第6話 マナ(後編)
マサシ君とその取り巻きからの暴力はだんだんと激しさを増していた。ミナコちゃんや他の子たちは見ない振り。ヒロ君はまだ事情がわかっていないようで、屈託のない笑顔で接してくれる。
ある日、ミナコちゃんとヒロ君が学校で話している場面に出くわした。図書館のすぐ外の廊下で、私は直感的に身を隠した。こういう勘はどんどん鍛えられていく。人間の害意のようなものへの感覚が鋭くなるのだ。
「どういう意味か、よくわからないんだけど」
ヒロ君は顔をしかめている。珍しく不機嫌そうだった。
「あんたはまだ華やぎ館に来て日が浅いからわからないだろうけど、マサシがマナを嫌っている。マサシと同じことをしろとは言わないけど、マナと仲良くすると、マサシの機嫌を損ねるかもしれない」
ああ、やっぱり。私が何をしたのか、と叫んで割って入りたい。でも、まだ私の喉は声を取り戻していなかった。
「損ねたらどうなる」
「わからないけど、あんたもマサシの標的になるかもしれない。あいつ、親の離婚調停が何か月も進展しなくて周りにはけ口を求めているの。今はマナ一人だけだけど、いつそれが増えてもおかしくない」
「それ、マサシに注意するべきじゃないかな。周りに八つ当たりするなって」
私は思わず拳を握って頷いていた。そう、その通りだ。
「それで聞く相手じゃないから困っているんでしょ。華やぎ館の子供は、ヒロ君みたいに物分かりがいい子ばかりじゃないの。自分の感情の扱い方を忘れたような子も沢山いるんだから」
ミナコちゃんの言うことは、ある面で華やぎ館の事実だった。私もその一人だと言える。サヨちゃんもそうだ。年下の子たちや、入って来たばかりの子の中には、情緒が不安定な子が多い。
「マナに何をしているんだ、マサシは」
「知らない。叩くとか蹴るとか、そういうことだと思う」
ヒロ君はしばらく考えた。私は何を聞きたいのか、どんな言葉が出てきて欲しいのか、自問しながら待った。
「まあ、僕は正義の味方じゃないし、自分のことで精一杯だよ」
「でしょ。いいじゃない、私と遊ぼうよ。喋れない子よりも楽しいよ」
あ、と脳に電気が走った。
これは良くないことになるかもしれない。
「喋れるかどうかは関係無い。多分、すぐに治るだろうし。マサシに殴られたくはないけど、僕はこれからも同じようにする。マナを特別扱いしないし、マサシにも特別気を遣わない。どちらかというと、マナが何を考えているのかってことの方が気になるかも」
「ふうん」
私は恐ろしく低い相槌から逃げるようにその場を立ち去った。ぐるぐると思考が巡る。ヒロ君が言ったことは、誰も特別扱いしない、つまり中立の宣言だ。ただのクラスメートならそれでいい。でも、ミナコちゃんはそういう意図で言ったのではない。
あの子は、ヒロ君が好きなんだ。それほど強い想いではなくても、気になっている。だから自分側にヒロ君を引き寄せようとした。ヒロ君の宣言の中には、マサシ君と私の名前が挙がったが、ミナコちゃんはいなかった。つまり、ミナコちゃんを特別扱いしないどころか、気に掛けない宣言であるとも受け取れる。そして、ミナコちゃんはそう解釈しただろう。あの子の高いプライドが傷つけられたとなると、次の行動が読めない。
火の粉が降りかかりませんように。そう祈ったが、思った通り、状況は悪くなった。
◇
ミナコちゃんには取り巻きがいる。みんな、強いものに集まって安心したがる。男の子はマサシ君に、女の子はミナコちゃんに。
その夜から、追手は三人増えた。ミナコちゃんの取り巻き二人、マサシ君の取り巻き三人、そしてマサシ君とミナコちゃんの、合計七人に追われ、私が捕まる頻度は倍増した。ミナコちゃんたち女の子が手を上げることは稀だったけれど、私が蹴られている様子をせせら笑って見ていた。
「こんなのどう?」
とミナコちゃんが安全ピンを取り出したときは戦慄した。マサシ君たちはワンパターンだった。服の下、見えない場所を殴る、蹴る。ミナコちゃんが与えたのはバリエーションだった。
「いいな、それ」
マサシ君の顔は酷薄さを増し、私の体には血が出る傷が増えていき、「接続」して逃げる頻度も倍増した。何もない日はほとんどなくなった。
サヨちゃんは、あの夜以来、たまに私を夜の散歩に誘った。「接続」して逃げられて、私の体力に余裕がある日、油を盗んで裏山を歩いた。川に行ったり、小さな焚火をしたりした。
「ヒロだっけ。マナちゃんと同じ学年の子。ずいぶん成績がいいらしいね。この前の学力テストでは学年一位だったって聞いたよ」
私は知らなかった。頭が良さそうな気はしていたが、そこまでとは。
「五年生の中ではマサシが一番勉強できていたけど、王座陥落かな」
ふふ、とサヨちゃんは愉快げに笑っている。私は合点がいった。最近マサシ君がなおのこと苛ついている理由はそれだったのか。
マサシ君は学校の勉強がとてもできる。華やぎ館の子供たちは全体的に成績が悪いなかで、学年でも上位に入る。本人の中で少なからず誇示していた部分があったのだろう。それを上回る子が入って来た。内心穏やかではないのが、私が負った傷から伝わってくる。
「華やぎ館で高成績を維持するのは大変なんだよね。そもそも義務教育をちゃんと受けていない子だっているし。華やぎ館に入ったら入ったで、下級生はうるさいし生活リズムに融通は効かない。集中して勉強できる空間も時間もない。マサシだって努力していたはずなんだよね」
それは認めざるを得ない。消灯するまでの華やぎ館はうるさい。二十人以上の子供たちがいると、どこにいてもじゃれ合う高い声や喚き声が聞こえてくる。私は主に放課後の学校で宿題をやってしまうけれど、予習復習するような時間は、ちょっとない。マサシ君は工夫し、時間をつくり、彼なりの意地で成績を上げていたはずなのだ。
それを上回るヒロ君は、元の能力が、きっととても高い。
「これは、もっと荒れるかもなあ。同じ学年じゃなくてよかった」
数日後のある日、私は「接続」して逃げることに失敗した。洗濯室に入る直前に、忍び寄っていたマサシ君に手を掴まれ、そのまま空き部屋に連れ込まれたのだ。鼻息荒く床に倒され、体をまさぐられる。ミナコちゃんや取り巻きがいるときはこういうことをしないため、久しぶりだった。抵抗する意志はとっくの昔に失われていて、頭の中では燃え盛る華やぎ館のイメージだけが浮かぶ。
そこに、ノックが鳴った。マサシ君は驚いたが、私も驚いた。ガラリと引き戸が開くと、宿直のスタッフが立っていた。
「何をしているんだ、こんな場所で」
マサシ君は、別に、と一言だけ発してスタッフの脇を通り抜けた。スタッフは、はあ、とため息を零した。
「用がないならこの部屋に入るなよ。かくれんぼもほどほどにな」
やっぱり、と思ったが、声が割り込んだ。
「ちょっと待ってくださいよ」
ヒロ君だった。囁くような声で詰め寄る。
「明らかにいじめです。マサシを止めてください」
「明らかにって、何が明らかなんだ」
その男性スタッフは怠そうに言う。
「それは……」
ヒロ君は私を見た。そう、これは私が語るべきことなのだ。本来は、私が助けを求めるべきこと。でも、その声がない。
私は持ち歩いているメモ帳に書き綴った。手が震え、字も揺れる。
「ゆっくりでいい」
ヒロ君は私の肩に手を置いた。何十秒もかけて書いたそれを、涙を拭って渡す。
『叩かれたり蹴られたりしています』
その紙を渡すと、スタッフは「そうか」と言って頭をガシガシと掻いた。
「やるだけやってみるけどな」
そう言って、彼は一月後に退職した。何度も館長と口論になっている声が多くの子供、スタッフに聞かれている。
◇
ヒロ君がマサシ君の標的に追加されるまで、時間はかからなかった。夏休みが終わってすぐ、私とヒロ君は、その日捕まった方がいたぶられる、そんな生活になった。
私の方が逃げるのが上手かったのは言うまでもない。華やぎ館で暮らした期間が違うし、逃げてきた経験が違う。そして何より、「接続」すれば過去の別の衣類乾燥機に跳べた。
あまりに頻繁に「接続」を使うものだから、いつ、どこに跳ぶのか、ほぼ完璧に選べるようになっていた。民家やマンション、コインランドリー。曜日と時間から、どこなら人がいないか、だいたい把握できてもいた。
ヒロ君が標的になったことで、私の負担は半減以下になった。逃走成功率も上がり、はっきり言って感謝した。いい意味ではないことはわかっていたが、体は正直に、ヒロ君が囮になることを喜んでいた。ヒロ君の体にはみるみる怪我が増え、表情はどんどん曇っていく。止める人もいない。気に掛ける人もいない。私たちは二人だけで、個別に逃げるしかなかった。
ヒロ君の表情がどんどん険しくなり、テストのたびにヒロ君がマサシ君よりいい点を取るものだからマサシ君の苛つきも募り、二人の間の空気はみるみる悪くなっていった。もちろん、マサシ君とミナコちゃんの連合軍七人とヒロ君一人ではどうすることもできない。そのはずなのに、ヒロ君はその敵意をマサシ君だけに向けているようだった。
「いい加減にしろ」
今日もマサシ君とヒロ君は取っ組み合っていた。でも、ヒロ君はすぐに制圧される。人数が違うから当たり前だ。
私には不思議だった。どうしてヒロ君は抵抗することを諦めないのだろう。毎回、力の限りやり返す。私なんかは、できるだけ早く飽きてもらうためにやられっ放しにしておくのに、ヒロ君は後でより酷い目に遭うとわかっていながら抵抗し、一発でも殴り返す。
サヨちゃんに話すと、苦々しそうな顔になった。
「マナちゃんがどういうことをされているのか、知っても私はどうしようもないけど、ヒロって子は、彼なりに最善を尽くしているんだと思う。誰だって痛いのは嫌でしょ。無抵抗の相手よりも、一発だけでも反撃を食らうかもと思うと、マサシたちも、少なくとも手を出しづらくなる」
私はそれで言うと、無抵抗の相手の代表例だ。逃げる、捕まる、耐える、これしかしない。
「でもまあ、それが火に油を注ぐ行為にもなるんだけど、何が正しいかわからないからね」
ミナコちゃんは言っていた。戦うか、逃げるかだと。戦うのがヒロ君で、逃げるのが私だ。だって、結局勝てはしない。ヒロ君の目は死んでいないけれど、数の差で必ず負ける。
私がヒロ君への印象を変える出来事が起きたのは間もなくのことだった。
共用の談話スペースにはテレビやソファがあり、今日は平和な時間が流れていた。マサシ君はテレビ番組の方に興味があるらしく、ヒロ君にも私にも手を出してこない。取り巻きの姿もなく、六年生が数人と、騒ぐ下級生が近くを走り回っていた。
私はお風呂上りで近くを通りすがった。そして、幽霊のように気配を消してマサシ君の背後に立つヒロ君を見つけた。
脳内にアラートが鳴る。良くない。これは危ない。
「マサシ」
ぼそりとヒロ君が呟き、マサシ君は顔をしかめてソファに座ったまま首を反らしてヒロ君を見た。
「ああん?」
マサシ君は、一瞬、何が何やらわからなかっただろう。ヒロ君はノック式のボールペンの芯をカチリと出し、逆手に持って振り上げた。
危ない、そう口を動かしたが、私の喉は声を出さなかった。
ボールペンはマサシ君の右目に向かって振り下ろされたが、咄嗟に庇った手に刺さって止まった。
大きな舌打ちが聞こえた。ヒロ君だ。
ヒロ君は飛び掛かり、マサシ君の顔を殴り始めた。周囲にいた六年生たちは、普段と逆の光景に戸惑い、二人は叫びながら殴り合っていた。
しばらくして、騒ぎを聞きつけた宿直のスタッフが割って入り、マサシ君は病院で手当てを受けることになった。
マサシ君がいなくなり、静まり返った談話室で、ヒロ君は肩を震わせながら引きつった笑みを浮かべた。
「僕を病院に連れて行けば、ばれちまうもんなあ」
顔に打ち身を作り、誰にともなく発された言葉に私は辛くなった。病院で診てもらえば、体中の傷から、虐めがあったことはすぐわかる。病院から警察に連絡が行けば、華やぎ館の評判に関わってしまう。つまり、私もまた、怪我を負っても病院へ連れて行かれない。
「覚えていろ」
ヒロ君がこっちを見て言った。気づくと、マサシ君の取り巻きやミナコちゃんたちも遠巻きに眺めていた。
「僕が黙ってやられっ放しだと思うな。覚えていろ。僕は全部覚えているからな」
結果から言って、マサシ君の行動は変わらなかった。当たりが強まったと言っていい。でも私は、ヒロ君の目に、絶対に死なないその目と行動力に、脳天からつま先まで静かに震えが走っていた。
◇
やがて、春が訪れた。
サヨちゃんが卒業する日が来たのだ。
「何もしてあげられなくてごめんね」
サヨちゃんは部屋に籠っていたので、仲がいい子はいない。私だけが寂しさを覚えていた。
「マナちゃんの声を聞ければよかったんだけど、私はその点不釣り合いだった。言ったことあるよね。私は他人の声が苦手で、夏までは食堂にも来られなかったくらい。マナちゃんとの同室は、うん、楽だったよ。絶対に他人に言わないと思っていた秘密も明かしちゃったし、楽しかったんだろうね、私」
最初は「マナ」と呼び捨てだった。今は「マナちゃん」と呼んでくれる。サヨちゃんは自分を大事に思うなと言った。でも、私にとってはやっぱり大事な友達になった。
「中学校に上がっても、やっぱり同じような場所に行くことになっているみたい。お母さんと暮らせる日はいつになるのかな。でもまあ、多分やっていけると思う。マナちゃん、今までありがとう」
私たちはいろいろな話をした。主に私が聞いていたけれど、それでもいろいろな気持ちを交換した。今、私たちは目線で感謝を交換している。お互いに、自分のことで精一杯の辛い状態だけど、それでも一人じゃなかった。助け合うわけではなくても、そこにたしかに、友情と呼ばれるものではなくても、関係はあった。
「ヒロと友達になりな」
サヨちゃんは照れ臭そうに鼻を触った。
「私の見立てでは、あいつはかなり頑固だね。心が折れない。きっと二人で助け合えるよ。私はマナちゃんを助けられなかったけど、あいつはきっと助けてくれる」
私はヒロ君とまともに話したことがない。大抵、どちらかが捕まっているからだ。
でも、サヨちゃんがそう言うなら機を窺おう。
「それじゃあね」
こうして彼女は、大量の油とライターを残して華やぎ館を去った。荷物は、大きな鞄一つに収まるほどしかなかった。
私の髪は、ミナコちゃんに雑に切られ、みっともない形になっている。おそらくサヨちゃんにとって最後の私の記憶がこんな髪型であることが悲しかった。悔しいとは、もう思わなくなっていた。
◇
ヒロ君は、マサシ君がどこからライターを手に入れたのか不思議だったと思う。
六年生になった私たちは、マサシ君にライターで焼かれていた。私が捕まったある日、ミナコちゃんが私のポケットから部屋の鍵を奪い、抽斗にしまっていたライター二本を発見し、マサシ君に渡したのだ。
針のときと同じく、新しい玩具を手に入れたマサシ君は、私とヒロ君にそれを使った。肌を焼かれる痛みは長く続き、惨めで、何度も心が折れた。心が折れても、マサシ君が止めてくれるわけではないので、必死に逃げるだけだったが。
ライターは分散して隠していたので、五本全部奪われなくて済んだのが幸いだった。残りの三本はマットレスの中や、エアコンの内部など、より見つかりにくい場所に隠した。
ライターを奪われたことを、何度目かわからないが激しく後悔しながら裏山の入口に隠れると、驚くことに、後からヒロ君がやってきた。
「よう」
まるで普通の友達のように、彼は声を掛けてきた。私がここにいることを驚いていない。
「今日は二人とも逃げられてよかったな」
私は頷くことしかできなかった。私がここに逃げていることを知っていたとしか思えない。
「僕は何もしない」
怯えているように見えたのか、ヒロ君は静かに言った。
「何もしないよ。僕たちが二人でいるときまで、怯えたり、威嚇したり、そんな疲れることをしたくないだろ」
疲れることをしたくない、その言い方が妙にしっくりきて、私は体の力が抜けていった。偶然なのか、ヒロ君も力が抜けたようで、ぐったりと座り込む。
「ああ、疲れた」
そう言ってから、ヒロ君はぐちぐちと境遇を嘆き始めた。少し意外で、その表情をじっくりと見てしまう。無駄なことは言わず、もっとかっちり喋るのかと思っていた。
中立宣言をしてみたり、私を助けるためにスタッフを呼んできたりしたけど、彼はそれほど異常に頭がいいわけではなく、とても普通の男の子なのかもしれない。
だらだらと出てくる愚痴は、私が思っていることと大体同じで、初めてヒロ君に親近感を覚えた。
襟から覗く火傷痕、似たような傷が私の服の下にもある。それに気づいたとき、泣きそうなくらい近くに感じた。
「たまに見かけるよ。学校の人気が無い場所をうろうろしているあれ、喋る練習か?」
急激に顔が暑くなるのがわかった。見られていた。練習中の自分の姿は酷く滑稽で、出てくる声も文字に直せない掠れた音ばかりで、そして何より、必死な自分の姿を見られていたことが恥ずかしかった。さぞかし間抜けな姿を晒してしまったことだろう。
どうしていいのかわからず、おろおろと泣きそうになっていると、ヒロ君は体の前で両手を振った。
「ごめん、図書室の窓から見えることがあるから。誰にも言っていないよ。隠すことだとも思わないけど、進んで話すことでもないっていうか。いや、まあ、普通に不便だから努力しているんだろうけど、お父さんが言うには、努力の仕方を知っている人間は、何だってできるんだってさ。やりたいことに向かって努力と試行錯誤する過程は全て共通だから、一つでも努力して成功させられたら、何でも同じようにすればいいって……」
半分くらい意味不明な言い訳をするヒロ君は、年齢以上に幼く見えた。そして、急に冷静になってきた。なんだか、私の滑稽さと足したら打ち消せるような、妙な計算式が頭に浮かぶ。
滑稽なのも惨めなのも、お互い様か。
可笑しくなって思わず笑う。声は出ないけれど、とても可笑しかった。私たちはこんな状況だけど、普通に笑えるんだという事実がさらにおかしくて、笑いが止まらない。腹筋が愉快な痛みを訴える。
私が笑ったからだろう、ヒロ君はほっとした様子で言う。
「喋れるようになるよ。マナは絶対、喋れるようになる。僕たちはここから抜け出して、人並みの人生を始めるんだ。失ったものは戻らないけど、取り戻せるものは全て取り戻すんだよ。今は無理でも、いつか必ず。
人類は月に行った。火星や金星、木星にだって探査機が飛んでいるんだ。僕たちがこんな狭い場所から出られないわけがない。マナが声を取り戻せないわけがない」
こんな感情は、サヨちゃんが卒業して以降なかった。親愛、友愛、何と呼べばいいのかわからないけれど、今、私たちは心をやり取りしている。
温かいものが胸に満ち、笑いがようやく止まってきた。
何に対してかわからないけどありがとう。
そう伝えたくてメモ帳を取り出そうとしたが、そのとき華やぎ館からとても大きな声が聞こえた。一瞬ヒロ君と目を合わせ華やぎ館に注意を向けた。楽しそうな声が止まない。いつもとは明らかに雰囲気が違う。
いい意味でも悪い意味でも、異常事態なら知っておかないといけない。私は迷わず華やぎ館に戻ることを選んだ。
「行ってみるかな。マナはどうする」
後ろから、言わずもがなのことを言われ、前を向いたまま頷いた。後を追ってくる気配がする。
一階廊下、あらかじめ鍵を開けていた窓から入ると、嗅ぎ慣れない匂いがした。初めて「接続」したときのような、華やぎ館にない匂い。玄関スペースに人だかりができていて、その匂いの正体はすぐに見つかった。子犬だ。
可愛い。
でも、華やぎ館では動物を飼うことを禁じられている。駄々を捏ねる子もいるだろうが、結局は外に放すか、良くて保健所に連絡することになる。これまでにも何度かあったことだ。裏山に捨てられた犬や猫が、人の気配を求めてここに来ることはたまにある。
「おい、ウチは動物飼えないんだから、さっさと外に放りだせよ」
しばらく傍観していたマサシ君が大声を出した。それでも、下級生の子たちは名残惜しそうに子犬を触っている。マサシ君も、今すぐ取り上げるつもりはないのか、その様子を、腕を組んで眺めていた。
「まあいいじゃない。あの子たちだってわかっているって」
ミナコちゃんがマサシ君に声を掛けた。最上級生となった私たちは、どうしても下級生を監督する役割になる。声が出ない私はともかく、ヒロ君だって他に上級生がいないときは年下から頼られる。
「本当にわかってんのかよ。野良犬は保健所に連れて行かれて、そこで殺されるってこと」
途端に、シン、と静まり返った。さほど大きな声で言ったわけでもないのに、マサシ君の声はその場の全員が聞き取れたようだった。
「野良犬は人に噛みつく可能性があるからな。それに、狂犬病でも感染したら大ごとだ。そいつも、子犬だとしても同じことだ」
マサシ君が人の輪の中心、何もわからず尻尾を振っている子犬に近づく。
「どうせ殺されるなら、お役所の仕事を代わりにやってやろうじゃねえの」
マサシ君は慣れた手つきで子犬の首の後ろを摘まみ上げた。
「試してみたいことがあるんだよな」
そこからは阿鼻叫喚だった。
衣類乾燥機に放り込まれた子犬の尋常じゃない鳴き声が一分ほど続き、十分後、もう動かなくなっていた。目にした子供たちの多くは恐怖で逃げ出し、ミナコちゃんも気分が悪そうにその場を去った。ヒロ君はいつの間にかいなくなっていて、私は呆然と、焼かれながら回転する子犬の映像を反芻していた。
マサシ君は恐怖する子供たちを見て楽しんでいた。唇には酷薄な笑みが、目は楽しくてたまらないといった様子で細められ、私と目が合った。
「こいつが死んだら埋めておけ。生きていても、裏山に放りだせ」
まだ乾燥機の中で回転している子犬を親指で指し、マサシ君は洗濯室を立ち去った。気づけば、その場に残っているのは私一人で、蓋を開けた乾燥機からは髪の毛が焦げるときの嫌な臭いがした。私の髪が焼けるときと同じ臭いなんだな、と妙な部分で納得する。
震える手で子犬を抱き上げた。どうしてか、それがまるで自分のようで、掠れた嗚咽が漏れた。こんなときでも声が出せない自分の喉を掻きむしりたくなる。
「次は僕たちかもな」
いつの間にかヒロ君が戻って来ていた。髪が少し濡れている。
「埋めてあげよう。せめて」
ヒロ君は泣いていなかった。暗い、でも意志をしっかりと宿した目で子犬を見つめていた。
「僕たちにも、まだそれくらいの感情はあるはずだろ。まだ泣けるし、悲しめるし、怖がれる。死を悼む気持ちもある。まだ、僕は死んじゃいない」
私は頷いた。体は痛み、心は削られる日々。でも、まだ私たちは悲しむことができる。それはきっと、優しさが残っているということだ。
その日以来、私は「接続」できなくなった。
◇
横向きに寝かされ、背中を焼かれていた。熱さを感じるたびに体が逃げようとするが、それを抑え込まれる。耐えかねた涙が絶え間なく流れるが、もう構っていられなかった。とにかく、痛い。
子犬の死を目の当たりにして以降、私が捕まることが多くなった。理由は単純に、「接続」しようとすると、焼かれる子犬の映像が頭に浮かんで集中できなくなるからだ。洗濯室に長居することも苦痛を覚え、私は正攻法で逃げるしかなくなった。対照的に、ヒロ君はほぼ捕まらなくなった。上手く逃げるようになったと思う。元々はヒロ君が引き受けてくれていた痛みが、また私に戻ってきただけなのに、一度逃れる術を知ると、辛い。
声も「接続」も、どうしてできないことが増えていくのか。できることなんて、掛け算や割り算ができたり、漢字が書けるようになったり、その程度しかないのに。
服の下は火傷だらけになった。下着の下まで火傷が覆っている。今は洗濯室に近づくこともしたくない。
でも救いもある。ヒロ君と少しずつ仲良くなり始めたのだ。ときどき勉強を教えてくれるし、喋る練習に付き合ってくれる。
もう一つ、都合のいいことも起こっている。マサシ君の取り巻きの一人、タイキ君が私やヒロ君が捕まらない日、マサシ君にいたぶられているらしい。ヒロ君から私に話が伝わってきた。タイキ君はマサシ君と同室なので、逃げることはできない。私は「接続」できなくてもそこそこ逃げるし、最近のヒロ君はかなり上手く逃げる。頭がいいからか、やっぱり要領がいいみたいだ。
ライターもチェックしているけど、三本目以上は盗られていない。マサシ君も、逃げ回って面倒な私たちより、確実に捕まえられるタイキ君を虐めるようになってきた。タイキ君には申し訳ないけど、状況は私たちに追い風が吹いている。
ただ、今日のように捕まると、いつも以上にいたぶられるのは困ったものだった。何度も裸を見られ、焼かれた。何よりも自尊心が傷つき、気力が削がれる。ヒロ君は、どれだけ酷いことをされても怒る。私と違って心が死なない。その目を見て、なんとか気力を奮い起こし、一日一日を生きていた。
私たちが注意深く観察すべきなのは、マサシ君よりもタイキ君だとヒロ君は言った。何をしてくるかわからない、と。今さら何をされても同じだと思っていたので、あまり真剣に聞かなかったことを後に後悔する。
苦しいけれど、僅かでも救いがあれば耐えられる。華やぎ館は、あと半年くらいで卒業できる。あと少し、あと少しだった。
十月になり、残り半年をきった。二年間の練習を経て、私が「あ」の声を取り戻した日の夜、浮かれた私はタイキ君の狂気を見逃した。
◇
夕食後、逃げる隙もなく私はミナコちゃんたちに捕まった。
本気で逃げるなら、自室で食事を摂って鍵を掛けて閉じこもるのだけれど、今日は食堂での夕食後、ミナコちゃんたちが気配を消して近づいて来た。逃げられないように三方を固められ、いつもの空き部屋に連れていかれる。
「マサシがっていうか、今日はタイキの発案らしいんだけど。私たちまで動かして、あいつ必死すぎ」
「よっぽどマサシに叩かれたくないんだね」
私はうるさい鼓動を抑え、彼女らの会話を考えた。強がっているが、彼女たちも怯えている。それほど、マサシ君の支配は広がり、絶対的になりつつある。誰でも私たちの地位に落ちる可能性があるのだと、本心では気づいている。だから、今日は真剣に連行されている。逃げようとすることもできないだろう。
「はい、じゃあ、服脱いで」
ミナコちゃんが無表情に言う。慣れたつもりでも、実際にするのはやっぱり嫌だ。しかも、これからマサシ君や彼の取り巻きが来るのだから。でも、拒絶したって許してもらえるわけじゃない。力づくで脱がされて服が傷み、疲れるだけだ。一枚一枚脱ぎ、畳んでいく。一体なぜこんなことを丁寧にしているのか馬鹿らしくなるが、どれもこれも、仕方ない。
「正座」
一言指示され、私は裸のまま部屋の隅で正座した。床の上で正座すると足が痛い、などという甘いレベルはとっくの昔に通り過ぎた。
ガラリと引き戸が開いた。いつか、ヒロ君が助けてくれたことを思い出す。またあんなことがあるだろうか、などと思いながら。
そこにいたのはヒロ君自身だった。私も彼も戸惑った。二人とも捕まることは、これまでなかった。
咄嗟に胸と股を手で隠した。
「いらっしゃい、ヒロ。今日の主役」
なんだろう、ミナコちゃんの雰囲気が違う。声が上ずっているというか、テンションが高い。
「新郎新婦、ご対面」
これは、臆している。ミナコちゃんも臆するようなことが、これから起きようとしている。
マサシ君は古い携帯電話を取り出した。
「メールもできないボロだけど、思ったよりちゃんと映るんだよな」
そう言って、脈絡なくヒロ君の顔を殴った。吹っ飛びかけるが、羽交い絞めにされているため、首から上だけが激しく揺れる。タイキ君がどこから取ってきたのか、タオルをヒロ君の口に巻き付けた。と同時に、私も両手を掴まれ、前に出される。
ヒロ君は動けないまま、ズボンとパンツを脱がされた。そこでようやく、私は今日の趣旨を悟り、腕を解こうともがき始めた。
「無駄だって。逃げられないって知っているでしょ」
やめて、と叫びたかった。でも、「や」も「め」も「て」も、私は取り戻していない。ヒロ君だけが知る、「あ」の声しかない。
手を掴まれ、足を抱えられ、私たちは交わらされた。
手を叩いて喜んだマサシ君と、泣きそうな顔で笑っているタイキ君、そして明らかに恐怖している女の子たち。ヒロ君は泣き、私も泣き、血が流れた。
裸の私と半裸のヒロ君だけが残された部屋で、私たちは惨めに泣いた。でも、ヒロ君は服を着ると、怒りを滲ませた。
「マナ、声は出せるか」
「ああ」
「良かった。それだけは、何があっても手放すなよ」
私は涙を拭いて頷いた。失えない。声も、ヒロ君も、私にとって大切なものになった。
サヨちゃん、この人を、自分だってボロボロなのに私を気遣ってくれるこの人を、大事な人だと思っていいかな。
「絶対に、絶対に折れてやらないんだ」
ヒロ君は窓にフラフラと近寄り、食べたばかりの晩御飯を外に吐いた。ぐったりと座り込む姿を見て、私の心は決まった。今日、この日、私の頭の何かが切れた。
火を、使うときが来たのだと思った。
◇
重要なことはタイミングだ。
私の武器は火。油とライター。しかもぶっつけ本番、何が起こるかわからない。裏山に埋められた油を引っ張り出すと、灯油5リットル、ガソリン少々、サラダ油は10リットルあった。灯油で僅かに紙を湿らせライターで着火するとよく燃えた。さすがにストーブを焚く油だ。サラダ油はライターの火では燃えなかった。油というと、燃えやすく火事の原因になるイメージだったので意外だった。灯油で紙に火を点け、それを引火させることで着火できた。
問題は、火加減ができないことにある。マサシ君とミナコちゃん、そしてタイキ君だけを焼くことができればいいのだが、どれほどの火力になるのか想像できない。何より、ヒロ君を巻き込んでしまってはいけない。
ヒロ君と私の身を守るためには、もう四の五の言っていられる余裕はなかった。先日のことで妊娠はしないだろうとヒロ君は言っていたけれど、次はどうなるかわからない。もう、時間がない。
私は命に優先順位をつけるしかなかった。それがどれだけ惨い順位かわかっていたが、それしかなかった。
私とヒロ君はよく納屋に閉じ込められる。納屋の鍵は玄関の高い場所にぶら下がっていて、上級生であれば手が届き、下級生は触れない。そういう風になっている。マサシ君はそれを悪用し、ときどき私たちを納屋で一晩過ごさせるのだ。
だから、そういう日を狙った。ヒロ君が捕まり、納屋に閉じ込められた夜、私は裏山の入口からその様子を見ていた。油は掘り返し、華やぎ館の近くに移動させてある。準備は完了だ。
消灯し、寝静まるまで待つ。私は全く眠くならなくて、声を出す練習をして過ごした。このところ声の復活は目覚ましく、「え」と「い」も取り戻せた。次は「う」を取り戻すべく、口を尖らせて息を吐く。
午前一時。「う」は言えなかったが、私は冷静だった。狙いは二階の廊下と両端にある階段、そして玄関と裏口。逃がさないために、移動経路に沿ってできるだけ火を撒き散らすつもりだった。
サヨちゃんと夜の散歩に行ったときのことを思い出す。誰にも見つからないように慎重に、動かないときと動くときはメリハリをつけて大胆に。寝静まった華やぎ館の階段両方に灯油とサラダ油を撒いて二階廊下へ移動する。そっと灯油をマサシ君の部屋の前に流し、火を点けた。一気に広がり、木造の廊下が黒くなっていく。
思いのほか火の広がりが早そうで、私は次の行動を急いだ。両階段の仕掛けに着火し、一階の廊下と玄関にも灯油を撒いて着火する。その際、納屋の鍵を取っておくことを忘れてはいけない。最後に、外から回り込んで裏口にも火を点け、作業終了だ。
どれくらいかかっただろう。体感では一時間くらいかかった気もするし、五分程度だったような気もする。安物の腕時計を見ると十分かかっていた。
大きく息が荒れ、心臓はバクバクとうるさい。汗だくで、油を運んだ腕は痛くて怠い。でも、達成感は凄まじかった。ようやく理解した。ずっとやりたかったことはこれなのだと。自分はずっと、ここに火を点けたかったのだと。
くぐもった笑いが喉から零れ、私は納屋の鍵を開けた。彼はどんな顔をするだろう。よくやったと言ってくれるだろうか。ざまあみろ、と二人で笑えるだろうか。
鍵を開け、引き戸を勢いよく開く。
そこには、誰もいなかった。
「え?」
どうして。ここにいたはずなのに。ここに閉じ込められて、鍵を掛けられたはずなのに。
納屋に跳び込んで探し回るが、三畳ほどの空間だ、誰もいないことはすぐにわかった。汗の種類が変わる。
どこに行ったの?
華やぎ館を振り向いた。黒い煙を吐き始め、玄関の赤い火がやけに攻撃的にうねっている。さすがの私たちも、屋外で夜を明かすことは辛い。納屋のなかは冷えただろう。ということは。
自室に戻った?
ヒロ君の自室は二階にある。中学年以上の子供は二階、低学年の子は一階に自室をあてがわれる。二階は最も激しく燃えているはずだった。
助けないと。
走り出して、玄関の炎を飛び越えた。足が一瞬熱を感じたが。普段と比べたらなんてことはない。一階の廊下も火が広がり、でも誰も出てこない。どす黒い煙が廊下に充満しかけている。二階への階段はさらに酷いことになっていた。煙が上へ上へと移動し、火を点けた踊場から先は視界が無い。
「いあ!」
ヒロ、と呼んだつもりだった。でも、今出る声ではそれも満足にできない。
「いあ! いあ! いあ!」
それでも呼びかけ、おろおろと一階をうろついた。玄関と廊下の火は急激に大きくなっていき、自分が逃げられるかも定かではなくなってきている。
「マナ、そこにいるのか」
か細く、ヒロ君の声が煙の向こうから聞こえた。一階の廊下、火の向こう。
「そっちに行けば逃げられるのか」
「ああ!」
お願い。通じて。こっちに来れば、必ず私が外に連れて行くから。
「わかった」
私もわかった。気持ちが通じたことを。
数秒後、煙と火の中から大きなものが転がり出て来た。最初は椅子かソファかと思ったがすぐに誤解を打ち消す。
ヒロ君!
丸まった姿勢のヒロ君だった。文字通り転がって出て来た。
「いてえ」
顔を押さえている。私はヒロ君を抱きかかえ、勢いをつけて玄関の炎に飛び込んだ。私は身をもって知っている。火は一瞬だけなら熱くない。開けてあった玄関から飛び出すと、抱えていたヒロ君を落としてしまった。落としてしまって申し訳ないが、ついでに服についた火を、ヒロ君を転がして消していく。私の服にも引火していたので、脱いだり消したりしていると、最終的に二人とも穴だらけの服になっていた。下着なのかなんなのかもわからない。
「顔、俺の顔、どうなっている」
ヒロ君はずっと右顔面を押さえていた。ゆっくりと手を離したそこには、酷い火傷が広がっていた。右目は開いていない。
ヒロ君は左目だけで私の様子を察すると、「離れよう」と言った。私たちの背後では、どんどん火の手が大きくなり、今にも外にいる私たちごと燃やそうとしているかのようだった。
足を引きずるヒロ君に肩を貸して華やぎ館の敷地を出る頃、何かが崩れる音がした。華やぎ館は、皮肉にも今が最も華やかに見えた。
◇
私たちは入院し、警察と消防に話を聞かれた。とはいえ、それは専らヒロ君が買って出てくれた。私が失声症だという事情もあって認めてもらえたと思う。
私はミナコちゃんによって納屋に閉じ込められていたことにした。
ヒロ君は、マサシ君にいじめられていたこと。夜襲を避けるため、ときおり自室の外で寝るのだと証言した。あの日は食堂の片隅で寝ていて、気づいたら火と煙が充満していたので自力で脱出し、納屋で騒ぐ私に気付いて助け出した。
私たちは救助に向かったが、誰も助けられず、火傷を負っただけだった。
これが、私たちのつくったストーリー。
私は泣きそうなくらい辛かった。誤算がいくつも起きた。まず、鍵がなくても納屋を開けられることを知らなかった。ヒロ君しか知らないが、あの納屋は力の入れ方によって、鍵がかかっていても引き戸を開けられたのだ。そのせいでヒロ君が華やぎ館の中に行ってしまった。注意深く見ていれば気づけたのに、「う」を喋る練習に集中してしまって見逃した。
最悪の誤算は、ヒロ君が深い火傷を負ってしまったこと。私の声を頼りに走った結果、つまずいて転び、高温の何かに顔を直接ぶつけてしまったらしい。火傷痕は一生残ることになり、右目の視力はほぼ失われた。私の詰めが甘くて、一生の傷を負わせてしまった。何が命の優先順位か。自分の身しか守れていない。
まだ誤算はある。マサシ君が生きていたのだ。私はマサシ君とタイキ君の部屋の前で火を点けた。幸運にも一酸化炭素中毒になる前に意識が戻ったマサシ君は窓から飛び降りた。足の骨を折ったが、それだけで済んだ。
生存者は三名のみ。
そして自然と、私たちの体にある数多の新旧入り混じった傷に大人たちの注意は向いた。私たちはマサシ君を筆頭にいじめられていたことを警察に話したし、マサシ君も本職の警察官の尋問に耐えられずそれを認め、館長や他のスタッフに事情聴取が行われた。
消防からも話があった。建物の老朽化に伴い、消防設備のメンテナンスと更新がされていなかったことがわかった。スプリンクラーの一つも稼働しなかったため、火が急激に大きくなってしまったとのことだった。煙検知器も壊れていて、火災報知器が鳴らなかった。館長は管理不足を責められ、訴訟に発展しそうだという。私にはいないが、この事件には遺族がいるのだ。
私にとっては助かったと言わざるを得ない。消防設備に関して全く考えていなかった。火が一瞬で消えてしまったら、ただただ私の咎を責められるだけだった。
スタッフたちは、館長の普段からの高圧的な態度や、再三人手不足を訴えたにも拘わらず、人件費削減のためスタッフ人数を減らされ続けたことを警察に訴えているらしい。私たちがいじめられていることを察しつつも、業務に忙殺されてどうしようもなかった。さらに、館長の機嫌を損ねて即座に解雇されたスタッフもいたらしく、何も言えない空気だったという。
ヒロ君が助けを求めたあの人が、その解雇された人だったのではないか、そんな気がする。
ニュースや雑誌にも取り上げられた。私たちの身元に繋がる情報はなかったが、大きく取り上げられた。
ニュースで取り上げられるのは嫌だったが、それで里親になりたいという人たちが現れたことは良かったのかもしれない。児童養護施設の闇、と銘打たれたニュースによって、里親になる決意を固める切っ掛けとなった夫婦がいたのだ。
そのうちの一組に私は引き取られ、マサシ君も離婚調停が進まない親に見切りをつけて、別の夫婦に引き取られた。
でも、ヒロ君はどこにも引き取られなかった。
その理由は、顔の傷だと思う。酷い火傷が残った顔、そして、右目の視力の問題。声が戻りつつある私と違って、目に見える傷物の子供は引き取り手が無く、余った。
「僕は別の児童養護施設に行くことになった」
私が里親の元に行く日、まだ入院していたヒロ君をお見舞いに行った。
「少なくとも、華やぎ館よりはましだそうだよ。僕はそこで、自分の人生を取り戻すんだ。だからそんな顔をしないで。華やぎ館が燃えて、僕は助かった。僕たちの体と心は死なずに済んだんだから」
私はどんな顔をしているのだろう。わからないけれど、ベッドで身を起こしているヒロ君をゆっくりと抱きしめた。感謝の言葉も謝罪の言葉も、まだ声を取り戻していない。なんとか、どうにかして気持ちを伝えたかった。
ヒロ君は、ボブカットできれいに切り揃えられた私の髪を撫でた。
「わかっている。全部わかっているよ」
その感触に身を委ね、しばらくの間じっとしていた。
「でも、気をつけて。火事の原因が特定されていない。警察は僕たちを疑っている。筆頭は僕だろうけど、ボロを出さないようにね」
そう、私たちが語ったシナリオではヒロ君だけが放火できる。火種のない階段も激しく燃えていることから、自然発火だと思ってもらえる見込みは薄い。
「ただ、僕たちの体がマサシの異常性を物語っている。普段から火を使って他人を傷つけていたこと、犬を焼き殺したこと、それらがあるから、警察はマサシを疑っている。それでも最後まで油断しないで。」
私はヒロ君の胸の中で頷いた。ヒロ君は真相に気付いている。でもそれを言わない。
私たちはそうして別れた。もう会うことはないと思いながら。「ありがとう」を言えるようにならなかったことを悔やんでいた当時の私は、ずいぶん頭がお花畑だった。
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