第28話
「もう帰っちゃうの?」
母親が大輝の顔を名残惜しげに見ていた。
「はい。コーヒーごちそうさまでした」
「夕食食べていけばいいのに。お母さんには連絡しとくよ?」
「こら。大輝君が困っているでしょ」
「すいません。今日は帰ります」
「じゃあ、また来てね。絶対よ」
母親がこんなにはしゃぐのを、芽衣は久しぶりに見た気がした。父親の浮気関係で揉めてから初めてだったかもしれない。
母親がこんなに明るい表情をするなら、大輝を引き止めてあげたい。一瞬、芽衣はそう考えたが、久しぶりに会ったっだけの幼なじみを、芽衣の家庭の安定のために引き止めるわけにもいかなかった。
「またね、大輝君」
「絵本ありがとう」
大輝は「またね」という芽衣の言葉に反応せず、五冊の絵本が入った紙袋を下げて夕暮れの坂道を下っていった。
「ずいぶん大輝君と仲良くなったのね。まるで昔の二人みたい」
芽衣はしたり顔の母親の笑みが気に障った。さっきまで母親の明るい表情を見て気持ちが和らいだのだが、やはり自分の彼氏でもない大輝君に肩入れされても困惑する。
「言っておくけどわたしの彼氏は」
「ダンサーの彼氏でしょ、悠人とかっていう。そんなことはわかってるよ」
「だったら、大輝君に誤解されるようなこと言わないでよ」
「ママなんにも言ってないじゃない」
「勝手に家に入れたり、夕食を食べていけとか言ってたじゃん」
「なんでそれで誤解されることになるのよ。そもそも大輝君に何を誤解されるって思ってるの」
「うるさいなあ」
「あんたが言い出したんでしょ」
「もういいよ」
「よかないわよ。なんなのよ、このあいだから。大輝君のことになるとむきになって」
どうやら本当に母親を怒らせてようだった。
父親の浮気で家庭が荒れだした頃から、母親は芽衣に優しくなった。母親自身もつらかった時間を過ごしていたはずだけど、両親の不和でつらい思いをさせただろう娘に無理して笑顔を見せたのだった。
だから今夜のように母親に怒られるのは珍しい。何が彼女をそうさせたのか、芽衣にはよくわからなかった。
「ママこそむきになってるじゃない。わたしはもういいって言っているのに」
「あんたとは関係なく、ママは大輝君と知り合いだし、あんたが大輝君のことが嫌いでもママは大好きだから」
「嫌いだなんて一言も言ってないでしょ」
さすがに芽衣も腹を立てた。もう母親を相手にせず、階段を上がって自分の部屋に引っ込んだ。
大輝のせいではないと思うが、彼が絡んでくると悠人とも母親ともトラブルになる。いったいなんでだろうと、着替えもせずにベッドに横たわりながら彼女は考えた。
それから彼女は不意に大輝に抱き寄せられたことを思い出した。悠人からキスされたことはあっても、抱き寄せられたり抱きしめられたことはない。
あのとき彼女は抵抗しなかった。それどころか抱き寄せられるまま大輝にもたれかかって顔を埋めた。なぜ自分がそうしたかわからないけど、もう二度とないだろう。
とにかく悠人をなだめて仲直りしよう。
翌朝、芽衣は美咲に昨日のできごとを話した。基本的に芽衣は学校外であったことは学校の友人に話したりしないのだが、今朝だけは誰かに相談、ではなく愚痴を言いたい気分だったのだ。
芽衣は美咲に、大輝に抱き寄せられたことだけ省略して昨日の話をした。美咲は面白そうに聞いていたけど、深刻そうに聞かれるよりは気が楽だった。
「ずっと会ってなかった幼なじみに偶然会って絵本貸すとか意味わかんない」
そこで芽衣は「スカーリーおじさん」シリーズのことを説明したが、美咲はろくに聞いていなかった。
「別に秋田さんのことが好きなわけじゃないんでしょ?」
「好きなわけじゃない」
一瞬、大輝に抱き寄せられたことが頭に浮かんだ。
「大輝君なら自分の彼女を束縛したりしないんだろうなあ」
思わず芽衣が口にした言葉を聞いた美咲は、顔色を変えた。
「やっぱり芽衣って、秋田さんのこと気になってるんじゃないの?」
「だから違うって」
「そんなに束縛されるなら別れちゃえば?」
「なんで美咲、ちょっと嬉しそうなの」
そう言ってしまってから芽衣は後悔した。これではまるで、美咲が悠人への好意から芽衣を別れさせたがっているんじゃないかと、ほのめかしていると誤解されそうだった。
「嬉しいわけないじゃん。まあ、秋田さんが好きなわけじゃないなら、先輩と別れる理由はないか」
「まあそうだけど、このまま付き合い続けるのも無理そう」
「どっちなのよ。とにかく、一度ちゃんと話し合ってみたら?」
「今話すと喧嘩になりそうな気がする」
「一緒にいてあげるよ。芽衣には秋田さんに乗り換える気なんかぜんぜんないって、先輩に言ってあげる」
たしかに話し合うなら、美咲にいてもらった方がいいのかもしれない。今、二人きりになったら
話し合いの前にぜったいに喧嘩になりそうだ。
「お願いしようかな」
「じゃあ今は芽衣も話しづらいだろうから、わたしが先輩に声かけてセッティングするね」
「ごめんね。ありがとう」
「ぜんぜんいいよ」
なんだか面白がっている様子が少し不安だったが、この間の電話でのやりとりを考えると、二人きりで話しても埒があかない可能性がある。芽衣は自分にそう言い聞かせた。
その日の昼休み、姿が消えていた美咲は午後の授業直前に教室に戻ってきた。
「今日の放課後、先輩と話し合いね」
「はやっ。先輩のところに行ってきたの?」
「うん。けっこう反省してたよ先輩」
それなら少しは話し合いになるかもしれない。最初から双方が憤っていたら、さっき考えたように喧嘩になる状況しか見えてこない。
「そっか。それなら話し合えるかもね」
「今日の放課後、一緒に駅前のカラオケに行くからね」
「なんでカラオケ? 放課後見回りの先生が一番いそうなところじゃん」
「一番周りを気にしなくて大丈夫な場所だしね。喧嘩になっても外に音漏れないし」
「それもそうか・・・・・・って喧嘩になったら、わたしすぐに帰るよ」
「大丈夫だと思うけど、そうなったら付き合うよ」
芽衣も美咲も、まさかそれが本当になるとは思っていなかったのだが。
放課後、二人が駅前の商業ビルの二階と三階にあるカラオケ店のロビーに入ると、すでに悠人が来ていた。ソファに座っている悠人の近くに行くと、悠人が立ち上がって二人の方を見た。
「よう。受付しといたから」
「ありがとうございます」
芽衣が悠人にどういうふうに振る舞えばいいかわからないでいると、美咲が答えてくれた。
よく見ると、悠人の方も美咲の方ばかり見て、芽衣と視線を合わせようとしなかった。
「じゃあ行こうよ。三階だって」
悠人がエレベーターの方に歩き出し、芽衣と美咲も後に続いた。エレベーターのドアが開くと、悠人は手でドアを押さえ、二人を先に乗らせた。先ほどからずっと紳士的で穏やかな態度を取ろうと努めているようだが、やはり芽衣の方を見ようとはしない。
彼が何を考えているのか、芽衣にはわからなかった。悠人が落ち着いた態度が取れるようなら、和解の手を差し伸べてもいいと思っていたけど、彼の振る舞いからはそういう確信は持てなかった。 カラオケのロビーや廊下の、不自然なほど明るく白っぽい照明の中を少し歩くと、先に立った悠人が同じように並んでいる部屋のドアを開いた。
「ここだな」
三人には広すぎる部屋だった。十人以上は収容できそうな広さだ。悠人が部屋に入ると二人とも後に続いた。壁の二面にわたってL字型の低いソファーが置かれている。
どういう風に座るんだろうと芽衣は思ったが、迷うまでもなく美咲がL字の長い方に腰掛け、座ったまま芽衣の腕を引っ張り自分の隣に彼女を座らせた。
今日だけは美咲が頼もしく思えた。美咲と一緒でよかったと彼女は考えた。
悠人は少し迷ってからソファのL字の短い方に腰掛けたので、悠人と美咲と芽衣の間にはかなり距離が開いた。
「先輩、もっと近くに座りませんか」
美咲が悠人に微笑みかけた。
「そこじゃ話しづらそう」
「じゃあ」
美咲の好意的な態度にそれまで笑顔を一度も見せなかった悠人が美咲に微笑み返し、少し彼女たちの方に座り直した。座るソファのL字の位置は変わらないがだいぶ芽衣たちに近づいた。
「ドリンク取ってくるよ。何がいい?」
「喉かわいてないです。ね?」
美咲が芽衣を見たので、彼女はうなずいた。
「そっか」
立ち上がりかけた悠人が腰を下ろした。
「何から話そうか」
「わたしから話していいですか」
美咲が悠人を見て言った。話し方は先ほどからずっと穏やかで、美咲がたまにするからかうような笑みも浮かべていない。
「どうぞ」
悠人が同意し芽衣もうなずいた。
「まず聞きますけど、芽衣は先輩のことが好きで秋田さんには特別な感情を抱いていないって、先輩はわかってますか」
「芽衣がおれのことを好きでいてくれることはわかってる」
美咲の好意的な態度に安心していたらしい悠人が、いきなりストレートに聞かれて困った顔をしたが、彼らしくすぐにはっきりとしゃべり出した。「でもそれ以外は何もわからない。わからないから芽衣に聞こうとしても、逃げられたり逆ギレされたりして教えてもらえないし」
逆ギレという言葉を耳にして、芽衣は今日もわかり合えなさそうだと思い内心でため息をついた。美咲はそんな芽衣の方をちらりと見た。
「少なくとも芽衣がご自分のことを好きだってわかっているんでしょ。それだけでほとんど解決じゃないですか」
「そうでもないよ。おれのことを好きだったとしても、秋田ってやつのことを好きになりかけているんじゃないかって気がする」
悠人は微妙に時制を変えてそう言った。
「特別な感情はないんだよね」
美咲が芽衣の方を振り返った。
「うん」
「だったらなんでおれとの約束を破って、そいつと一緒に電車に乗ってたの? しかもそのことをおれに隠して。やましい気持ちがあったからじゃないの」
カラオケに入って初めて悠人は芽衣に直接話しかけた。まだ気持ちを制御できているのか言葉の内容のわりには静かな口調だったが、芽衣には逆にそれが気味悪く感じられた。
「そこなんですけど」
美咲が割り込んだ。悠人がこういう話をするのを待っていたみたいだった。
「おれに隠してって先輩言ったでしょ。多分芽衣と先輩はそこが行き違ってるんですよ」
「どういうこと?」
言ってもいい? と聞くような表情で美咲は芽衣の方を見た。訳がわからずにとりあえず芽衣がうなずくと、美咲は話を続けた。
「わたしも芽衣と知り合ってからわかったことなんですけど、芽衣って基本的に自分のプライバシーを人と共有することを嫌がるんですよね」
だからどうしたという表情の悠人が何か話そうとしたが、美咲はそれを遮るように話し続けた。
「たとえば、わたしは芽衣と親友だと思っているから、聞かれれば、いえ聞かれなくても家に帰ってからの出来事とかペラペラと芽衣に話すんですけど、芽衣はそういう話はしないんですよね」
「なんでもかんでもおれに話せって言ってるわけじゃない。男と会うのを隠すなって言ってるだけ。美咲ちゃんの話とは全然意味が違うだろ」
「別に芽衣は隠しているんじゃなくて、話す必要がないと思ったから話していないだけだと思いますよ」
「男と二人で会っていることを、話す必要がないとか言っちゃうんだ」
悠人が美咲をにらんだ。だいぶ冷静さが失われ、感情の地が現れ始めている。
「それってどういう道徳観念してるの? 彼氏がいるのに初恋の相手の男と二人きりで会ってさ、しかもそれを隠すのって」
「何言ってるんです?」
悠人の不機嫌さに呼応するように美咲の口調も厳しくなっていった。
「先輩なんかしょっちゅう女の人と二人でいるじゃないですか。わたし何度も学校の外で見ましたけど」
「あれは単なる知り合いだよ」
「いちいち今日の放課後は、女と二人きりで帰るよって芽衣に報告してます?」
「してない・・・・・・けど、やましいことは何もないから言わなかっただけだよ」
「それって芽衣と一緒じゃないですか。芽衣だってやましいことは何もないから、先輩に報告していないだけ」
「おれと芽衣のは違うよ」
「はい?」
「おれは普段からそういうやつだけど、芽衣は普段は男と二人になんかならないじゃんか。行動は一緒に見えるけど意味が全く違うんだって」
「先輩が言ってることよくわからないです」
ここで美咲は芽衣に聞いた。
「芽衣わかる? 先輩の話について行けてる?」
「わたし帰るね」
始まってまだ十分も経っていないが、芽衣はすでにもうこの話し合いが無益に終わることが予想できていた。
芽衣は悠人の方を見ずに立ち上がって出口の重い扉を開こうとしたとき、肩に痛みを感じた。芽衣は軽く悲鳴を上げた。
悠人の手が芽衣の肩をつかんで、彼女を引き戻そうとしていたのだ。
「ちょっと待てよ。帰ることないだろ」
次の瞬間、美咲が悠人の頬を叩いた。叩かれた悠人は唖然とした表情で芽衣の肩から手を離した。
「行こう」
美咲は扉を開くと芽衣の手を引いてカラオケルームの外に出た。そのままエレベーターでなく階段を降りたのは、エレベーターを待つ間に悠人につかまるのを恐れたのかもしれなかった。
カラオケ店のまぶしい照明に照らされたロビーから外に出ると、美咲はいったん立ち止まり店を振り返ったが、悠人が追ってくる気配はなかった。「大丈夫?」
美咲はそう言いつつまだビルの方を眺めていたが、やがて得心したのか芽衣に視線を移した。
「大丈夫・・・・・・じゃないか」
「大丈夫だよ」
芽衣も悠人が追いかけてこないことを確かめた。「先輩、追いかけて来ないみたい」
「そっちか」
美咲が笑った。
「そうじゃなくて、あんたは大丈夫かって聞いたの。先輩あんな感じだったし」
「大丈夫だけど、しばらくは先輩と距離を置きたいかな」
「え・・・・・・その程度?」
「その程度って?」
「先輩の態度ひどかったじゃない。自分が女と二人きりでいることはさておいて、あんたのことだけ責めて。芽衣の言うとおり、あれは立派なDVだよ」
「まあでも、ちゃんと説明しなかったわたしも悪いのかも」
「嫌そういう問題かないでしょ。あれなら秋田さんと付き合った方が全然いいって。それは確かに見た目はだいぶ悠人先輩よか劣るけどさ」
「劣ってないよ。中身とか全然劣ってない。美咲は大輝君のことよく知らないんだよ」
「ごめんごめん。でも、中身じゃなくて見た目って言ったじゃん」
「見た目だって、それほどは負けてないかも」
「だったらまじで先輩と別れて」
「そんな気はないよ」
「そうなの? ちょっとあそこで話さない?」
美咲は前に一緒に行ったカフェの方を指さした。
「いいけど」
「じゃあ行こ」
結局、悠人はカラオケのビルから出てこなかった。
カフェで向かい合って座った二人は、メニューを眺めた。美咲が日替わりのケーキセットを、芽衣はアイスコーヒーだけを頼んだ。
二人の飲み物が運ばれると、美咲が芽衣の顔をのぞき込んだ。
「芽衣って本当に秋田さんのこと好きじゃないの?」
「何言ってるの」
「どうなの?」
「前から言ってるじゃない。これまでずっと会っていなかった人だって」
「そろそろ先輩に愛想を尽かして、幼なじみの秋田さんを見直している頃じゃないかって思って」
「そんなことないよ」
「だったら先輩と仲直りしなきゃだけど、できる?」
芽衣は黙ってしまった。
「すぐには難しいか」
美咲が返事ができない芽衣に代わって自分で会話を引き取った。
「間に入ってあげると言いたいところだけど、わたしもさっき先輩のこと引っ叩いちゃったしなあ」
「ありがとね美咲」
芽衣は本気で美咲に感謝した。あらためて男性に身体を掴まれた痛みと恐怖がよみがえってきた。美咲に助けられなければ今ごろどうなっていただろう。
「それはいいけど」
美咲が探るように芽衣を見た。
「芽衣が本当に秋田さんのこと、男子として気にならないなら」
「気にならない」
芽衣はとっさにそう答えたあと、心の中に本当にそうなんだろうかという疑問が生じるのを感じた。同時に、大輝に抱き寄せられたときの彼の手の感触がよみがえった。
偶然起きた肉体的接触に惑わされているだけなのかもしれない。そもそも、大輝は彼女を誘うようなそぶりや好意を示していたわけではない。
ただ、悠人の嫉妬深さや束縛の片鱗を再確認した今、むしろ彼女に迫ってこない大輝の態度の方が、芽衣にとっては好ましいものに感じられた。
「秋田さんの連絡先教えてくれる?」
そのとき、美咲が芽衣の方を探るように見ながら言った。
「どうして? この間送ってくれたお礼なら言っておいたよ」
芽衣は何か悪い予感が胸を締め付けるように自分を包むのを感じたが、なんとか平静を装った。
「それはそうだろうけど。教えてもらえない?」
「どういうこと? もしかして美咲って大輝君のこと気になるの?」
口にしなくなかった言葉を何とか振り絞った芽衣が美咲を見ると、美咲は赤くなった。
「うん。ちょっと気になるかも」
「美咲が男の子のことを気にするなんて珍しいね」
そう言ってしまってから芽衣はまずいと思った。美咲がかつて、好きな男の子がいることを公にしたことを思い出したからだ。そしてその恋を芽衣自身が邪魔したことも。
だが美咲はそのことには触れなかった。
「芽衣さえよかったら秋田さんともう少しお話ししてみたいの」
「別にいいけど、大輝君彼女いるかもよ」
大輝に彼女がいないことを知っているのに、再び白々しい言葉が口を出た。
「話したいだけだから。それに」
美咲が顔をあげたがもうそこには赤くなって恥じらっている様子はなかった。
「わたしが秋田さんと親しくなれば、先輩も落ち着くと思うよ。芽衣もその方がいいでしょ」
「まあそうだね」
芽衣としてはほかに答えようがなかった。それに確かに美咲の言うことは間違っていないのだ。
芽衣はかつて、美咲の悠人への好意を承知していながら、悠人の告白に応えたという罪悪感がある。そんな彼女が、久しぶりの男性に関心を示した美咲に、大輝の連絡先を教えないという選択肢はなかった。
「電話番号言うね」
「うん」
美咲が番号を復唱した。
「ありがと」
「大輝君と連絡取るのはいいけど、大輝君と会ったことで彼氏と揉めてるとか言わないでよ」
「言わないよ。てか秋田さんは芽衣に彼氏がいるの知ってるの?」
「知ってる」
「なんだ。じゃあ、本当にお互いになんとも思ってないんだ」
「だから何度もそう言ってるじゃない」
「安心した」
芽衣はなんで美咲が安心したのか聞かなかった。ただ本当に美咲が大輝のことを気にしているのなら、彼女に協力しなければと思った。それだけの借りはあるのだ。
数日後の夜、自室で宿題を終えた芽衣が机の前で大きくのびをしてそろそろ寝ようかと思ったとき、スマホにLINEのいくつか着信があることに気がついた。アプリを開くとそのひとつは大輝のメッセージだった。
そういえば絵本を貸したとき、LINEで友だち登録をしたのだった。
『絵本読み終わったよ。貸してくれてありがとう!』
この間、芽衣の肩に手を回し彼女を抱き寄せたことについては、何ひとつ触れていない。
そのことを話題にされても困るくせに、芽衣は大輝の大人びた対応になぜか失望した。
さらに気になったのは、美咲から大輝に連絡があったかどうかだったが、大輝の短いメッセージはそのことにも触れられていなかった。
芽衣は、自分の知りたい情報が何もないメッセージをじっと見つめた。このまま既読無視してやろうかと思ったが、いずれも大人げない行動だ。
メッセージを入力しかけた芽衣は、考え直して通話ボタンをタップした。
直接話そう。
「はい」
わりとすぐに大輝は電話に出てくれた。
「大輝君と電話で話すの初めてだ」
芽衣は昔を思い出して少し微笑んだが、もちろんその様子は電話の向こうの大輝には伝わらなかっただろう。
「そうだっけ」
「まだ子どもだったから携帯とか持ってなかったじゃない。しょっちゅう会って一緒に遊んではいたけどね」
「うん。あれ、芽衣って小学校のとき携帯買ってもらってなかったっけ」
彼はこの間と異なり、昔のように彼女を芽衣と呼び捨てにした。無意識にそうしたのだろう。
「やっと芽衣って言った」
今度こそ芽衣は声を立てて笑った。
「この間は芽衣ちゃんって言ってたのに」
「あ、ごめん」
「ごめんじゃない。芽衣って呼んでいいよ」
芽衣は気を遣ったのではなく本気でそう言った。「わたしは携帯持ってたけど、大輝君が持ってなかったでしょ。それよか絵本全部読んだ?」
「読んだ。つうか見た。懐かしかったし、それ以上に新鮮で面白かった。ありがとう」
「どういたしまして。もともと大輝君の絵本だもん」
「いや、あげたものだし返すよ」
「そう? じゃあ返してもらう。わたしも久しぶりに見たくなったし」
「宅急便で送るか家に行っておばさんに渡しておこうか」
いや、直接会おうと芽衣はとっさに考えた。そうしなければ、このもやもやした感情が後を引きそうだった。
大輝と二人きりで会うのは、悠人の感情を考えるととてもリスキーだが、美咲と一緒なら許容範囲ではないだろうか。
それに、美咲を連れていけば彼女への借りを返すことになるかもしれない。
「どっかで会おうよ」
芽衣は意を決した。
「芽衣ちゃんがよければそれで」
「芽衣ちゃんじゃないでしょ」
電話の向こうで何か考えている気配がしたが、芽衣はあえてそれには触れなかった。
「じゃあ、日程とか調整してまた連絡するね」
「調整ってなに?」
もっともな疑問だったが、美咲が一緒に来ることを了解する前にそのことを大輝に話すわけにはいかない。
「また連絡するから」
芽衣はそう言って一方的に通話を切った。
美咲にLINEするとすぐに既読になり返信が返ってきた。
『なんでわたしも一緒に行くの?』
行きたいくせに。大輝君のことが気になっているくせに。芽衣は少しいらっとした。でもここは下手に出よう。
『絵本を返してもらうだけだけど、二人で会うと悠人先輩がうるさいし。もうこれ以上揉めたくないんだ』
『それもそうか。いいよ、付き合ってあげる』
三日後の昼時、芽衣と美咲は駅前で待ち合わせしてから、大輝と待ち合わせしている駅前のファミレスに向かった。
「わたしが一緒で平気かな」
美咲が珍しく気弱な表情で芽衣を見た。
「平気って?」
「秋田さん、迷惑じゃない?」
「なんで?」
「秋田さんは芽衣と二人で会いたいんじゃないの?」
そうかもしれないと芽衣は思った。大輝がこの間の続きみたいなことをしたいのなら。
本気で好きではないにせよ、これまで女子と付き合ったことのない彼が、芽衣を抱き寄せた感触を忘れられず、芽衣と二人きりで会いたいと思っている可能性はあるかも。芽衣はそんな大輝に失礼な感想を抱いた。
でもまあ、それは考えすぎだろう。
「そんなことないって」
「そう?」
「意外と美咲のこと気になっているかもよ」
美咲が少し嫌そうな顔をした。一瞬、芽衣は、美咲は大輝の気持ちが迷惑なのかなと思ったが、すぐにそうじゃないと思い直した。
おそらく美咲は芽衣の言葉の「意外と」という部分に反応したのだろう。美咲は容姿を含めた自分のステータスに自信がある分、こういう言葉に過敏に反応する。
謝ってもかえって拗らせそうなので、芽衣は美咲を放っておくことにした。
「秋田さん、そこにいる」
芽衣が大輝を見つけると、
「本当だ」
美咲はそう言って大輝の方に親し気に手を振った。彼女の機嫌はもうよくなったようだった。まさしくなんとかと秋の空だ。
芽衣は案内しようとする店員を制して、そのまま二人は彼の方に歩いて行った。
「早いね」
芽衣は彼に笑いかけた
「こんにちは」
大輝が返事をする前に美咲が大輝にあいさつした。
「芽衣に誘われたんでわたしも来ちゃいました」
「こんにちは」
大輝は美咲に答えたが、どういうわけか彼の視線は芽衣に止まったままだった。
「秋田さん、芽衣ばっかじっと見てる」
美咲は笑って言ったが、少し気分を害しているように感じられた。
こういう状況は初めてではないので、芽衣には美咲の不機嫌さの原因がよくわかった。大輝が美咲の方に関心を向けないことに、プライドを傷つけられたのだろう。
もっとも美咲のことだから、このことのみをもって、芽衣が大輝のことを異性として気にしているという証拠にはならない。
芽衣と大輝は口をそろえて美咲のからかい交じりの指摘を否定した。いや、大輝が芽衣を見つめていたことは事実なのだが、そこに特別な意味はないと釈明したかったのだ。だがそれは美咲を面白がらせただけだったようだ。
「冗談ですよ。二人とも何慌ててるの」
美咲が大輝の正面に座ったので、芽衣はその隣に腰かけた。美咲が自分から悠人以外の男子の側に行こうとするのは珍しい。
「何飲んでいるの」
芽衣は、美咲のことが気になっているのか、心なしか顔が赤くなっている大輝を見た。
「アイスコーヒーだけど」
「そう。ねえ、どうする」
一つしかないメニューを開いて、芽衣は美咲に聞いた。
「これ、ありがとう」
オーダーを取ったウェイトレスが席を離れると、芽衣は大輝から借した絵本の入った紙のバッグを受け取った
「これが噂の絵本か。スカールおじさんだっけ?」
美咲が適当な質問をした。
「スカーリーおじさんの絵本」
芽衣が言った。
「というか噂って言うなよ」
「ごめん」
「噂って何?」
大輝が聞いた。
「ああもう。美咲は」
彼氏とトラブルになったことは、今から考えれば大輝に抱き寄せられるきっかけになった。
その大輝に、これ以上悠人との関係やトラブルを知らせることはないのに。
「この間、その絵本を大輝さんが芽衣から借りたでしょ。そのあと、芽衣の彼氏が秋田さんに嫉妬して大変だったんですよ」
「うそよ。大輝君気にしないで」
「だって本当じゃん。カラオケで先輩怒っちゃって大変だったじゃない」
「嫉妬ってなんで?」
「芽衣が先輩の約束を破ってデートをキャンセルしたでしょ。だから、この間カラオケで先輩が切れちゃって」
「先輩って志賀って人?」
「何で知っているの」
大輝が意外と自分の身近なところにいる気がして芽衣は驚いたけど、同時に少し心が温まった。芽衣は美咲のことを忘れて彼のことを見つめていた。
「前に男の人と一緒にいるところを見かけたんだ。その人って、前にテレビで見たダンスで優勝した志賀悠人って人じゃないかなって」
芽衣の視線の強さにしぶしぶという感じで大輝が説明した。
「見てたの」
「芽衣の彼氏は一年上の志賀さんなんです。校内ではイケメンと美少女のカップルで有名なんですよ。なのにね」
美咲はからかうように芽衣を見たが、美咲の発言の意図が芽衣にはよくわからなかった。
もしかしたら意図とかはなく、いつもの美咲のように面白がっているだけかもしれない。
それとも美咲は本当に大輝のことが気になっていて、芽衣に嫉妬深い彼氏がいると大輝にアピールし、芽衣に対する彼の好意を牽制しているのか
「絵本を借りにおれが芽衣の家に行ったから? おれのせい?」
「そうですねえ。大輝さんが悪いわけじゃないけど、結果的には大輝さんのせいかも」
「違うよ。大輝君のせいじゃない」
芽衣は口を挟んだが、大輝はそれを無視し、「よくわからないけど、その志賀ってやつ、おれのせいで芽衣に嫌な態度を取ってるってこと?」と言った。
美咲が芽衣の表情を探るように見た。同時に芽衣は、大輝から何か聞きたそうな視線を投げかけられたが、彼女は下を向いてその視線を避けた。
「芽衣のこと呼び捨てなんですね」
美咲にそう言われ、大輝は初めて自分が芽衣を呼び捨てにしていたことに気がついたようだった。「志賀先輩の心配もただの嫉妬じゃないのかもね」
「幼なじみだし、昔から大輝君にはそう呼ばれてたんだよ」
「この間は芽衣ちゃんって呼ばれてたじゃない。ひょっとしてあの後、二人に何かあったの?」
「何もないって。あんたも先輩も考えすぎなんだよ」
芽衣はそう言って大輝を見た。
「大輝君、気にしなくていいからね」
「秋田さんって見かけによらず手が早いんですね」
美咲がからかうように言った。
「だから美咲が心配するようなことは何もないって言ってるじゃん。美咲ちょっとしつこい」
「まあ、別にいいけどね。でも先輩はわたしと違って別にいいけどとはなんないと思うよ」
そのとき彼女たちの注文したパフェとケーキが運ばれてきたので、話は一時中断した。ウェイトレスが席から立ち去ったあと、美咲はもうその話を蒸し返さなかった。
「芽衣と秋田さんって小学生の頃から仲がよかったんですか?」
「よく一緒に遊んでたよね」
照れているのか、美咲の質問に答えない大輝に代わって芽衣が答えた。
「一緒に登校とか下校とかしてた?」
「してたよ。わたしが二年生のときからしばらくの間だけど」
「芽衣が小学校二年のときに引っ越してきたんだ」
「そのとき秋田さんは四年生ですか」
「そうそう」
「よくクラスの男子からからかわれたよ」
「そうだったの?」
大輝は驚いたようだった。
「全然気づいてなかったの?」
「うん。知らなかった」
こういうとき男子というのは不注意だ。少し周囲を観察していれば、二人で一緒に帰る途中、二年生の男子があからさまに二人に向かって悪意のある視線を投げたり、ひそひそと噂をしたりしていることに気がついたはずだ。
小学校二年の男子なんて幼い子どもに過ぎないが、それでもこうした変わった男女の組み合わせに対しては、盲目的に攻撃的な言動を取る。
異質なものを排除しようとするのは何も大人だけではないのだ。そしてその排除の矛先は同級生の芽衣にだけ向かい、上級生の大輝には向かない。 だから、大輝が何も気がつかなかったとしても、無理はないかもしれないが。
「一緒に帰ってそのまま毎日大輝君の家か、わたしの家で遊んでたなあ、そう言えば」
「仲よかったんだね」
「よかったよ、あの頃は。うちの家族の旅行に大輝君も一緒に行ったこととかあったし。あれどこだったかなあ」
「ディズニーランドとシーだったね」
大輝が口を挟んだ。
「そうだった」
美咲に問われるまま、芽衣は過去のできごとを本当に久しぶりに思い出して語った。大輝も特に懐かしそうな様子は見せないが、ときどき頷きながら芽衣の話を聞いていた。
それにしても、話している芽衣自身があまりおもしろい話じゃないなと感じていた。どこにでもいる幼なじみ同士のよくある思い出話に過ぎない。 それでも久しぶりに思い出した記憶は芽衣にとっては懐かしかったので、美咲が話に飽きのか芽衣の話を打ち切りたがっている様子でいるにもかかわらず、自分と大輝の思い出話を続けた。この話を大輝がどう受け取ったかはわからない。
「二人が幼いながらも将来を約束したような仲じゃなかったことはわかったよ」
美咲がついに芽衣の話を遮った。
「それにしてももうちょっと色気のあるエピソードはないの? 幼いながらもどきどきしながら初チューしたとか」
「ないよ」
芽衣と大輝が同時に否定した。
「でもさ。恋する男の直感ってあながち間違ってないと思うんだけどなあ」
「恋する男?」
「先輩だよ。あの人だって見さかいなく嫉妬する人じゃないじゃん? 何かやばいって感じたからああいう態度を取ったんでしょ?」
「彼は考えすぎてるだけだよ」
「でもさ。昔は単なる幼なじみだったけど、久しぶりの再会で成長した互いの姿を見て異性として気になったとかあるんじゃないの? 何もなきゃ先輩が嫉妬するわけないじゃん」
「またそういう話? 美咲さっき別にいいけどねって言ったくせに」
「そういやそうだ。この話はもうやめるよ」
美咲はあっさり引き下がった。
「今度チャンスがあったら、わたしからも悠人先輩に念押ししとくよ。芽衣と幼なじみの男の子との仲は先輩の誤解で二人ともお互いを異性として意識してないって」
「うん、お願い」
「ついでにカラオケでのひどい態度の説教もしとく」
芽衣はこの際、悠人をなだめることに関しては美咲に頼ろうと思った。当事者の自分がいくら何もない、誤解だと言っても聞く耳を持たないのだ。 カラオケのときは話し合いにすらならなかったけど、芽衣自身が不在で美咲と話し合うのなら、悠人も少しは落ち着いて話しを聞くかもしれない。 美咲はあのとき悠人の頬を叩いたので、悠人とは話しづらいと言っていたのに、再び先輩との間に入ってくれると言ってくれていることに、芽衣は驚きつつも感謝した。
正直、結果についてはあまり期待はしていなかった。それでも試してみる価値はある。
これは美咲への借りになるかもしれない。美咲が本当に大輝のことを好きなら、次は芽衣が美咲に協力すべきなのだろうと彼女は考えた。
美咲の文房具の買い物に付き合ってから帰宅した芽衣が、入浴後に自室でドライヤーをかけていたときスマホが鳴った。ディスプレイに目を落とすと、LINEのメッセージが表示された。美咲からだ。さっきまで会ってたのになんだろう。
芽衣はベッドにドライヤーを置いてスマホを取り上げた。
『ごめん! 先輩説得に失敗した!!』
まあ、しかたがない。それほど期待していたわけではない。芽衣はそれに続くメッセージに目を通した。
『先輩に電話したんだけど、芽衣が秋田さんにまた会ったと聞いた時点で怒りだして、一応、全部先輩の誤解だって言ったんだけど、その先の話はさせてもらえなかった。ごめん。芽衣のところに先輩から連絡があると思うけど、先輩が落ち着くまで電話に出ない方がいいと思う。LINEも読まない方がいいかも』
予想していたより悠人は怒っているようだった。『わかった。ありがと』
とりあえず美咲は頑張ってくれたのだ。彼女に文句を言ってもしかたない。
でもそれからが大変だった。
『おれが嫌がっているの知ってて、なんでそんな男と外で会うんだよ。芽衣って全然おれのこと気にもしないし心配もしないじゃんか。おれが、あいつと芽衣が会うの嫌だって知ってるだろ』
そのメッセージだけ既読にしたが、それ以降のメッセージは未読のまま放置した。
それでも着信の通知がディスプレイに表示されるたびに、悠人の焦燥感にあふれた、まるで彼女に気を遣う意思など少しもない、メッセージの一部が目に入った。
もうスマホ自体をベッドに投げ出して無視していたら、次に着信音が鳴り響いた。マナーモードにしても振動が鳴り止まない。
これではストーカーか嫌がらせだ。芽衣は結局スマホの電源を落とした。
明日学校に行ったらどうなってしまうのだろう。美咲と唯がガードしてくれたくらいでは、悠人から逃げられないかもしれない。
その晩、芽衣はなかなか寝付けなかった。悠人のいわれない嫉妬にいつまで、どこまで付き合わなければいけないのか。
大輝には絵本を返してもらって、もう会うこともない。その程度の中の幼なじみの男の子への嫉妬と考えると、やはり度を過ぎている。
翌朝、スマホのディスプレイを見た芽衣は頭がくらくらした。LINEのメッセージ数や着信履歴がすごいことになっている。
今日はもう学校をさぼろう。いつまでも悠人を避けられるわけはないけど、彼がまだ興奮している状態で顔を合わせたくない。
結局、彼女はその日学校に行かなかった。幸い、両親が不在の日だったので、彼女の不登校を咎められることはないだろう。学校から連絡が来てサボったことが発覚するまでは。
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