第8話 桜坂(後編)

 待ち合わせ場所は、家からも大学からも離れたカラオケボックスにした。万が一にも、マサシに見つかってはならない。

「この二週間調べた、彼の足取りです」

 笹木から紹介された黒草という探偵に、マサシの調査を依頼した。住所はわかっていたため、それ以上のことを。具体的には恋人のこと、大学での成績や交友関係、親との関係など私生活を洗いざらい。

 黒草は安っぽいジャケットを脱いで丸め、リュックから紙の束を取り出した。

 さてさて、と楽しげに資料を広げていく。

「まずは気にされていた恋人のことを。彼には同じ大学の彼女がいます。早川アオイという同い年の女の子ですね」

 私たちは「子」と呼ばれる年齢なのか微妙だが、黒草は三十代後半に見える。彼から見れば充分に子供なのだろう。

「上手くいっていないのですか」

「いえ、そういう話はありませんでした。まあ、多少の喧嘩があってもわかりませんが、すぐ別れるような雰囲気ではないそうです」

「どこからそんな話を聞いてくるのですか」

「それは企業秘密です」

 あっさりと、でもばっさりと遮断された。まあ、こちらも非合法な手段があったら困るので聞きたくない。

「大学については、あまり語るところがありませんね。桜坂さんの大学よりもかなり下のランクで、そこでも並みの成績です。こう言ってはなんですが、学業でいえば大したことはありません。私も大学生だった時代があるのでなんとなくわかりますが、誰でも入れる大学です。高校はそれなりに優秀な進学校なので、そこで落ちこぼれたみたいですね」

 落ちこぼれた、と言うとき、黒草はやけに楽しそうだった。記者だの探偵だの、他人のプライバシーを暴く職業をやっていると性格が歪んでくるものなのかもしれない。就活をすることになっても、記者はやめておこう。

「交友関係は?」

「これがまた希薄な方で。親しい友人が一人いるようですが、向こうは大勢と親しくしているようなんですよね」

「一方通行の親友みたいなものですか」

「それは本人たちにしかわかりません。ただ、広い交友関係でないことはたしかです」

 ウーロン茶を一口飲んで考える。

 華やぎ館でのマサシのイメージとはかなり違う。取り巻きに囲まれ、存在感があり、常に威張っていた。学校では施設の子として遠巻きにされているところはあったが、里親に迎えられて以後はまた雰囲気が違う。むしろ、人間関係の構築に失敗しているような印象すら受ける。

 落ちこぼれた、か。勉強もでき、力も強く、華やぎ館では王様だったマサシは、普通の家族を持ち、普通の世界に出たことで却って自身の優位性を見失ったのかもしれない。

 一度自尊心を欠片も残さず踏みにじられた私には無縁の挫折だ。

「養親との関係はどうですか」

「ご両親とも、周囲からの評判はいいようですよ。家庭内のことは、これもまた外部からはわかりませんがね。ただまあ、わざわざ児童養護施設から引き取るくらいです。責任感があり、自己客観視できる人たちじゃないでしょうか。血縁がなければ、よくある、母親が自分と我が子を同一視する、ということもないでしょう。子供を一つの別人格として尊重することはできそうです」

 無言で同意する。親戚をたらい回しにしたわけではない。自分たちの意志で子供を引き取ったのだ。子供を育てるのはお金も手間もかかる。やる気がなければ、児童養護施設から小さい子を引き取るなんて到底できない。そのやる気には、自分が虐待しない自信や、常識的に育てる良心も含まれる。

 引き取るに際し、経済力や生活環境のチェックも入ったはずだ。そして、お金の余裕は心の余裕でもある。しばらくは定期的な家庭訪問もあったはずだし、マサシの産みの親のようなドロドロの環境には少なくともなっていないだろう。

 黒草は紙を一枚ずつ押し出していく。

「恋人と友人の、名前と住所と連絡先です。こちらは彼の通った中学、高校、そして今の大学の情報です。彼の現住所はご存知でしたね。ああ、病歴は特にありませんでした。虫歯の治療くらいです」

 そんなことまで調べたのか。顔には出さないが驚愕する。複雑な気持ちだが、笹木はいい探偵を紹介してくれた。

 こんなことになった元凶も彼なので、感謝はできないけれど。

「素晴らしいです。知りたいことはほぼ全てわかりました」

「他にもありましたか?」

「マサシの養親について、彼が中途半端にやさぐれた理由が家庭環境にあったのかどうか知りたいです」

「なかなか難しいですね。家庭内、しかも過去のことでは。今の彼は一人暮らしですから、親との会話も数えるほどしかありません」

 まあ、ダメ元で言ってみただけだ。だいたい、そういうことは一つの要因だけで構成されるものではない。家庭と学校、たいてい両方に原因がある。マサシについては産みの親と育ての親、両方の影響も受けているし、なお複雑そうだ。

「それにしても、面白い表現をしますね。中途半端にやさぐれた、とは。昔の彼は違いましたか」

「そうですね。自信に溢れて、施設で暮らしていることを気にしないように振舞って、学校でもそれなりに人気はありました。あくまでそれなりですが。ただ、施設内での性格は最悪だったので、施設を出て自由になったら罪を犯して逮捕されるとか、半グレ集団に入るとか、そういうのを想像していました。今の様子は意外です。半端に優等生で、半端にプライドがあって、そして半端に犯罪的。小悪党ですね」

「ほう、犯罪的」

「この前お腹を殴られました」

「傷害罪ですね。立証と起訴は難しいかもしれませんが、警察に言えば厳重注意くらいはしてくれるかもしれませんよ」

 それ以上のこともされているとは、言えない。それともこの男なら掴んでいるか?

「良い調査でした。非常に助かりました」

 意図的に返事を誤魔化し、私は鞄から報酬の現金が入った封筒を取り出して渡す。黒草はそれを数え、満足そうにしまった。私が言わないことについて食い下がるつもりはないようだった。

「ちょっと、お願いしたいことがあります」

「追加の依頼ですか」

「まあ、そうですね」

「何でしょう」

「ナイフを一振り、購入履歴が辿られないものを用意してもらえませんか」

 お金を数えながら上機嫌だった黒草の表情が消えた。

「なるほど」

 黒草は首の横を人差し指で二度叩いた。

「ここです」

「何がですか」

「首の頸動脈を切れば、人は簡単に失血死します。血が噴き出るので、切った側と反対側に回り込めば返り血を浴びません。おすすめは、包丁とは刃が逆になるように握ることです。後ろから髪を掴んで固定し、左右どちらかに回り込む。その状態で首に抱き着くように腕を回して、ナイフを引く。これで、返り血を浴びずに殺せます。ただし、迷ったら駄目です。迷いを感じるならやめた方がいい」

「迷わないでしょうね」

 思いのほか、淡々と言葉が出た。黒草が目を細める。

「何かありましたか」

「まあ、いろいろと」

 本当にいろいろあった。二十人死んだ放火とか、マサシに襲われたこととか。

 黒草は探るように目を合わせていたが、やがて緩めた。

「いいでしょう。殺害したい相手がいるのなら業者を紹介しようかと思いましたが、あなたには必要なさそうだ。見られず、迅速に、慎重に確実にことを為せるでしょう」

 黒草は立ち上がった。

「ナイフは私からは届かず、使い捨てのメールアドレスを使ってネットの掲示板を辿って購入したことにしてください。仮に警察に捕まったら、ですけどね」

「いいんですか。あなたのことを警察に言うつもりはありませんが、それでも……」

「たまにいるんですよ」

 私の言葉を遮られた。

「同じ穴の貉ってやつが。人の道を外れて、それが当たり前になってしまった人が。これでも大勢見てきたのでね、わかります。あなたは上手くやるし、警察に捕まっても私のことは話しません」

 根拠を聞こうとしたが、黒草はさっさと出て行ってしまった。

 倫理や良心。命を、人権を大切に。そんな言葉が空虚で何の力もないことを、私は知ってしまった。人は殺せば死ぬから、殺せばいい。敵は己の心ではなく、警察。

 黒草が言った通り、人として越えてはならない線なんて、私はとっくの昔に通り過ぎていた。


     ◇


 ショッピングモールで、慣れない男物の服を探していた。それも子供の服を。初めてのことだし、サイズだってわからない。でも、必要なことだ。

 あれからはほとんど毎日ヒロ君を避難させるために「接続」した。マサシも何度か憂さ晴らしに家に来て、何度も殴られ、性的な暴行もされた。正直、大学に通うのがやっとのコンディションだが、動かなければならないこともある。

 黒草から受け取った資料には、口頭で聞いた内容を遥かに上回る情報が記載されていた。マサシの通学経路、帰宅時間のパターン、電気料金から買い出しの頻度まで、プライベートをまさに丸裸にしていた。さらには養親や友人、恋人の行動パターンまで一か月で見事に洗い出していたから驚きだ。

 あの人、絶対に只者じゃない。探偵とは、これが普通なのだろうか。

 子供服売り場で立ち尽くしていると、女性の店員さんが寄ってきた。

「何かお探しですか?」

 言い訳を考えていなかったが、それほど嘘が必要な場面でもなかったので落ち着いて答える。

「知り合いの、小学生の男の子がいて、服を一式贈りたいんです。でも、勝手がわからなくて。一緒に選んでもらえませんか」

「ええ、喜んで。どんな色が似合う子ですか?」

 思ってもみない質問が来た。ヒロ君には何色が似合うだろう。理知的で、芯があって、私が喋る練習に付き合ってくれた優しい人。

「青とか、緑とか。でも、暖色系も似合うかも」

 言いながら、少し照れた。今、私はヒロ君に着せる服を選んでいるのだと思うと、不安半分、盛り上がり半分のふわふわした気持ちになる。

 そんな私の様子を見て、店員さんの笑みが深まった。

「可愛い子なんですね」

「ええ、まあ」

 いつの間にか髪をいじっている自分に気付き、慌てて手を離した。

「では、これにこれを組み合わせて……いかがでしょう」

 店員さんは張り切って見繕ってくれた。顔に私情が垣間見えるが、仕方ない。私の態度があまりにあからさまだった。

「いいと、思います」

「サイズはどうですか」

 はた、と固まってしまった。

 どうしよう。わからない。

「ええと、これくらいの背で、これくらいの体の幅で」

 記憶を手繰って、両手で姿を形取る。店員さんは噴き出し、サイズを選んでくれた。

 抱きしめた感触がこれくらいでした、などとは言えない。相手は小学生なのだ。

 インナーシャツとアウター。ズボン、キャップ、靴下とハンカチ、靴まで購入した。下着まではさすがに買えない。

 終始上機嫌だった店員さんに見送られ、私はスキップしたいような気持で家路を急いだ。

 家に着くと、郵便ポストに不在表が差さっていた。

 黒草に頼んでいたナイフだろう。内容物はアウトドア用品と書かれていた。すぐに再配達の依頼をかける。

 準備は整った。あとは、ヒロ君にお願いするだけだ。


     ◇


 ヒロ君は素直に承諾してくれた。ヒロ君が私に向ける視線が、徐々に柔らかくなっているのはわかっていた。十年前は聞く一方だったけど、今は共感して、言葉を返してあげられる。それなりに信頼してもらえている自信はあった。

 ヒロ君に頼んだことはシンプル。服を着替えて、私が戻るまでコインランドリーにいること。

 並行して、私はマサシもコインランドリーに呼び出した。今の立場は向こうの方が上だが、私から改まって呼び出されれば応じないわけにはいかないはずだった。時間通りに来てくれることを願う。

 ぼろぼろの服のせいで、マサシが万が一ヒロ君だと気づくと面倒なので、ヒロ君には新品の服に着替えてもらうことにした。キャップを被らせ、顔も隠させる。

 私はマサシがコインランドリーにいる間に用を終え、コインランドリーが見える位置に隠れる。呼び出しをすっぽかされたマサシが痺れを切らして帰宅するのを見届けた後、コインランドリーに入り、ヒロ君と合流した。

「ああ、疲れた」

 ヒロ君が大きなため息をついてぐったりしているので、心配になった。

「大丈夫?」

「なんかあの人、僕、苦手です。何でだろう」

「そういう人っているよね」

 苦手で当たり前だ。あれはマサシなのだから。しかも、大人になって力を増したマサシだ。ヒロ君もマサシも、お互いが誰なのか思い至ることはないけれど、直感的に恐怖を感じたっておかしくない。

「今日はさ、ヒロ君に渡しておいた方がいいと思うものがあって」

 鞄から取り出し、黒草から送られてきたナイフを渡した。鞘の上からタオルでぐるぐる巻きにしてある。

 ヒロ君が解き、目と口を開いて私を見た。

「これ」

「抜いてみて」

 恐る恐るといった様子で握ったそれは、ヒロ君の体に不釣り合いに大きかった。

「こんなもの、どうやって」

「意外と簡単に買えるものなの。料理目的、鑑賞目的、アウトドア用品。ナイフって一般的な道具だからね。もちろん、人も殺せる」

 眩暈がして、スツールに座り込んだ。できるとは思っていたが、やっぱり、簡単なことじゃなかった。

「私も悩んだけど、渡すことにしたの。マサシ君やミナコちゃんに抵抗できないと諦めるのと、いつでも反撃できると思うのは、後者の方がずっと気持ちが楽になるはずだから。納屋があるって言っていたよね。そこに隠しなさい」

 眩暈をこらえて伝えるべきことを伝えると、今度は怖くなってきた。まだ手に感触が残っている。

「いい? 絶対に死んじゃダメ。それなら相手を殺す方が何倍もいい。あなたは殺されそうになるほど追い込まれているのだから、自衛のために戦うのは当たり前なの」

 体が震え、縋るようにヒロ君を抱きしめた。私が避難場所を提供するように、ヒロ君が私の心の避難場所になっている。

 ヒロ君の耳元で、必死に自分へ言い聞かせた。ヒロ君に助けてほしかった。

「人殺しはもちろんいけないことだけど、それを言う教師は助けてくれなかったんでしょ。じゃあ、そんな人の言うことを信じる必要なんかないと思わない?」

「思います」

 願わくば、ヒロ君に預けたこのナイフを返してもらえる日が、すぐに来てほしい。


     ◇


 翌々日、私はファミリーレストランでマサシと向かい合っていた。マサシは家に来ようとしたが、さすがに今のマサシと密室で二人きりになるのは危険すぎた。一方的に場所と時刻と指定してスマートフォンの電源を切った。家に帰るつもりはなかった。

 マサシはここまで走って来たようで、肩で息をしている。

「どうしたの。必死になって」

「お前だろ」

「何が」

「とぼけるな」

「そう言われても、何のことだかわからない」

 マサシのこめかみに青筋が立ちそうなほど怒っている。第三者の目が無ければ、即殴られてもおかしくない。

「アオイを殺したのは、お前だろう。おとといの夜、アオイが路上で刺殺された。首を切られての失血死だ。お前が、俺を呼び出して現れなかったあの時間帯に、だ」

「急用が入って行けなかったの。ごめんなさい」

「人殺しの用だろうからな。そりゃあ、大事な用だろうよ。だが急用じゃねえな。計画的な犯行だ」

「そもそも、アオイって誰?」

「知ってんだろ。俺の彼女だ」

「知らない。あんたの彼女の名前なんて、私が知るわけないでしょう。路上で刺殺されたって言った? 顔も名前も知らない相手をどうやって殺すの?」

 マサシが言葉に詰まった。怒りに任せてここまで来たものの、マサシ自身の考えはまだまとまっていない。

 論破できる。

「確認ね。あんたの彼女はアオイという名前で、おとといの夜、殺された。そうね?」

「ああ」

「あんたが殺したんじゃないの?」

「ふざけるな!」

 唇の前に人差し指を当てた。マサシも、周囲の視線を集めていることに気付き、声を落とす。

「俺はやっていない」

「遺体から金銭は奪われていた?」

「いや、財布はそのままだった」

「だったら、物盗りの線はない。怨恨でしょうね。一番動機がありそうなのは、あんた」

 マサシは昨日ではなく、今日コンタクトを取ってきた。つまり、昨日は動けなかったということ。十中八九、警察で取り調べを受けていた。

「俺がアオイを殺すわけないだろうが」

「どうでしょうね。例えば私に浮気していると誤解されて、口論になり刺し殺した、とか」

「それなら、突発的な犯行ってことになる。刃物を所持しているのはおかしい」

「ライターで散々私の体を焼いた人間が言うこととは思えないね。日常的に持ち歩いていたと聞いても、私は驚かないけど」

 マサシの拳がテーブルの上で震えている。

 マサシが想像していることは正しい。私はおとといの夜、帰宅途中の早川アオイを殺害した。誰にも見られず、殺し、逃げた。黒草が言ったように切ると返り血を浴びなかったので、そのまま電車で帰った。男装して殺害し、逃げる途中で着替えたので、警察の追跡も撒けるはずだった。そもそも、私が殺した場面を見ている人がいないけれど。

「俺には、その時間帯犯行は無理だった」

「へえ、どうして」

「お前に呼び出されたコインランドリーに、ずっとガキがいたんだよ。そいつの証言があれば、俺にアオイが殺せなかったことは明らかだ。アリバイってやつだな。俺が犯行現場にいなかったことは証明される」

「ふうん」

 そう。そう思ってほしくてヒロ君を配置した。警察はヒロ君を探す。でも、ヒロ君はいない。なぜなら過去の人だから。そして、その子供が見つからないとなると、一気にマサシへの疑いが強まる。だいたい、夜のコインランドリーに一人で何をするわけでもなく佇んでいる子供自体、妙なのだ。当然、虚偽のアリバイを主張していると思われる。

「その子が見つかるといいね」

「いずれ見つかるさ」

「どうして私が殺したという推測を警察に言わないの?」

「それは……」

 言えるわけがない。なぜなら、傍から見れば、私には早川アオイを殺す動機がない。動機があるとすれば、マサシへの報復ということになるが、それにはマサシが報復される心当たりも話す必要がある。

 私を何度も暴行していることを警察に自供する。それは自滅行為だ。だからマサシは、私が犯人に違いないと思っていても、警察にそれを訴えることができない。

 仮に私を殺しても、警察は必ず私とマサシの接点、つまり華やぎ館出身であることを突き止める。そうなれば、マサシの周辺で二連続の殺人となり、マサシへの疑いは濃くなるを通り越して真っ黒になるはずだ。

 マサシは動けない。何をやろうとしても必ず自分に疑いの目が返ってくる。

 例外は、私に殺人未満の暴力を振るうこと。私もまた、マサシへ恨みがあることが警察にばれれば、早川アオイ殺害犯の候補に挙がってしまう。今の、動機が無い人物の立場を維持しなければならない。

 私とマサシは膠着状態にある。

「事件から二日。警察は私の元に来ていない。これは、警察の捜査線上に私が浮かんでいないということでしょうね」

 使った衣服は洗濯し、細切れにして、昨日のうちに燃えるゴミに出している。今から追うことは警察でもできない。ナイフは過去の華やぎ館に隠した。絶対に見つからない隠し場所だ。

 たとえ警察が私を疑っても、私が関与したことを示す証拠は何一つ残っていない。

「忠告しておいてあげるけど、下手なことをしない方がいいよ。今あんたが目立つことをしたら、警察は大喜びで別件逮捕してあんたを尋問する。そうなれば逃げられない。延々勾留されて、裁判にかけられるでしょうね。多分、今も警察にマークされているんじゃないの」

 私の写真をばら撒くようなことは、これでできない。

「じゃあね、マサシ」

 自分の分の料金を置いて席を立った。店を出る直前に振り返ると、マサシは俯いたまま怒りに震えていた。

 ああ。本当に、どうして今さら私に手を出したんだろう。黙っていれば大事な恋人を喪わずに済んだのに。そして警察に誤認逮捕されることもなかったのに。罪を逃れるためには別の罪を吐露する必要があり、それで裁かれる。そして私は警察から逃れ切ってみせるので、マサシだけが全ての罪をその背に負う。

 十年越し、ようやくあんたに罰を下せて嬉しいよ。


     ◇


 それからはコインランドリーに行くことをやめた。警察が張っているかもしれないからだ。ヒロ君が乾燥機から這い出てくるところを見られたりしたら目も当てられないことになる。「接続」する日付はどうとでもなるから、焦ることはない。ヒロ君から見て、毎日ここへの避難ができれば問題ない。

 それからは連日、新聞とネットニュースをチェックし、マサシが逮捕されたという報せを探した。だが、一向に報道されない。こちらからマサシに確かめるわけにもいかず、二週間が経過した。

 マサシは唐突に家に来た。

 インターホン越しで話し出す。

「聞こえているのか知らないが、このまま話すぞ。近所に聞こえても俺は知ったことじゃないからな」

 舌打ちをして、開錠して中に入れた。

「何、いきなり喧嘩腰に」

「いいのかよ、そっちこそ気になっていたんじゃないのか。どうして俺が逮捕されないのか。聞きたくないのか」

 聞きたい。警察はマサシを逮捕していない。そして、私の元にも来ていない。どうなっている。

 いつものように部屋に上げた。だが違和感がある。いつもなら私の腰に気色悪い目線を向けるのに、今日は私の顔を真っすぐ見てくる。

「任意同行を求められた。拘留もされた。でも、釈放だ。どうしてかわかるか?」

「泳がせられているんじゃないの? ここに来て大丈夫?」

「警察がお前のところに来たって、お前は証言できない。真実を語れば、逮捕されるのはお前だからだ。ただの古い知り合いだと証言するのが精々じゃないか」

 たしかに、真実を語って逮捕されるのは私だ。マサシの嗜虐性を訴えることはできるが、警察はもうとっくにマサシの過去を知っているだろう。

 そもそも、マサシに早川アオイ殺しの罪をなすりつけるのが目的だった。こいつはどうして今も自由に歩き回れているんだ。

「私は犯人じゃないけどね。それで、話したいんでしょ。聞いてあげるから言いなさいよ。警察で何があったのか」

 マサシはもったいぶろうとしたが、まあいいか、と話を進めた。

「簡単な話、証拠不十分だな。俺がアオイを殺したという確たる証拠が得られなかった。それだけだ」

「警察って、案外無能なのね」

「有能だろ。冤罪を防いだんだ」

 証拠不十分。十年前の火事もそうだった。逆に言えば、私は今回も証拠を残さなかったから、警察は私に辿り着けていない。

 証拠を残さなすぎて、マサシの犯行だと警察に確信させられなかったのか。

「コインランドリーの少年は見つかったの?」

「いや、見つかっていないな。だが、それはどうでもいいのさ。俺が犯行時コインランドリーにいたならば、それは俺が犯人でない証拠になる。だけど、コインランドリーにいたことが確かめられなくても、俺がアオイを殺した証拠にはならない」

 疑わしきは罰せず。マサシへの疑いは強いが、マサシの犯行だと断言できなかったのか。

「さて、スリリングだったが、切り抜けられた。真実を語り続けるってのも、楽じゃないと知ったよ。けどな、まだ解決していないことがあるだろう」

「何が」

「アオイを殺した復讐をしないといけない」

 私は立ち上がり、玄関に走った。髪を掴まれ、後ろに強く引かれる。体が一瞬浮いて、背中から床に落ちた。息が止まる。

「警察はお前を裁けない。俺のせいでもあるんだが、それでも、人殺しの報いがないのは不条理ってものだよな」

「あん、たが……私たちに、した、こと……は……不条理じゃ、ないの」

 詰まっている息の中で、なんとか絞り出した。

 マサシは首を振った。

「弱いのが悪いって、昔は思っていた。俺より弱いから殴られる。父親より弱いから、母親は殴られる。そう思っていた。でも、違ったんだ。必要なんだよ、お前らみたいな役目が」

「必要?」

「人間は立場に強弱をつける。上下関係と言ってもいい。そして、その一番下の立場の人間が、それより上の人間の不満や鬱憤を受け止める役目を負うんだ。お前たちが死んだら、一つ上の立場にその役目が渡る。ときに革命が起きて、一番上だった奴が一番下になることもある。共通しているのは、そのときどきで一番下の立場がいて、そいつは貧乏くじを引かされるってことだ。華やぎ館ならお前やヒロが。世界で見れば難民や貧困者が。どのスケール、どのコミュニティーでも、ある程度大きくなれば、そういう役目が必要とされるんだよ」

 マサシは私のお腹に拳を打ち込んだ。また息が詰まる。酸欠に喘いで涙が滲んだ。

「だからこれは不条理じゃない。だけど、お前とアオイは違うコミュニティーにいた。それは不条理だ。無関係の人間を殺すなんて、通り魔と変わらない。やるなら俺を殺すべきだった。そんな奴に、何の報いもないなんて許せるかよ」

 何発も何発も蹴られた。華やぎ館にいた頃よりも遥かに激しい衝撃で転がされる。

「自首することは許さない。俺に殺されることも許さない。二週間やる。自殺しろ。さもなくば写真をばら撒く。中学、高校、全部遡って知り得る限りの人間に送り付ける。お前の親にも送るぞ」

 私はボロ雑巾のように床で動けなくなり、マサシが私のスマートフォンを持って部屋から出て行く様子を見ているしかなかった。

「ヒロは助けには来ないぞ。お前らにとって、あの写真は無視できない。それはな……」

 言い残された言葉で、私は意識を失った。


     ◇


 いつから間違えたのか、何度も何度も考えた。いつ、どのときの自分に会って話をすれば、私の未来は変わったのだろう。衣類乾燥機が一般家庭にも普及し始めたのは最近で、昔は業務用がほとんどだった。

 産みの両親が生きていたときの家にはなかったから、彼らの死を止めることはできそうにないと結論付けている。本当に、使い勝手の悪い能力なのだ。

 では次に、華やぎ館に入居した私に会えたら、いつ、どこで未来を変えられただろう。そもそも、私がマサシに目を付けられた理由がよくわからない。声が出せないから、騒がしくなくて丁度良かった、そんな理由だったならば、過去に戻って何をしてもやっぱり目をつけられる。

 ならば、ヒロ君と出会ってからはどうだろう。私がヒロ君と仲良くなったのは、間違いなく境遇が似ていたからだ。辛い日々だったけれど、ヒロ君と出会えて、勉強を教えてもらったり、声を出す練習をしたりした時間はかけがえのないものだと断言できる。それを失いたくない。

 私が破瓜させられた夜はどうだろう。火事を起こすことを決意した、私とヒロ君の最悪の夜。事前に知っていれば、その日は華やぎ館に帰らないこともできた。でも、いつまでも逃げ切れない。タイキとの我慢比べか。

 せめて火事でヒロ君が右目を負傷することは避けさせてあげたい。それくらいならばなんとかなりそうだ。

 最も簡単なのは、過去の私に火事を起こすことをやめさせること。ヒロ君から説得されれば、当時の私は受け入れたと思う。二人で最期の半年、苦しみながら、泣きながら、心を削って目を殺して、生きていけたと思う。

 最高なのは、マサシだけが死ぬことだ。あいつがいなければ、ミナコちゃんは直接手を出さない。タイキだって、マサシほど凶悪なことはしない。マサシだけが問題だった。

 なのに、あの火事ではマサシだけが生き残った。

 ということは……。

 目が覚めた。照明が点いた天井が眩しい。首を逸らすと肩が軋んだ。ギシギシと音がしそうな体を引き摺って起き上がる。どうやら気絶していたみたいだった。鏡を見ると、顔はほぼ無事で、小悪党らしく露見を嫌うマサシの暴力性が見て取れた。

 夢を見ながら考えていた、その内容は覚えている。私はヒロ君を助けたい。だけど、それは思ったよりも遥かに難しい。根本から考えを改める必要がある。私はベッドに這って移動し、もう一度意識を手放した。

 ごめん、ヒロ君。そして私。あなたたちを不幸にするしか、方法はないみたい。


     ◇


 ヒロ君は見るからに目がおかしくなっていた。瞬きの回数が少なく、焦点が私に合っていない。別のことに集中しているのだ。

 ヒロ君の様子を聞いていれば、だいたいの日付はわかっていたから、あの夜が近いことも知っていた。そして、今日のヒロ君の様子から、あれが行われたのだと察することも容易だった。

「僕とマナが、酷いことをされました」

「何を?」

「言いたくないくらい、酷いことです。僕の判断だけで言ってはいけないくらい、マナも傷ついた、それほどのことです」

「ごめんね」

 私は、それが起こることを知っていたんだ。その上で、避けさせることも、警告することもできなかった。

 この先のために必要だから。

 ヒロ君は首を振る。あんなことがあっても私に当たらない。助けると約束したのに。本当に優しい人だ。

「桜坂さんのせいではありません。僕たちが警戒不足だったんです。浮かれていました」

「いいことが、あったんだね」

「はい。マナが喋れるようになりました。まだ「あ」しか言えないけれど、でも、嬉しかったんです。すごく、嬉しかった」

 私の目が潤んでいることを気づかれないように、横を向いた。あの日のことは昨日のことのように覚えている。世界が輝いた。ただの「あ」が、私自身の声が、あれほど愛しいと思えたことは後にも先にもない。

「だから油断しました。でも、警戒していても避けられなかったかもしれません。元々、本気で僕たちを捕まえようと思ったらできたんです。今まではマサシが本気を出す必要がなかった。本気を出すことを面倒臭がっていた」

「今回は、本気だったのね」

「マサシの同室のタイキってやつが、本気でした。僕とマナが捕まらないと、タイキが代わりに殴られるから」

 ヒロ君の目の焦点が、今日初めて私に合った。

「頂いたナイフを、使おうと思います。このままじゃ、僕は死ぬ。心が死ぬし、体ももう、いつ取り返しがつかないことになってもおかしくない」

 わかっていた、こうなることは。彼はそういう人だし、ナイフを渡したのは私だ。そして、私がこの流れを望んだ。

 込み上げてくるものを、目元を押さえて押し返す。

「やっぱり、そうなるよね。そんな日が来るような気はしていたの」

「はい」

「ここ、首に頸動脈っていう太い血管がある。そこまでざっくり切れば、人は殺せる。首半分を切るくらいの気持ちで裂きなさい。注意点は、血が噴き出しても自分にかからない角度から切ること。返り血まみれじゃ、警察にすぐばれるから」

 黒草に聞き、私も実践した、実績ある方法を伝授する。

「わかりました」

「ナイフは、そうね、使った後、裏山に深く埋めるのがいいと思う。目印もないような奥深くに行って埋めれば、警察でも簡単には見つけられない。できるだけヒロ君の犯行だとばれないように助けてあげたいけれど、私はそっちに行けないからね」

「僕と一緒に来たらテレポートできるかもしれませんよ」

「私の体じゃ、もう入れないよ。狭すぎて」

 今はもう、「接続」したって体が入らない。それに私はまだ死んだ子犬のトラウマを引きずっていて、乾燥機に頭を入れることすらできないのだ。

「いずれにせよ、これは僕がやることですから、桜坂さんを巻き込めません」

 最早ヒロ君一人の問題ではないのだが、言わないでおく。私がマナなのだと、本当は伝えたくて堪らない。でも、今は駄目だ。余計な混乱をさせてはならない。

「マナちゃんは?」

「え?」

「マナちゃんは巻き込んでもいいんじゃないかな」

「それは……」

「具体的な計画はまだ立てていないんでしょ。マナちゃんの手もあれば、証拠を一緒に隠したり、死亡推定時刻の行動をお互いに証言し合えたり、いいことがたくさんあるよ」

「たしかに」

「ヒロ君が動かなければならないと思ったのなら、マナちゃんも何か行動しようとしているかもしれないじゃない」

 実際、あの頃の私はいつでも火を放てる準備をしていた。そして、チャンスも窺っている。ヒロ君を巻き込まず、華やぎ館を焼き尽くすチャンスを。

 ヒロ君から提案があれば、渡りに舟、必ず共同作戦に乗る。だって私なのだ。確信がある。

「桜坂さん、僕はやります」

 理性と衝動が混じった目でヒロ君が宣言した。格好いいよ、と言ってあげたいくらい、私は見惚れた。

「ヒロ君、やるなら確実に殺しなさい。迷わないで。そして、しっかり準備しなさい。あなたの事情を話して体を見せれば警察も情状酌量の余地ありと判断してくれると思うけど、それでも、捕まらないのが一番なの」

 ヒロ君を抱きしめた。きっとこれが最後になる。

「人生、リセットは効かなくてね。完全に過去を振り払うことはきっとできない。過去は追ってくる。時間なんていうものに任せても振り切れない。過去を払拭するためには、行動するしかないんだから」

 ヒロ君に言っているのか、自分に言っているのかわからない言葉を耳元で囁いた。例え結果がどうなっても、少しでも、私の思いを知って欲しかった。

 過去を振り切った未来で会おうね。

 ヒロ君が頷くのが、感触でわかった。


 ヒロ君を送り出し、コインランドリーには静寂が広がった。マサシから提示された二週間の期限は間近で、解釈次第では数時間後にリミットが来たっておかしくない。

 はらはらと流れる涙を、拭うこともせず放置した。本当は、もっと力になってあげたかった。抱きしめるだけじゃなくて、安心できる本物の居場所を作ってあげたかった。ヒロ君の初体験を、あんな形で私とじゃなく、ちゃんと好きな人と、付き合って、順序を踏んで、経験してほしかった。

 火事に巻き込ませたくなかった。

 マサシを撃退する方法を教えたかった。

 タイキの企みを破って、逃がしてあげたかった。

 私は自分の無力に、ただ泣いた。送り出した金属シリンダーは無音で、今はもう、誰が出てくる気配もない。

 きっと、二度と「接続」することはないだろう。一度「接続」した時刻は、二度と「接続」できない。その前後の日付に変わってしまう。そうでなくても、ヒロ君の時間では、連日こちら側に避難させたことになっている。もう、過去のヒロ君と会える時間はないだろう。

 何よりも、変えてはならないのだ。あの火事で、ヒロ君はマサシを確実に殺さなければならない。その証拠を隠蔽するためには、火事が必要になる。その火事を起こすきっかけとなった出来事もまた、避けさせてはならない。

 どれくらい経ったのか、私は重い足で自宅に戻った。ベッド傍の充電ケーブルに差さっているスマートフォンのLEDが点滅し、新着メッセージを告げているのを見て、手に取ろうとし、止まる。

 マサシに奪われたスマートフォンが、ここにある?

 急いでディスプレイを起動し、メッセージを確認する。差出人は未登録のIDだった。だが、本文を見て、何度目かの涙が流れた。

『久しぶり。ヒロです。記者の人から連絡先を聞きました。話したいことがあるので、会えませんか?』

 頬が緩み、涙が流れ、何度も顔を拭いながら返信した。

『最初のコインランドリーで会いましょう』


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