柳小路の女

鳳SHIMA

第1話(完結)

満月の明かりを頼りに、ひとりの丁稚が武家屋敷の立ち並ぶ夜道を走っていた。少年の名は六助。歳は十五・六といったところか。お琴様からの大切な預かり物を両手で大事に抱えていた。

お琴とは、六助の奉公している金物問屋・吉鎌屋の娘である。歳は六助より三つばかり歳上の、町でも噂の美人で気立て良しの娘だった。

彼女には同じく近隣の大店の次男である、菊二郎との縁談の話が持ち上がっていた。

彼はそれほど色男という訳ではなかったが、真面目で実直そうな顔をした男だった。

とくに浮ついた噂も聞こえてこないことから、「真面目が取り柄のような男なンだろうサ」と、女中たちが話していた。

そして正直なところ、六助はお琴に惚れていた。当然、奉公人の身の上、叶うはずもない高望みであることは知っていたため、彼女が幸せになるならばそれで良しと、自分で自分を納得させていた。

しかし縁談話が順調に思われていた、つい先日のことだった。

お琴に内密な話があると言われ、六助はひとり呼び出された。不謹慎にも浮つく気持ちを押さえながら行ってみると、六助はお琴からある人への届け物を頼まれたのだった。

六助の思いを知ってか知らずか、届け物の相手はかねてよりいたお琴の想い人だった。

「昼間に行くと怪しまれる、訪ねると言伝はしてあるから夜中にこっそり伺っておくれ」家の場所と宛名を聞いてはきたものの、ほとんど右から左で聞いていたためうろ覚えだった。このまま菊次郎と添うのだろうとばかり思い、腹を括っていた六助にはそれだけ衝撃的なことだったのだ。

しかし唯一、六助の記憶にはっきりと残っていることがあった。届け物を頼んだ時のお琴の表情だった。お琴ではないような、どこか恐ろしげにさえ見える鬼気迫る表情を見せていた。それが思い人にあてる顔なのだろうかと不安にはなったが、子細を聞くことは丁稚の六助にはできなかった。それに、このまま煮え切らずに菊二郎と添うのは、お琴にとっても六助にとっても不本意なことであるのに変わりはなかった。

思い人と恋敵の間を取り持たなければならないというのが些か嫌ではあったが、真に好いたおなごには何の悩みもないまま幸せになってもらいたい、その一心からだった。

六助の向う先に”柳小路”が見えて来た。お琴の言葉を思い出す。

”その小路の途中には、天を見上げる程と言われる高い柳の木がある”

柳は長く枝垂れた葉を夜風に揺らし、その影を小路の端に落としていた。

藻のようにゆらゆらと揺れ地を這う影は、ひんやりとした空気と夜の静けさも相俟ってどこか不気味なものを感じさせる。

思わず女中たちの噂話を思い出してしまう。

「隣り町の”柳小路”ってわかるかい?」

「あぁ、お武家様方が住ンでるとこだろ?ほら、このまえいらしてた、鬼久谷様のお屋敷がある」

「そうそう、ずいぶん変わった名前だよねぇ、鬼の字が入るなんて」

「だよねぇ、だからアタシも覚えてたンだけどサァ」

女中らはそう言いつつけらけらと笑う。

「その鬼久谷様のお屋敷が柳小路の側なんだけどさ、そこに出るらしいんだよ」

「出るって、これがかい?」

ひとりの女中が両手首を胸の前でぶらぶらさせて見せる。

「そうなんだよ、なんでもその鬼久谷様に因縁のある女の霊なんだとか…」

「なンだか嘘臭いねェ」

そう言って女中たちはまたけらけらと笑ったけれども、その手の話が苦手な六助は皆まで聞かずに来てしまった。

しかしその話をしかと聞いてこなかったことを、六助は今になって少しだけ後悔していた。

なぜなら、六助が向かっているのはその”鬼久谷様”鬼久谷十衛門の屋敷なのだ。屋敷は柳小路を通り過ぎた先であるため、嫌でもここを過らねばならない。

右手に見える柳が、一歩一歩と近付いてくる。

”何を怖がる、所詮は噂話だ”

こんなことで逃げ帰ってきたなど、お琴様に合わせる顔が無い。六助は意を決し、走り去る勢いで小路を駆け抜けた。幸いというべきか、何も見ることはなかった。やはり噂話だったのだと、六助はその足で鬼久谷様の屋敷へと向かった。

「ごめんください、失礼します」

言伝通り、裏木戸の錠は下ろされていた。

すぐ向かいに見える勝手口から左に折れ、裏庭を回って十衛門の座敷がある庭へと向かう。

広い屋敷であるが、不思議な程人の気配がしない。十衛門は両親はすでにおらず、独り身なのだと聞いていたが、それにしても静か過ぎる気がした、丁稚や奉公人の気配すらしない。

大きな岩を背にした小池が見え、六助は足を止めた。

十衛門の座敷の前だった。縁側に腰掛けた人影が見え、六助はそろそろと歩み寄った。

「夜分に失礼します。お琴様より十衛門様へと荷を頼まれて参りました、六助でございます」

十衛門とおぼしき人は、何も答えることなく立ち上がると、頭を下げたままの六助の前に手を差し出した。

"渡せ、ということが”

思いの他不作法な男の対応に(丁稚に対し不作法も何も無いのだが)、六助はややむっとする気持ちを押さえた。

実のところ、六助は十衛門とは初対面であった。十衛門は吉鎌家に時折客として来てはいたものの、六助はその姿をしかと見たことは一度もなかった。

刀を研ぎに出す時でも、いつも”てみじか”に用件を言ってそそくさと帰ってしまうのだ。

“鬼と名につくのにまるで人を避けているようだ”と、女中たちが話していたのを思い出す。

十衛門は荷を受け取ると、再び縁側に座り、その中身を改めはじめた。

六助は下げた頭を上げられずにいた。相手が武家だということもあるが、それ以外に、荷の中を見てはいけないと、お琴にきつく言われていたからだった。

十衛門とお琴のみが知る、荷の中身。

六助はそれが何なのかわからないまま、恋敵の元まで持って来たのだった。

ほどなくして十衛門は荷を再び綺麗にまとめ、六助の目の前に差し出した。返すということなのだろう。

六助は頭を下げたまま、両手で荷を受け取った。

想い人が人目を憚ってまで持ってこさせた荷を無下に返すとはと、六助は内心腹立ったものの、持ってきた荷の感触とは別の感触が六助の手にずっしりと伝わってきて、そのまま返したわけではないのだと気付いた。

”重いな”

まるで”空の箱の中身が入った”様な重さだった。

六助は荷の中が気になったが、中を見てはいけないと言われた以上、十衛門からの荷も見ないことが礼儀なのだろう。

「手間を掛けさせた。お琴に宜しく伝えてくだされ」

初めてしっかりと聞いた十衛門の声は、何のことはない低い男の声だった。顔の見えぬその声に六助は深々と頭を下げ、「失礼します」と告げると屋敷を後にした。

十衛門から渡された荷は、男の六助の手にも重たく、裏木戸まで来るのに思いのほか時間がかかってしまった。荷をわずかに解き、背に担ぐ形にする。重たいものの、担ぐ形にした分、幾らかかかる負担が楽になった気がした。

しかし、再び柳小路に差し掛かり、六助は気付いた。

月がだいぶ東へ傾いている。そろそろ丑三つ時なのだ。

丑三つ時の柳小路は、来た時よりも不気味さが増しているようだった。柳の枝が夜風にざわざわと音をたて揺れている。満月の光も、来た時とは連い、六助の左側から差すようになっていた。ちょうど、柳がある屋敷の塀に影が掛かる形になる。

”先程は何も見なかったのだから噂話なのだ”

六助は来た時と同じように、柳小路を通り過ぎようとした。しかし背中の荷がずっしりと重く、足が思ったように進まない。

”大丈夫、大丈夫…”

自然と妙な焦りが募る。視界は一心に前を見ているものの、聴覚は嫌なほど、柳の技が揺れる音、わずかに枝が軋む音を捕らえてしまう。

そしてその中に聞こえてしまった。

「十衛門様…」

十衛門の名を呼ぶか細い女の声を。

六助の足はぎくりとしたように一瞬立ち止まってしまった。

「何故…………なかったのですか…」

「あぁ…口借しい…口惜しい」

次第に大きくなる女の声を振り切るように、六助はその場から駆け出した。

しかし、突如陽炎のごとく目の前に現われた女の姿に尻餅をついてしまった。

白い着物に、長い黒髪を柳のようになびかせている。

その女には足がなかった。

「うわぁぁぁ!」

六助は預けられた荷もその場に忘れて、命からがら逃げ帰った。

明くる日、六助は一睡もできぬまま朝を迎えた。

あんな珍事に遭遇してしまったからには、眠ることなどできるはずもなかった。唯一の親の形見にと託された菩薩の木彫りを抱きながら、布団をかぶってうずくまっていたのだった。

そして翌朝、お琴に十衛門からの荷のことについて何か問詰められるだろうと思っていたのだが、何事もなく過ぎ六助は拍子抜けしてしまった。

自らの不甲斐なさ故ですと頭を下げることになるのだし、これでよかったのかもしれないと六助も思っていた。

しかしその日、昼になっても夕方になってもお琴は姿を見せなかった。いよいよ明日に祝言を迎えていたため、旦那もおかみも酷く慌てた。

”これは昨日の出来事と何か関係があるのやもしれない”

六助がそう思うも間も無く、岡っ引きの親分が柳小路に倒れていたお琴を連れて来たのだった。


お琴は、すでに死んでいた。


***


それは六助が十衛門の元を尋ねる数日前のこと。

やれ面倒な事になったなと思いながら、菊二郎は口にしていた煙管をカンと打ち鳴らして、囲炉裏に僅かな灰を捨てた。

柳小路の鬼久谷十衛門とお琴に、一体どんな縁があったのか、それは当人たちしか知ることでは無い。

けれどもその縁によっては、今後自分たちと”あの女”の因縁が露見する事にもなりえるだろう。

菊二郎は世間的には”大店の息子、真面目一徹な好青年”という顔を保っていた。

しかしその裏で行っていたのは、街のならず者たちと共謀するような、人には易く口外できぬ仕事だった。

押し込み強盗をした居宅で幼子だけを生き残らせ、その子を丁稚奉公や小間使いとして数多の店や屋敷へ派遣する。

天保の大飢饉の後とあって、世間ではとにかく”人手が足りなかった”のだ。

汚れ仕事と分かりつつ、奉公人が欲しいと周囲から度々口にされていた菊二郎は、その悪事に手を染めた。

何より経験の浅い自分にとっても金脈と人脈が作れる。先の事を考えれば悪い話ではなかろうと、当時の菊二郎は踏んだのだった。

仲介人を介していたため、殆どの人間は菊二郎の悪事に露ほども勘づいていなかっただろう。


”しかしあの女は、柳小路にある鬼久谷十衛門の亡き妻、お小夜はそれを知っていた”


昔、たまたま仲買人を介さずやり取りしていた所を、運悪くお小夜に目撃されてしまっていた。

それ以降、隙あらば口封じに殺させる予定で目を光らせてはいたが、程なくお小夜は事故か病か分からぬものの亡くなったと聞いている。

鬼久谷十衛門は、藩お抱えの武家役人だった。

お役人の妻女に目撃されては、己の首も危ういと思っていただけにひやりとしたが、お小夜の訃報以降、十衛門からの接触は全く無かったため、菊二郎は首の皮一枚で繋がったかと安堵していた。

そこへ、まさかの”許嫁と十衛門に縁があった”という噂話。

十衛門だけでなく、許嫁のお琴にまで自分の悪事が知れれば、いずれただ事で済まないのは目に見えていた。

”ここは一計を案じる必要があるだろうな”

菊二郎はさてどうやって籠飼いの小鳥をおびき出そうかと、口触りのいい口上を思案する事にしたのだった。


事は、六助が十衛門の元を尋ねたその晩に、入れ違いとなる形で決行された。


菊二郎がお琴を柳小路へ呼び出したのだ。


菊二郎は”お琴から頼まれた六助が、柳小路の十衛門の元を尋ねる”とは知らなかったし、

またお琴も”六助を送り出したその晩に、菊二郎の言伝で柳小路へ呼び出される”とも知らなかった。

その出来事は、まさに紙一重、入れ違いとなる形で、相次いで柳小路で起こっていたのである。


六助が柳小路に現れるという女の幽霊に腰を抜かし、荷も忘れて逃げ帰ったその数刻後のこと。

指定された刻限を見計らって柳小路に現れたならず者たちは、菊二郎からの文で呼び出されやってくるであろうお琴を待っていた。

六助が置いていった荷に気付いた僧くずれの男は、その荷の中身を覗き見ると、訝しげな表情を見せた。

「こんなもの道端に置いて行くたぁ、この柳小路もいよいよきな臭いな」

「何の話だ、まさかお前”柳小路に女の霊が出る”なんて与太話を本当に信じてる訳じゃあるめぇ」

「与太じゃねぇと思ったからこそ、菊二郎の旦那は俺をこの面子に加えたんだろうよ。俺も一応は神仏の教えを受けてるからな」

「それなのに今はこんな悪事に手を染めてるたぁ、お前、坊さんだろうが死んだら地獄に行くぜ」

”ははっ、違ぇねぇよ”と、ならず者の男四人が集まってひそひそ話していると、そこへ潜むように頭巾を被ったお琴がひとりでやってきた。

その目線はまるで”誰か”を探すかのように、そわそわと泳いでいる。

「誰をお探しだい?」

ならず者が声をかけると、お琴は”あなたたちに用はありません”とだけ返し、その場を去ろうとした。

しかし、お琴が”十衛門の屋敷の方へ向かおうとした”事に勘づいた男のひとりが、お琴の身を背中から羽交い締めにした。

「そっちに行っちゃあ駄目だぜお嬢ちゃん、お化けが出るかもしれねぇ」

はははと、男たちの冷めた笑い声が響く。

「そんな事を言うものではないでしょう、仮にも”お小夜さん”の事を露ほども知らないあなたたちが…」

皆まで言う前に、ひとりの男がお琴を背後から殴り倒す。

気絶したのか殺されたのか、お琴はそのままぴくりとも動かなくなった。

「良かったのか、”お楽しみ”が無くなっちまっただろう」

「そうも言ってられねぇさ。見てみな、もうすぐ夜が明けちまう」

空を見遣れば、朝日が薄らと空を染め始めていた。

悪事がばれる前に、お琴の身柄もろとも、その場を離れようとしたならず者たちだったが、その身に触れようとした矢先、頭巾からこぼれたお琴の髪が真っ白に染まっている事に気付いた。

ぎょろりと見開かれたお琴の目の色は、どこか人ならざるものの色を宿していた。

柳の枝葉のようにゆらりと揺れながら立ち上がったお琴は、懐から取り出した小刀を構えると、”やがて十衛門様に仇なす者とあらば捨て置けぬ”と言って、なりふり構わず男たちに斬りかかった。

「お前、お琴さんじゃねぇな…!?」

事態に気付いたらしき僧くずれの男が、六助が忘れて行った荷を見遣りながら言う。

お琴の見てくれを借りたその女は、おのれの事を”お小夜”と名乗った。

「やっぱりそうか」

僧くずれの男はお小夜の正体に気付くやいなや、すぐにこの柳小路を立ち去るよう促した。

「つったってあの女は”まだ生きてる”だろうが」

「ありゃあ生きてるんじゃねぇ、”憑いてる”だけさ、じきに気が触れておっ死んじまう、いいから早く逃げろ、”お化けに殺されたくなかったら”な」

やがてじわじわと朝日が柳小路を染めて行く。

「十衛門様を黄泉へお連れするのは”私”なのですから……」

柳小路を脱する男たちを見送りながら、”お小夜”は夜明けの陽の光に溶け込むように柳小路に立ち尽くしていた。


***


柳小路で死んでいたらしいお琴は、どういう訳か髪は老婆のように真っ白だった。

見る影もない姿に、旦那とおかみは酷く衝撃を受け、おかみは部屋に籠ってしまった。

そして吉鎌家は一夜にして娘の祝言を迎える家から、娘の通夜を迎える家へと変わってしまった。

弔問に訪れた菊二郎は真面目一徹な表情を崩さぬまま、妻になるはずだったお琴の前に香を上げた。

「この度は大変痛ましい…」

菊二郎の長いお悔やみの言葉を、丁稚の六助は仕事の傍ら聞いていた。ふと昨夜尋ねて行った、十衛門の単調で手短な言葉がよぎった。

何故だろう。六助は、菊二郎の言葉よりも、十衛門の言葉に不思議と真実味を感じるのだった。

そしてその夜の弔問者は菊二郎の他にも数多く訪れた。

弔問者の名を書留めるよう言われた六助は、昨夜のことを考える間もなかった。

弔問に訪れたのは、近隣の商家の旦那やおかみ、血縁のある親戚達、そして日頃の馴染みの客などだった。皆、お琴の祝言の日を喜んでいたため、酷く悲しげな様子で帰って行った。

そして、密かなお琴の想い人であった鬼久谷十衛門もやって来た。六助は名を書留めたその時、十衛門の顔をはじめて知ることとなった。

端正な顔立ちながらも、よく聞く華奢な優男といった風貌ではないが、はっと目を引く顔立ちをしていた。

なるほど、お琴が惚れるのも分からぬでもなかった。

しかしその直後鋭いまなさしで睨まれ、六助は思わず身を強張らせた。

「お主、昨晩の荷をお琴に渡さなかっただろう」

ひやりとした。託された荷は昨晩、あの場に直いてきてしまっていた。

十衛門の家の側だったのだから、見つけられていてもおかしくはない。

結局お琴には渡せなかったのだ。今更ながら、六助の中に悔やむ気持ちが沸いていた。

「あの…失礼ながら、あの荷の中身は何だったのですか?」

「知りたいか」

「いえ…無理にとは」

「いずれ、言わずと知れよう」

「えっ」

六助が聞く声を聞き流し、十衛門がお琴の棺の前へと近付いた、その時だった。屋内外の灯、という灯が一瞬にして消えた。

女中たちの中から、きゃあという悲鳴が上がると同時、棺の蓋がガタゴトと揺れ、その中から白い手がするりと滑り出た。

「きゃあ…!」

奉公人たちも弔問に訪れていた者も皆、逃げたり、その場で腰を抜かしてしまった。六助もそのひとりだった。

ただひとり、十衛門だけはその場を微動だにせず、静かに立ったまま棺を見つめていた。

そして、あの日の女の声がどこからともなく再び響いてきた。

「あぁ、口惜しや…十衛門様…」

六助はその場で腰を抜かしたまま、棺から現れた女の姿を見ていた。

お琴ではなかった。姿こそお琴の遺骸だったものの、その中には別の"何が”が潜んでいた。

その証拠に、形相はお琴の物とは似ても似つかぬ、”鬼”のような形相だった。

十衛門は仁王立ちのまま、似動だにすることなく、その鬼に語りかけた。

「そのおなごに憑くのは止めよ。そのおなごのそんな姿、見とうはない」

「十衛門様、私をお忘れか」

「忘れたことなどない」

「ならばなぜこのようなおなごを好いたのです…私との”お約束”をお忘れか…あぁ…口惜しい」

「約束通り夫婦として共に死んでやれなかった事、誠に申し訳なく思っている。お琴は儂にとって誠かけがえのないおなごであった…お主のような生まれながらの武家の才女ではなかったが、お主を失い悲しみに暮れていた儂に生きる喜びを教えてくれた。どこの誰とも取り変えはつかぬ、それはお主も、お琴も同じよ。ゆえに、そのおなごに憑くことはお主であっても許さぬ」

「……あぁ……あぁあ…」

鬼の形相はみるみるうちに涙にあふれ、お琴の表情へと戻った。

「琴はその言葉が聞けただけで、もう充分でございます……この鬼は私が共に地獄へ連れて参ります」

そう言い微笑んだお琴の遺骸はそれきり事切れ、二度と動くことはなかった。

お琴が十衛門を呼ぶ優しげな声を、六助は聞いた気がした。不思議と恐ろしさは無くなっていた。


***


お琴の葬儀から数日後、十衛門は出家を決意していた。

好いた女を二度亡くした、その事実が十衛門を仏門へつく事を促した。

居宅の家財一式を売り払ったまっさらな座敷で身支度を整えた十衛門は、あの日お琴に預けるはずだった金色の菩薩像を抱えると屋敷を出た。

丁稚の六助に預けたはずの菩薩像を、明朝に柳小路で見つけた十衛門は、お琴の供養のためにと、改めて吉鎌屋へ届ける事にしたのだった。

ただ、菩薩像とともにお琴へ預けるはずだった”お小夜の形見の小刀”は、荷の中からこつぜんと姿を消していた。

誰かに盗まれたのか、あるいは。


出会って間もない頃、お琴へ”亡き妻のお小夜の形見を託したい”と言った時、気味悪がられるだろうと十衛門は思った。

しかしお琴はげににこやかな笑顔を見せて、「そんな大切なものを託していただけるなど、とても嬉しいです」と笑ったのだ。

それからというもの、十衛門はかねがね、お琴という女性の清廉さ、気丈さに支えられてきた。

彼女との出会いもまた、道端で切れた鼻緒を直してやったというだけの、実にありふれた出会いであったのだが。

お琴はそんな些細な一面に、十衛門の確かな誠実さを見出していた。

やがて自分に訪れる災難など知る事もないまま。


人々の間で様々な噂をされてきた柳小路。

今では何事も無かったかのように、陽の光に照らされ、さらさらと艶やかな新緑に朝露を光らせていた。


おのれにとっても遺恨のあるその場に一礼すると、十衛門は編笠を目深に被り、山寺への道を急いだ。


***


お琴の葬儀に参列したその晩、菊二郎は背筋の凍る思いで床についていた。

お小夜とお琴、二人の死した女が見せた、げに恐ろしき一夜。

夢見も悪くなるであろうその光景は、まぶたを開けても閉じても、菊二郎の脳裏から消える事は無かった。

「菊二郎様、起きておいでですか」

ようやく微睡みはじめた菊二郎の元へ、障子越しにひとりの”丁稚”が現れた。

その手には、見慣れぬ小刀が抱えられていた。

「お琴様からのお手紙が添えられておりましたので、お届けに参りました」

「何だって?お琴は先刻死んだだろう」

「はぁ、私は言いつけを守っただけですので…ではこれにて」

丁稚が去ったのを見送ると、菊二郎は文を開いた。


”あなたの重ねた悪事、天は見過ごしても私たちは知っております、必ず地獄からお迎えに上がります”


「ひっ……!?」

すぐに文を囲炉裏火に焚べ、焼き捨てた菊二郎の瞳に、先程丁稚から渡された小刀が映る。

畳に置かれた小刀が、すらり、と、ひとりでに、音もなくその刃を晒す。

「助けてくれ…!助け……」


”あなたに手を加えられた人々は、皆そう言って殺されて行ったのですよ”


聞き覚えのある女の声が耳元で聞こえた気がしたが、次の瞬間、菊二郎の腹は小刀に喰われていた。


”さようなら十衛門様、これでようやく悔いなく黄泉路へと旅立てます”


薄れゆく意識の中で、誰ともつかぬその言葉を耳にしながら、菊二郎は畳座敷を武様に血で汚し、がくりと事切れた。


***


お琴の葬儀から半年ほど経った日のこと。


丁稚の六助は、あれからも変わらず吉鎌屋へ奉公していた。

亡くなったお琴の変わりに跡継ぎとなるべく、つい先日、親戚筋から末息子だという貫太郎がやってきたばかりだった。

歳かさは六助と同い年程度であったため、何かと話も弾むことがあり、主と丁稚と言うよりは半分友人のような関係となっていた。


柳小路の幽霊騒ぎはぱったりと聞かなくなっていた。

ただ、十衛門が出家したという事と、菊二郎が腹を切って死んだ事、そして菊二郎の店へお上からの取り調べが入った事は聞き及んでいた。

吉鎌屋へ預けられた金色の菩薩像のおかげかなぁと、どこか見当違いであろう思案をしながら、六助は柳小路にふと立ち寄った。


あの日のように恐ろしい空気はどこにも見受けられず、ただ柳の枝葉は陽の光に微笑むようにさらさらとそよいでいた。

「おっと、こうしちゃいられない」

貫太郎からの言いつけを思い出した六助は、軽やかに荷を背負いなおすと、足早に柳小路を後にした。

女のしなやかな髪のように、ふわりと風に広がった柳の葉は、手を振り誰かを見送るかのように、繰り返しひらりひらりと舞っていた。


-終-

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