彼女の名は、清原志乃きよはらしのといった。清原という姓で思い当たるのは、何といっても清原財閥だろう。一代で財閥を築き上げ、莫大な資産を手に入れた当主は、昭和の社会の金融をまたたくまにその手に握った。実際に、志乃が清原財閥の令嬢だと知った時には、目の玉が飛び出るほど驚愕した。

 そんな彼女は、令嬢でありながら嫌味なところが全くなかった。無邪気な笑顔を浮かべ、明るい瞳をきらきらと輝かせる。見るものすべてに感動を覚えているような、好奇心旺盛な性格と物言いが垣間見えることもあった。見合い相手には事欠かないようで、男たちは皆、この美しい容姿と、内面の明るさに惹きつけられていくのだろう。


 冷涼な気候が売りの軽井沢高原にも、夏を感じさせるこもった風が吹き始めた。そうして夏が過ぎていくのと同じくして、私たちは徐々に、一日に一度は顔を合わせるほどの仲になっていった。丘の上で彼女が筆を動かし、私が後から追いついてそれを眺める。書かないつもりだった原稿を引っ張り出して、となりで書き進めることも多かった。


 からりと乾いた昼下がり。私はいつものように、黙々と絵を描く志乃の隣で、万年筆を走らせていた。風の強い日で、私はしょっちゅうばさばさと捲れ上がる原稿用紙を抑えていなければならなかった。

 ふいに志乃が、絵筆を離してこちらを振り返り、悪戯っぽく微笑んで見せる。

「出来上がったら、私に一番に見せてくださいね」

 私は苦笑して、万年筆のふたを閉じた。手の中でゆったりとしたフォルムの軸を転がしながら、原稿用紙の上に散らばった文字に目を落とす。

「それは構いませんが。しかし、――ほんの遊びのようなものです」

「それでもいいんです。私を、風間さんの小説の、一番最初の読者にさせてくださいませんか?」


 志乃が風間啓介の読者であったことを知ったのは、数日前のことだった。それを知ってから、名乗るタイミングが見つからなくなっていた。そのうえ、私にはペンネームというものが存在していなかった。かといって、自分だけ名乗らないわけにもいかない。仕方なくぼそぼそと名を告げたところ、彼女は案の定、飛び上がって驚いたのだった。


 志乃は、自分がどれだけ熱心なファンであるのかを語ってくれた。

 あの作品がよかった、この情景が目に浮かんでくるようだどと、絵を語るときと同じように、熱く褒めちぎるものだから、私は大いに照れてしまった。

 彼女は文壇の御偉方とは違う。彼女の口から発せられる言葉は、作者を前にした世辞ではなく、心からのものだということがしっかりと伝わってきたからだ。そんな彼女だからこそ、私は心を開くことができたのかもしれない。


 私が筆を進める横で、彼女もまた着々と着彩を進めていた。片目で盗み見ると、ほとんどが白かったキャンバスのほとんどが、濃淡もさまざまな緑で彩られていた。私が眺めていることに気づく様子もなく、志乃は手を動かし続けている。左手に木製のパレットを構え、右手に使い込まれた絵筆を握る。絵具に筆先を埋めては、キャンバスに色を乗せていく。一連の流れは一瞬の滞りもなく、水の流れのようになめらかだった。

 志乃は時折手を止めて、眼下に広がる夏の草原を見下ろす。そんな彼女の横顔を見て、私ははっとした。童顔だと思っていた彼女の顔が、すっと大人びていたからだ。くっきりとした目鼻立ちには、年相応の陰りが浮かんでいた。そのままずっと見つめていたいような気がしたが、私は彼女から視線を引きはがして自分の手元に戻す。


 再び風が吹いて、目を細めた。暖かかった風がわずかだが冷えていることに気づいて、私は空を見上げた。今は正午で、気温が下がり始めるにはまだ早い。

 案の定、西の空に大きな雨雲が見えた。どす黒い灰色の塊は、軽井沢のさわやかな雰囲気にはあまりにも場違いで、そこだけが別世界のように軽井沢から切り離されて映った。雨雲は低く垂れこめていて、胸を圧迫されるような息苦しさを放っている。勢いよくこちらに迫ってくる黒雲から目を離し、私は原稿をしまって万年筆を胸ポケットに差し込んだ。

「志乃さん」

 声をかけると、彼女はすぐに振り向いた。筆を持つ右手の側面に、絵具が付着している。

「雨になりそうです。戻りましょう」

 志乃は空を見上げ、目を大きくした。風になぶられる髪を抑え、驚いた声で言う。

「さっきまで良いお天気だったのに」

「高原の天気は変わりやすいですから。雲の脚が速い。絵が濡れないうちに、早く」

 そう言っているうちにも、ごろごろとうなる遠雷が聞こえ始めた。それを耳にして、志乃は素早く筆を片付け始める。私も原稿を脇に挟み、志乃を手伝ってイーゼルからキャンバスをはずした。

 数秒後、イーゼルを折りたたむ私の手に大粒の雫があたり、それを追いかけるように次々と雫がぶつかり始めた。志乃が焦燥をにじませて空を見上げる。間に合わない。私は志乃が閉じようとしていたパラソルを受け取り、大きく開いた。

「傘にしましょう。大きいですから、濡れずにすみます」


 しかし、パラソルをさしていたにも関わらず、私たちはびしょぬれになってしまった。というのも、雨は止むどころかますます勢いを増し、私たちが丘を下り始めた時には、滝のような大雨になっていたからだ。白い生地をたたく雨粒の音で、そばに立っていても大声を張り上げねば聞こえないほどの激しさだった。

「――ここをまっすぐ行ってください! 私の家で雨宿りしましょう!」

 志乃が隣で声を張り上げた。ぬかるみ始めた小道を一歩一歩歩きながら、私はうなずいた。


 水たまりを踏み抜き、靴の中ににごった雨水が侵入する。パラソルの重さで腕が疲れ、濡れた手は滑り始めた。横から手が伸びてきて、私の手の下に添えられる。志乃を見下ろすと、彼女は前を向いたまま必死にパラソルを支えようとしていた。彼女も私と同じく濡れていて、ワンピースの肩布の色が濃くなっている。ふれあった腕と肩から、彼女の体温と息遣いが伝わってきて、私は唇を結んだ。


 ふいに、彼女がこちらを見上げた。黒髪が頬に張り付き、前髪も濡れて重く垂れさがっていた。にっこりと微笑み、彼女の唇が動く。しかし、雨の音にかき消され、私の耳には届かない。傘を傾けないように顔を近づけると、彼女も私に顔を近づける。雨の中で、私たちは束の間立ち止まった。

「――虹が出るかもしれませんね」

 楽しみでたまらないというように、弾んだ声だった。雨の中、志乃だけが生き生きとした光を放っていた。雨上がりのすっきりとした空ににかかる大きな虹が、私の目の前に浮かんだ。それはきっと、彼女のように見る者を明るくさせるような、明るい色をしているのだろう。

「楽しみです」

 私は心から、そう答えた。

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