桔梗の咲く頃

木村比奈子

序章 濃紫の記憶

 あれから早一年が経ち、また夏が巡ってきた。


 時は無常に過ぎ去り、私の痛嘆に一度として振り返ってはくれなかった。しかしそれは世の通りというもので、時というものは人の思いなどおかまいなしに流れていく。止めることはできないし、その流れに逆らうこともできない。人間という卑屈な生き物にできることは、とめどなく流れる時の川に、無抵抗に流されていくことだけだ。


 一年中下げっぱなしにしているガラスの風鈴が、薫風を受けてちりちりと涼しげな音を立てている。その音に割って入るように、私の万年筆が紙をひっかく音が混じる。原稿用紙の升目の上に、萌え出した若葉の瑞々しい枝の影が、ちらちらと踊った。もう五年以上前に母が植えた芙蓉ふようが、成長するままに伸び、枝が窓枠まで届き始めているのだ。毎年夏になると真っ白なかぐわしい花を咲かせ、目を楽しませてくれる。


 開け放たれた窓から見えるのは、心地よく穏やかな、初夏の昼下がりである。私は一人、紙と万年筆だけを供にして、インクの匂いにつつまれながら随分長いこと書斎に引きこもっていた。部屋のドアにはしっかりと鍵がかかっているし、間違っても部屋に入ってこないようにと使用人に言い聞かせてある。この時間を、誰にも邪魔されたくなかったのだ。


 窓枠に乗せられた白い花瓶には、深い紫の花が一輪揺れている。時折、その厚くしっかりとした花弁が風を受け、風車の羽ように開いたその身体がくるりと回転する。私の最愛の女性が愛し、命の焔が消えるその瞬間まで窓辺に飾っていた花。そしてまた、白い病室の中で、幾枚もの絵のモデルとなって美しく描かれた花。真っ白な画用紙に、あるいは真新しいキャンバスに、それぞれ違う手法で丁寧に描かれていた。

 

 そっと目を閉じれば、絵筆や鉛筆を丁寧に走らせる彼女の白い手や、真剣な眼差しで色彩を捉える美しい横顔が鮮やかに蘇る。彼女が雪の如く白い煙となり、青空に溶けていってから一年が経とうというのに、全てが昨日のことのように思い出せる。いや、十年経とうと百年経とうと、彼女の面影が消えることない。この身が朽ち果て、現世から消えてなくなるその時まで忘れない。


 燃え上がるような熱情と、泉から湧き出る清水ように尽きせぬ愛を、血のつながらない誰かのために注いだことは、一度としてなかった。彼女と出会ったという奇跡に値段をつけるなら、私の人生全てを差し出し、私という存在をそっくりそのまま差し出したとしても、贖えない額になるだろう。


 ここまでくるのに、随分長いことかかった。彼女がこの世を去って、私は暗闇の中にいた。生きる意味さえもなくし、生業である物書きのために筆を取ることもままならなかった。毎日のように死について考え、日が暮れるまでぼうっと椅子に座りこんでいることも多々あった。涙が枯れるほど泣くという表現すら、私には当てはまらなかった。いっそのこと、枯れて欲しいと祈るほどに涙は止まらず、とろとろと燻る悲しみが尽きることはなかった。


 彼女にまつわる記憶は確かに美しく輝いている。同時に、私にとって、酷烈な悲しみと痛みを伴うものでもあった。痛みを感じることへの恐怖心から、私は彼女の面影と向き合うことを拒んだ。触れないようにと心を閉ざし、心の奥底に封印した。


 そうして一度は忘れようとした過去を、このように手記として書き起こす気になったのは、彼女の遺品である一枚の絵を発見したからだった。さらに私は、彼女の心のうちを、秘められた思いを知ることになった。さらに私の中に今も残る理不尽を、痛みを整理するという意味でも、もう一度記憶を辿ろうと思い立った次第である。


 風が吹いた。雲がゆっくりと流れていく。紫の花弁が、音もなく揺れる。

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