第29話

 普段なら、時間があればしたいことはいくらでも思いつく。しかし毎日学校があるためになかなかできないことも、こうして学校をサボってなんでもできる一日を手に入れてみると、意外と何もする気がしないものだと芽衣は思った。

 平日昼間のテレビ番組を見ながら無為に過ごしていると、意識がテレビ画面から離れ、悠人との今後の関係について考え出してしまった。

 芽衣にとっては悠人は初めての彼氏だ。だから男子と付き合うということが、どういうことなのか付き合い出すまで彼女にはわかっていなかった。 彼と付き合い出してみると、誰かと付き合うというのは思っていたよりストレスを感じるものだとわかった。これが一般的な感覚なのか、それとも悠人自身に原因があるのかはわからない。

 付き合い出す前や付き合い出した頃、悠人の言動から受けた新鮮な喜びは既に薄れ、むしろ感情的に芽衣を責める悠人の言動は、ただ彼女の心理的な負担となるだけだった。

 芽衣自身は、その華奢な見かけとは裏腹にメンタルは意外と強いのだが、その彼女でももうこんな付き合いはやめてしまいたいとまで思うほど、悠人の嫉妬は彼女を悩ませた。

 最初の頃、悠人が単なる女子受けするダンサーではなく、意外と洞察力や理解力を備えているんだと思って彼に対して覚えた好意は、まだ消え失せてはいなかったが、その悠人がここまで嫉妬心が強いとは。 

 もちろん、どんな完璧な人間にも嫉妬心があることは芽衣にもわかるし、自分の彼女が知らない男と二人きりなのは嫌だろうけど、浮気心を抱いているわけではないと何度説明しても理解してもらえないのは面白くない。

 家の外からエンジン音が近づき、家の前でそのまま停まっている車があることに、彼女は気がついた。悠人のことを考えるのを中断し、リビングの出窓から玄関を覗くと大輝が立っていた。

 どういうわけか胸が何かの期待でざわめいた。彼女は急いで玄関に行ってドアを開けた。

「何してるの?」

 うつむいていた大輝が驚いたように顔をあげ芽衣を見た。

「大輝君なんでいるの?」

「いや、あの」

 彼がここで何をしているのか、何をしに来たのか芽衣は理解できずに戸惑った。

 大輝の方もどう話そうか考えている様子だったが、やがて観念したように口を開いた。

「美咲さんから芽衣が休んでいて連絡が取れないって聞いて、その、つまり心配になって」

 期待どおりの答えが大輝の口から返ってきた。彼が芽衣のことを心配してくれるだけでも心が温まるのに、わざわざ行動に移して様子を見に来てくれたのだ。

「それで見に来てくれたんだ。わざわざありがとう。ごめんね」

 それから彼女は一言付け加えた。

「美咲のやつ余計なことを」

 美咲の口の軽いことには相変わらずへきえきするけど、大輝に芽衣が休んでいることを知らせてくれたことには感謝していた。

「返事がないから心配したんでしょ。LINEくらい見ればよかったのに」

 大輝が芽衣をやさしくたしなめたが、芽衣はそれよりも自分の足に向けられた大輝の視線の方が気になった。

 芽衣の反応に気がついたのか、大輝はショートパンツから伸びた芽衣の足から目を逸らした。

「そういや今日携帯一度も見てないや」

「どうしたの? 体調が良くないの?」

「ずる休み」

「え、何で」

「とにかく入って」

 ここで大丈夫だからと言い、彼にお礼を言って別れてもよかったのだが、芽衣は彼を家の中に招じ入れた。先に立って大輝をリビングに案内している間、彼女は自分に向けられた大輝の視線を意識していた。

 リビングのソファで大輝と並んで座ったが、もう自分の足に彼の視線を感じることはなかった。

 それどころか、大輝は少し横にずれて芽衣との距離を開けた。

 なぜ、正面に向かい合って座らなかったのか、芽衣は自分でもよくわからなかった。

「彼に会いたくなかったから。昨日美咲が言ってたの覚えてる? 誤解だって先輩に言ってくれるって。昨夜のうちに美咲が電話してくれたの。本当に全部先輩の誤解だって。そしたら彼、昨日わたしが大輝君と会ってたことに怒っちゃって。わたしにLINEしてきて、なんでそんな男と外で会うんだって言うの」

「貸した本を返してもらってたじゃだめなの?」

 大輝は芽衣がなぜ学校を休んだのか理解したようだった。

「それも美咲が言ったし、そもそも二人きりじゃなくて美咲もいて三人だったって言ってくれたけど、納得しないの」

「ただの昔の知り合いと一緒にいただけで怒られるんじゃ芽衣も大変だね」

 どこか人ごとのような大輝の言葉に芽衣は少しむっとしたが、態度には出さずに済んだ。

「本当だよ。既読無視してたら電話してきて、それにも出なかったんだけど、そうしたらLINEで二十件くらいメッセージが来てね。もう見るのも嫌だから既読つけるのもやめちゃった。だから美咲のLINEにも気がつかなかったの」

「それで今日欠席したのか」

「だって、今日学校行ったら絶対先輩に問い詰められて嫌な思いするもん。だから今日は休んじゃった」

「それにしても学校に連絡しないのはまずいんじゃないの」

「だって体調不良とか嘘つくの嫌だし」

「今日、おばさんはいないの?」

「うん。昨日からパパと一緒に泊まりがけで親戚の法事に出かけてる。週明けまで戻ってこないの」

「先生がおばさんたちに電話しても出なかったらしいよ」

「ラッキー。明日までは怒られなくてすむな」

「明日には親と学校の先生に怒られるんじゃないの」

「それはそうだけど今そういうこと言わなくてもいいじゃない、意地悪。だいたい大輝君にだって責任があるんだからね」

 もっと親身になって心配しろ。わざわざ家まで様子を見に来たのだから。

 芽衣は心なしか大輝の方に身体を傾け、彼を下からうかがうように見た。

 こういう甘えた感じを見せるのは芽衣にしては珍しい。彼氏の悠人にも見せたことがない。

「なんでだよ」

 大輝は悠人が誤解しているだけだから、自分には責任はないと思っているのだろう。

 じゃあ、いきなり芽衣を抱き寄せたのはなんでだ。悠人に知られていないとはいえ、あんなことをしておいて他人ごとのような言い方をする大輝に芽衣は少しむっとした。

「だって先輩が嫉妬してるのって大輝君にだし」

「おれに嫉妬って完全に誤解じゃないか」

「あの人意外と独占欲が強いの」

「ダンスで全国大会で優勝したんでしょ。テレビで見たことある。女の子にもてそうなのにね」

「すごくもててる。それでも嫉妬深くて独占欲が強いの。いい加減いやになっちゃう」

 いやになるくらいなら、いったいなんでそんな男と付き合っているのだろう。口には出さないけど、そういう疑問を抱いていてそうな表情を大輝は見せた。

「まあ、病気じゃないならよかったよ」

 大輝がソファから立ち上がった。

「心配してくれてありがと。もう帰っちゃうの?」

 どうにかして彼を引き止められないだろうか。自分のためではないと芽衣は自分に言い聞かせた。美咲が大輝に関心がある以上、少しフォローしておいた方がいいからだ。

「車をこの家の前に路駐してるから」

「そうか。いいなあ車。わたしも運転したい」

「高校卒業したら免許取ればいいじゃん」

「そんな先まで待つのかあ。ねえ、今日何か用事ある?」

 美咲のためという理由で自分を納得させた芽衣は、大輝に頼んでみようと考えた。無意識のうちに自分に自信があるせいか、芽衣はあまりこの手のお願いをためらう性質ではなかった。。

「ないよ。休講だから一日寝て過ごそうと思ってたとこ」

「じゃあ、時間あるならさ。どこかにドライブに連れてってよ」

「別にいいけど。学校サボってドライブとかやばくない?」

 少しやりとりしたあと、大輝は芽衣をドライブに連れて行くことに同意した。

 それほど喜んで了解したという感じでもなかったが、嫌そうでもない。


 大輝と二人きりなので、芽衣はもう迷わず助手席に乗り込んだ。車が自宅前から走り出すとき、芽衣は隣の家の奥さんに見られていることに気がついたが気にならなかった。

 どうせ母親は大輝と一緒だと知ったら喜ぶだけなのだ。むしろ、それをアピールすれば学校をサボったことを忘れてくれるかもしれない。

 どうせなら海に行きたい。芽衣の言葉にうなずいた大輝は車を海辺に向かう国道の方に進めた。

 芽衣は、期せずして自宅を訪ねてきた大輝に、ドライブデートをねだった形になった。大輝はそれを受け入れてくれたから、おねだりのことを気にする必要はないのだけれど、芽衣の頭の中での言い訳は、美咲のことを大輝にアピールするためということに落ち着いていた。

 だから、大輝に美咲のことを話さないといけないのだが、いきなり美咲を話題にするのは不自然だと思った。

 車が発車してから続いた沈黙に耐えかねた彼女は、とりあえず二人の共通の無難な思い出の話を始めた。

 幼少の頃、大輝と芽衣の二人が仲良く過ごしていた思い出話はこの場では無難な話題だろうと芽衣は思ったのだ。

 ところが、少し考えて芽衣が思い出したのは、美咲と大輝とファミレスで会ったときに話した当たり障りのないエピソードではなく、もっと辛い思い出だった。

 折にふれ思い起こさせては、胃が痛くなるような気分に彼女を追い込む。あの頃、彼女の家の雰囲気は重苦しかった。小学校の三年生には重すぎるほどに。

 悪いのは父親の方だった。そこに疑問の余地はない。ただ、事実を知らされていない芽衣にとって、家庭の雰囲気を悪くしたのは、いい加減うんざりした表情の父親を毎日ヒステリックに責め立てる母親だった。

 芽衣は両親に愛されていた。今に至るまでそのことに疑問を抱いたことはないが、当時から既に両親が自分の前では無理して仲の良さを演じていることには気がついていた。その偽りの仲良し家族でさえ耐えがたかったのに、夜遅くなって芽衣が自室に戻ると、階下から言い争いの声が響く。

 母親は彼女に聞こえないよう声を潜めているつもりなのかもしれないが、母親が興奮すると芽衣の部屋まで彼女の昂ぶった声と、芽衣を気にして声を抑えつつも反論する父親の声も聞こえてくる。 あの頃は本当に辛かった。自分のことを考えて隠そうとしていることはわかっていたから、父母に問いただすわけにも行かなかった。

 前にも思い出したとおり、両親のけんかに耳を塞いだ芽衣の気晴らしは、大輝からもらった五冊のスカーリーおじさんシリーズの絵本だった。

 大輝は芽衣の家のトラブルを知っていたはずはないけど、期せずして彼女を助けてくれたのだ。もっとも中学受験の準備を始めた大輝とは、それきり疎遠になっていくのだけど。 

 考えていると混乱してきた。家庭の不和の時期はとうに過ぎて、今は家庭は平穏な状態にある。たとえそれが取り繕った平穏だとしても。

 そもそも今は美咲のことを大輝に売り込んでいなきゃいけないのに、なかなかそういう言葉が口を出ない。

 だから彼女はとりあえず無難に二人が一緒に過ごしていた頃の思い出を話し続けた。

「海見えないね」

「まだ海岸まで出てないから」

「そういえばさ、朝倉さんから学園祭に誘われた」

 突然、大輝がそう言ったので、完全に虚を突かれた芽衣は驚いて大輝を見た。

 自分がお節介するまでもなく、美咲は行動に出ていたのだ。それにしても、美咲は芽衣の不登校を心配して大輝に連絡したのではなく、大輝を学園祭に誘うためか。芽衣の不登校は美咲が大輝に連絡するためのいい口実になったのだ。

 美咲のことを大輝にアピールしようと思っていたのに、芽衣は少し不快に思った。

「そう。美咲も積極的だなあ」

「そういうのじゃないと思うよ」

 大輝の方を見ると顔を赤くしていた。

 なんだ。大輝君も美咲のことが気になってるんじゃない。かえすがえすも自分が偉そうに、美咲を大輝に売り込もうとしていたことがバカみたいだ。

「大輝君が来てくれてもわたしは案内できないから。彼と一緒だし」

 嫌がらせみたいな、いやむしろ負け惜しみみたいな言葉が芽衣の口をついて出た。

「ああ、うん。彼氏がいるところでおれと話したらまずいよね。疑われてるならなおさら」

 大輝は芽衣に学園祭で会えないと言われても、あまり気にしている様子はない。

 そもそも彼は芽衣のことを、芽衣が悠人と付き合っていることをどう思っているのだろう。

「あのさ」

「うん」

「大輝君はどう思う?」

「どう思うって?」

「わたしと大輝君って幼なじみじゃない?」

「そうだね」

「そういう大輝君の存在って、やっぱり先輩はライバルみたく気になるのかなあ」

 本当は大輝が悠人の存在を気にしているかどうか聞きたかったのに、これでは真逆の質問だ。

「おれと芽衣ってさ。これまで全然会ってなかったじゃん。幼なじみって言ったって小学校の頃でしょ。だから普通ならそんな男のことなんか気にしないなんじゃないの」

「そうだよね。久しぶりに会って車で送ってもらったって話したのがまずかったかのかなあ」

「そもそもおれの話を彼氏に話す必要なくない?」

「だってわたしたち幼なじみじゃない。それを彼に黙っている方が誠実じゃないと思ったの」

「ごめん。おれにはよくわからない」

 わからないことはないでしょ。関わりたくないだけでしょ。

 芽衣はそう考えてむっとして黙りこくった。その言葉を最後に車内を沈黙が覆った。

しばらくして、車が砂防林を抜け、車のウインドウから開けた海岸線が目の前に広がった。

「わあ。きれい」

 目の前が急に明るくなり、これまで砂防林に遮られて見えなかった長い海岸線が現れた。

 いきなり現れた明るい景色に、芽衣は不機嫌を忘れてはしゃいだ声を大輝に向けた。

 眼前に湾曲しながら遠景に消えていく海岸線が続いている。

 広い遊歩道の先に広がる灰色の砂浜。浜辺を散歩している大型犬と、犬と一緒にはしゃいでいる飼い主の幼い子どもたち。砂浜の手前の遊歩道にたむろっているサーファーの群れ。国道沿いに行儀よく並んでいる、いかにも観光客向けのカフェやレストランや土産物店。浜辺には降りずに海側の遊歩道や陸側の歩道沿いの店舗を巡っている観光客たち。

「平日でも人が多いんだね」

「天気いいしね。芽衣もいい日にサボったね」

「うるさい」

 海辺の明るい光景の出現とともに、さっきまでの嫌な沈黙が消えていた。

「どこまで行きたい?」

 芽衣と悠人の関係に関しては知らぬ存ぜずを通した大輝だが、今日のドライブの行く先に関しては芽衣の意思を尊重する気はあるようだった。またの名を人まかせという状態なのだが。

 ただ、日ごろの悠人の行動と比べると、芽衣は大輝に彼女の意思を大事にされているようで、悪い気分ではなかった。

「そういうところ変わらないなあ」

「変わらないって何が」

「いつもわたしのしたいこととか聞いてくれるとこ。小学校の頃そうだったもんね」

「そうだっけ」

「先輩は全部自分で決めたがるからね。デートの行き先とかどこで食事するとか全部彼が決めてる」

 芽衣が大輝の方を見ると、大輝は前方を見ながらも、少し不審そうな表情を見せていた。

「そうなんだ。でも芽衣ってそんなにおとなしく他人が決めたことに従うタイプだっけ」

 そういやそうだ。

 芽衣は大輝の指摘に意表を突かれた。

「そういや人に従うって昔はなかったなあ。彼は先輩だからかなあ」

 とりあえず無難にそう言いながら、芽衣はいったいなんで自分はこんなに悠人に譲歩しているのだろうと思った。

 いくら彼が初めての彼氏だとはいえ、あまり自分らしくない行動だ。

「まあ、年上と付き合ってるんだもんな」

「うん」

 また大輝が無難に話をまとめた。関わりたくないのか興味がないのかわからないが、こんな言葉で話をくくるなら最初から聞かなければいいのに。

「それでどうする? このままずっと行くと隣の県に入っちゃうけど」

 大輝は早く帰りたいのだろうか。芽衣と二人きりでいても面白くないのか。

 もう少し一緒にいたいとか言うのはしゃくだった。

「海も見たしもう戻ってもいい?」

「じゃあ、戻ろう」

 大輝はあっさりと同意し、次の交差点で右折した。

 帰途についている間、車内を沈黙が覆った。

 やがて大輝の軽自動車は再び芽衣の自宅前に着いた。

「今日はありがとう」

 それを聞いて大輝がどう思ったのかわからないが、

「いや。おれも久しぶりに海にドライブできて楽しかったよ」

 そう言った大輝に芽衣は肩を抱き寄せられキスされた。しばらくして唇が離れると芽衣は彼の肩に顔を埋めた。

 大輝の行動に驚いた芽衣は、抵抗もしなかったが、積極的に大輝のキスに応えもしなかった。ただ、さっきまで頭を覆っていた憂うつな感情は消え去っていて、芽衣はさっぱりした気持ちだった。

「今日はありがと」

 芽衣はそう言って彼の腕から抜け出して車の外に出た。少し上気した顔で、彼女は小さく手をひらひらと振った。

「またね」

 

 自宅のドアを開けると母親が怖い顔で玄関ホールに立っていた。車の音に気がついてホールに出てきたらしい。

「芽衣! どこ行ってたの」

「どこって、海の方」

「そうじゃなくて。あんた今日学校行ってないんだって?」

 芽衣は彼女をにらんだ母の視線を避けた。思ったより母親の機嫌が悪い。とにかく早めに、大輝とドライブしていたことに話題を持っていかなければ、と芽衣は思った。

「担任の綾瀬先生から何度も電話が来ていたのよ。仕事で着信に気づかなくて、電話取ったの3時頃なのよ。先生に怒られたわ」

 母親は多少表情を和らげた。

「どうしたの? 具合でも悪くなった?」

「ずる休み」

「あんたねえ」

「彼氏がいろいろうざいから、学校で会いたくなかったの」

 母親が芽衣を改めてまじまじと見つめた。

「彼氏とけんかでもしたの?」

 母親は、珍しく怒るというより心配そうな表情を浮かべた。

「けんかというか、彼が一方的に怒ってるの」

「なんで怒ってるの?」

 芽衣は一瞬ためらったが、学校を無届けで休んでいる以上、答えないわけに行かない。そして、芽衣は、嘘をつくとこの先結局自分が困ることになることをよくわかっていた。

 彼女は母親に、絵本を返してもらうために大輝と会ったこと、二人きりではなく美咲と三人で会っていたにもかかわらず、そのことを彼氏が激怒してしつこく詰問のメッセージを送ってきた来たことを話した。

 母親は困惑したようだった。

「大輝君とは単なる幼なじみだって言えばよくない?」

「言ってもだめなんだって」

 デジャビュだ。どこかでまるで同じ会話をしたことがある。

「まあいいや。休んだことはわかったけど、今までどこにいたの」

「ドライブ」

「ドライブってあんた。いったい誰と行ったの?」

「大輝君とだよ」

 母親は複雑そうな表情を見せた。

「なんで大輝君がここで出てくるのよ」

「美咲がLINEくれてたんだけど、全然見てなくて既読にしなかったから、心配して大輝君に何か知ってる? って連絡したらしいの」

「ちょっと待って。なんで美咲ちゃん、大輝君に電話したの?」

「あたしたちが幼なじみだって知ってるからじゃない?」

「幼なじみって。この間まで顔も会わせてなかったくせに」

「そうだけど」

「で?」

「でって?」

「大輝君とどこで何をしてたの? ドライブってどこに行って何してたのよ」

「海。何もしてないよ? 二時間くらい走ってただけだもん」

「仲いいわねえ。ママ、大輝君の家にお礼言っといた方がいいかな」

「本気でやめて」

「どうして? 心配して訪ねててくれた上にドライブにまで付き合わせたんでしょ」

「わたしがちゃんとお礼言ったから」

「そう? それならまあいいや」

 母親はこの話題に飽きたようだった。

 そして少しだけ微笑んだ。

 作戦どおり。

 大輝の話が出ると母親は機嫌がよくなるのだ。そして忘れっぽい母親は学校をサボったことを注意することすら忘れてしまったらしい。

 そのとき、玄関の鍵を開ける音がした。

「パパかな」

 母親が浮かべかけた笑みを引っ込めた。

「今日は遅くなると言っていたのに、どうしたんだろう」

 玄関のドアが開く音がして、少し不規則な足音が近づいてきた。

「また、お酒飲んで来てるわね」

 吐き捨てるように言って母親は立ち上がった。

「パパのお酒はお仕事の付き合いなんでしょ。いつも付き合いが大変だって言ってるじゃん」

「口でそう言ってるだけだよ。本当は好きでやってるんだから。あのときだって結局最初は会社の飲み会で」

 母親ははっとして話を中断した。

 うっかりと父親が浮気したきっかけの話をしようとしたのだ。

 隠したって無駄だ。両親は隠し通せていつもりなのかもしれないが、芽衣は事情をよく知っていた。

「ママお風呂に入ってくるから。明日はちゃんと学校に行くのよ」

 母親は父親がリビングに入ってくる前に退散しようとしているようだった。

 そして、帰宅して玄関ホールに入って来た父親も、不自然な間を置いてからリビングに入ってきた。母親同様、父親も家族と顔を合わせないように、母親がリビングから退散するまで玄関ホールで時間調整していたのだろう。

「パパおかえり」

「ただいま」

 芽衣に声をかけられた父親は、そう答えながら母親がいるかどうか確認しようとしたのか、リビングを見回した。

「ママならお風呂に行ったよ」

「そうか」

 父親は芽衣を慮ったのか、あからさまにほっとした表情は見せなかったが、芽衣には彼が母親の不在を幸運だと思っていることがわかっていた。

「富士峰の担任から電話があったぞ。今日、芽衣が無届けで休んでいるって」

 母親ほど怒ってもなく気にしてもいないことがよくわかる口調だった。彼が望むのは自らの心の安定と、彼なりに示している娘への愛情を芽衣が受け取ってくれることだった。

 正直、父親の愛情は自分本位のものであり、本当に芽衣のことを考えているわけではないんだろうなと、芽衣は考えていた。そうでなければ母親のように芽衣の耳が痛いことも言うはずだった。

 結局、見栄えのよい自分の娘と仲のいい父親という、彼にとって好ましい状態を保ちたいだけなのだ。

 それでも芽衣はその自分本位な愛情を冷静に受け止めていたし、お小遣いや母親への牽制という形で利用もしていた。

「ちょっと体調が悪くて寝ちゃっててさ。学校に電話しそびれただけ。ママも知ってるよ」

「そうなんだ」

 父親は芽衣の不登校問題にこれ以上対応しなくて済んだことに、あからさまにほっとしたようだった。

「体調はもういいの?」

「もう直った」

「よかった。じゃあ、もう寝た方がいいよ」

 父親は微笑んで、リビングを出て行った。母親と鉢合わせするのを避けたかったのだろう。芽衣としても家庭における最小限の義務を果たした気になった。

 とりあえず、芽衣の今日の学校サボリ事件はなんとか両親を騒がせずに収めることができた。あとは学校だけど、体調が悪くて寝ていたため連絡もできず、学校からの電話にも気がつかなかったでやり過ごそう。

 芽衣は、今日はLINEは全無視することにした。悠人のはもちろん、美咲からのメッセージも、今は読むと混乱しそうだし、返事できずに既読無視するのも気が引けるから。

 そして。悠人をどうするかは今は考えがまとまらなかった。ただ、言えることは、悠人のことで悩むのはもうやめたいと自分が思っているらしいということ。それに気がついたということ。

 芽衣は眠りについたが、なかなか寝付けず、ようやく寝たと思ったら、大輝に抱き寄せられてキスされた場面が繰り返し夢に現れたのだった。


 翌朝、悠人に出逢わないように気をつけながら登校した芽衣は、校門のところで美咲につかまった。

「昨日どうした? LINEも見てくれないじゃん」

 そう言いつつも、美咲は別に本気で不機嫌そうな様子はない。芽衣の出欠なんか本気で気になっているわけではないんだろうな。芽衣はそう思った。そう思ったからこそ、既読にしたり返信したりもしなかったのだ。

「先輩からいっぱいLINE来てて、スマホ見たくもなかったら。ごめんね」

「先輩と会いたくないから休んだん?」

「うん」

「わたし、秋田さんに芽衣が休んでるんですけど、何か知りませんかってLINEした」

「そうか」

 それは大輝に聞いて知っている。

 美咲が芽衣の表情を確かめるように彼女を見た。

「ねえ。秋田さんからなんか連絡あった?」

「ないけど」

 とっさに芽衣は嘘をついた。

「本当?」

 心なしか嬉しそうな表情を見せた。

「秋田さん、芽衣のこと心配じゃないのかな」

「さあ、どうだろ。気にしてないんじゃないの」

 美咲は芽衣の休んだことをそれ以上追求しなかった。むしろ大輝のことが気になっているようだった。

 美咲は本当に大輝のことが好きなようだ。原罪と言っては大げさだが、悠人のことが好きだと広言していた美咲を出し抜く形で悠人と付き合い出した芽衣としては、もう美咲の邪魔をすることは許されないだろう。

 不意に大輝に抱き寄せられてキスされたことが脳裏に浮かんだが、彼女は無理にその記憶を心の中から追い出した。

 

 教室にたどり着くまでは、悠人と遭遇しないで済んだ。これで少なくとも昼休みまでは悠人のこの教室には来られないだろう。

 そう考えて自分の席に着いた芽衣は、今度は唯に話しかけられた。

「昨日どうした? 体調は大丈夫なの?」

「ずる休み」

「やっぱそうか。悠人に会いたくなかった?」

「うん、まあ」

「悠人には釘刺しといたから、多分もう芽衣に嫌な態度は取らないと思う」

 なんで唯が? 

 いや、唯は悠人の幼なじみだから、悠人になんでも注意できる立場なのは知っている。芽衣が不思議に思ったのは、なんで唯が芽衣のことを慮って行動したのだろうということだった。

 芽衣は性善説に立って唯の行動を理解しようなんて夢にも思わなかった。むしろ、芽衣に悠人を奪われた唯は、芽衣と悠人の関係に亀裂を生じさせる方が自然だろうと思っていた。

「昨日、先輩教室に芽衣を探しに来てたよ」

 美咲が芽衣と唯の会話に割り込んだ。

「今日も来ると思うな」

 それは仕方がない。芽衣は覚悟していた。いつまでも悠人から隠れているわけにもいかないだろう。芽衣は、おとなしく控えめに見える外見とは裏腹に、行動的な一面があった。嫌なことは先延ばしせずに早めに直面して対応した方がいいという考えも持っていた。

「悠人の話も聞いてあげて」

 唯が芽衣を見つめて言った。

「芽衣を責めるようならあたしが悠人を止めるから」

 再び芽衣は唯の言動に疑問を感じた。

「ありがとう。でも、これってわたし自身、っていうか先輩とわたしの問題だから」

 少し嫌みを込めて唯に言うと、

「ごめん。お節介なことするつもりはないんだけど、悠人にもチャンスをあげてほしくて」

 唯は慌てた様子だった。 

「うん」

 とだけ芽衣は答えた。悠人を許すとか彼の話を聞くとか言わずに。

 

 その日の昼休み、悠人が芽衣たちの教室に顔を出した。

「ほら。先輩が来てるよ」

 美咲に身体をつつかれて、彼女が指さす教室のドアの方を見ると、悠人が芽衣を見て軽く手を振った。

 不機嫌な悠人に自分の行動を責められ、その後、多分、唯に注意されて芽衣に謝りに来る。最近はその繰り返しではないか。

 そうした悠人の行動には不信感しか感じない。そもそも、芽衣のことは信頼していないのに、幼なじみの唯のことは信頼しているって、いったいなんなのだろう。

 芽衣が信頼できないなら、自分と別れて信頼できる唯と付き合えばいいのではないか。

「気持ちはわかるけど悠人のところに行ってあげて。多分、謝って仲直りしたいんだよ」

 唯の言葉に芽衣はさらに気分を害した。気持ちはわかるって口では言っているけど、本当に唯が尊重しているのは悠人の意思と感情なのだ。

 ただ、唯から悠人を奪った形になっている芽衣には、そのことを言葉にして口にすることはできなかった。三人が見守っているプレッシャーに負け、唯は腰を上げ、悠人の方も見ずにのろのろと彼の方に近寄っていった。

「ごめん」

 気まずそうながらも、悠人は芽衣の顔をまっすぐ見つめて頭を下げた。謝罪するときにすら、自分に自信があり周囲のことなど気にしていない様子の彼の態度に、訳もなく芽衣はいらっとした。

「何がごめんなんですか」

 悠人からモラハラみたいな扱いをされ、芽衣が嫌になって彼と距離を置くと謝罪してくる。こういうことが繰り返されると、さすがに芽衣もわかってくる。悠人はプライドが高い。芽衣に冷たくされたくらいで、頭を下げようとはしないだろう。

 結局、悠人の謝罪は幼なじみの唯に諭されてそのとおりに行動しているだけなのだ。

「芽衣が浮気しているみたいことを疑って、嫌なLINEもいっぱい送ったこと」

 だが芽衣は悠人の言い訳など聞いていなかった。

「唯に言われて謝ってるだけでしょ」

 彼女は唯に聞こえないように声を潜めた。

「いや、そうじゃねえよ。本当に悪いことしたと思って」

 これは不毛だ。こんなやりとりは続ける意味がない。

「わかった。許してあげる」

 突然の芽衣の豹変に悠人は驚いてた。

「もういいから。休み時間が終わるから、先輩、自分の教室に帰って」

 釈然としない様子で、でも唯に言われた義務を果たしたことでほっとして早くこの場を去りたいようだった。つい昨日まで芽衣と連絡を取りたがり大量のLINEを送りつけたのと同じ人とは思えない。

 悠人が出て行くとき、芽衣は彼に手を振り、こちらを気にしているであろう唯を納得させることにした。


 仲直りしたとはいえ、悠人と芽衣は互いに少し気まずい思いを抱えていた。幸いなことに、悠人がひどく忙しかったために、二人はほとんど一緒にいることはなかった。悠人の受験勉強に加え、学園祭で行われるダンス部のステージに向けた練習が佳境に入ったためだ。

 喧嘩は一応収まったけど、こういう状況ではちょっと距離を置いた方がいいと思ったから、芽衣は悠人に会えないことはあまり気にならなかった。

 同時に悠人が謝罪に来て以来、唯ともあまり話さなくなった。席が近いので会話はあるけど、まとまった時間を彼女と過ごすことはなかった。学園祭の実行委員である唯も、悠人と同じで学園祭に向けていろいろ作業で忙しく、昼休みも放課後も教室に残っていることはなかったのだ。 そうすると、芽衣の狭い交際範囲内でいつも一緒なのは、美咲だった。

 美咲と一緒に帰ったりしたとき、ある程度覚悟していたのに、美咲は大輝のことは話さずに悠人の噂話をした。 

「生徒会でさ」

 美咲がいつものように、噂話をする際に見せるいきいきとした表情で言った。 

「生徒会がなんかやばいことをしでかして、学園祭のステージに参加する部と生徒会で揉めたんだって」

「そうなの」

 悠人の部もそこに参加するのではなかったか。

「そのときさ、唯が部長たちに責められたんだって」

「唯がなんかしたの?」

「よくわからないけど、なんかまずいことしたらしいよ。影山のせいみたいだけど」

「ふーん」

 学園祭にも影山にも興味のない芽衣は、お義理に相づちを打った。

「そこで責められた唯を、悠人先輩がかばったんだって」

「先輩が?」

「うん。部長たちすごく怒ってたらしいけど、先輩ってすごく唯を大事にしてるでしょ? 部長たちと喧嘩までして唯をかばったみたい」

「ふーん」

 唯に諭されれば芽衣に謝りに来る。唯がピンチに陥れば全力で彼女を救い守る。これではどちらが悠人の彼女なのかわからない。

 楽しそうに話していた美咲は、芽衣のテンションの低さに気がついたみたいだった。

「もちろん好きとかそういうことじゃないから、心配しなくて言いと思う」

「心配って?」

「なんでもない。今日どっか寄ってく?」

「今日はやめとく」

「本当に気にしなくていいって」

「だから何が」

 芽衣は珍しく強い口調で美咲の話を遮った。

「先輩が好きなのは芽衣で唯じゃないよ」

「何言ってるの? そんなこと気にしてないし」

「幼なじみってそういうものじゃない? 好き嫌い以前にさ、先輩って唯を守ろうって意識が強いんだよ。中学からずっとそう」

「好きだから守りたいんじゃないの?」

 芽衣はついその話題に反応してしまった。

「女の子として好きとかじゃなくて、幼なじみとして大切なんだよ。芽衣と秋田さんだってそうでしょ」

 大輝のことを言われた芽衣は意表を突かれた。 

 そうなのだろうか。

 抱き寄せられキスされたのに、大輝は芽衣のことを好きではないのだろうか。

 いや、そんなことを考えてもしようがない。

「大輝君はわたしのこと大切になんか思ってないよ」

「そうなの?」

 美咲はなぜか嬉しそうだった。

「そういやさ。わたし、学園祭に秋田さん誘ったけど、よかった?」

「知ってる。大輝君から聞いた」

「秋田さん、芽衣が心配で様子を見に行ったんだってね」

「なんで知ってるの?」

 美咲は少し意地悪い笑いを見せた。

「秋田さんから聞いた」

「大輝君と会ったんだ」

「うん。そこで学園祭誘ったの」

「別にわたしに断らなくてもいいのに」

「それもそうかもだけど、でも芽衣の紹介だしね」

 ああいう出会いでも紹介と受け取ったのか。 

 雨の日に偶然会って送ってもらっただけで、別にわざわざ紹介したわけじゃない。でも、美咲には借りがあった。彼女がそう思っているのなら、あえて否定するほどのことではなかった。

 学園祭の前の日、悠人からLINEが来た。明日学園祭のステージを見に来てほしい、パフォーマンスの終わったあと、バックステージまで来て、という内容だった。

 どうせ大輝が来ても美咲と一緒に過ごすだろうから、芽衣にできることはない。

 うん、わかったと返信した芽衣は少しだけ考え込んだ。

 学園祭に関しては、自分のクラスのカフェの準備くらいしかしていなかった芽衣には、当事者意識が薄かったし、カフェの店員当番の時間以外は予定もなかった。だから悠人のステージを見たり、終わった後にステージ裏に行ったりすることはできる。

 仲直りした以上は、彼氏のステージを見たり後夜祭のファイアストームで一緒に過ごすのは当然だろう。それはいい。彼女が気になっていたのは、悠人が唯のことをどう思っているかっだった。美咲から聞いた話が頭から離れないのだ。

一番好きな人と一番大切な人とは違うのだろうか。学園祭の実行委員会のもめ事を、唯のために収めた悠人の一番大切な人は唯なのか。

 そして悠人の一番好きな人は、本当に自分なのか。自分だとしても一番大切な人は自分ではなく、唯なのかもしれない。

 芽衣は悩んだが、悠人と唯の仲に嫉妬したわけではなかった。ただ、今さらながら、自分のせいで誰を責めるわけにはいかないとはいえ、なんで自分はほかの女の子を大切にしている男と付き合っているのだろうと考えた。それに加えて嫉妬深い。もう別れた方がいいのではないか。

 悠人の唯の関係性を思うと、これ以上悠人と付き合う理由はないと思う。もちろん、だからと言って、芽衣が大輝と付き合えるかというと、そういうわけにはいかなかった。

 美咲の恋心を無視して悠人と付き合った自分が、二重に同じ間違いを犯すわけにはいかないのだ。

 

 十一月十日は学園祭の二日目で、お昼前の大ホールで悠人のダンス部のパフォーマンスが行われる予定だった。

 初日にクラスのカフェのホール係を手伝った芽衣は、二日目はもうクラスの出し物であるカフェから、離脱していいだろうと思った。とにかく客入りが悪く暇だったのだ。

 クラスの手伝いはいいだろうと思った芽衣は、悠人のダンス部のパフォーマンスを見ておこうと思った。悠人からも誘われていたので、それが彼氏への最低限の義理なのだろうと彼女は思った。

 客席に行くには遅い時間だったので、芽衣は直接舞台袖のバックヤードに向かった。そもそも、そこで待っているように悠人の言われていたのだ。

「どこ行くの」

 不意に美咲が客席の内側から出入口に出てきた。

「舞台裏に行こうと思って」

「先輩に会いに?」

「うん」

 否定しても仕方がないので芽衣はうなずいた。

「そっか」

 そこで美咲は少し迷うようなしぐさを見せた。

「どうした?」

「あのさ」

 美咲が意を決したように芽衣を見た。

「言っていいのかわからないんだけど、芽衣に黙っているのも辛いんで言うけど」

「何よ」

 芽衣は少し嫌な予感がした。芽衣のためだっていって美咲が話すことには、今までろくな話はなかったのだ。

「この間、悠人先輩が唯のことを守った話をしたでしょ?」

「うん聞いた」

 ようやく忘れたのにまたその話を蒸し返すのか。芽衣はそう思ったが、美咲の話はもっと深刻なものだった。

「真緒って演劇部の副部長じゃん。ステージの時間で揉めたあと、偶然見たんだって」

「見たって何を」

「先輩と唯が抱き合ってたんだって」

 抱き合った? それは明白な浮気じゃないか。芽衣は一瞬頭に血が上った。

「そんでね」

 美咲が芽衣の方を気の毒そうに見た。

「唯がね。自分と芽衣とどっちか好きなのって抱きしめられながら先輩に聞いてたって」

 なんだそれ。それで悠人はなんと答えたのだろう。

「先輩はなんて答えたの」

「それがよく聞こえなかったんだって」

 残念そうに美咲が言った。彼女にとっては興味深く面白いできごとなのだろう。本気で芽衣を気の毒に思っているわけではないのだ。

「先輩、浮気しているのかなあ」

 そう言った美咲の言葉をきかっけに、芽衣の頭は回転し始めた。

 浮気なのか。それとも本気なのか。

 先輩が唯に対して本気ならば、彼はごく簡単に唯を手に入れることができたに違いない。なぜなら唯は昔からずっと先輩のことが好きだったのだから。それにそうであれば、先輩が道下先輩と別れてまで芽衣に告白する意味なんかないではないか。

 ただ、本当に先輩が唯を抱きしめたのであれば、そこには何らかの意味があるはずだ。

 意味? 本当にそうなのか。芽衣はあらためて大輝に抱き寄せられてキスを交わしたことを思い出した。あれにも意味があったのだろうか。あれには特段の意味がなく、たまたまタイミングのあった男女間の偶発的な、特段の意味のない行為だとしたら、先輩と唯の場合もそうなのかもしれなかった。

「あんまり気にしないでね」

 白々しく美咲が言った。

「何かの間違いかもしれないから」

「わたしもう先輩のところに行くね」

「いきなり問い詰めちゃだめだよ」

「うん」

「落ち着くまで先輩に会わない方がいいんじゃない?」

 そこで美咲はぱっと顔を明るくした。

「そうだ。芽衣も一緒に来ない? これから秋田さんと校門のところで待ち合わせしているんだけど。一緒に学祭回らない?」

「やめとく」

 芽衣はすぐに断った。

「美咲にも迷惑だろうし、大輝君にも恨まれそうだし」

「何言ってるの」

 美咲は恥ずかしそうに顔を伏せ、そしてそれ以上芽衣を誘おうとしなかった。


 美咲と別れた芽衣は、ダンス部のステージの方に向かったが、彼のダンスを客席から眺める気はなくなっていた。自分の心中の整理も付かなかったのだけど、悠人との約束もあるので、とりあえず舞台裏には顔を出そうと彼女は思った。

 その後は、学校から出て帰宅してしまおう。悠人と一緒にいると唯とのことを問い糾しそうになるし、大輝と美咲が二人で一緒にいるところを遠くから眺めるのも、なぜか理由はわからないがなんか嫌だ。

 自分は嫉妬しているのだろうか。

 芽衣は大ホールに向かって混雑した中庭を横切りながら考えた。そして嫉妬しているとしたらそれは誰に対してだろう。唯になのか。それとも美咲に対してなのか。

 最近はもう、自分の感情がよくわからなかった。それに加えて、自分には美咲にも唯にも嫉妬する権利なんかないのだとも思った。

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嘘と恋 @Yoji_T

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