藤と涙の後宮
蒼キるり
藤と涙の後宮
空が茜色に染まり始めていた。
遠くの空に飛んでいるあの黒い鳥は鴉だろうか。どうかこちらに飛んでくるのはやめてほしい。
そんなことを思いながら、私は冷たくなってしまった指先をそっと擦り合わせた。
女房らしく幾枚もの衣を着込んではいるが、夕暮れ時はやはり少し肌寒い。
そろそろ火桶を用意した方がいいのではないかと口にしたいのだけれど、言葉を発していいものなのかと躊躇われる。
私はやんわりと視線を私の仕える女御様に向けた。女御様は私の方など見てはいないから、気づかれることもなかった。
一人お座りになっている女御様は物思いに耽っているようで、声を掛けて良いのか分からない繊細な雰囲気を醸し出している。
女御様の居られるその空間だけがまるで別世界に切り取られてしまっているようだ。
けれど、体が冷えてしまわないかしら。もし女御様が体調を崩されでもしたら、私は自分を許せない。
そう思うと不安が私の胸を占める。はしたないとは分かっていても、行動に移さずにはいられなかった。
そっと女御様の近くまで寄ってみると、想像通りに風は冷たく肌を撫でた。これでは女御様の白い肌が雪のように冷えてしまうだろう。
女御様はすっかり御簾から身体を出し、庭を見つめている。けれど庭に咲く花を見つめているようにも見えない。その瞳は庭よりもずっと遠くを見ているかのようだった。
その様は儚げで消え入りそうな、そんな美しさがある。
思わず詰めていた息をふっと吐いて、私は小さく声をかけた。
「女御様、風はお体に障りますから……」
私の声を聞いて初めて私が近くにいることに気づいたのか、女御様は少しだけ驚いた顔をしてこちらを見た。
昼過ぎに人払いをした女御様の側にいるのは私だけだ。
わざわざ私の名を挙げて側にいるように申しつけられたことがどんなに嬉しかったかなんて、女御様は思いもしないのだろう。
きっとお気まぐれだったに違いない。そうでなければこんなに驚かないだろう。私は嬉しかったけれど、そんなことは女御様になんら関わりのないことだ。
女御様はしばらく私の顔を見つめた後に、ふっと柔らかに微笑みかけてくれた。
そのお顔は私などには勿体ないほどの笑顔だ。
帝から殊更の寵愛を受けていると噂の更衣などはは女御様を見て、自分などには何を考えているのか分からないだなんて嫌味を言うけれど、私は女御様の優しく温かな笑みがこの後宮の中で一等素敵なものだと思っている。
「御上は今日も私を必要としてはくださらないのでしょうね」
女御様の突然のお言葉に私は不意を突かれ、しばし押し黙ってしまった。
帝が女御様と共に夜を過ごされることは滅多にない。それは否定できない事実であった。
すぐに返答も出来ないような哀れな女房にお叱りの言葉を投げるでもなく、女御様はただ黒曜石のように艶やかな瞳で私を見つめていた。
「前に私と御上が共に夜を過ごしたのは、一体いつのことだったかしら」
女御様の淡々としたお言葉を聞いて、私もそっと思い返してみる。
あれはまだ温かく、私たちの衣装も夏の衣だった頃ではないだろうか。
御上との夜を過ごせるとのことで、女御様の安堵したような顔をよく覚えている。すぐに思い出す記憶がそれということは、あれからもう夜を過ごせてはいないということに他ならない。
本当ならば女房として、もっと明確に覚えていなければいけないことなのだけれど、私の記憶は全て女御様のお姿に結び付けられているから、恐れ多くも帝の記憶はどうしても薄れてしまうのだ。
けれどそれをはっきりと口にするのはひどく躊躇われた。
帝は年若く愛らしい者に夢中で、帝より年上で聡明な女御様はお好みではないのだ。
こんなにも素晴らしい方を無碍にできるだなんて、帝の見る目の無さは如何なものかと口にはしないものの、私はいつも思っている。
「ねえ、藤」
女御様の声にひたすら耳を傾けていた私はその囁きのような呼びかけに、そっと身を震わせた。
滅多に呼ばれることのない私の名前。それが麗しき女御様の口から溢れ出ているその事実に、私は震えることしか出来ない。
だって、そうだろう。女御様はその優しい笑みを私一人に向けながら、私を呼びかけているのだ。
「私に足りないのは何かしら」
女御様は更に笑みを深めながらそう言った。え、と私の口から困惑が零れる。
蘇芳菊の衣を身に纏って嫋やかに風に当たる女御様に足りないところなんて。
「女御様に足りないところなど、一欠片もございません」
考えるよりも先に口が動いていた。例えるなら燃えるような想いに突き動かされるように。
「そんなことを言うのは貴女だけね」
くすり、と小さくけれど確かな笑い声が響いた。
私は本当に心の底から言ったのに、女御様はさらりと流してしまう。
そんなところさえ好ましくはあったけど、信じてもらえないというのはどうしても寂しさを伴う。
「御上は何を求めているのかしらね」
女御様がふっとそんなことを言って、私に手を伸ばして来た。唐突な行動に身動き一つ取れなかった。
衣の上から触れられる。女御様の手が冷たいのか温かいのかそれすら分からないのに、心が震えて仕方なかった。
どうして女御様は私にこんな風に寂しい瞳をして私に触れるのだろうと、思考は妙に冷えていた。
「……私には、分かりません」
ああ、どうして好ましく思っている人に触れられて喜べないのだろう。どうして私はこんなことを答えなければいけないのだろう。
こんなに恵まれた境遇を憎んでしまう自分は恥知らずと言われても仕方ない。女御に仕えることの出来る女はほんの一握りの者なのだから。
それでも、私は他の人のことを思っているばかりの人に触れられることが苦しくて苦しくて、それ以上に嬉しく思う自分の浅ましさが憎らしい。
「では、貴女は何が欲しいのかしら」
その言葉が発せられた瞬間、漂う空気の温度が変わった気がした。
驚いて顔を上げる私を女御様はまるで猫でも見るかのような瞳で見ている。
いま、女御様はなんと言ったのか。そう思いつつ、心は冷めていた。女御様にとって私など暇潰しの愛玩動物と一体何が違うのかしら。
「貴女はいつも私を見ているわね」
そう分かってはいても、そんなことを言われればじわじわと頬が熱くなってしまう。
「そ、それは……女御様が私の大切な仕えるべきお方ですので……」
嘘は言っていない。女御様に嘘をつくのは私の良心が痛むから。
耐え切れずそっと下がろうとした私を見逃す女御様ではなかった。
「それなら皆が同じような視線をしていると思っているの?」
愚かな私を揶揄するような、そんな響きを口に乗せてなお、女御様は変わらず美しい。
その完璧な傷一つない玉のような美しさが、もしかすると帝を遠ざけている原因なのかもしれないと、私は初めて思った。
「私の肌が溶けてしまいそうなほどの熱い視線を持つのは貴女だけよ」
まさか自分がそんな目で女御様を見ていたとは思わなくて、あまりの不躾さに目眩がした。
「御上でさえ、そんな目を私に向けたことはないのよ」
「そのようなことは……」
「それとも、それも当然かしら。私はあのお方のお気に入りとはお世辞にも言えないものね」
女御様、と私が思わず咎めるような言葉を発してしまったその瞬間、女御様は普段あれだけ物静かにお暮らしになっているとは思えない素早さで私の衣に手を掛けた。
「陽が沈むまでに貴女が声を掛けて来たら、こうしようと決めていたのよ」
おやめください、と微かに抵抗した私の声は女御様の耳には届かなかったようで、いとも容易く私は固く冷たい床に押し倒されてしまう。
重ねた衣が私に何をしてくれるというのだろう。女の手でも無惨に剥がしてしまえるのに。
はらはらと涙が零れた。それは愛しい人にこんな酷い辱めを受けていることへの悲しみであり、そう分かっていながらも女御様に触れられることを喜ぶ私の心の愚かさを恥じての涙だった。
女御様はこんな時でも涼やかなお顔を変えられることはない。私が初めてお会いした時と何も変わらない。
あの日、私はとても緊張していた。自分の仕えるべき主人、女御様に引き合わされ、体は小さく震えていた。
女御様はそんな私を咎めず、嫋やかな笑みを見せてくれたのだ。
そして庭に咲いていた藤の花を見て、「今日咲いたばかりよ。貴女が来たから咲いたのかしらね」と笑ったのだ。
たから貴女を藤と呼びましょうね、と私に名前をくださったあの顔と今の女御様のお顔は何一つ変わらないのだ。
「ねえ、教えてちょうだい。どうしたら女の私でも触れたくなってしまうほどの愛らしさが出せるの」
「わ、わたし……」
「貴女はこの柔肌に幾人もの人を埋めて、その熱い眼で幾人を惑わせてきたのかしら」
そんなこと、一度もしたことがありません。
そう訴えたけれど、信じてもらえてはいないだろう。
女御様のことをこんなにも想いながら、他の誰かに身を任せるようなことは私にはとても出来ない。
それだけは分かって欲しいのに、きっと女御様にとって私の真実など取るに足りないことなのだろう。
泣いている私に気づいた女御様の手のひらがそっと私の頬に触れた。肌と肌の触れるどうしようもない甘美さに私はもう抗えなかった。
雪のようだと思っていた女御様の手はひどく熱く、私の肌と眼も否応なく熱く燃えることになった。
「女御様、女御様……」
魘されるように何度も呼ぶことしか私には許されていなかった。
いや、本当はそれさえも許されてはいないのだ。でも呼ばすにはいられなかった。
そうしていなければ自分が保てそうにもなかったのだ。だって全て初めてだったから。
それだけで翻弄されてしまうというのに、他ならぬ女御様の御手が私の体に触れているのだと思えば込み上げてくるものが抑えられそうもなかった。
「愚かな子ね、藤。もう少し待っていられたなら、こんなことされずに済んだのに」
女御様の冷ややかな視線が肌に刺さる。そのことにさえ震えてしまった。
きっと女御様はこんな私を見て、内心ひどく嘲笑っておられるのだろうと思ってしまう。
「いつもぼんやりしている癖に、こんな時だけ女房らしくしようとするから、こんなことになってしまったのよ」
女御様の口角が微かに上がるのを見て、ああ私はこんなにも綺麗なお方に詰られているのだなとわかって、大粒の涙が流れる。
「女御様が、寒いのではないかと思って、だから、私、見ていられなくて」
はしたないと分かっていながらも本音が口からぽろぽろと溢れてしまう。
「女御様がお辛い思いをされるのが、私は一番耐えられないんです」
私の言葉を聞いた女御様が不意に動きを止めてしまう。突然のことに思わず張り詰めていた息が上がりそうになる。
「女御様?」
不安になって問い掛けると、女御様は今までに見たことのない顔を私に見せた。
その顔を表現する術を私はひとつも持ってはいなくて、ただ分かることは女御様のこんな顔を見たことがあるのは私だけだろうということだ。
「どうしてそんなお顔をされるんですか?」
不躾ともいえる私の質問に答えが返ってくることはなかった。
その代わりとでも言うように、女御様は信じられないことをしたのだ。
私の唇に女御様はご自分の唇をぶつけるようにして口づけをなさったのだ。
ああ、女御様のお美しく彩られた紅が穢されてしまう。何故か真っ先に思ったことはそれで、どうかやめてほしいと思った。
こんな風に深く触れあってしまえばそれに私の気持ちさえ見透かされそうだ。
溶けてしまいそうなほど熱い舌を感じて、私の喉から妙に高い声が零れてしまう。
「……女御様」
そんな私の声を聞いた女御様は一体どうお思いになるのだろう。
そう思うと余計に面倒に思われるかもしれないとわかりつつ縋らずにはいられなかった。
「女御様、お願いです。私をもう要らないなどと言わないでください」
今宵を境に私は捨てられてしまうのかもしれない、と唐突に思ったのだ。
これが終わる頃には女御様はもう私を必要としない。
今までの女御様との短くも濃密な日々を思い出し、私は涙が止められなかった。
「……貴女の方から女房は辞めたいというかと思っていたわ」
「私から女御様のお側を離れたいだなんて、言うはずがありません。私は女御様のお側にいることだけが幸福なんです」
女御様はようやくいつものような笑みを見せてくださった。
けれどいくら鈍感な私でもその笑みの向こうにある想いが優しいものではないことくらいはわかっていた。
「本当に愚かね、藤」
その先は今まで以上に女御様に翻弄されてしまって、ついぞ日が暮れるまで終わることはなかった。
藤と涙の後宮 蒼キるり @ruri-aoki
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