「――さっきの女の人は、小百合さんというんです」

 唐突に志乃が言った。どのように答えるべきなのか解らず黙っていると、志乃は坦々と続けた。

「幼いころからずっと、私の面倒を見てくださっていて」

 志乃はそこで言葉を切り、自分の手元に目線を落とした。その瞳には、迷いの色が浮かんでいた。何を言うべきで、何を言うべきでないか。それを思案している風にも見えた。次に彼女が顔を上げた時にはその色は消えていたが、口元に浮かべた笑みはどこかさみしげだった。

「小百合さんは、母親代わりのような存在なの。優しいけれど、厳しい人だから――だから、さっきのご無礼、どうかお許しください」

 そう言って、彼女は口を閉じた。

 母親代わり。その言葉が気になったが、それを問うような無粋な真似はしなかった。他人の私が、そこを問いただすのは間違っている。私はただ安心させるように笑みを浮かべ、明るい調子で言った。

「気にしないでください。むしろ、小百合さんの反応が正しいはずです。見知らぬ男が急に雨宿りさせてくれと立っているんですから」

 その言葉が可笑しかったのか、志乃は表情をやわらげ、くすりと笑みをこぼした。えくぼを浮かべ、肩から力を抜く。

「ありがとうございます。私、もうずっとひやひやしていて」

 顔を見合わせて笑いあう。そうしているうちに、どんどん雲が晴れ、真新しい光が差し込んできた。茜色にそまった空が、窓越しに見えた。


「そろそろお暇します。雨も上がりましたから」

 そう言うと、志乃は我に返ったように腰を浮かせた。

「大変。長いことお引止めしてしまったみたい」

 二人で部屋を出て、階段を降りる。行きも歩いた廊下を戻り、玄関へと急いだ。靴を履こうとかがみこんだ時、私ははっと顔を上げた。

「ご挨拶を――」

「大丈夫です。私から伝えておきます」

 志乃はやんわりと遮ったが、私は小百合という女性の厳しい視線を思い出し、束の間ためらった。

「もうじき暗くなります。森の小道は危険でしょうから」

 そう言われて、私はやっと腹を決めた。立ち上がり、藍が滲み始めた外へ出る。ひんやりとした風が吹き、木々がざわざわと音を立てた。


 家に帰り着き、玄関の扉をひっそりと開けた。廊下の壁に取り付けられた蜜色の電球の光が、飴色の廊下に深い影を作り出している。もそもそと靴を脱ぎ、まっすぐ風呂場に向かおうとした矢先、慌てたように使用人が駆けてきた。

「啓介様、お帰りなさいませ。あら、そんなにずぶぬれで」

 私はああ、と苦笑し、幼いころから私の面倒を見ている彼女に首をすくめてみせた。

「あいにく雨にあってしまった。風呂はもう沸いて?」

「ええ、ええ。もちろん沸かしてありますわ」

 冷たい素足で廊下を歩き、風呂場へと向かう。後ろから上着をもとうと追いかけてきた彼女が、楽しそうに声をかけてきた。

「近頃、楽しそうにお出かけになっておりますけれど、なにかいいことでもありましたの?」

 口元に笑みが浮かび、私は慌てて顔を引き締める。

「絵が出来上がるのを待っているんだ」

 それだけ言うと、私は風呂場に滑り込んだ。シャツのボタンをはずしていると、ふいに彼女がああと声を上げた。

「すでにお聞きになっているでしょうが、軽井沢に清原家の方々がいらっしゃっているようですね。なんでも、ひと夏をそこで過ごされるとか」

「それなら知っているよ。お嬢さんとお近づきになれた」

「まあ! それはようございました。それに、清原のお嬢様は随分おきれいだと噂ですものね。もうすぐ東雲不動産の若旦那様との縁談があるそうですけれど」

 その言葉を聞いた途端、私の口元が引き攣った。頭の奥がじんと痺れ、手足がさらに冷え切っていく。

(これは、なんだ)

 戸惑う。思考が停止しそうになり、私は慌てて息を吸った。不思議そうな顔で私を見つめている彼女に、これ以上動揺しているさまを見られたくはなかった。どうしていいのかわからなくなり、私は黙ったまま風呂場の戸を閉めた。


 ふわふわと湯気が立ち上り、開いた窓から逃げていく。土砂降りの雨も収まり、しとしとと降る柔らかな雨音だけが響いていた。湯船につかったまま、私はただぼんやりと宙を見つめていた。

 わかっていたことではないか。彼女は資産家の令嬢で、教養と品性を兼ね備え、人柄も美しい。縁談がないというほうがおかしいのだ。東雲不動産と言えば、私の実家としのぎを削っている大手だ。東雲家の若旦那とは一度だけ顔を合わせたことがあるが、事実、きわめて快活な気持のよい青年だった。しかし、彼が志乃に縁談を申し込むという事実だけは、どうしても認めることができない。

 どうしてなのかわからない。今まで一度として感じたことのない感情に、胸ぐらをつかまれて揺すぶられているようだった。胸の奥が鋭く痛み、歯噛みしたくなるようなもどかしさが押し寄せてくる。濡れた前髪をかき上げ、私はゆっくりと息を吐いた。

 彼女の明るい笑顔や優しい声。そして、真剣にキャンバスと向き合う精悍な横顔や、雨に濡れた黒髪の輝き。どんな彼女も、どんな表情も、そのすべてが愛おしいのだと、私はその時初めて気づいたのだった。手放したくない。叶うことなら、ずっとそばで彼女を見つめていたい。そんなどうしようもなくむなしい思いに翻弄され、私はぐっと唇をかんだ。私がやれることは一つしかない。彼女が同じ思いでなくてもかまわない。感情のままに筆を動かし、言葉として吐き出すように、私は彼女にこの熱情を伝えたい。夏は、もうすぐ終わってしまうから。


 翌朝は、昨日の雨が嘘のような快晴だった。私は悶々と眠れない一夜を過ごした。高原のすがすがしい風を受け止め、私は深呼吸を繰り返した。今日も志乃はあの丘に立っているだろうか。いつものように真っ直ぐ小道を辿り、森を抜ける。顔を上げると、空に近い丘の上に、白いスカートがはためいていた。いつもと同じように白いパラソルを立て、キャンバスに向かっている。私は足を速め、丘の上まで登った。

「志乃さん」

 声をかけると、彼女はぱっと振り向き、唇に笑みを浮かべた。

「風間さん、見てください。もうすぐ完成です!」

 無邪気にそう言った彼女の言う通り、キャンバスの上には若々しい緑と突き抜けるような青空が描写されていた。光と命の香りに満ちたその絵に心を奪われる。柔らかなタッチや、優しい筆の跡は描き手の性質を表しているようだった。言葉を発せずにいると、志乃は筆を持ったまま頬にかかった髪をかき上げた。

「東京に帰るまでに完成させることが出来てよかった」

「本当に美しいです。いや、そんな言葉では足りない」

 私がそうつぶやくと、志乃は素直にうれしそうな顔をした。その白い頬に、うっすらと絵具の跡がついているのを見とめ、私は思わず胸元からハンカチを取り出した。手を伸ばしそっと絵具をふき取ると、志乃が一瞬目を大きくし、照れたような笑みを浮かべる。

「志乃さん、私はあなたにどうしても伝えたいことがあるんです。この夏が終わってしまう前に」

 唇から言葉が流れ出す。志乃の大きな瞳を見つめ、私は浅く息を吸った。





――――――――――――――


やっと更新できました! お待たせしてしまってすみません。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桔梗の咲く頃 七沢ななせ @hinako1223

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ