第5話 マナ(前編)

 高速道路の玉つき事故だった。

 十五台の自動車が巻き込まれた大きな交通事故で、当時小学三年生だった私は両親を喪った。鉄の部品にお腹を貫かれてピクリとも動かない母と、目の前で頭から血を流し、握った手がだんだんと冷たくなっていく父の温度を感じながら、私は救助を待つことしかできなかった。

 そして救助された私は、声が出なくなっていた。お医者さんからは、ショックで神経の働きがおかしくなったためだと言われた。じきにまた何かの拍子で良くなるから焦らなくてよい、とも。

 問題は、私を引き取る大人がいないことだった。役所の人も探してくれたらしいのだが、どうも両親は実家と縁を切っていたらしく、私の親類というものが見つからない。

 そうして、私は児童養護施設『華やぎ館』へとやってきた。

 緊張していたこともあるが、すぐに今までの暮らしとは違うことがわかった。沢山の子供たち、少ない大人、学校と学校を往復するような感覚。そして何より、華やぎ館の子供たちは心が飢えていた。満たされない自尊心を抱えて、そわそわしている子供たちが多かった。

 怖かった。何よりも、自分もその一員になってしまったことが怖かった。私だけを見てくれる人はもういない。ここにあるものは大半が共用で、独占欲を満たすものが全然ない。親のありがたさと言ったら安っぽいけれど、自分の家と自分の部屋、そして大切にしてくれる家族がいたことが懐かしかった。

 それでも生きていかねばならない。必死に変わった環境に適応し、声を取り戻す練習を続けた。転校した先の学校でも明らかに腫れ物扱いされたけれど、こちらが喋れないのだから仕方ない。逆の立場だったら、やっぱり扱いに困ったと思う。国語の音読を飛ばしてもらえたことと、音楽の授業で歌う必要がないのは助かった。元々、人前で大きな声を出すのは好きじゃない。

 女子が集まると、なぜかいつもリーダーが生まれる。ミナコちゃんは華やぎ館の中学年以下の女子リーダーで、彼女が年下を指示して動かしたり、まとめ役をしたりしていた。所属したことはないけれど、クラブの部長みたいなものだと思う。華やぎ館のスタッフさんたちも、ミナコちゃんにお願いしておけば女の子の統制が取れると思っている節があった。

 男子にも同じような立ち位置の子がいた。マサシ君といって、こっちはちょっと怖い。でも、小さな子を何十人も管理するためにはそういうまとめ役が必要なこともたしかだし、特に男の子の場合は多少手が出るくらいがちょうどいいみたいだった。私はミナコちゃんとマサシ君が動かす華やぎ館の片隅で喋る練習をした。

「俺さ、もうちょっとでここ、出て行くから」

 ある日夕食時に食堂でマサシ君が周りの子たちに大きな声で言っていた。

「父さんと母さんの離婚調停が上手く収まりそうなんだよ。クソ暴力親父と縁が切れれば、また家に帰れる」

 児童養護施設に入る子供は、身寄りが無い子だけじゃない。家庭内暴力から逃がすための場所でもある。マサシ君の場合、たしか、お母さんがシェルターと呼ばれる家庭内暴力からの待避所に逃げている。代理人を通した離婚調停が進めば、暴力を振るうお父さんとは縁が切れ、お母さんと一緒に暮らせるようになるだろう。

 ここの子供たちにとって、どんな玩具や誉め言葉よりも欲しいもの、それがまともな親との暮らしだ。マサシ君はもうすぐそれを手に入れる。年下の子供たちが羨望の目で見つめる中、マサシ君は照れたように笑っていた。

「いいねえ、あいつは」

 気づくと、ミナコちゃんが隣の席に座っていた。私に話しかけているらしい。

「本当の親がいて、前よりいい暮らしが待っているんだもんね」

 ミナコちゃんのお父さんは、ミナコちゃんのお母さんを殺した罪で警察に捕まっている。家庭内暴力が行き過ぎ、最悪の結果になった。駆け落ち同然で地元を飛び出した二人の結末は最低のさらに下だったと、いつかミナコちゃんが自嘲していた。

「私はもう二度と親と暮らさない。服役が終わったって、お母さんを殺した男と一緒に暮らせるわけがないもんね。暮らせと言われても絶対に断るし」

 私は頷くことしかできなかった。でも、私に話しかけてきた理由はわかった。迎えに来る親がいない同類だからだ。

 ポケットに常備しているメモ帳とペンを取り出し、走り書きする。

『マサシ君、家に帰れるといいね』

 ミナコちゃんはそれを読むと、軽く顔をしかめ、ため息をつき、泣きそうな顔で言った。

「そうだね。本当に、そうなればいいと思う」

 ミナコちゃんはそう言い残し、席を立った。


     ◇


 マサシ君が小さい子を小突き飛ばす光景が増えた。男子も女子も関係なく、唐突に苛つき始め、椅子を蹴ったり人に体当たりしたりする。

「八つ当たりよ」

 ミナコちゃんは事情を知っていた。

「親の離婚調停が上手くいかなかったの。多分、揉めているのは親権ね。マサシのお母さんには収入がないから、お金の面ではお父さんが親権を得た方がいい。でも、そもそもお父さんの家庭内暴力で離婚調停に至っているわけだから、お母さんが有利なはず。マサシ自身が暴力の対象になっていたかどうかにもよるかな。大人側にどういう事情があるのか知らないけど、マサシは期待させられて、裏切られた。荒れるのも無理ないわ」

『ミナコちゃん、物知りだね』

「少し勉強したの」

 つまらなさそうに言うミナコちゃんは格好良かった。私も勉強しないといけない。守ってくれるお父さんはもういないのだから。

「マナ」

 いつになく真剣な声でミナコちゃんが呼んだ。

「あんたも、頭良く、要領良く、あまり他人に期待せずに生きなさいよ。特にここでは」

 私はわけがわからず、ただ頷いた。

「それと、早く声を取り戻しなさい」

 マサシ君に、空き部屋へ蹴り込まれたのはその三日後の夜だった。

 お風呂上りに廊下を歩いていたらマサシ君とすれ違った。やけに淀んだ目でぎろりと睨まれ、私は目を背けてやり過ごす。ほっと息をついたところで、後ろから襟首を掴まれた。ひゅっ、と声ならぬ息が漏れる。そのまま後ろ向きに引っ張られ、物置になっている部屋に引きずりこまれた。かつてこの部屋で急死した子供がいたとかで、子供たちからは幽霊が出ると恐れられている部屋だった。それからは子供部屋ではなく物置として使われている。

 幽霊を見たことはないが、それよりも目の前の状況が怖かった。鼻息荒く仁王立ちしたマサシ君と、部屋に転がっている自分。思わず後ずさりしたが、すぐに背中がぶつかった。予備のベッドと、その骨組みの上に置かれた沢山の段ボール箱が私の背中を阻む。

 何で、と言おうとして口を動かしたが、声は出なかった。その様子をみたマサシ君が私の襟首を掴み、段ボールの山に頭を押し付けた。

 マサシ君は何も言わなかった。私は服を掴まれたまま振り回され、叩きつけられた。数十回揺さぶられた後、丸くなって震える私を放って、マサシ君は出て行った。

 私はしばらく身を縮めて泣いた。無言で、何の考えも口に出すことなく振るわれる暴力がこれほど怖いなんて知らなかった。

 物置部屋をよろめきながら出ると、ミナコちゃんが見ていた。

「あんただったんだ」

 ミナコちゃんはそれだけ言って踵を返す。慌てて追い、肩を叩いた。助けて、そう訴えたかった。

 私たちは廊下で向き合い、一瞬の沈黙が流れる。伝えられない私の意を、ミナコちゃんが察するための時間。

「私がマサシを止められると思う?」

 その時間の先に聞こえた言葉は、私が望んだものではなかった。

「よく知っている。あの手の男は言葉じゃ止まらない」

 ミナコちゃんのお母さんのことを思い出した。家庭内暴力の末、殺された。

「ここは大人の数が足りない。私たちを外の世界から守ってはくれても、中の世界からは守ってくれない。マサシを止められる可能性があるとしたら五年生か六年生だけど、あっちはあっちで泥沼の関係やっているからね」

 上級生の間でも、同じようなことが起きていることはなんとなく分かっていた。でも、私が標的にされるイメージは持っていなかった。

 また泣きそうになる。頭が平和すぎた。ここが、今の私の家。

「マナ、これがあんたにかけてあげられる最後のアドバイスかもね。逃げるか、戦うか。暴力と向き合うにはそれしかない。私はここが嫌いだけど、自分が殴られない限り、元いた家よりは百倍マシだと思っている。私はあんたの味方にはならないと思って」

 それがミナコちゃんと、友達として交わした最後の会話になった。

 私が絶望したって、時間は止まらない。一睡もできないまま翌日には学校に行く。同室の小野サヨという子は不登校だ。どうしてここに来ることになったのかも知らない。ほとんど部屋から出ないし、口も開かない、私のように話せないわけではないようだけれど、日中、子供たちが学校に行っている間に、スタッフさんに勉強を教わっているらしい。

 口をききたくないサヨちゃんと、口をきけない私。ある意味でいいコンビではあるけれど、この子が味方になってくれるとも思えない。私だって、サヨちゃんを友達だと思えているわけではない。

 眠れないでいる間、ミナコちゃんが言っていたことを考えた。逃げるか、戦うか。私は戦う手段をいくつか考えていた。でも、もしかしたら昨日の一回だけで終わりかもしれない。マサシ君だって家に帰れるかもしれない期待を裏切られ、心が荒んでいたのだろうし。一旦様子見することにした。

 二日後、私はまた物置部屋に転がされていた。食堂で宿題をやっているとき、マサシ君に呼び出され、そのままここに連れてこられた。明らかに露骨になっている。これはまずいかもしれない、そう思った次の瞬間、お腹を殴られた。グーで。

 息が詰まり埃だらけの床に転がる。その脇腹にマサシ君のつま先が刺さった。

「どうして誰も止めないのかって思っただろ。食堂には大人も、上級生もいたのにな。それは、ここでは当たり前のことだからだ。下級生のガキどもはうるさいだろ。誰かが力で抑えつけないとまとまらないんだよ。俺たちはもうすぐ五年生になる。そろそろ、下をビビらせる必要があるんだよな。だから、大人に助けを求めても無駄だ。俺が大人しくなって忙しくなるのはあいつらだ。深夜、二十人のガキどもが滅茶苦茶に騒いでみろ、今度は大人が叩くことになるだけだ」

 言いながら、さっきより弱い力で脇腹を蹴られた。そこを手で庇うと逆を蹴られた。

「俺はどうせ、最後までここから出られない。中学も、高校も、どっかの施設で同じように暮らすだけだ。だったらせめて、こっち側に立たせてもらう」

 こっち側。他人を虐げる側。そのために私を逆側に立たせるのか、そう返したかった。言葉は喉から出て来ず、悔しさの涙しか出ない。

「大人しく受け入れろ。俺たちに親がいないことが悪いんだ」

 マサシ君は私の両手を片手で掴み、空いた手で私の胸、乳首の真上に手のひらを当てた。

 背筋を毛虫が通った気がした。


     ◇


 華やぎ館の運営に問題があるのは間違いない。子供の人数に対して、管理する大人が少なすぎる。三世代家族を考えれば、大人四人に対して子供がいることになるので、集団内の子供の比率は大抵半分以下になる。核家族でも半々くらいだと思う。ここの、特に夜は、子供二十人に対して一人。普通に考えて目が行き届くはずがない。

 その点から考えても、マサシ君が言ったことは大きく外れていないと思う。正直言って、学校の先生の方がまだ私たちを気にかけてくれているように感じる。

「だあから、俺にいちいち聞かずにやれよ!」

 夕方、放課後から夕食までの時間、館長室からは毎日のように怒鳴り声が聞こえる。館長はいつも機嫌が悪く、スタッフは怯えている。まるで今の私みたいだな、と思うと絶望した。大人になれば世界はマシになるものだと思っていたけど、そういうわけでもないみたい。

「毎月のことなんだから、確認しなくたってわかるだろ!」

 スタッフの一人が館長室から出て来た。眼鏡をかけた男の人だけど、目が潤んでいる。

「クソが。てめえの領収証が適当だから、後で税理士に突っ込まれるんだよ。そうなりゃまた怒るくせに……」

 その人は荒々しく事務室を閉めた。中から、

「もういいけど。辞めるし」

「ちょっと、子供たちに聞こえるって」

「やば」

と聞こえた。

 マサシ君と戦う方法は、おそらく、この華やぎ館の中には無い。


 図書館の隅で、何度も文面も考え、書き直し、担任の先生への手紙を書いた。同級生のマサシ君に暴力を受けていること。華やぎ館の大人はあてにできないこと。胸を触られたことだけは、どうしても書けなかった。

 職員室に行くと、視線が集まるのを感じる。私は深く一礼して入る。普通の生徒は「失礼します」と挨拶して入るのだが、私は学校内でも、喋れない子として周知されている。

 担任の先生の机に行くと、怪訝な顔をされた。正義感が強そうな男の若い先生で、こういうことを見過ごさない人だと感じていた。私はもう一度礼をして、手紙を差し出す。私の真剣な表情に、彼も無言で頷いて受け取ってくれた。

「ここで読んで、大丈夫なもの?」

 私は少し考え、首を横に振った。

「わかった。家で読む」

 私はまた一礼して、職員室を出た。学校と華やぎ館は少なからず連携している。児童養護と教育は切っても切り離せない。サヨちゃんのことも、学校と情報共有しているのだと、華やぎ館のスタッフから聞いたことがある。

 これで変わるだろう。


     ◇


 二日後の夜、夕食後に自室に籠っていると、ノックされた。

「マナ、いる?」

 ミナコちゃんの声だった。急いでドアを開ける。

「ちょっと外で話そう」

 要件はわかる気がした。二人で館のサンダルをひっかけ、外に出る。ぶらぶらと歩きながら話した。

「久山先生を頼ったんだね」

 頷いて返す。ミナコちゃんはこっちを見ていないけど、話を続ける。

「私が呼ばれて、話を聞かれた。まあ、だいたいあるがままのことを話したよ。マサシって外面はいいから、驚いていたけどね。まあ、それは本題じゃないの。本題は、今日の夕方、久山先生がここに乗り込んできたってこと」

 知らなかった。そんなに早く行動してくれるなんて。

「先生は私を含めた数人から話を聞いて、あんたの訴えがあり得る、少なくとも、でっち上げだと言い切れないと思ったみたい。館長と派手に言い争っていたから、多分聞いたことを突きつけたんだろうね。校長先生と二人で来ていたよ。すっごいうるさかったし、周りで何人も止めていた。でも結局、それだけだったみたい」

 それだけ?

「学校はお役所で、ここはあくまで民間。私の想像だけど、かなり面倒というか、いろんな人を巻き込まないといけなくなるんじゃないかな。学校側が引き下がったみたいだよ」

 引き下がったって、それじゃあ、私はどうなるの。

「PTAって知っている?」

 聞いたことはある。

「意味は、親と教師の会。私たちはPTAに入る親がいない。だから、学校にクレームがいかない」

 それって……

「多分、頑張ったけどどうしようもなかった。これ以上は学校の手に負えないってことで片付けられるんじゃないかな」

 震えるように首を振った。何も片付いてなんかいない。私はこれからもここで暮らさないといけない。マサシ君に怯えて、ここにいる。誰もが目を背けたって、無いことにはならないのに。

「他人事なんてそんなものだよ」

 ミナコちゃんは知っていたのだ。かつて同じように大人に助けを求め、そして助けてもらえなかった。多分、お母さんがまだ生きていた頃、お父さんの暴力に耐えかねて、学校か役所を頼った。でも、お母さんは死んでしまった。

「お母さん、だんだんとね、目に感情が無くなっていったんだ。最初は怯えていた。次は痛みに苦しんでいた。最期は、殴られても蹴られても、お金を持っていかれても、顔が動かなくなるの。お父さんがいなくなると、疲れた顔でまた笑顔に戻る。人形みたいだったなあ」

 ミナコちゃんが足を止めた。

「耐えるっていうのは、そういう状態になること。あんたがそうなっても私は止めないし助けない。でも、可哀想だからもう一度言っておいてあげる。戦うか、逃げるか、それしかない」

 ミナコちゃんは、話は済んだとばかりに、さっさと戻っていった。私は暗くなった駐車場で、また必死に考え始めた。戦うか、逃げるか。ミナコちゃんはきっと、戦えと言っている。

 それから、数日に一度の頻度で追いかけっこが始まった。マサシ君とその取り巻きの年下の男の子三人、計四人に追い回され、捕まったら殴る蹴るの暴行を受けた。さすがに四人に囲まれると逃げ場も、振り払うこともできなくて、施設内の僅かな隙間やくぼみ、ときには自分から物置に入って隠れた。それでだいたい、逃げられる確率は10%くらい。

 マサシ君が取り巻きを連れていないときが一番怖かった。そのときに捕まると、必ず体を触られた。僅かに膨らみ始めた胸やお尻を触られるのが、堪らなく嫌だった。単に殴られるよりも、ずっと尾を引く辛さだった。

 逃げ場は施設の外にも及び、裏山の方が落ち着くようになった。私が追いかけられている間、サヨちゃんは部屋の鍵を開けてくれない。騒ぎを持ち込むな、そういう姿勢で断固として自分の世界を守っている。

 きっと皆そうなのだ。自分が生きていく場所と、生きていける心をなんとかして守っている。マサシ君はその限界を超えてしまって、自分一人で怒りを抑え込むことができなくなってしまった。だから他人に発散してバランスを取っている。

 同情しないわけじゃない。でも、両親揃って生きているくせに、と思う方が強い。わざわざ私のようなわかりやすい弱者を選んで手にかける、そんなの甘えだ。

 抵抗できない自分の弱さが悔しくて、何度も裏山で泣いた。


     ◇


 それに気づいたのはたまたまだった。洗濯は基本的にスタッフさんがやってくれるため、私たちが洗濯室に入ることは少ない。たまに自分でやることもあるので全く馴染みがない場所、というわけでもなかったけど、その日は明らかに空気が違っていた。

 私は自室の掃除に使った雑巾を洗濯室にある大きな流しで洗っていた。埃取りをした程度なので、すぐに洗い終わったのだが、そこで異臭を感じた。

 臭いわけではない。嗅ぎ慣れない、と言った方が正しい。くんくんと鼻を鳴らして匂いの元を探すと、乾燥機の一つの蓋が開いていた。横向きに開いたその蓋に近づくと、匂いが強くなった。何が入っているのだろう。

 軽い気持ちで覗き込み、驚愕した。

 乾燥機の向こうに、別の部屋があったのだ。

 言葉を失った。乾燥機の奥行なんてたかが数十センチしかない。なのに、今、数メートルは向こうの壁が見える。

 奥に鏡が貼ってあるのかと思ったが、すぐに違うと気づいた。鏡なら、まず私自身の姿が反射しないとおかしい。それに、この匂い。華やぎ館の洗濯室とは絶対違う。

 唾を飲んだ。乾燥機の向こうに空間が広がっている。久しく忘れていた好奇心がうずうずと顔を出す。

 もしかして、行けるのでは?

 衣類乾燥機の中に入るなんて、生まれて初めての試みだったけれど、案外簡単に入ることができた。四つん這いで進んでいくと、向こうの匂いが強くなる。その先は華やぎ館側よりずっと暗かった。乾燥機を抜け、首だけ出すと、真下に洗濯機があった。洗濯機も乾燥機も一台だけ。照明は点いていない。女の人の脱いだ服や、洗剤の箱が周りにある。正面には閉まった引き戸。右を見ると壁。左を見るとお風呂場があった。

 ここは、間違いなく華やぎ館じゃない。誰かの家だ。見覚えは無い。

 少し高さがあったが、思い切って床に飛び降りてみる。引き戸に手をかけたが、びくともしなかった。お風呂場に入ってみようとしたが、見えない壁に押し返されてしまった。

 不思議なことばかりだ。乾燥機を再び見ると、その先は今も華やぎ館に繋がっている。

 私よりずっと長く暮らしているミナコちゃんも、こんな変な話はしていなかった。というか、こんなことがあっていいのだろうか。私は今、不法侵入の真っ最中なのでは?

 とりあえず、華やぎ館に戻ることにした。

 洗濯機を足場にしてよじ登り、再び這って乾燥機の中を通る。華やぎ館の床に降り立って振り返ると、そこはいつもの乾燥機だった。どこにも繋がっていない、無骨な金属板。

 頭の中にクエスチョンマークが乱舞する。声が出れば「ええええええ⁉」と叫んでいたに違いない。代わりに手だけがバタバタとはばたいた。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。誰に相談すればいいんだろう。その場でぐるぐる回り、数日間は頭の中がぐるぐる回り、私はようやく落ち着いた。

 三日間悩んだ結果、私はもう一度洗濯室を検証することにした。洗濯室、衣類乾燥機の一つに向かい、蓋を開けた。そこにはただの金属シリンダーがある。

 目を閉じ、前回通じていた小部屋を強くイメージした。目を開け、蓋を勢いよく開ける。

 思った通り、シリンダーの底がなくなり、向こう側へ通じていた。

 もうわかった。所以も理由も理屈もわからないが、私には、遠くにある衣類乾燥機と華やぎ館の乾燥機を繋げる能力がある。

 なんだよそれ! と叫んでみたが、ハアッと息を吐き出しただけだった。今だけは声が出なくて助かっている。

 落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせて自室に戻った。サヨちゃんは今日も何かの本を読んでいる。私とも目を合わせない。

 私は常備しているメモ帳に、悩みながら書きつけた。

『例えば、この部屋のドアが別の、例えば学校の教室に繋がっちゃう、なんてことあると思う?』

 サヨちゃんの肘を突く。サヨちゃんは気だるげに顔を上げた。

「何?」

 私は答えることができないので、代わりに書きつけたメモを渡す。これは私たちのいつもの方法なので、サヨちゃんも、ああ、と言って目を通した。

「テレポートだね。ドラえもんの『どこでもドア』ってことでしょ」

 テレポートという言葉は初めて知ったが、『どこでもドア』だと言われたらすぐにわかった。

「鳥居をくぐったら別世界だった、みたいな話はホラー界隈にあるし、ドアや、境界というものは、何かを乗り越える力があると信じられているんじゃないかな。まあ、フィクションや迷信だろうけど」

 サヨちゃんは沢山本を読んでいる。しょっちゅう町営図書館に行って借りて来ては、ここで読み耽っている。勉強も、学校に行く必要がないくらい頭がいいらしい。そうでないと、多分、不登校を見逃してはもらえない。

「だから、結論としてはフィクションの世界にはある。もしそんな場所が実在したら、大騒ぎになるどころじゃ済まない」

 なるほど、と頷いておいたが、心臓はバクバクいっていた。

「でもね、マナ。世界には不思議な記録はたくさんあるよ。突然消えた航空機の話や、消えてしまった子供の話、突然降ってきた魚の大群、そういうオカルトめいた不思議な事象は数多く報告されている。だから、テレポートが実際にあってもおかしくないと、個人的には思う」

 私は両手を合わせてありがとう、のポーズを取った。サヨちゃんはまた本に視線を落として、私たちの会話は終わった。なぜそんなことを聞くのか、何かあったのか、サヨちゃんは私に尋ねない。私もそれ以上会話を続けない。

 彼女が負った心の傷について、私は触れ方がわからないでいる。


     ◇


 衣類乾燥機間のワープのことを、自分の中で「接続」と名付けることにした。瞬間移動というと、パッと消えて別の場所に現れるイメージがあって、違和感があった。乾燥機同士を繋げたというのが、私が抱いた印象だった。他の人に聞かせることもないから、そのくらいの理由でいい。

 人目を盗んで何度も試し、わかったことがいくつかある。

 一つ目、私が華やぎ館の洗濯室にある乾燥機を「接続」しようと思えば、必ず「接続」できる。

 二つ目、繋がる先はランダムにも、以前「接続」したことがある場所にもできる。

 三つ目、「接続」した先の空間は、その部屋内しか移動できない。

 四つ目、これが一番驚いたのだが、過去の日付の同じ時刻に「接続」されている。

 四つ目の法則を発見したとき、私は無人のコインランドリーにいた。そこには時計と壁掛けカレンダーが置いてあり、時刻を見ると、華やぎ館を出たときと一致していた一方、カレンダーの年と月の欄は、何と三年も前だった。それに気づいてからは、「接続」先の日付も意識するようになった。

 五つ目、狙った過去の日付に「接続」することができる。ただし、一度行った時刻は二度と行けない。

 どうして衣類乾燥機なのか、それはわからない。私にそんな能力が宿った意味も知らない。ただ、マサシ君から逃げるために役立つことはたしかだった。心が弱っている日は絶対に襲われたくなくて、不穏な気配を感じずとも「接続」して逃げた。

 過去に繋がっていることがわかってから、私はお父さんとお母さんが死んだ事故を防ぐためにできることを探した。でも、あの頃の我が家には乾燥機がなかったし、コインランドリーも滅多に使わなかった。さらに「接続」しても移動できる範囲はその部屋だけ。私はお金も携帯電話も持っておらず、偶然コインランドリーに来た人にも、事情を話す声を持っていなかった。過去の私やお父さんの個人情報を漏らすわけにもいかないため、何かに書いて、置いて逃げることもできない。

 何より、お父さんが死ななければ私は華やぎ館に行くことがない。華やぎ館に行くことがなければ、「接続」だって起きない。きっと、そんな矛盾が生まれないようになっているのだろう。

 ただ、過去を変えることができなくても、二人の声を聞きたい、話がしたいという気持ちだけはあった。その方法を思いついたとき話せるように、声を出す練習は絶対にやめないと、心に決めた。

 私の日常は、発声練習、勉強、逃走、暴行になった。逃げる先は「接続」先であることもあったし、華やぎ館の裏山に駆け込むこともあった。蚊が出る季節になると、裏山にはとてもいられなくて体中を掻きながら新しい隠れ場所を探した。

 宮城ヒロ君が華やぎ館にやってきたのは、そんな、私が小学五年生の夏だった。


「宮城ヒロです。よろしくお願いします」

 食堂で挨拶したヒロ君は、コウヘイ君に手招きされ、隣に座った。どうやら同室はコウヘイ君になったようだ。コウヘイ君は私の一つ年下だが、この前の春、四人卒業していったために相部屋の子がいなくなっていた。ここは小学生の子供しかいないため、卒業したら出て行くことになる。中学生以上にはまた別の住処があるらしい。一年かけて、また子供たちが増えていくサイクルになっている。

 食事は六時半から七時半の間に食べることが規則なので、みんな同じような時間に、散り散りに食堂に来る。今いるのは、だいたい六割といった感じ。

 ヒロ君はコウヘイ君と話しながら、物珍しそうにきょろきょろと見渡している。私も初めはそうだった。不安で、少しでも多くの情報を得ようと辺りを観察したものだった。

 暮らしの変化が少ないここでは、新人はわかりやすく興味を向けられる。皆が見ているので、今ヒロ君は大勢と目が合っているはずだ。かくいう私も興味があった。

ヒロ君はごく普通の空気を纏っている。

 こういう施設だから、親から充分な愛情を向けられなかった子供や、性格に難がある子供も来る。そういう子は、ただの自己紹介や立振る舞いひとつでも違和感がある。奇妙なほど大声だとか、あまりにも落ち着きなく視線が動くとか。過剰にびくつくとか。そもそも喋れないとか。ヒロ君にはそれがなかった。自然体で名乗り、自然な様子でコウヘイ君と話している。箸の使い方も綺麗で、育ちや躾の良さを感じる。

同い年だと知ったのは翌日だった。私が通う小学校はクラスが各学年で二つあり、ヒロ君がマサシ君と同じクラスにいる様子を見かけたのだ。ちなみにほとんど話さないが、ミナコちゃんと私は同じクラスだ。

 五年生だったんだ。体育みたいな複数クラス合同授業では関わることがあるかも。

そんな、どこか他人事な感想を持って通り過ぎると、肩を叩かれた。

「ねえ、華やぎ館の子だよね」

 振り向くと、ヒロ君がいた。後ろにマサシ君もいるため、ギクリと体が強張ってしまう。

 ぎこちなく頷くと、ヒロ君は大人が挨拶するようににっこり笑った。

「あらためて、僕は宮城ヒロ。よろしく」

 私があたふたしていると、ヒロ君は怪訝そうな顔になった。今は自分の名前が書いてあるものを何も持っていなくて、自己紹介ができない。自分の顔が赤くなるのを感じる。

「そいつ、喋れないぞ」

 マサシ君が助け舟を出してくれた。馬鹿にしたような笑いと一緒にだったから、底が抜けた舟かもしれないけれど。

「喋れない?」

 私は頷いた。一年間練習しているが、まだ声は戻らない。さすがに不便が隠せなくなってきたことをこういうとき感じる。

「そいつは渡辺マナ。何かの拍子に喋れなくなったんだと」

 ヒロ君は僅かに横に逸れ、私とマサシ君を交互に見た。

「なるほど。心当たりはあるの? 頭を打ったとかじゃない、精神的なものが」

 ヒロ君の視線にたじろいでしまった。今まで、こんなに真っすぐ聞かれたことがなかった。それは私が説明できないからなのだけれど、ヒロ君の目には何か、普通の子とは違う光があった。

「精神的なものなら治るよ。脳内の出血だったら命に関わるけど、そういうわけじゃないんだよね?」

 それには頷けた。事故後、体を輪切りにスキャンする機械で検査されている。お父さんの手が冷たくなっていくあのときの記憶は、今はもう風化して痛みを伴わない。痛みでいえば、最近マサシ君に蹴られた部分の方が痛い。

「良かった。僕たちの人生、まだ先が長いもんね」

 電気が走ったかと思った。

 人生。久しく忘れていた言葉に心が震えた。今日と明日のことだけ考えてマサシ君から逃げ回る日々で、その先、何十年も先のことなんて思いが至らなかった。

 私たちには未来がある。そんな、音楽の授業で歌う歌詞のようなことを、私は数か月ぶり、もしかしたら華やぎ館に来てから初めて思った。

「じゃあ、また」

 そう言ってヒロ君は教室に入っていった。漫画だと転校生は質問攻めに遭うが、華やぎ館の子にそれはない。重苦しい事情がなければ華やぎ館には入らないからだ。迂闊に質問するのは憚られるのが常になっている。ヒロ君はマサシ君と話し続けていた。

 その日の夜、自室に帰ってサヨちゃんにこのことを話してみた。もちろん筆談で。

 サヨちゃんは六年生で、九か月後に華やぎ館を出て行く。それまで不登校を続けるつもりなのだろうか。

「ふうん。五年生でそんなこと言うんだ。そのヒロって子、頭がいいね。それに大人っぽい。普通、小学生で社交辞令の笑顔なんて使わないよ」

 社交辞令。あの笑顔はたしかに大人たちがにこにこ挨拶しているときの不完全な笑顔と重なる。あれが本物の社交辞令か。

「うちらってさ、親から無視されたり、学校にまともに通えなかったり、いろいろ事情や背景はあるけど、あんまり勉強できない子が多いんだよね」

 それは薄々感じていた。私は小学校低学年の頃、まだお父さんとお母さんと三人、安定した暮らしを送っていた。でも、その頃にゴタゴタが起きて華やぎ館に引き取られたような子は、漢字が書けなかったり、掛け算ができなかったりする。学校が変わることで学習内容にギャップができるためや、そもそも勉強どころの精神状態や家庭環境ではない子もいるのだ。

「やっぱり、五年生まで親がいると違うのかな。それにしても言うことが脳出血とはね」

『話してみたい?』

「いや、いい」

 サヨちゃんは人と会うことを極端に嫌う。ヒロ君もその例外にはならなかったようだ。

 私は、ここ数日考えていたことを切り出してみた。

『今日、ここで一緒に晩御飯食べていい?』

 サヨちゃんは目を数度ぱちぱちと瞬かせた。

「いいけど、急にどうしたの」

 サヨちゃんは食事が乗ったトレーをこの部屋に持ち込んで食べ、終わったら食器を食堂に戻す。

『たまには誰かと食べたいな、って』

 最初の頃はミナコちゃんと食べるのが常だった。そうでなくても、その場にいる誰かと一緒に食べた。でも、マサシ君の標的にされた今、私と一緒にご飯を食べる人はいない。巻き込まれまいと、遠巻きに避けられているのだ。

 サヨちゃんは唸っていたが、大きく息をついた。

「まあ、そうね。そろそろ慣れる訓練もしないとなあ」

 訓練? そう顔で問うと、サヨちゃんは気まずそうに顔を逸らした。

「学校に通うためのっていうか。私も今年で卒業だし、中学生になっても同じようにできるかわからないしね。他人と関わる練習はしておかないと」

『無理しないで』

「いや、大丈夫。あんたなら、多分」

 サヨちゃんは青い顔をして深呼吸し、勢いよく立ち上がった。

「うん、いい機会だ。行こう」

 覚悟を決めた表情に、私が思いのほかサヨちゃんにとって大きな提案をしたのだとわかった。食事を取りに行くときも、食べる最中も、サヨちゃんはずっと無言で、顔色が悪かった。

 トレーを返し、二人で部屋に戻ると、ぶはあ、と声を出してサヨちゃんはベッドに倒れ込んだ。

「大丈夫。大丈夫だから」

 私が近寄ろうとすると、先回りして止められた。

「大丈夫、だった。意外と。そりゃそうか」

 目を覆った状態でぽつぽつと呟くサヨちゃんは酷く疲れて見えた。だが、食べているときよりは顔色が良い。

 ほっとして私も自分の椅子に座ると、薄目を開けてサヨちゃんがこっちを見ていた。

「他人の音が苦手なの。特に苦手なのは声だけど、自分以外の人間が出す音全般が苦手。私は、親が育てられなくなってここに来た。父親はすぐにうるさいって怒鳴って私もお母さんも殴った。だから静かに、できるだけ静かに動くようにした。それでも殴られた。あれは、うるさいから殴るんじゃなくて、殴る理由は何でもよかったんだろうなあ。両親は離婚。お母さんは心の調子が悪くなって私を育てられず、私は役所の人の勧めで華やぎ館に来た。それからしばらくして、他人の音が気になって仕方なくなった。学校に行くと胸の奥がざわざわして、上手く息ができなくて、保健室に行く途中で動けなくなったこともあったっけ」

 サヨちゃんは微かに笑った。

「そのままびくびくしていたら、いつの間にか食堂にも行きたくなくなって、ここでご飯食べるようになっていた。久しぶりに他の子とご飯を食べたよ。思ったよりも平気になっていた。ありがとうね」

 最後のお礼に、首を振った。単に私が人恋しくなっただけなのだ。でも、そんな事情がありながら私がサヨちゃんと同じ部屋になったのは、私が声を失っているからなのだろう。リハビリ相手にされたわけだ。ここのスタッフも、余裕がある分には私たちのことを気にかけてくれる。

「火が通ったおかずって、いいよね」

 サヨちゃんは余程興奮しているのか、普段が信じられないくらい話が進む。

「ウチの家、さっきも言ったように静かに、静かに、って方針だったから、冷たいおかずが多かったの。焼くと音が出るでしょ、ジューって。レンジの音もうるさいだなんていちゃもんつけられてさ。だから、生野菜のサラダとか、父親がいない間に作ってあった煮物を冷蔵庫から出すとか、冷たいものばっかりだったの。華やぎ館は別に好きじゃないけど、温かいご飯が食べられる点だけは手放しで喜べるよ」

 そんな食事が続くのは、怒るお父さんの方も辛かったのではないだろうか。さっさと怒りも意地も引っ込めて、穏やかな食卓に戻せばよかったのに。

「どうしてそんなことになっちゃったんだろうって、何回も考えた。私がまだ小さい頃は優しいお父さんだったんだよ。お母さんは、殴られるようになっても、あの人は可哀想な人なんだって庇っていた。私に手を上げるまでは。

 本当に、可哀想な人だったんだと思う。優しすぎて、頑張り過ぎて、自分を大事にできなかったんだと思う。マナちゃん、本当に大事なものなんてわかりきっているんだよ。自分と、大事な家族。それ以外のものを大切にしすぎると、人は心が枯れ果てて、削れ始めるの。心が削れた人は、自分も周りも不幸にしちゃう。何もいいことなんてない。だから、迷っちゃだめだよ。大事なものとそうでないもの、その区別を迷って、大事なものを捨てちゃだめだよ」

『私の大事なものって、何だろう』

 書く手が震えた。そっと紙を押し出すと、サヨちゃんは悲しげに目を細め、私の胸に手を当てた。

「この心だよ。心と体。これを大事に思えないなら、それは何かが間違っているってこと。私が華やぎ館で学んだ、数少ないことだから、多分間違いない。私が我がままに学校に行かないのも、ここでご飯を食べるのも、全部そのためなんだから」

 どうしよう。私は、私のことを大切に思えていない。

『サヨちゃんを大事に思っちゃだめなの?』

 私の言葉に、サヨちゃんは微笑んで首を振った。陰りのあるその笑みに、深淵を覗いてしまったようなそら恐ろしさを覚える。

「駄目だよ。こんな、マナちゃんをマサシから守ろうとすることもできない人間を大事に思っちゃ駄目。私がマサシに歯向かうとしたら、それは自分の身に被害が及ぶときしかあり得ない。マナちゃんがどんな目に遭っても、私は助けず、ここで震えているよ。どうか私は無事に卒業できますようにって祈りながら、布団にくるまって、部屋の鍵を閉めて、良心に苛まれながら時が経つのを待つ」

 味方にはならない。そう宣言された。そのとき、私は期待していたことを自覚した。同室の、年上のサヨちゃんがマサシを止めてくれる、間に入って守ってくれる、心を開けばそんな関係になってくれることを期待していた。

「自分の身よりも優先してくれる人なんていないよ。いるとしたら、それは親や祖父母、つまり家族だね。それも、まっとうな家族。私たちにはいない。ここにいる子供たちは、みんな、そういう家族がいない」

 マナちゃんも、だからここに来た。

 突き落とされるような感覚に襲われた。人と人は助け合うもの、支え合うもの、無償の愛はあると思っていた。でもそれは家族が私にくれたものであって、見知らぬ他人から貰えるものではなかった。

 どうして、それを貰っているときに感謝できなかったのだろう。ありがとうの一言を毎日伝えればよかった。私に何の見返りも求めず助けてくれる人たちだったのに。決して当たり前ではなかったのに。もう誰も、私をそんな風に守ってはくれないのに。

 涙は出なかった。私を取り巻く環境は、一年も昔のことを悼んで泣くほど、のんびり後ろを振り向かせてはくれないから。助けてもらえないのなら、次の何かを考えなくてはならない。

「泣かせてごめんね。代わりに、いいものを見せてあげる」

 私は乾いた目でサヨちゃんを見た。泣いているように見えたのだろうか。

 サヨちゃんはごそごそとベッドのマットレス下に手を差し入れた。手探りで取り出したそれは、百円ライターだった。

『どこから?』

「私、事務室で勉強教わることがあるんだけど、備品棚にこれがあるから、盗ってきたの」

 内緒ね、とサヨちゃんは人差し指を唇に当てた。

 華やぎ館の食堂や共用広間は、冬場、石油ストーブを使う。そのときの着火にライターを使っている。五、六年生しかその着火作業はやってはいけないことになっていて、まだ私はやったことがない。

 カチリと音がして、小さな炎が点いた。

「私、火が好きなの。いつまでも見ていられる。指が熱くなるから、そんなに長く点けてはいられないんだけどね」

 指を離すと火が消えた。それを何度か繰り返し、サヨちゃんはだんだんと虚ろな目になっていく。

「夏の間はライター使わないからさ、数が減ったら怪しまれちゃうんだよね。冬が来るまで、オイルを節約しながら燃やさないと」

 名残惜しそうに火を消す。そして今度は妖しく笑った。

「マナちゃん。今夜、冒険しよっか」


     ◇


 深夜、私はサヨちゃんと部屋を抜け出た。静まり返った華やぎ館は、それでも人の気配がする。いびき、寝息、寝返りでベッドが軋む音、ドア一枚隔てて子供たちの気配が伝わってくる。サヨちゃんは一階に降りていく。何気なく歩いているようなのに、全く足音がしなくて驚いた。華やぎ館の廊下はあちこち軋むのに、それでも音がしない。静かに歩くことに慣れている。サヨちゃんの父親の話が思い出され、言いようのない淀みのような感情が腹に落ちる。

 サヨちゃんは角を曲がるたびに止まり、耳と目で誰もいないことを確かめながら歩いていく。廊下の中ほどまで来て、背後でドアが開く音がした。心臓が跳ねるのと同時に、腕を強く引かれ、食堂に引き込まれた。しゃがまされ、至近距離でサヨちゃんが指を唇に当て、静かに、とジェスチャーをしている。食堂にはドアが無く、私たちは入口の陰にしゃがんで息を殺した。低学年の誰かがトイレにでも立ったのだろう。ひたすら息を止める。

 足音が近づく。一定の小さな音がすぐそばを通り、遠ざかっていった。こちらからは後ろ姿だけが見える。私は身を隠そうとしたが、サヨちゃんが私の肩を押さえて止めた。今振り返られたらきっと見つかる。

 だが、その子は私たちに気付くことなく、トイレに入っていった。ほう、と息を吐く。向こうもまさか食堂の暗がりに人が潜んでいるとは思わなかったのだろう。サヨちゃんが笑いを堪えるような愉快そうな表情で私の手を引く。私もつられて笑い出しそうになった。

 サヨちゃんが向かったのは厨房の中だった。華やぎ館の献立は栄養士さんによって作られる。調理自体はスタッフや、ときには子供たちも手伝うことがあるため、厨房は馴染みがある。だが、こんな夜に身をかがめて忍び込むと全く違って見えた。調理台も流しも黒い壁のように威圧感があり、隙間を這うようにして進むと、床のべたつきに気が付いた。

 下を向けていた頭がぶつかり、サヨちゃんが止まったことに気付いた。顔を上げると、棚の一つを指さしている。慎重に開け、取り出したものはサラダ油だった。

 それをどうするのか見守っていると、サヨちゃんはジュースのラベルが巻かれたペットボトルをポケットから取り出し、サラダ油を少しだけ移した。そのまま元の棚にしまい、ペットボトルはポケットに入る。サヨちゃんは満足そうに服の上からペットボトルを撫でた。

 廊下の方から水が流れる音がして、先ほどトイレに行った子が通り過ぎ、部屋に戻っていった。ドアが閉まる音まで聞き届け、私たちは再び動き出す。玄関へ移動し、靴を履く。備え付けの華やぎ館のサンダルはやめておくように言われていた。

 玄関のサムターン錠を回して、私たちは外に出る。深夜の屋外に出た瞬間、とてつもない解放感がやって来た。息が深く吸えるようになったような、鳥籠の底が抜けて解き放たれたような。ひんやりとした空気が肺に入って来て、思わず両手を広げてしまった。

 私の様子を、サヨちゃんはくすくす笑いながら見ていた。恥ずかしくなって腕を戻す。砂利が敷き詰められた駐車場を避け、足音が出にくいコースを選んで華やぎ館の敷地を出ると、ようやくサヨちゃんが口を開いた。

「ここまで来れば、さすがに聞かれることもないでしょ。夜の外はどう?」

 華やぎ館は深夜、消灯時刻後の外出を禁じている。それを破ったことはない。

 ぶんぶんと腕を振って興奮を伝えた。昼間や夕方、当たり前に見る場所なのに、今はなぜか体が軽くなったようにすら感じる。

「あそこは逃げ場がなさすぎるよね」

 私の気持ちを代弁するようにサヨちゃんが言った。

「たまにさ、あそこが檻に見えるの。檻の中の、さらに小さな自分の部屋に閉じ込められているような気がすることがある。多分、守るものと閉じ込めるものってそんなに違わないんだよね。本当はさ、私たちを閉じ込めるものではないはずなのに、規則で縛らないと子供たちの行動に責任を負えない。守るために閉じ込めないといけない。それは理解している。でもさ、閉じ込められる側からすればさすがに息苦しい」

 サヨちゃんの口からすらすらと流れ出る言葉は少し難しくて、全てを一気に理解することはできなかった。でも、最後の息苦しさだけは、はっきり共感できる。街灯の灯りだけが灯った世界に二人だけで降り立った瞬間の、目が覚めるような解放感。それは逆に、今まで何かに縛られていたことを意味する。

 サヨちゃんは華やぎ館からさらに離れ、裏山へと入っていく。足元に気をつけて、と言うサヨちゃんの顔が見えないくらい、灯りが届かない。

 何度かつまずきながら追いすがる。サヨちゃんは慣れているようで、私の方を気にしながら歩く。

「実は、ここも華やぎ館の持ち物なんだよ。道を挟んで、華やぎ館本体のある敷地と裏山は華やぎ館の所有物なの。だからここは、不法侵入にはならない」

 不法侵入と言えば、「接続」でやっていることは誰の許可も取っていない侵入なので、それにあたる気がする。私はその辺りの感覚が麻痺し始めているが、サヨちゃんは普段どんな本を読んでいたらその発想が自然に出てくるのだろう。

「ここはスタッフがついていれば子供たちが入ってもいいとされている。二年か三年くらい前までは、そういう日もあったんだけど、最近は全然ないなあ。スタッフの数が減ったからかな」

 それは知らなかった。裏山の存在は知っていたが、入ったことはない。口ぶりから、サヨちゃんは連れられて入ったことがあるようだが。

「でも実は奥にも広がっていてね、川があるの」

 ずんずんと進んでいく。目も慣れてきた。木の根を跨いで目を上げると、急に開けた、広場のような場所に出た。月明りが届いて、暗闇に慣れた目にはとても明るい。

「なぜかここは開けているんだよね。この先に川が流れているんだけど、今日見せたいのは別の物」

 サヨちゃんは広場の外縁に沿って時計回りに歩いていく。私は転ばないように気を付けながらも、顔を上げて夜空を見た。生い茂った樹々の隙間から夜空がぽっかりと現れて、丁度その先に月がいた。月面の模様までくっきり見える。綺麗だ、と素直に思った。月に美しさを感じるなんて、いつぶりだろう。

「マナちゃん、ここだよ」

 目線を落とすと、サヨちゃんが手招きしていた。広場から僅かに離れた地面にしゃがみ込んでいる。

 近づくと、何か小さなものが地面から突き出ていた。これは、ペットボトルのキャップ?

「これが、いい物」

 はっとした。よく見ると、ペットボトルのキャップがいくつも地面から突き出ている。サヨちゃんはその一つのキャップを開け、今日くすねてきたサラダ油を慎重に注ぎ込んだ。

「この白いキャップはサラダ油。オレンジ色は灯油。ピンク色はガソリン。まあ、ガソリンはさすがに集めるのが難しくてほとんど入っていないんだけど。それぞれ、2リットルペットボトルが埋まっている」

 白いキャップは十個ほど見えた。オレンジ色のキャップは三個、ピンク色は一個だけ見つかった。

「サラダ油は今日みたいに調理室からちょっとずつ盗ってきた。灯油は、石油ストーブの灯油補充のついでに、少しだけもらって貯めた。まあ、灯油の保管場所はわかっているし施錠されているわけでもないから、今日みたいに貰うことの方が多いんだけどね。ガソリンは車から。でも、ロックがかかっていると給油口も開かないから、ほとんどチャンスがない」

 サヨちゃんは微笑んだ。

「なんでこんなことしているのかって思ったでしょ。理由は簡単で、火が好きだから。ライターよりもずっと長く燃やして、眺めていたいから。それともう一つ」

 サヨちゃんは軽く身震いした。

「嫌な場所は、燃やしちゃえばいいんだよ。私の家は火事で燃えた。その結果、警察と消防にお世話になって、家庭内暴力が明るみになった。それで私は華やぎ館に、お母さんはDVのシェルターに、お父さんはワンルームのアパートにバラバラに暮らすことになったってわけ」

 サヨちゃんは恍惚とした表情のまま震える。寒いのではない。興奮している。

「火はね、檻を壊してきれいにしてくれるんだ。都合の悪いものは消して、囲っていたものを壊して、悪い場所を清めてくれるんだよ。燃える我が家を見るのは、すごく気持ちよかった。思い出も燃えていくみたいで、苦しい記憶も灰になっていくみたいで。あれはもう家の死体だったの。死んだら燃やさないといけない。当たり前のことでしょう。死体と暮らしていたら、おかしくなって当然だよね。あれでよかったんだ。何も残らなくてよかった」

 サヨちゃんは歌っているようだった。節もリズムもないが、滔々と夜の闇に声が響いていく。

「家が燃えることで、私はあの父親から逃げられた。逃げて行き着いた先が天国だったわけじゃないけど、別に地獄じゃなかった。だからこれを使うことは、多分ない。でも、マナちゃんは違う。まだ一年以上ここで暮らさないといけない。だから、これをあげる」

 サヨちゃんが差し出したものを受けとる。それは五つの百円ライターだった。

「それと、ここの油。使うも使わないも好きにして。全部マナちゃんにあげる。マサシから守ってあげることはできないから、せめてこれくらいは同室のよしみ」

 手の中のライターが震えた。灯油を燃やせばどうなるのか、私は知っている。サラダ油だって、火事を起こすには充分な火力になる。

 華やぎ館を、燃やす?

「本当はもっと、役に立つものとか、知識とか、身を守る方法とか、そういうものをあげられたらよかったんだけどね。私は燃やすことしか知らないから」

 月光の下で満足げに言うサヨちゃんは、舞台女優のように手を広げ、くるくると回る。私は何の覚悟もないまま引き継がれた執念の塊に慄いていた。ここが華やぎ館の自室だったら受け取らなかったかもしれない。でも、今の解放感のついでに、私は受け取ってしまった。同時に、どうやってこれを使えばいいのか考えを巡らせ始めている自分に気付いていた。

 だって、あの場所が火に包まれるなんて、とても爽快そうな光景だから。

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