第7話 桜坂(前編)

 渡辺マナ改め、桜坂マナ。

 新しい名字と家族を得た私は、工学部建築学科に通う大学生になっていた。

 元通り喋れるようになったのは、小学校を卒業する頃だった。卒業間近で転校したのでまともな友達もできなかったが、中学校は楽しかった。生みの両親が生きていた頃のように、家には待ってくれる家族がいて、欲しいものをねだったり、行きたい場所に連れて行ってもらったり、華やぎ館にいた頃には考えられないほどの贅沢をさせてもらった。

 でも一方で、火に惹きつけられるようになってしまった。サヨちゃんからライターを引き継いだあたりから薄々感じていたが、あの火事以来、決定的に私の中で何かが変わってしまった。せっかく火に興味があるので、ゆくゆくは防災の観点から建築を考える研究をしたいと思っている。延々大火力で壁の耐火性能試験なんかをして、それを見ていたい。

「桜坂マナさんですね」

 課題のレポートを提出して寝不足気味のところに、唐突な男の声が掛かった。

 ナンパかな、と思って振り向くと、大学生よりもかなり年上の男がいた。

「笹木と申します。フリーの記者です。華やぎ館についてお話を伺わせていただけないでしょうか」

 じっと観察してみた。カーキのジャケット、黒いリュック、清潔に剃られた髭。あえて無個性を演出しているような男だ。

「どうして私が桜坂だと知っているのですか」

「十年前の事件で、うちの社の記事を通じて、あなたの今のご両親が里親に名乗り出たからですよ」

 ああ、そうか。当時からマークは外していなかったのか。

「お話することはありません。他の人に聞いてください。思い出したくもないことです」

 ヒロ君やマサシ、宿直でなかったスタッフや館長、話を聞く相手はいくらでもいる。わざわざ私が答える必要はない。

「参りましたね。せめてこれを受け取っていただけませんか」

 そう言って彼は名刺を差し出した。これくらいならいいか、と思って受け取っておく。名前と電話番号が記載されていた。

「どうにか、あの火事のことと、当時の華やぎ館のことを知りたいのです。消防の発表だけ書いては、記事の意味がありませんから」

 知ったことか。私に利益はない。

「失礼します」

 ばっさり切って、ツカツカと早足に離れた。あの過去はまだ付き纏っている。おそらく、一生。溜息が出た。ヒロ君は、今どこで何をしているのだろう。いい里親に引き取られたのだろうか。それとも、高校を卒業して働いているのだろうか。頭が良かったから大学で勉強しているといいが、孤児の大学進学率は低い。生活費と学費が賄えないからだ。大学受験のための環境も整備されているとは言い難い。塾には行けないし、高校からバイトをする。勉強する時間は削られ、私立大学は受けることすら叶わないことが多い。

 気にはしているが、私たちはもう会わない方がいいと思って、十年前に別れたきりだ。私だけが幸せになってしまい、気負ってしまったこともある。会えばどうしても、お互いの境遇を比べてしまう。そして、どうしても最悪の初体験を思い出してしまう。トラウマになったわけではないし、それで性的にアンバランスになったという気はしていない。あれは過去で、火で清めた思い出だ。自分の中で決着はついている。でも、ヒロ君もそうだとは限らない。

 いずれにせよ、私たちが会うことは辛い思い出と直結してしまう。別々の道を歩くのであれば、それでいいと思っていた。どこかで元気にしていてくれれば、それでいい。できれば、右目の怪我に負けず、幸せであってほしい。

 今の私の生活を見て、彼に呆れられないよう、私は気を引き締めて次のレポートと、今勉強している内容を考える。研究者を志す以上、予習も復習も、勉強しすぎるということはない。


     ◇


 笹木の訪問から数日。一人暮らしをしているアパートのインターホンが鳴った。ドアモニターには、これまた見知らぬ男が写っている。

 居留守を使おうと思ったが、ドアモニターの前に出されたスマートフォンに映ったものを見て、血の気が引いた。

「誰?」

「マサシだ。お前、マナだろ」

 その言葉に背筋が冷たくなった。顔立ちはずいぶん変わった。でも、その声はたしかにマサシのものだった。そうわかれば、顔にも面影を見つけることができる。

 マサシに、ここにいることがばれている。

「どうしてここがわかったの」

「笹木って記者に聞いたんだ。お前、滅茶苦茶つれない態度だったらしいな。ていうか、喋れるようになってんじゃん。そんな声だったんだな」

 失敗した。笹木を追い返すのではなく、適当に協力する条件に、私の個人情報を伏せるよう交渉するべきだった。私との関係を損ねても笹木に損害はない。笹木が私の居場所を知っている時点で充分予想できたことだ。

「練習したの。今さら何の用?」

「とりあえず上げてくれよ。積もる話があるってもんだ」

 マサシはこれ見よがしにスマートフォンを振った。そこにあるのは、私とヒロ君が無理やり交わらされたときの写真。

「わかった」

 舌打ちが出た。

 やられた。マサシはあれ以外にも、小さい頃の私の裸を散々写真に収めている。てっきり火事でデータごと消失したものだとばかり思っていた。どこかにバックアップデータがあったのか。

 あんなものをバックアップしているなんて、趣味が悪いにもほどがある。

 マサシは二十二歳、私は二十一歳になっていた。当時もマサシは大きく感じたが、今のマサシはなおのこと大きかった。身長が180センチはある。163センチの私と比べると、当時よりも遥かに威圧感が増していた。

「久しぶりだな、本当に」

 玄関を塞ぐようなマサシが、気安い友達に向けるような笑顔で言った。

「何しに来たの」

「今、桜坂っていうんだな。何というか、あれからどうなったのか知りたくてよ」

「……あんたは、どこで何をしているの」

「普通の大学生さ。Fランクって言ってわかるか?」

 私は曖昧に頷いておいた。四年制大学の中でも、最も学力が低いと言われる大学を、自虐や侮蔑を込めてそう呼ぶ。

「知らなかったよ。マナがこんなに頭良かったなんてな」

 私が通う大学は、偏差値が高いといって差し支えないくらいには高い。でも、私がどこに通っているかなんて教えた覚えはないのだが。

 ああ、わかった。あの笹木という記者、私の個人情報を全部マサシに教えたな。

「驚くことばかりだ。マナは喋れるようになっているし、いい大学に入っているし。あの頃からすれば、考えられない。そう思うだろ」

 悔しいが、否定できない。華やぎ館にいた頃、私の人生はもう駄目なのだと何度も思った。ヒロ君がいなければ、本当に無気力な人形になっていたかもしれない。

 人形になる前に火を点けられたおかげで、今の私がある。

 私は、マサシの様子に違和感を覚えていた。十年もあれば人の雰囲気は変わって当然だが、マサシの表情があの頃と違う。当時は、学校では優等生の顔をして、華やぎ館では暴君として、いずれも自信に満ちていた。今浮かべる笑みは……これは卑下?

「あんただって勉強できたでしょ」

 学年でも常に上位にいた。ヒロ君が転校してきたことで抜かれてしまったが、それでも児童養護施設にいながら高い学力を持っていたのだから、マサシの地頭はいい。

「所詮は小学校の勉強だ。大学受験には参考にならない」

 そうだろうか。勉強は積み重ねていくものだ。小学校でつまずいた子が高校に入ってから遅れを取り戻すのは大変だが、高校でのつまずきを大学受験で取り戻すのは難しくない。少なくとも、マサシには高いレベルを狙える才能はあったと思う。

「あんた、何があったの」

「酒、買ってきたんだ。飲もうぜ」

 気づかなかった。マサシはコンビニの袋を提げていた。

「明日も講義があるの」

「真面目だな。ま、中に入れてくれよ。玄関でする話じゃないだろ」

 家に上げたい気持ちは欠片もなかったが、玄関でする話ではないこともたしかだった。

「もう一度聞くけど、何の用なの」

「何って、話をしに来たんだよ。お前があれからどんな家に行って、何をしてきたのか。俺と何が違ったのか」

 これ見よがしな溜息をついて、道を譲った。いずれにせよ、写真を破棄してもらわなければならない。追い返すこともできなかった。

「散らかってんな」

 マサシのぼやきは聞こえなかったことにした。急に来られて部屋の片づけまで言及される筋合いはない。

 部屋の中央にあるローテーブルにどっかりと座り、マサシはビールのプルタブを開けた。ぬるくなっちまった、とごちる。

「私は桜坂家に引き取られて、喉も治った。頑張って勉強して、今は建築学科にいる。どう、満足した?」

「そう急かすなよ。座ったらどうだ」

 私はマサシの正面ではなく、斜めに座った。正面から目線を合わせ続けるのは辛い。体を抱く腕に力が入った。

 マサシのことが怖い。体は覚えている。

「桜坂家ってのは、いい家族だったか」

「まあね」

「本当の親だと思えたか」

「思えた。今も思っている」

 最初は不安だった。新しい家族をお父さん、お母さんと呼べるだろうか。一度家族を喪った恐怖を乗り越え、また家族をつくれるだろうか、と。

 一緒に暮らしてみて、最初の一年間は父や母と呼ぶことができなかった。声は戻っていたが、どうしても自分と繋がりがある人なのだと思えなかった。でも、次第に抵抗がなくなり、いつの間にか両親だと思えるようになっていた。劇的な何かがあったわけではない。だんだんと家族となっていったのだ。

 初めてお父さん、お母さんと呼んだときの、二人の驚いた表情と、その後の自然さを装った、喜びを隠せない不自然な仕草には思わず吹き出してしまったことを覚えている。

「あんたはどうだったの。どんな家に引き取られたの」

「まあ、いい人たちだよ。殴られたことも、一度もない」

「じゃあ、どうして不満そうなの」

 マサシは答えなかった。この歳になれば、推測できる面もある。華やぎ館では王様だったマサシは、対等な家族に放り込まれた。それまで歪な家庭か児童養護施設しか知らなかったマサシにとって、案外、居心地が悪かったのではないだろうか。

 例えば、家族の誰も殴らないから、自分も誰も殴れない、だとか。言葉でコミュニケーションを取り、自分の気持ちを知ってもらうことが、できなかったのではないか。

 マサシの産みの両親は家庭内暴力が発展して離婚調停に進んだ。夫が妻を殴る。それを見て育ったマサシはどうなったか。それは私とヒロ君が身に染みて知っている。推測だが、マサシはお母さんに対し、日常的に暴力を振るっていたのではないか。大人から見た小学生の力はたかがしれている。だから母親が問題にしなかっただけで、マサシの心は見た目以上に歪んで育ってしまったのではないだろうか。

 憶測にすぎない。でも、確信めいたものはある。

 ストレスのはけ口を他人への暴力という方法に依存してきたマサシは、実はストレス耐性がとても低かった可能性がある。なまじ頭がいいから、新しい両親に手を上げることもできず、そして、鬱屈した思いを誰にも打ち明けられなかった。

 だとしたら自業自得だ。十年でも二十年でも苦しめばいい。

「ま、いいわ。華やぎ館に比べたら天国でしょ。なんたって、人並みに親がいるんだから」

 本心であり、皮肉。

 マサシはぐっと呻き、絞り出すように言った。

「ああ、それは間違いない。小学校じゃ、俺はずっと学校の奴らを妬んでいた。どうして俺は施設で暮らしているのかって」

 あの町では、華やぎ館のことを単に「施設」と呼んでいた。それで意味が通じるほどの小さな町だった。

「友達の家に行っても、施設の子、施設の子って陰で言われて、憐れまれたな。それが聞こえていながら知らないふりをするの、苦しかった」

 学校に友達がいる時点で恵まれている。私やヒロ君のように、明らかにやばい目に遭っている子にはクラスメートだって寄り付かなかった。サヨちゃんは学校に行くこともできなかった。

 今も昔も、マサシには想像力と共感能力が欠如している。私に言うことではないとわかっていない。まあ、そうでないと虐めなんてできないから当たり前だけど。

「あんたにも苦労があったんだろうけどさ、それは私に比べたら大したことないよ。こっちは喋るところから再スタートしたんだもん。不幸自慢はもうこれでおしまいにしよう。そもそも、私はあんたの愚痴を聞く義理もないしね。彼女でもつくって、未来のこと考えな」

 かつて虐められていた身としては、最大限に優しい言葉だと思う。それとも、こいつには過去を吐露する友人すらいないのだろうか。

「彼女はいる」

「ふうん、良かったじゃん」

「言えない。言えないんだ。俺が養子だってこと。施設で過ごしたこと」

「ああ、言い辛いのはわかる。でもいつか言えるよ」

 私も一応彼氏がいたことはあるが、今の親が里親なのだとは言えなかった。私は気にしていないが、相手がどう思うかはわからないから。

「俺、今日は聞きたいことがあったんだ」

「何?」

 用があるならさっさと済ませて帰って欲しい。でも、どうやって写真を削除してもらおう。

「あの火事、お前の放火だろ」

 すっ、と心の温度が下がった。思考が臨戦態勢に入る。

 こいつ、告発しに来たのか?

「俺もあの頃、警察と消防に話を聞かれたし、ある程度は教えてもらった。発火には三つのものが必要とされている。火種、可燃物、酸素だ。酸素はどこでもあるとして、華やぎ館は木造だった。可燃物といっても悪くない。じゃあ、火種は何だ。全焼させるほど、ほぼ全員が死亡するほど急速に火が広まるような状況を、どうやったら作れる?」

「私が知るわけない」

 今になって。まさか、今になってマサシが直接来るなんて。

「お前、外の納屋に、ミナコによって閉じ込められたと証言したらしいな。火から逃げてきたヒロに助けられた、とも。俺が知る限り、ミナコがそんなことをしたことはない。あいつは基本的に見ているばかりだった。自分からマナを閉じ込めたことはない。お前は嘘をついている。理由は簡単で、閉じ込められていた人間には放火ができないからな。自分を容疑者の圏外に置くための嘘だ。

 結局、原因不明で調査は終わったらしいぞ。通報が遅れたせいもあって、燃えすぎたんだとよ。俺も、二階から寝ぼけて飛び降りたら足の骨を折って、電話がある所まで行けなかったしな、敷地の端まで這って逃げるのが精いっぱいで通報する奴がいなかった。

 ヒロが放火犯って説も考えたが、それはあり得ない。犯人なら、あれほどの重傷を負うようなヘマはしないだろう。右目と引き換えじゃあ、コストが高すぎる。食堂にいたらしいが、あそこは窓の外が小さなバルコニーになっていて、その先は崖みたいに落差がある。そんな逃げ場がない場所に追い詰められるのは、犯人じゃない。そしてもちろん、俺も犯人じゃない。警察からすれば、俺とお前の容疑は三分の一ずつ、外部犯が残りの三分の一ってところか」

 マサシの言うことは全て正しい。私の有利な点は、警察は納屋の施錠を外せることを知らず、また、ヒロ君と口裏を合わせていることを知らないこと。そして、マサシが日常的に火を使って私たちを虐めていたという心証の悪さも有利に働いている。

「私が放火犯なら、どうして警察は捕まえに来ないっていうの。それが何より、あんたの考えが素人の妄想だって裏付けていると思わない?」

「証拠不十分」

 マサシがつまらなさそうに吐き出した。

「要するに、そういうことだ。容疑者を絞り込み切れなかった。外部犯の犯行を否定できなかった。お前は失声症で取り調べもまともに行えないし、俺もお前も小学生。見逃してもらったというより、あれ以上追い込めなかったというのが真実だろうよ。よくやったな、完全犯罪だ」

「私は放火犯じゃない」

 嘘でも、そう主張し続ける。

「じゃあ、殺人犯だな」

「違う」

「違わない」

「私が逮捕されなくて助かったのはあんたの方でしょ。警察に取り調べられたら真っ先にあんたに受けた傷を傷害罪で訴えた」

 マサシの眉間に、明らかに皺が寄った。急所を突けたようだった。

「訴えるのが面倒だから、私は虐めということにしておいてあげたの。あのとき、警察に私の体中の傷を撮影されている。資料は残っているはずだから、今からでも傷害罪で訴えることはできるんですけど。

 来年は就活? 前科はつかなくても、訴えられたという事実は重いだろうね」

「そうなりゃ、俺はお前を放火と殺人で告発する」

「証拠不十分で終わった事件でしょ」

「一度審議が終わっていればな。だが、殺人罪に時効はない。放火から殺人事件に切り替われば、どうなるかわからねえぞ」

「あんたも容疑者でしょうが。容疑者の証言を真に受けて警察が動くと思う? 証拠だってもう集められないし、華やぎ館はとっくに取り壊された。もう一度証拠不十分になるだけ。最悪、再調査の結果、あんたが逮捕される可能性だってある」

「どうかな」

「犯人じゃない私にとってはどうでもいい。きっと失火だったんでしょ」

 睨み合う。どちらが首根っこを掴んでいるか、主導権を譲るわけにはいかなかった。

 物的証拠があるのは私だ。訴えれば、まず先に私が訴える傷害罪の方が取り沙汰される。証拠写真があるから、実刑まではいかずともマサシの経歴に傷をつけることは確実にできる。

 対して、マサシの方は証拠がない、ただの憶測だ。警察からすれば、マサシが放火した可能性だって充分にある中で、マサシの証言一つで私を逮捕なんてできるはずがない。そして、十年も前のことを明らかにするのは容易ではない。マサシが言ったことは、そうとも考えられる、という程度の内容だ。

「マサシ、もうやめよう」

「何をだ」

「こうやって腹を探り合って、十年も前のことを掘り返して何になるの。あんたがどんな十年を過ごしたのか知らないし、聞いたところで共感してあげられもしない。もう、会うのはやめよう。私は過去のことを警察に訴えない。あんたも私に構わない。互いに不可侵ということにしない?」

 ここからだ。有利は取っている。マサシが言い返してこないのがその証。

「だから、私の写真を全て消して。バックアップも全部。完全に縁を切りましょう」

 あの頃、マサシは通信機能のない携帯電話をカメラ代わりに使っていた。火事の中でカメラを拾う余裕があったとは思えない。それくらいの余裕があれば骨折しなかっただろう。ということは、データをどこか別の場所、例えば友達の家のパソコンやクラウドサーバーにバックアップしていたはずだ。そちらも消さなければならない。ここからが交渉の本番になる。

 マサシは顎を手で擦り、考え込んだ。私は黙って待つ。思う存分損得勘定してくれればいい。私の方が確実な被害者で、警察を巻き込むなら強い立場だ。ポルノ一つで自分の経歴を守れるのであれば、マサシにとっても安い取引だとわかるはず。

「やっぱりこれは、お前らにとって無視できないか」

 マサシの雰囲気が変わった。下衆な笑いが唇に浮かぶ。

「これを消すのはあり得ない。お前が俺を訴えたとき、反撃できる手段だからな。お前の弱みを握っておかないと安心できない」

「私が今さらそんなものに怯えると思う? 私の裸の価値なんて地に堕ちたも同然でしょ。どれだけ汚されたと思ってんの」

 内心舌打ちをしていた。気づかれている。あれには、人質のような価値がある。キープすることで効力を発揮するタイプの伏せ札。

「俺を訴えた場合、お前の周囲に画像をばら撒く。名前も学部も全部晒した上でな」

「やってみれば? 十年前の地獄に比べればなんてことない。それにそんな子供の頃の写真じゃ、私だってわからないんじゃないの?」

 嘘だ。絶対にやめてほしい。今の充実しながらも平穏な日々を、友達を、親を、生活を、失いたくない。例え小学生の頃だとしても、私の写真をばら撒かれたら悲鳴を上げる。

 マサシは私の内心を見抜くように鼻で笑った。

「知ってんだよ。お前らはそんなに強くない。そして、お前は一つ、大きな見落としをしているな」

「見落とし?」

「俺が男で、お前が女だってことだ」

 突然、膝立ちになったマサシの拳が私の横腹に食い込んだ。


     ◇


 荒い息で、服を剥ぎ取られた私をマサシが見下ろした。

「お前は俺から逃げられない。施設から離れたら過去がなくなるとでも思ったか? 過去はいつまでもついてくる。俺たちは施設育ち、本当の親がいない子供だ。本気で守ってくれる人は、もういないんだよ。ペットと同じだ。里親の趣味で拾われただけの中古品にすぎないんだ」

 マサシの声が少し遠い。首から下が分離したように力が入らない。

「子供の頃の写真じゃ、お前本人とはわからないって言ったな。それじゃあ、今の写真ならはっきりわかるな」

 何度かシャッター音が聞こえた。ことの最中にも何度か聞こえていた。

 どうやら今日のところは飽きてくれたようだった。散らかった服に緩慢に手を伸ばす。

「絶対に、俺を訴えようなんて思うんじゃねえぞ。また来る」

 そう言い残し、マサシは帰っていった。私は鍵を締め、下着だけ身につけた状態で玄関にへたり込んだ。

 過去は追いついてくる。マサシに施設で育ったコンプレックスのようなものがあったことは意外だけど、それがまさかこんな形で巡ってくるとは思わなかった。

 本当に馬鹿だ。マサシは馬鹿になってしまった。

 私が放火犯だとわかっているのなら、どうしてこんなことを、わざわざ刺激するようなことをするんだろう。あの火事で二十人が死んだ。私が二十人を殺した大量殺人者だと気づいていながら、ストレス発散のために会いに来て、私を敵に回して帰った。

 いつまでも、手も足も出せない渡辺マナと同じだと思っているのか。私はあの火事で知った。人は、殺せば死ぬということを。焼けば清められるということを。

 私は必ず報復する。あの日から、私のあらゆるものが変わってしまった。胸の奥が熱くなる。チリチリと燃えるその炎は、華やぎ館を燃やした日からずっと燻っていた。

 あの日できなかった、やり逃したことを今こそ挽回しよう。私はマサシを焼きたかったんだ。


     ◇


「子供からすると日常でしたけど、やっぱりあれはパワハラだったと思います」

「当時はその言葉自体、有名ではありませんでしたね」

「はい。だから気づきませんでした。館長は頻繁に、ほぼ毎日誰かを怒鳴っていました。だからスタッフも短い期間で辞めていきました」

 私は笹木に連絡を取った。華やぎ館について話しても良い、と。すぐに笹木は飛びついて来た。対面で会い、マサシに個人情報を無断で流したことを責めると、笹木は平謝りに謝った。それが彼の二枚舌だとわかった上で、私は取引を持ち掛けた。華やぎ館のことを話し、マサシに教えたことも責めない。代わりに、マサシについても知っているだけ教えろ、と。

「スタッフの目が行き届かなくて、子供たちは放置気味でした。自分たちでなんとかしろって感じで」

「だからいじめも起こった」

「そうですね。大人の手と目が足りなかったことは、原因の一つだと思います」

 大人は大人で大変だった。今になれば、彼らにも余裕が無かったことを察せられる。大人は、子供の頃思ったほど大人ではない。

 当時書かれた記事は火事と館長の怠慢を責める内容で、そこに暮らす子供たちやスタッフたちの日々の努力には触れられていなかった。いじめを見過ごしたからといって、彼らが何もしていなかったわけではない。大半の子供たちが居心地よく暮らせるよう努力していたし、館長に立ち向かった人もいた。笹木に語れることはたくさんある。

「私は虐められる側でしたが、それを告発してくれた男の子がいました。虐めの現場にスタッフを連れてきて、訴えたんです」

「ほう、それは初耳です」

「そのときはやる気無さそうでしたが、一か月も経たないうちにそのスタッフは退職しました。プライドというか、仕事に対する誇りがその人にもあったんでしょうね。館長に盾突いて、クビになったと噂でした」

「酷いですね」

 笹木のボイスレコーダーには、今も私の声が収まっていく。できればメモで済ませてほしいと言ったが、記事を書く際必要だからこれだけはどうか許してほしいと頭を下げられた。

 妥協し、この音声は絶対に誰にも聞かせないこと、記事を書き終わったらデータは消すこと、破れば警察に訴えると念書を交わし、取材を受けることになった。

「事件そのものについてはほとんど書きませんので、そういった日常の風景や、人々の息遣いが感じられるエピソードの方がありがたいです。でも、どうして当時、その館長に喧嘩を売った人に取材していないんでしょう」

「知りませんよ」

 私に聞くな。

「まあ、記者も全知ではありませんからね」

 平然と開き直る笹木だが、華やぎ館と関係を断ちたがっている相手を捕まえるのは難しかっただろう。あそこは、子供だけではなく大人もトラウマを抱えかねない場所だった。

「それでは、マサシのことを教えてください」

 笹木の顔が露骨に曇った。忘れてくれていれば、とでも思ったのだろうがそんなわけがない。

 笹木は溜息をつき、手帳の一枚を破った。さらさらと写していく。

「住所と電話番号、メールアドレスです。あとは、大学。県内のまあ、普通の大学です。SNSのアカウントもあるのでしょうが、教えてもらえませんでした」

「彼女は?」

「は?」

「彼には恋人がいるはずです」

「いや、存じ上げませんね。華やぎ館に関係ない方でしたら、こちらも用はありませんし」

「他には? 彼の学業の成績とか」

「さすがにそこまで調べませんよ」

 苛つきが顔に出そうになって隠した。使えないというか、自身にとっての要点だけ押さえた無駄のない調べというか。

 笹木に逡巡する様子があったので、おや、と思い少し待つ。喋れない頃があったおかげで、相手が喋るのを待つのは得意になった。目が泳いだ後、笹木は思い切った様子で名刺入れを取り出した。

「もし、もっと知りたいのであれば、こちらを頼ってみてはいかがでしょうか。私などよりよっぽど有益な情報を提供してくださるかと思います」

 名刺には、味気ない白地に「黒草探偵事務所」という屋号と連絡先だけが書かれていた。

「何度かお世話になったことがありますが、腕のいい探偵さんです」


     ◇


 過去の自分を救おう。そう考えたのは初めてではなかった。

 逡巡だってあった。過去が変われば何が起こるのかわからない。過去の自分にこれから起きることを伝えたとして、今の自分が消えてしまうことだってありえる。それでも、よりよい未来があるはずだと思って過去の自分へと「接続」を試みたことは幾度もある。

 だが、一度も成功しなかった。

 子犬の死を目の当たりにした後、一時は「接続」することも困難だったが、今では気持ちも落ち着いて衣類乾燥機と向き合える。それでも、過去の自分と会うことは成功しない。

 理由はいくつも考えられる。「接続」したのは過去の華やぎ館の洗濯室だが、私がそこにいるときは大抵別の場所に接続して避難するためだった。つまり、「接続」先の時間軸の私は、さらなる過去に避難中だったというケースだ。

 もしくは、単にそういうものなのかもしれない。過去の自分には会えないようにできているのかもしれない。「接続」が何に由来する能力なのか不明な以上、全ては経験則だ。

 かつては容易く衣類乾燥機の中に入って「接続」先へ行ったものだが、未だに私は顔を突っ込むことができない。だから「接続」先には行けない。もちろん購入なんて考えたこともない。

 だから、「接続」先から私が現れるのを待つことになるのだが、上手くいかない。考えてみれば明らかだが、洗濯室でぼけっと立っているところをこちらから捕まえるのは、あまり現実的ではない。そんな行動を頻繁にしている子供がいたら病気を疑った方がいい。

 そこで今回は、「接続」先の時期を変えてみることにした。子犬が殺された後、私が乾燥機に入れなくなってからの時期。よく覚えていないが、もしかしたら洗濯室でトラウマと戦っている私に会えるかもしれない。あの頃、「接続」できなくなり、何とか能力を取り戻そうとトライしていた、ような気がする。

 近所のコインランドリーに行った。利用者が極端に少ない寂れた場所で、接する道路にもほとんど車が通らない。

 並んだ乾燥機の一つに向かって「接続」を使った。ただ念じるだけ。そうすれば乾燥機の奥に、あるはずのない空間が開ける。

 目を閉じ、華やぎ館をイメージする。年月日まではっきりとイメージし、蓋を開けた。今度こそ過去の自分に会えますようにと思って目を開けると、そこには、何の変哲もない金属シリンダーがあった。

「あれ?」

 普通の奥行しかない、ただの乾燥機だった。もう一度やってみるが、結果は同じ。「接続」すらできない。

 脱力して、ずるずると壁に体を擦った。今となっては何に使うこともできない、意味があるのかないのかわからない能力だったが、使えなくなってしまったのだと思うと、急に寂しくなってきた。

 そういえば、使うのは久しぶりだった。実は回数制限でもあったのか、使えなくなる条件を私が満たしてしまったのか。例えば年齢のような、気づかないうちに変化したもの。

 子供にしかできないことだとしたら、今の私は立派な大人になってしまった。

 一度能力を自覚してから、失敗したことはなかった。使おうと思えば必ず使えた。十年以上の付き合いであった、私だけの特技。胸に穴が空いたように、切なくて泣きそうになった。

 諦めるか、もう一度トライして本当に使えないか確かめるか、それとも出直して心を落ち着けるか悩んでいると、私が「接続」を試みた乾燥機の隣の乾燥機がガタついた。

 弾かれたように立ち上がり、その蓋を開ける。中には、縮こまって震えるボロボロの服を着た男の子がいた。

 こっちが「接続」された? 私はどこに繋いでしまったのだろう。

 とりあえず声を掛けることにした。上手く言いくるめて、口止めして帰さないといけない。

「君、どこから来たの。何しているの」

 ギョッと振り返った彼の顔を見て、息が止まるかと思った。

 ヒロ君。どうしてここに。

 華やぎ館で暮らしていた頃の、記憶のままのヒロ君がそこにいた。

 名前を呼びかけようとして、何とか止まった。向こうからすれば私は知らない女だ。名前を知っているのはおかしい。そもそも、ここにいることを不思議がらないと不自然だ。

「ええと、かくれんぼするには、あまり良くない場所だよ。とりあえず出てきたら?」

「え、誰?」

「誰って」

 正直に名乗るわけにもいかない。ヒロ君にとってのマナはまだ小学生だ。

「私は桜坂って名前だけど、君こそ誰さ」

「宮城ヒロ」

 ですよね。

 まさか、こんな形で「接続」されるなんて。ヒロ君、乾燥機の中に逃げ込んだの? 子犬のように焼かれるとは思わなかったのかな。

 這い出ようとするヒロ君に手を貸し、少しずつ話を聞いていく。ヒロ君はコインランドリーから出ようとして、見えない壁に阻まれた。

 どうも、私が「接続」したタイミングとヒロ君が乾燥機に身を隠したタイミングが一致したらしい。今は午後六時五十五分。ちょうど、マサシたちに追い回される時間帯だ。「接続」のルールはヒロ君にも適用されているらしく、ヒロ君はこのコインランドリーから出ることができない。ちょうど、私が華やぎ館から「接続」したような状態になっている。

 不思議なものを見る顔をつくりながらも、私は内心納得していた。過去の自分に会うことは、これまでもずっとできなかった。だが、過去の他人は会えるようだ。これまでは「接続」先の人との接触を避けてきたため気づかなかった。

間接的に当時の人物と会うことができるなら、どうにかして過去の私の行動を変えることができるかもしれない。そして、今の私の状況を好転させることも。

「これはテレポートだ」

 とりあえず、私の能力であることはまだ隠しておこう。ヒロ君がどう反応するかわからない。

「さっきそう言いました」

 既にヒロ君が言っていたらしい。不満そうに言う。うわ、可愛い。

「それも、かなり限定的な」

 心の動揺を悟られないよう、大人らしく余裕を持って続ける。

「限定的?」

「衣類乾燥機を通じて別の場所に移動したんだ」

「どうして乾燥機なのでしょうか」

「それは私にもわからないよ。というか、君がやっていることなんでしょ。どうして乾燥機なの」

 私がやっている、または、この場所に理由がある可能性を意図的に排除して話す。時間がずれていることも隠すことにした。私の頭の中では、ヒロ君を定期的に「接続」して呼び出す算段が既に進んでいた。

「なぜ乾燥機なのかはともかくとして、起こっていることは間違いなくテレポートだ」

 ヒロ君が頷く。

「ヒロ君は、華やぎ館の乾燥機に入ったの?」

「そうです」

「何かから逃げて、入ったのかな?」

「……そうです」

 言わせてごめん。本当は知っている。襟から覗く火傷痕に目を遣った。

「その傷と関係があるんだろうね」

「……はい」

 ヒロ君の手が、傷を隠したので、そっと外させた。気丈に振舞っている様子に胸が締め付けられる。

 思わずため息が漏れた。当時は見慣れていた傷だが、今見ると本当に酷い。

「ヒロ君は、自分をいじめてくる相手から逃げたい一心で、ある種の能力を開花させてしまったんだよ。子供のうちは稀にあることでね、特に、虐待やいじめに遭っている子には」

 里親に引き取られてから、「接続」の正体を探るために、子供の空間、時間移動について調べてみた。いずれも古く不確実なデータだったが、数例報告はある。それらの多くは、日本では神隠しと呼ばれていた。

 ヒロ君は一瞬呆気に取られ、やけに大人びた吐息を零して笑った。

「ああ、僕はいじめられているでしょうからね。心当たりはあります」

 息が詰まり、視界が滲んだ。押さえられず、声が荒くなった。

 そんなに淡々と、微笑みながら言わないでほしい。そして、そうせざるをえないほど、虚勢を張っていないと心が折れてしまいそうなほど辛かった当時の自分を思い出した。

 私には、そんな顔をしなくていい、そう言ってあげたかった。

「いじめだけじゃないでしょ。子供の、心身の健康が劣悪な状態にあることを放置しているんだから、それは保護者の義務を放棄している、つまり、ネグレクトに近い虐待だよ。このテレポートは、ヒロ君の悲鳴なんだよ」

 途中から声が震えるのを止められなかった。助けたい。強烈に心の奥から湧いてきた気持ちが私の手を動かす。

「よく頑張った。ヒロ君は、私が助けるから」

 気づけば抱きしめていた。ヒロ君にかつての自分を重ねている自覚はある。ヒロ君を救うことで、傷ついた過去の自分を救おうとしている。でも、それでも、なんとかしてあげたいこの気持ちは本物だった。

「助ける?」

「そう、助ける。少し時間はかかるかもしれないけど、ヒロ君を必ず解放してみせる。必ず」

 子供の頃の私が、もうすぐ華やぎ館に火を放つから。

「信じられない、そんなこと」

「今はそれでいいよ」

 懐かしさ、愛しさ、切なさ、全てひっくるめて、私はやるべきことがわかった気がした。ここを彼の避難所とする。そして、彼が負うであろう火傷と右目の負傷を、なんとしても避けさせる。それがこの能力の、本当の使い道だったんだ。

 その本心の裏側で、もう一筋の利己的な計算が働いていることは否定しない。

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