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あっと声を上げた私の目の端に、飛ばされたパラソルを振り仰いだ少女が映る。振り返ってしっかりとイーゼルを手で支えた拍子に、パレットがひっくり返って草の上に落ちた。
真っ白いパラソルは威勢よく風に乗りながら、風をはらんで空を行く。少女も私も、ぽかんとしたままその短い旅を眺めていた。私がやっと動いたのは、ふいに風がやみ、一気に力を失ったパラソルがよろめいたかと思うと、一気に急降下し始めてからだった。このまま地面に激突すれば、間違いなくパラソルは壊れてしまうだろう。
それを見て取って、私は駆けだした。ごつごつした簡素な小道を駆けて、パラソルのもとへと急いだ。時折、思い出したようにそよぐ風にふらふらと吹かれながら、パラソルは速度を落としてゆっくりと地面に近づいている。私はパラソルの行方に合わせて行きつ戻りつしながらも、両手でパラソルをつかもうと手を伸ばす。そしてようやくパラソルの長い中棒に手が届いた。
ぎゅっと引こうとすると、ぽっかりと開いた白い空間が風をはらみ、思いがけない強さで私を引きずった。ひゅっと息をのみ、靴底が小石をにじる。視界が白でいっぱいになる。それでも私は足を踏ん張って引っ張られまいとし、渾身の力を込めて金具に手を伸ばしてパラソルを閉じる。ようやっと、パラソルと私の綱引きが終わった時には、息は上がり、額にはじっとりと汗が浮かんでいた。
呼吸を整えて上にいるであろう彼女のほうを振り仰ぐと、同時に軽やかな声が聞こえてきた。
「ありがとうございます」
整った小さな顔が、こちらを見つめていた。風になぶられる黒髪を抑えながら、彼女は頭を下げた。パラソルを追いかけているうちに、こんなところまで来てしまったらしい。さっき自分が立っていた草原が、だいぶ遠ざかっていた。
「強い風でしたね」
そう言って、小脇に抱えていたパラソルを差し出す。彼女は女にしては長身のほうだったが、私と頭一つ分ほどの差があった。そんな彼女が骨太のパラソルを抱えると、弱々しく見える。きゃしゃな腕を目一杯広げているせいかもしれない。
「絵を描いていらっしゃったんですか?」
何気なくそう尋ねると、彼女は大きくうなずいた。口元に浮かんだえくぼに愛嬌があり、思わず微笑んでしまう。黒目がちの大きな瞳と、明るい表情のせいで幼く見えるが、実際は私とそれほど変わらない年頃のようだった。
「軽井沢に来るのは初めてでしたので。そちらの大きな山がとてもきれいで、記念に」
「そうでしたか。私は毎年ここに来ていますが、確かになんどみても見とれてしまいます」
顔を見合わせて笑うと、一気に打ち解けたような気になってしまった。私は調子に乗って、絵を見せてくれないかと頼んでみた。出過ぎた真似だったかと後悔する間もなく、彼女は笑顔でうなずく。
「まだ手を付けたばかりですが、それでもよろしければ」
彼女に続いて、小高い丘の斜面に足をかけた。不揃いに生い茂った草の間に小さく揺れる花を踏まぬように、そっと登っていく。頂上に上り詰めると、私は思わず目を見張った。
浅間山の雄大な稜線がくっきりと青空に映え、眼下に望む広大な草原はやや傾斜を作ってどこまでも広がっている。几帳面に並ぶ森の木々が、深い緑を揺らしていた。何よりも、風が心地よい。火照り、汗ばんだ肌をすっと冷やしていく軽井沢の風は、得も言われぬほどすがすがしかった。彼女も私の隣で、同じように目を細めていた。細い黒髪が風に吹かれ、白い頬を日の光に輝かせている。
しばらく二人とも立ったまま風に吹かれていたが、彼女がはっと我に返ってしゃがみこむ。私も苦笑しながら彼女に向き直った。寝かせていたイーゼルからキャンバスを外して持ち上げ、私に掲げて見せた。
「油絵ですか」
心からの感嘆をにじませた声でそう言うと、彼女が照れたように微笑する。
「ええ。幼いころ、父が教えてくれました」
それは、軽井沢高原の写生画だった。彼女の言う通り、まだ青空と浮かぶ雲、そして浅間山の山際の曲線が描かれたばかりだったが、それでもほうっと感心してしまうほどに見事だった。
繊細なタッチで、そっと撫でるようにして描かれた雲は、触れてみればきっと柔らかい。その背後に広がる透明感のあふれる青空にすいこまれそうだ。それと対を成すように、浅間山の曲線は荒々しい筆遣いではっきりと描かれている。
「とても美しいですね。絵の中に吸い込まれそうだ」
思わずそう言うと、彼女は素直にうれしそうな顔をした。
「けれど、描くのは大変でしょう。水彩画よりも手順が多いですし」
油絵を完成させるには、長い時間がかかるものだ。絵具が乾くのが遅いため、ぼかしをつけるのには向いているが、濡れているうちに重ね塗りをすることは難しい。
それに油絵を描くためには、筆やパレット、キャンバスといった基本的な道具はもちろん、油絵具を溶かすために使う溶油、絵具を練ったり筆代わりに使ったりするペインティングナイフなど、油絵独特の道具をそろえなければならない。
手間が多い反面、一度塗ったらやり直しがきかない水彩と違い、失敗しても、乾いた後に上から色を重ねたり、削り取ったりすればやり直せる。そのことから、水彩と油彩でいえば油彩のほうが簡単だといわれるが、独特のにおいや処理の難しさを嫌って、あえて手を出さない玄人もいるほどだ。
しかし彼女の顔に影はなく、ただ愛おしそうにキャンバスの表面を手のひらで撫でた。その瞳には、熱情と、そしてある種の夢が光っていた。
「確かに大変です。でも、どうしても、油彩にしか出せない美しさに惹かれてしまうんです」
筆跡が残る浅間山の赤茶色が、太陽の光を反射して輝く。
彼女は熱心に語った。
「油絵具は、水彩絵具よりも色の鮮やかさや深みが際立つんです。それに油彩はとても奥が深くて――」
夢中で語る彼女を見て、私はそっと微笑を浮かべた。そんな私に気づいたのか、彼女は我に返って口をつぐむと、ぱっと頬を赤らめた。
「ごめんなさい、悪い癖ね」
「いや、何かに夢中になれるということはよいことです。絵がお好きなんですね」
言葉が空気に溶けていく。彼女は驚いたように顔を上げ、やがて、ゆっくりと大きな花のような笑顔を浮かべた。こちらまで笑顔にしてしまうような、爛漫な笑みだった。
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