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雨にぬかるむ道を歩き、やっと雨が小降りになってきた頃。私たちの行手に、半ば木に隠れた洋館が現れた。小豆色の瓦が雨に濡れてきらきらと光り、黄白色の外壁がメルヘンチックな雰囲気を醸し出している。この館もやはりミズナラの巨木に囲まれ、鬱蒼とした森を背負っている。突き出たポーチにはいくつも鉢が並べられ、よく手入れされているのだろう、美しく咲き誇っていた。
二人でポーチに駆け込み、パラソルを閉じる。胸元からハンカチを取り出して濡れた顔を軽く拭うと、隣で志乃がほっと息をついた。
「よかった。絵は濡れていませんでした」
布で包んだ上から、自身のエプロンで包み込んでいたキャンバスを眺めている。布に擦れたせいで少しぼかされてはいたが、絵の美しさは変わっていない。私もほっとして頬を緩めた。ぐっしょりと濡れた上着を脱いで腕にかけ、白いシャツ姿になる。湿った袖口がひやりと手首に張り付き、強引に袖を捲っていると、突然後ろの玄関ドアが開く音がした。
「お嬢様! 心配していたのですよ」
甲高い声が響く。使用人だろうか、和服姿の年配の女性が、タオルを腕に抱えてこちらを見ていた。かっちりと結い上げられた白髪と、皺ひとつない着こなしに彼女の気質が表れている。彼女は安堵と不安の入り混じった表情で、志乃を見下ろした。しかし、その幼い子供を見つめるような愛情のこもった瞳が私に留まったとき、温かさは一瞬にして消え去った。
「どちらさまです?」
きつい物言いに束の間気を飲まれる。口を開こうとした時、志乃が先に声を上げた。
「お友達なの」
私も慌てて彼女に向き直る。
「風間と申します」
頭を下げると、女性は儀礼的に礼を返して志乃をタオルで包み込む。その目から疑いの色は消えていなかったが、志乃と同じようにタオルを渡してくれた。
「雨が止むまで休んでいてください。どうぞ中へ」
志乃が言って、ドアを開けた。
咎めるような視線を送ってくる女性に遠慮しつつ中に入ると、玄関に置かれた堂々たる花瓶に目が留まった。白と金で縁取りされ、その中に濃い紫の花が生けられていた。しっかりとした茎は真っ直ぐに伸び、緑の葉はぴんと張りがある。星形をした花弁は、はつらつと輝いていた。玄関の花たちと同じように、よく手入れされていることがわかる。微笑ましく見つめていると、志乃がそっと口を開いた。
「私の好きな花です」
「桔梗、ですか」
「ええ」
志乃はさみし気な笑みを浮かべて花を見つめていた。私はなんとなく、見てはいけないような気がして目をそらした。何か、特別な思い出があるのだろう。靴を脱ごうとしたところで、私はふと気がついた。
「靴が濡れているので、私は玄関で大丈夫です」
志乃は一瞬目を丸くしたあと、愉快そうに笑い始めた。
「そういえばそうでした。いっそのこと、裸足になってしまいましょうか」
子供のような口ぶりに、私もつられて笑い声を漏らした。
「そうさせていただきます」
突然、女性がわざとらしく咳ばらいをして、私たちは我に返った。志乃が一瞬の躊躇いもなく裸足になり、私もためらいがちに靴下を脱ぐ。歩き出した志乃に続いて磨き上げられた廊下を進んだ。
目に飛び込んでくる豪奢な内装から、清原家の裕福さが伝わってくる。
樫材の重厚なドアがいくつも並ぶ廊下。つるつると滑らかな光を放つ柱。金で装飾された階段の手すり。天井から下がったシャンデリアに実った幾つもの水晶がきらめき、夢のような輝きを投げかけていた。華やかだが、洗練され、落ち着いた雰囲気を放っている。別荘だけにこれほどの贅をかけられるとは。その財力に圧倒され、私は飲み込まれそうになっていた。
途中で使用人の女性が立ち止まった。曲がり角からもう一人の使用人が姿を現し、彼女を呼んだのだ。女性は不安そうに私を一瞥し、志乃に何かをささやいてから別れて行った。図らずとも、私は志乃と二人になった。会話もなく緊張していると、彼女は明るい表情で、私を見上げた。
「――絵を見ていただけますか?」
志乃は大きく頷き、階段の上を指した。
「上に、小さいけれどアトリエがあるんです」
「ぜひ見てみたい。案内してくれますか?」
彼女は嬉しそうに笑い、私を導いて左側に伸びる階段の手すりを掴んだ。しっとりと吸い付くような手触りの、質の良い木材だった。一段一段に敷かれた赤い絨毯を踏みしめながら、緩やかに曲線を描いて二階へと繋がる階段を登った。
二階へ出ると、志乃は廊下の突き当たりのドアを指し示した。
「そこです」
軽快な足取りで進んでいく。志乃はドアノブに手をかけ、静かに回した。
ドアが開けられる。私は目の前に広がった光景に、小さく目を見開いた。
目に飛び込んできたのは、部屋の奥にある大きな出窓だった。青空を思わせる涼しげな緑色の枠に、磨かれた透明なガラスが四枚嵌められている。薄いレースのカーテンに隠れるようにして、いくつものクッションと文庫本がいくつか積み上げられていた。晴れていれば、陽の光がさんさんと降り注ぐのだろう。
そして、部屋のそこかしこに置かれたキャンバスやイーゼル、ほんのりと漂う絵の具特有のにおい。隅の方に立てかけられ、並べられているのは、完成した絵だろうか。油絵だけではなく、水彩画や色鉛筆、木炭で描かれたものもあった。大抵は植物や自然の風景を描いたものだった。
私は思わずそばへ寄って彼女の作品群を眺めた。
溢れ出る生。命。呼吸。胸一杯にみどりが満ちるような、そんな絵だった。くっきりとした線で描かれる山々。淡く儚い筆使いで描かれる水彩の花。太く凛々しい波を打って揺れる春のカーテン。細く細かに生み出される透明な花瓶。その全てが明るい空気を生み出して、部屋を満たしていた。描きての性質が滲み出たような作品たちは、私の心まで潤してくれるようだった。美術にこれほどまでの力があるとは思わなかった。
「絵は、文字を持ちません。それなのに、なぜこんなにも胸を打つのでしょうね」
思わずつぶやくと、志乃が頷いた。
「本当に」
いつのまにか、うるさいほどに耳を打っていた雨音が消えている。きらきらと輝くガラス窓の向こう側を見る。私は大空を横切るそれを見留め、志乃を振り返った。
「志乃さん、虹です」
志乃はそれを聞くなり、小走りで窓辺へ駆け寄った。幼い子供のような仕草に胸が温まる。志乃が歓声を上げ、満面の笑みで私を振り返った。
「風間さんも」
立ち上がり、私は歩いて窓辺へ向かった。床に膝をついて虹を見上げる志乃の後ろから、腰を曲げて空を見上げる。
七色の橋。見惚れてしまうような色と色。その境目はほんのりとぼやけていて、見れば見るほど吸い込まれてしまうようだ。こんなにも虹が美しく見えたのは、生まれて初めてのことだろう。
───大切な人と、一緒に見ているから。
遠い記憶の中の誰かが、耳元で囁いたような気がした。
志乃の横顔を見つめる。彼女は確かに美しかった。この世の何よりも美しいと思えた。しかし、なぜか胸が痛む。その理由が、私には分からない。
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