第一章 白いパラソル

 東京が夏に差し掛かると、私はどうも落ち着かなくなる。むっとこもった書斎の空気や、使用人たちの話し声、身体にまといつく着物の質感など、普段ならどうとも思わない些細なことが、気に障って仕方がなくなるのだ。街をかげろうのように霞ませる灼熱の太陽のせいばかりではない。なぜだか、筆が進まなくなる。そうすると、私は必ずある場所を訪れることにしている。彼女と出会ったのも、その場所だった。


 長野県の東、群馬との県境にほど近い北佐久郡にある、軽井沢高原。活火山で形成されたなだらかな浅間山の南麓、標高は950メートルから1200メートルの緩斜面にある。冷涼な夏の気候と、排水の良い高燥な土地、豊かな森林地帯で形成された、まさに避暑にもってこいの場所である。


 モミ、ミズナラ、コナラ、シナノキ、コブシなどの多くの樹木が自然林として自生し、その清涼な気候をより瑞々しく感じさせている。軽井沢の自然林の中で目立つ樹はコブシで、4月末になると、2万本あるというコブシが豪華な花を咲かせる。他の樹の間に点在して咲くコブシの花は、軽井沢高原に春の訪れを告げてくれる。避暑地である軽井沢の別荘は、明治末期から大正時代にかけて建てられたものが多い。これらの別荘地は広い樹間にゆったりと囲まれ、建物は緑の中に見え隠れしている。


 私はその夏もいつものように、都会の喧騒を離れ、この豊かで風光明媚な高原で過ごす予定だった。締め切りの迫っている短編を書き上げ、うるさい編集担当の目の届かない場所で、のんびりと羽を伸ばす。彼女が亡くなってから、なんとなく足が遠のいているのだが、当時の私にとっては毎年恒例の楽しみであった。


 高原の中ほど、ミズナラの木に囲まれるようにして、私の祖父が購入したという木造の別邸が建っている。茶色い切妻屋根が特徴で、広い敷地を余すことなく使った、大きな二階建てという立派なつくりは目を引くものがあった。別荘というのは、まだまだ限られた裕福な家のみが購入できる代物で、並みの家が手にできるものではないが、その点に関しては何の疑問も必要ない。私の曽祖父に当たる人物が、不動産屋を興して成功し、莫大な資産を築き上げていたのだ。それを引き継いで、祖父も父も二代揃って不動産屋である。しかしその息子は跡を継がずに物書きに打ち込んでいるという、なんとも珍妙な系図となっていた。


 その夏も、私はちゃっかりと祖父の別邸に居座り、書斎を独占して閉じこもった。窓を開け放ち、広大な軽井沢に吹き渡る緑の風に吹かれる。風にそよぐこずえの葉がこすれあう音、鳥のさえずりに聞きほれる。大自然に包まれながら目を閉じていると、ふと小説の種が降ってくる。おのずと筆が進む。気づけば、原稿用紙がびっしりと文字で埋まっていた。


 ふっと息をつき、長いこと握りっぱなしだった万年筆を置く。インクのふたを閉じ、丸められた書き損じの原稿を脇に押しやる。凝り固まった肩をほぐし、大きく伸びをすると、完成した原稿を束ねた。大判の封筒に入れ、しっかりと封をすると、カバンの中に押し込む。仕事は完了した。しばらく筆は取らないつもりで、万年筆も机の奥に押し込む。


 はればれとした気持ちで悠々と続く稜線を眺めるうちに、外に出て風に吹かれたいという欲求が生まれた。私は立ち上がり、着物から洋服に着替え、外に出る。玄関から一本伸びる小道は、高原らしい野原へとつながっている。


 私はその小道をまっすぐに歩いていった。ところどころ下草で埋もれた道はなだらかに曲線を描き、ずっと歩いていると、森の中に吸い込まれそうな気持ちになってくる。生き生きと伸びる草花のあおさや、息づく動物たちの気配。それらを感じながら、私は歩く。ちらちらと揺れる木漏れ日が、私の顔に光を投げかけ、目を細める。心をかき乱されるものなど何もない。ただ静かで、平穏で、和やかな雰囲気だった。これを求めてはるばるやってきたのだと、私はしみじみと感じたのだった。


 いつしか小道は終わり、私は一面の草原が広がる野原に出た。ところどころに群生しているコオニユリの朱が、宝物のように見え隠れし、風に揺れている。うつむいたように花を地面に向けているさまは、艶な美しさで輝いていた。一面に続く、短く生えそろった草花の海を越えると、それらを抱き込むようにそびえる浅間山の曲線にたどり着く。茶色がかった火山は、なんと雄大なことだろう。私は息も忘れて、自然の息吹を感じていた。


 首を回し、ふと東の空を眺めたとき。こんもりと盛り上がった丘の上に、ぽつんと白い何かが見えた。青い空に浮かぶ、入道雲の白さにも負けない、まばゆいばかりの白だった。目を凝らすと、それは大きく開かれたパラソルだということに気づく。私は何かに惹かれるようにして、パラソルに向かって歩みを進めた。


 近づくにつれて、様々なものが見えてくる。パラソルにしっかりと結びつけられた木の支え。パラソルの大きな影に包まれるようにして、背を伸ばして立つ少女。少女は一心に絵筆を走らせていた。目の前に立てられたイーゼル。描き始めたばかりのようで、ほんの少しの色が乗せられた白いキャンバス。少女が身に着けている白いエプロンと淡い水色のワンピースが、風をはらんでふわりと膨らんだ。


 見とれてしまった。彼女が放つ清らかな雰囲気と、鮮やかな色が放つ夏の気配に、私は見入ってしまった。彼女は、私に気づく様子もなく、ただまっすぐにキャンバスと向き合っていた。まるで、彼女自身が一服の絵のようだった。雲が流れていく。一陣の強風が吹き抜けるまで、私は夢の中にいるような心地で、立ち尽くしていた。


 ごうっとうなりを上げて、強風が木々を揺らした。私は思わずよろめき、少女から目を離した。ばたばたと私の上着をはためかせ、翻らせ、翻弄する。しかしそれも一瞬のことで、風はすぐに吹き去っていった。そして次に顔を上げたとき、目に飛び込んできたのは、風をまともに受けて空に飛びあがっていく白いパラソルのまぶしさだった。

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