うほど追い詰められていた。何をしてもおかしくない。そうなれば、僕は我が身を守り切れなかっただろうね」
十年前にマサシを殺すことが、最も確実に僕が生きられる道だった。
僕は、死んでしまった時間軸の僕を想う。
「中学で死んだ僕にも、支えてくれる人がいなかったのかもしれないな。上手くやっていたように見えて、死にそうなときに助けになるような人や、思いや、繋がりが、その時間軸の僕にはなかったんだ。華やぎ館にはマナがいた。その前には父さんがいた。今は両親と、大学には全てを話せる親友もできた。マサシと同じように、その時間軸の僕も中学校生活は結構ギリギリだったんだと思う。だからマサシの行為に耐えられなかった。
マサシが父さんとどんな風に喧嘩したのか、何となく想像できるよ。中学校の勉強につまずくようなら、学問の道は諦めた方がいいって言う人だから」
「結構、厳しいこと言うね」
マナは呆れたように言い、僕は苦笑した。
「正直、僕も父さんと同意見だけどね。中学校でつまずくと、高校では本気でついていけないし」
それに、苦手なら学問の道に進まなければいいだけの話だ。世の中には、無数の職業がある。自分がやれることをやればいい。だけど、全力を出すことなく成績が落ちていくのは、父さんがいかにも嫌いそうなことだ。それだけ、マサシの地頭の良さを評価していたとも言える。
「私の話は、これでおしまい。多分、マサシがいなくなったこの世界をどう探しても、私が言ったことが真実だという証拠はないと思う。信じるか信じないかは、ヒロ君に任せるよ」
「信じるよ」
「即答なんだね」
「酸素の存在を疑わないでしょ。朝起きたら太陽が無くなっていることなんて想像しないでしょ。疑う必要がないことってあるんだ」
マナが言うことを、僕は疑わない。納屋の中で体を寄せ合って華やぎ館が燃え落ちるのを待ったあの体温、僕は本当の信頼を知った。裏切りたくない、そう思うことが信頼なのだ。そして一度信頼したなら、裏切られても気づかない。疑うことすらしないから。
「そっか」
マナは少し嬉しそうに、日陰で小さな花が咲いたように笑う。十年前の僕は、桜坂さんにこんな笑顔をさせてあげたかったものだ。十年越しに叶えられて、思わず口元が綻んでしまう。
桜坂さんの顔にあった傷は、大人になったマサシがつけたものだった。僕が手を汚すことであの傷が無くなったのなら、それだけでも十分すぎる価値がある。
「僕は生きている。マナのお陰で、僕は二十二歳になれた。ありがとう」
「うん。良かった」
マナが顔を僅かに伏せた。僕にはその意味がわかった。
僕たちは華やぎ館で別れを決めた。そして、僕たちの話は終わりつつある。
「ねえ、マナ。僕は十年前、間違えたことがあると思うんだ」
マナは何も言わない。僕は自嘲が漏れた。
心当たりが多すぎるか、僕たちには。
「僕たちはもう会わない方がいいと思っていたね。だから、お互いの連絡先を知ろうとしなかった。僕たちが向き合えば、自然と華やぎ館の記憶が結びついてしまう。殴られたことも、焼かれたことも、あの最悪な夜も、全て思い出してしまう。だから、忘れてしまおうと思って僕はマナを過去のことにした。でも、十年間、思い出すことなんてなかった。だってそもそも忘れられない。毎日、片時も頭から消えてくれなかったよ」
恐怖、屈辱、怒り、悲しみ、全部僕の背中に貼り付いている。見えない場所だけど、たしかにある。振り払うことなんてできなかった。
「過去を振り切るために必要なことは行動だって、マナは十年前の僕に言ったね。でも、別の方法もあるんじゃないかな。向き合い続けて、少しずつ消化して、自分の胸に落とし込んでいく。そんな方法もあると思うんだよ」
「向き合うって?」
「僕たちは鏡だ。過去を映す鏡。お互いを通して、あの頃の自分を透かし見る。マナ、僕と一緒に生きないか。僕たちに、お互い以上に信頼できる相手がいるかな」
笹木と会ってからずっと、考えて、考えに考えて、僕が出した結論はこれだった。マナの話を聞いても、その考えは変わらなかった。
大人は、子供が思うほど大人ではなく、恋愛は、体験してしまえばその程度のものだった。
僕は大人になり、一通りの経験をした。そして確信したことがこれだ。
「マナが僕を生かすために必死になってくれたように、僕はマナと生きるためなら命を懸けて罪を犯せる。自分と同じくらい、いや、自分よりも大切な人がいることを愛だと呼べないなら、何が愛だっていうんだ」
惨めな同胞意識から始まった関係だとしても、それこそ過去のことだ。今の僕の想いには関係ない。
「それにさ、別のパートナーができたって、華やぎ館でのことを墓の下まで隠さないといけない。それって結構辛いだろ。僕とマナなら話し合える。一人では辛い過去も、二人なら向き合えるよ」
これがプロポーズなのか、同盟関係の申し出なのか、それとも友達になりましょうなのか、関係の名前はどうでもいい。
僕はもう、マナとの縁を切りはしない。
マナ以上に信じられる相手なんて、僕は生涯見つけられないだろう。共犯だからとか、暗い過去を共有しているとかじゃなくて、お互いがお互いの支えになって生きていた、支えになりたいと思って生きていた。そんなの、他の誰にも抱けなかった感覚なのだ。
「ヒロ君」
マナはゆっくりと目を逸らす。
「壊れているね、ヒロ君。他人のことを言えないけど、ヒロ君のその感情は、本当に愛情?」
「どういう意味だ」
「ヒロ君は、愛情と呼べる感情を抱ける人間なの?」
愛情は定義できない。誰でもそうだと思うが、愛なんて手作りで、人によって形が違う。人によっては恋と呼ぶものが、別の誰かにとって愛かもしれない。またある人にとっては憎しみと呼ばれるものが、別の誰かの愛かもしれない。
「僕は僕の愛を勝手に決めた。それは否定しないよ。でも、他にどうしようもないだろう」
「誤解しないでほしいのだけど、私はとても、本当に言葉に表せないくらい嬉しく思っている。でもね、そうなると、もう一つだけ決着をつけないといけないことがあるの」
決着。僕たちは生き残るために戦った。警察も消防も騙し、上手く逃げ延びた。そしてマサシを消去し、今、この世界に僕たちの弱みを握っている者はいない。
誰と、何の決着だろう。
「石田コウヘイ君。同室だったよね」
死んだ目をして、タイキの動向を教えてくれた奴。マサシの逆鱗に触れないように、怯えながらも自分を見失うことなく僕と接したあの男。
「それが?」
「彼だけじゃない。あの火事で二十人が亡くなった。マサシも含めると二十一人になるかな。結局何人、ナイフで殺したんだっけ?」
「四人だ」
「そう」
「タイキを殺すときは、マナも手伝ってくれた。マナが押さえて、僕がタイキを突いた」
ナイフで四人。火と煙で十七人殺したことになる。
「私がヒロ君を殺人犯にしたんだよ。私が余計なことをしなければ、可哀想な被害者でいられた。でも、もう違う。ヒロ君は十字架を背負って、最後のその瞬間まで隠さなければならない秘密を抱えた。私がそうした。その罪を、罪を押し付けた私の罪を、どうするの」
きっと、ずっとマナは気に病んでいたのだろう。僕を殺人犯にしてしまったこと。僕を罪で汚してしまったこと。
「マサシを殺さなければ、僕は死んでいた。だったら正当防衛だ。マサシがいなくなれば、ミナコが後を継いだ可能性がある。殺す必要があった。タイキは、放っておけば僕たちの犯行を警察に話しただろう。殺すしかなかった。コウヘイも同じ理由だ。写真のバックアップデータの在り処を聞く必要があったし、そうなると生かしておけなかった。全員、必要な殺しだった」
「そんなことわからない。ヒロ君に、火傷しないように警告すれば済んだ話かもしれない。私が十年前のヒロ君と話したことで、未来はもう変わっていたのかもしれない。本当は殺す必要なんかなくて、もっといい方法を探せなかった私のミスなのかもしれないよ」
風が吹けば桶屋が儲かる。些細な、全く関係ない事柄が意外な形で繋がって未来を変える例えだ。
僕たちが火事を起こすまで、桜坂さんは僕に話をすることができた。未来への警告をすることもできた、通う中学校の学区を何としても変えてもらうことだってお願いできた、もしくは、本当に些細な会話が未来の僕を生かした可能性はある。
マサシを殺すように誘導したのは安全策。動機は、二十一歳のマナを守るため。
「マナはこう言いたいんだね。僕を生かすためには、別の方法も考えられた。マサシを殺す必要が生じたのはあくまでマナの身を守るためで、そのために僕に殺人の罪を負わせた」
「そう。マサシを殺さなくても、二度と再会しなくても、ヒロ君は自分の人生を歩いて行けたと思う。中学生で死ななかったと思う」
マサシを殺すことは最も確実な手だが、最良であったかはわからない。もっとマシな手段だって、きっとあったのだろう。
「でも、僕がマナに感謝するのは自由だ」
「その感謝は的外れなんだって。そんなにいいことをしたわけじゃないでしょ、私は」
「そうかな。実際、桜坂さんがいてくれたことで救われた面も大きかったよ」
僕は可笑しくて笑ってしまった。
マナが不機嫌そうに顔を歪める。
「何が可笑しいの。こっちは真剣に話しているんだけど」
「ごめん」
でも、真剣ではあっても正直じゃないように、僕には思えるんだ。
「マナは、僕が死んだことを知って、悲しくなかった?」
マナは泣きそうな顔になり、答えない。
マナの表情が忙しい。喋れない頃は表情も動きが乏しかった。今の方が余裕が無いのなら、それもまた可笑しかった。
「僕を生き永らえさせるチャンスがあるとわかったとき、嬉しくなかった?」
もう、表情を読むまでもなく、マナの顔は雄弁に語っていた。
「それが答えじゃないか。マナは僕を死なせたくなかった。ついでに自分の現状を打破したんだ。どっちが本命でもいいんだけどね。本心が一つ、本命の目的が一つだけでなければならないなんて決まりはない。どちらも大切でどちらも欲しいと思ってもいいんだ。それはだいたい、矛盾しないよ」
マナのために巻き込まれて罪を背負うなら、それは本望だ。二人の将来のためなら喜んで血を流そう。
「私は罪人なんだよ。記憶の中では、二十人殺した放火犯なの。死んだ人の中には、何の罪も恨みもないスタッフさんや、入って来たばかりの下級生だっていた。その罪を無視するっていうの? それは正しくないでしょ」
泣かないでよ、マナ。
そんな風に自分だけを追い詰めなくていい。
「僕たちは共犯で、対等だった。僕がマサシを殺すと決めたとき、マナは火を放つ準備をしていた。それで多くの人を巻き込むことをわかっていながら、僕は賛成した。いい? 桜坂さんに誘導されたから仕方なくじゃない。賛成したんだ。僕たちはあの場所も、あそこで働く大人も、あそこに住む子供たちも、全て恨んでいた。燃やし尽くしてしまいたかった。罪も恨みもあったよね。少なくとも僕はコウヘイのことが憎かった。一人、安全圏で身を縮めているばかりのあいつに罰を下してやりたかった。僕たちの状況を知っていながら放置していたスタッフは全員死ねばいいと思っていたし、直接手を下していないからと中立ぶった子供たちも全員最悪の人間だと思っていた。
焼け落ちて、知っている奴らが沢山死んで、僕が悲しんだと思う? 全然だよ。だからタイキもミナコも殺せた。その心が罪なのだとしたら、逆に聞く。マナは、僕の罪をどうするんだ。警察に自首することを勧める?」
じっと、僕たちの視線が絡み合う。マナの目線が逸れた。
「自首なんて、しなくていい」
「僕もそう思うよ」
「正しいとは思わないけど」
「それもそう思うよ。でも、間違っていたらダメなのか。正しくないと、堂々と生きていてはいけないのか。僕たちって、もう充分、償いの先払いをしたってことでいいじゃないか」
僕たちは間違いながら生きていく。完璧じゃない。完全じゃない。傷だらけで、継ぎ接ぎだらけの心と体で、なんとか騙し騙し生きていく。
本当は、もっとピカピカの体で生きていたかった。服をめくれば、火傷の痕はあちこち残っている。
本当は、もっと自信に溢れた心で生きていたかった。自尊心を最後の一片まで踏みつぶされ、歪んだ心で法を学ぶような人間になりたくなかった。
罪を犯さず、潔白な身で父さんと母さんに引き取られたかった。
マナとだって、少しずつ仲良くなって、だんだんとお互いを知っていって、そして気持ちが通じ合った上で一緒に生きようと提案したかった。
僕たちは完璧じゃない。完璧でいられなかった。それでも生きていかなければならない。
殺した人たちの分もというわけではなく、ただ、生まれてきたからには生きる。生まれた理由なんてわからないけど、生きる理由なんてきっとそんなものだろう。
「罪を償って罰を受けるなら、罰を受けてから罪を犯すことだって、きっとある」
マナは呆れたように笑った。
「あるわけない。そんなの詭弁だよ、ヒロ君。法学部のくせに」
「詭弁で結構。正しさに力なんて無い。力があるのは力を持った人間と社会だけだ」
「たしかにね」
だから、いいんだよ。正しく生きることが大事なんじゃない。間違っていても生きることが大事なんだ。
だって僕たちは、そんなに強くも正しくもない。それでも生きているのだから、仕方ないじゃないか。
「私が自分の正体を隠して十年前のヒロ君と喋っていた、その嘘は?」
「憧れのお姉さんには、男の子は早く大人になって追いつきたいと願うものなんだよ。それが叶ったんだから、僕はラッキーだとさえいえる」
「まったくもう」
僕はマナの頬に手を伸ばす。触れても、マナは拒まなかった。
「ずっと、言いたかったことがある。あのとき、抱きしめてくれてありがとう。僕の逃げ場になってくれてありがとう。あの頃は、照れくさくてとても言えなかったけどね」
僕はマナを抱きしめる。いつか、貰った分を全部返し、僕が与えられるように祈りながら。
「こっちこそ、ヒロ君に会えてよかった。あの日、ここに現れてくれてありがとう。ヒロ君がいなかったら、私は……。でも……」
僕たちは血で穢れている。でも同じくらい火で清められてもいる。僕はなおも渋るマナからゆっくりと離れた。
「約束しないか」
乾燥機の一つに手を掛ける。
「僕たちが一緒にいることが良くないことなら、未来のマナに教えてもらおうよ。一年後でも、十年後でもいい。今、この瞬間、丁度午後四時、ここへ「接続」して手紙を放り込んでくれ。そこに、僕たちは一緒に生きるべきじゃなかった、幸せじゃなかったと書いてあったら、僕はマナを諦める」
僕が握っている乾燥機の内側には何があるだろう。未来からの手紙は入っているだろうか。入っていたなら何が書かれているのだろうか。
根拠はないけど、これに関しては少しだけ自信があるんだ。
時計を見た。午後三時五十八分。
雨はいつの間にか止んでいた。
ドラム式トラベラー 佐伯僚佑 @SaeQ
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