第27話
「昨日は送ってくれてありがと」
翌朝、芽衣が教室に入ると、席に座るのもまたずに隣の席から美咲が声をかけてきた。
最初は芽衣を置いて逃げようとしていたくせに、なんでちょっと嬉しそうに芽衣に礼を言うのだろう。
「わたしにお礼言われても。わたしが送ったわけじゃないし」
「それもそうか。秋田さんにお礼言わないといけないね」
「昨日、車降りるときお礼言ってたじゃん」
「そうだけど。あらためてお礼言わなくていいのかな」
「大丈夫だよ。昨日、ママがおばさんにお礼のメールしとくって言ってたから」
昨日帰宅した芽衣から、雨の中を大輝が車で送ってくれたことを聞いた母は喜んだ。このときは別に悠人と比較したわけではないけど、とにかく芽衣が大輝と再会し、会話もしたことが嬉しかったようだった。
「芽衣の初恋の人って秋田なんでしょ?」
美咲がとんでもないことを口にした。芽衣はあわてて周囲を見回したが、幸いなことに唯を含めて二人の会話が届く範囲には誰もいなかった。
「なんでよ」
「ずっと前に加賀先輩から聞いた」
またあの先輩か。でも彼が悪いわけではない。芽衣が彼の告白を断るために、好きな人がいる振りをしたのが悪いのだ。理性ではそうわかっていても、あちこちで芽衣の「好きな人」を言いふらさなくてもいいではないかと、芽衣は考えないではいられなかった。
「昔々の話だけどね」
事実としては、穏便に断る理由のために大輝の存在を借用したに過ぎないのだが、いちいち説明するのは面倒だった。それで芽衣は正確な話を美咲にするのをあきらめた。
「秋田さんに再会して昔の気持ちがよみがえったりして」
「ないよ」
「まあ、今では芽衣には悠人先輩がいるものね」
美咲が笑った。
「そういうこと」
「秋田さんって彼女いるの?」
「知らないよ。昨日再会するまでずっと会ってなかったんだよ」
とっさに芽衣は嘘をついてしまった。
「そうか」
「なんでそんなこと知りたいの? ひょっとして」
「違うよ」
美咲が顔を赤くした。
やはりあやしい。あやしいが、もし本当にそうならこれは美咲へ借りを返すチャンスだった。
芽衣は重ねて美咲に質問しようとしたが、その前に美咲が口を挟んだ。
「秋田さんに会ったこと、先輩には話すの?」
悪気はないかどうかはわからないが、相手が聞きたくないことを平気で話す美咲らしい問いだった。
芽衣にとっては答えにくい質問だった。別に後ろめたいことは何もないけど、大輝と再会したことはあまり悠人に知られたくないとは思う。特に大輝に関して芽衣を束縛するような言動が現れてきた悠人には。
ただ、このあたりの機微は、美咲に理解してもらうのは難しい。というか、美咲のことだ。理解しててもわからないふりをして、天然を装った爆弾を投下するくらいのことはやりかねない。
「隠す必要ないしね」
相当無理をして芽衣はそう言った。これで心配していたとおり先輩に伝わるな。無理にでも美咲を大輝の車に一緒に乗せてよかった。せめて三人一緒なら、車で送ってもらったことを聞かれても、悠人は誤解しないのではないかと思いたい。
「それもそうだね」
言葉の意味を理解したかしないでか、美咲が面白そうに微笑んだ。
「じゃあ、話しちゃおう。隠してた方がいろいろ疑われるよね」
「疑われたりしないよ。別に何もないんだし」
「あ、先輩だ」
「え」
不意を突かれた芽衣は、相当無理して美咲の背後を見るのを我慢した。
「うそだよ」
美咲の笑い声を聞いた瞬間、頭に血が上った芽衣は思わず美咲をにらんだ。
美咲は芽衣の顔色をうかがって、笑い声を引っ込めた。
「なんで怒ってるの? 悠人先輩に秋田さんのこと話すって言ったから?」
「あんたがつまらないことするから」
「冗談なのに。そんなに怒ることないじゃん」
まったく悪びれていない美咲の様子に、芽衣は美咲に抗議するのをあきらめた。
「安心して。勝手に先輩に話したりしないから」「だから別に話してもいいって」
「芽衣って、あまり先輩に気を使わないよね」
美咲の独り言のようなつぶやきに、芽衣は不意を突かれて美咲を見た。
「気を使うとか必要?」
「先輩に愛されているもんね。芽衣は」
「さっきから美咲が何を言いたいかわからない」「そう?」
「そうだよ。大輝君のこと、わざわざわたしから話す意味はないけど、美咲が話したいならどうぞ」
「やっぱり怒ってる?」
「怒ってないよ!」
この先もう大輝と会うこともないから、悠人に知られてもどうということはないと芽衣は考えたのだが、その考えはだいぶ甘かった。
それから数日後の放課後、久しぶりに悠人と一緒に下校した芽衣は、悠人に誘われて駅前のカフェに入った。大輝と会った日に美咲と二人で訪れた店だった。
悠人がその店に行こうと言い出したとき、芽衣は大輝のことを思い出して、彼女にしては珍しくそっと悠人の表情をうかがってしまった。
別に悪いことをしたわけではないけど、どういうわけか胸の奥がざわめくような感覚を覚えた。
「なんでこの店知ってるの?」
カフェに入り案内された窓際の席で芽衣は聞いてみた。
「この間美咲ちゃんと二人で行ったんでしょ。ケーキとかおいしいらしいじゃん」
美咲が話をしたのだ。問題は、その後大輝の車で家まで送ってもらったことも話したのかどうかだ。
いや、問題じゃない。話をされてもいいのだから。
「美咲から聞いたの?」
「なんで黙ってた?」
悠人は美咲の質問に質問で答えた。芽衣は少しむっとした。
「いちいち美咲とお茶したなんて先輩に報告しなきゃいけないの」
「幼なじみの男と再会したことだよ」
「ああ。そっちか」
やはり美咲は黙っていられなかったのだ。例によって悪気なく、自分の胸に秘めておけず、おしゃべりしたいだけなのだろうけど。
それとも悪気があるのだろうか。まだ、自分の好きだった男を奪っていった芽衣に対して。
「そっちかってなんだよ」
悠人の声の温度が下がった。芽衣は急に体が冷えていくのを感じた。同時に手がしびれた感じもする。
「なんでちょっと怒ってるの」
「怒ってねえよ」
「偶然、駅で会ったの。雨が降ってたんで車で家まで送ってもらっただけ。美咲も一緒だよ?」
「黙ってたのは、なんかやましい気持ちがあるからじゃねえの」
「そんなものないよ。わたしは自分の生活で起きたできごとを全部先輩に報告しないといけないの?」
「そんなこと言ってないよ。男と会ったことを隠すなって言ってんだよ」
冷えていた身体に熱が戻った。こういう決めつけや自分の生活に干渉する束縛が、芽衣は身震いするほど嫌いだった。
「わたし帰る」
芽衣は立ち上がって悠人の方を見ずにカフェの出入口に向かった。
「ちょっと」
背後から悠人の慌てた声が投げかけられるのを無視して、芽衣はカフェの外に出た。
そのまま悠人に追いつかれないよう、彼女は足早に駅に向かった。
悠人に追いつかれることなく、電車に乗った芽衣のスマホが振動した。
芽衣のスマホは帰宅した後も震え続けたが、芽衣はもうそれにかまわなかった。
翌日、登校した芽衣は、すでに着席してスマホをいじっている美咲の隣の席に座って彼女のスマホのうえで手を振った。
「びっくりした。何よ」
「大輝君のこと先輩に話したでしょ」
「うん」
「勝手に話さないと言ったじゃん」
「話したかったら話してもいいって言ったじゃん」
「本当に話すとは思わなかったよ」
「先輩となんかあった?」
「なんか怒ってるの。久しぶりに再会して送ってもらっただけなのに」
「芽衣は先輩に愛されてるんだよ。だから先輩も不安なんだって」
「そんな愛なんか迷惑だよ。濡れ衣着せられて、責められたり」
口に出しているとだんだん本気で怒りがわいてきた。
「いちいち起きたこと全部先輩に報告しないと機嫌が悪くなるって、DVじゃん」
「そこまで束縛されてるの?」
「最近、そんな感じになってる」
「嫌なら別れちゃえば」
「またそんな適当なこと言って」
美咲のこういう言葉には、悪気はないのだろうけど、軽く言われる方は少しいらっとする。
「まあ、この間は偶然会っただけじゃない。もう会わなければ先輩もすぐに忘れるよ」
やはり納得できない。もちろん、この先もう大輝と会うつもりはなかったが、仮に会ったとしても悠人に口を出されるいわれはない。浮気しているのではないのだから。
「そうだね」
そう言って、これ以上この話を美咲とする気をなくした芽衣は話を打ち切った。
それから一週間の間、芽衣は校内で悠人を避け、LINEも既読にしなかった。問題をあいまいにし、なし崩しに仲直りしてしまうと、この先には嫉妬心と猜疑心から悠人に束縛される将来しか見えなかった。
一週間が過ぎたころ、芽衣は帰宅途中に駅前で悠人につかまった。
「最近、おれのこと避けてない?」
「そんなことないよ」
芽衣は悠人の方を見ずに意識して冷たく言った。ここで妥協すると悠人の態度は改善しないだろう。芽衣は、彼が反省し誤りを認めるまで妥協する気はなかった。
「全然学校で会わないし、LINEも既読にしねえじゃん。なんか怒ってる?」
本気で聞いているのだろうか。だとしたら付き合い自体を考え直さなければいけない。
「怒ってるに決まってるでしょ」
「やっと口聞いた。なんで怒ってるの」
芽衣はもう彼の方を見ずに駅の改札の方に歩いて行った。
「ごめん、悪かったよ」
悠人も足を速めて芽衣の隣に並んだ。
「なんで怒っているのかわからないの? だったら今、何を謝ったの」
「おれが、男と会ったことを隠すなって芽衣に言ったから?」
芽衣は足を止め悠人を見上げた。
「わかってるじゃない。ほんとうにわからなかったら、先輩とお別れしているところだよ」
「悪かった。もう言わない。芽衣をそいつに取られるんじゃないか怖かったんだよ」
別れると言われて慌てたのか、悠人は初めて強気な態度をあらためて本音を口にしたようだった。「そんなわけないでしょ。ずっと会ってなかった人なんだよ」
「うん」
「あと、わたしが毎日起きたことをなんでも報告しないと不機嫌になるでしょ。あれもすごくいや」
「もうしない」
驚いたことに悠人は深く頭を下げた。
「わかった。それならいい」
芽衣は悠人を許すことにしたが、心の底から彼への信頼が回復したわけではなかった。ただ、自信家で自尊心の高い悠人が、芽衣を大輝に取られることが怖かったと正直に告白したことにほだされたのだ。
そして、芽衣に謝罪を受け入れられた悠人の方は、彼女を失わなかったことにほっとしているのは間違いないが、自分の言動を心から反省しているかどうかはわからなかった。大輝に対する彼の疑いと警戒もすっきりと解消しているわけではなさそうだった。
こうして仲直りした二人だが、すぐに以前のように放課後に二人きりで会ったりはしなかった。悠人に部活や塾があったこともあるが、やはり悠人の方も微妙に芽衣に対して誘いづらさを感じていたのかもしれない。
芽衣の方は、仲直りしたとはいえ完全にわだかまりがなくなったというわけでもなかったから、別に誘われないなら誘われないでいいかと思っていた。
仲直りしてから一週間後、芽衣は悠人にLINEで放課後デートに誘われた。直接顔を合わせて誘う勇気はないようだった。
仲直りしたとはいえ、芽衣は心から悠人に気を許したわけではなかったが、一週間も二人きりで会っていなかった以上、用事がないのに断るわけにもいかなかった。
芽衣は、本屋に用事があるので、そのあとで駅で待ち合わせして一緒に帰るならと返事をした。以前なら一緒に帰るだけのデートに不満を言っているはずの悠人だが、仲直り後最初のデートのせいか、その提案に「了解」と返事をしてきた。
学校の最寄り駅の駅前まで来たとき、芽衣はふと視線を感じた。そちらの方に目をやると、芽衣から目をそらすように身体を回して、駅ビルの入口の方に歩み去って行く大輝の姿が目に入った。芽衣は反射的に彼の後を追って駅ビルの方に歩き出した。
連絡先も交換していないし、大輝とはもう二度と会うことはないだろうと思っていた。別にそれでも全然かまわなかったので、後を追う必要はないのだが、自分に気づいていながら声をかけずに無視した大輝に、芽衣は少しむっとしていた。
大輝がエスカレータに乗ったタイミングで、芽衣は大輝に追いついた。
「よ」
大輝が振り返って芽衣がいることに気づいた。
「今、目が合ったのに見なかったことにしようとしたでしょ」
このあいだは少し気まずい感じで別れたのだが、やはり幼なじみというのは普通の人間関係とは異なるのか、話し始めると芽衣は気楽に話しかけることができた。先輩のときとは全く違う。
「目合った? 気がつかなかった」
誤魔化した。大輝は芽衣に対して、本当に少しも関心がないのだろうか。
芽衣は、学院内でもてていることを鼻にかけたこともないし嬉しく思ったこともないが、大輝に本当に無視されたらしいと気がつくとなんだか少し悔しさを感じた。
「嘘ばっか」
恨めしそうな表情を隠し、ふざけた感じを出せたのは上出来だった。なんだか美咲の行動を真似ているような気がする。
「本当だって」
「どこ行くの」
「本屋だけど」
大輝は少し慌てたように見えたが、同時に面倒くさいと思っていそうな雰囲気も伝わってきた。
「わたしと一緒だ」
エスカレーターを降りると大輝が本屋の方に歩いて行ったので、芽衣は足を速めて彼の横に並んだ。本当は本屋に用事はない。
「何買うの」
「取り寄せた本を受け取りに行くんだ」
「へえ。どんな本?」
「ちょっと言うの恥ずかしいけど、絵本」
「絵本?」
「うん。昔英語で見てた絵本があったんだけど、このあいだふと思い出して読みたくなっちゃって、取り寄せしたんだ」
「へえ。どんな絵本?」
「スカーリーおじさんていう絵本の原書」
「え」
芽衣はその絵本の名前を久しぶりに思い出した。 昔通っていた英語教室で教材として使われていたせいで一時期はよく読んでいた。また、自宅でもよく眺めていた記憶もよみがえった。英語教室で絵本を気に入った彼女が、父か母にねだって買ってもらったのだろうか。
いや、そんなはずはない。当時の芽衣の家庭の状況を考えると気まぐれにおねだりなんかできたわけがない。久しぶりに思い出した暗い思い出に、芽衣は憂うつな気持ちになった。
芽衣が小学校三年生の頃、彼女の父母は常に言い争っていた。いさかいの原因はどうやら父親の浮気がばれたせいだと、当時の彼女は知っていた。 両親は芽衣の目の前では言い争いをしなかったが、芽衣が部屋に戻るとリビングから母が興奮した声で父を責める声が聞こえてきた。
せめて兄弟でもいれば互いに慰め合うこともできただろうけど、彼女は一人っ子だった。そのときに芽衣の気を晴らしたのが、手元にあった五冊のスカーリーおじさんの、英語の絵本なのだ。
だけど英語教室で初めて読んだ絵本がどうやって芽衣の手元に来たのだろうか。
そうだ。大輝君がくれたんだ。
あの頃、二歳年上の大輝はすでに中学受験塾に通っていたが、塾のない時間には芽衣と遊んでいた。家庭不和もあって笑顔を見せなくなっていた芽衣に、大輝は突然「これあげるよ」と言って、スカーリーおじさんシリーズの絵本を五冊くれた。 その後、中学受験の勉強が佳境に入った大輝とは会えなくなった。そして、大輝が第一志望だった明徳大学付属中学に合格した頃になっても、思春期を迎えていた二人が再び一緒に遊ぶことはなかった。
二人が会えなくなってから、不仲の両親と一緒に過ごすのがいやで、夕食後の時間や休日は、自室で大輝にもらった絵本を繰り返し眺めて時間を過ごした。書かれている英語はわからなくても、絵を眺めていればだいたいの意味は通じた。
小学校四年になって受験塾に通い出すと小学校の友だちとも遊ぶことはなくなり、勉強時間以外のかなりの時間を割いて、芽衣はその英語の絵本を少しずつ翻訳することに喜びを見出した。受験科目に英語はないので、それは全く合格には寄与しない行為だった。
その後、芽衣の受験が近づくと、会社員の父と専業主婦の母は仲直りした。父が白旗を揚げて母に謝罪したということもあるが、目前に迫った芽衣の中学受験が家族を一つにしたようだった。そして芽衣は志望校である富士峰学院に合格し、入学した。
中学に入ってから、芽衣は一度も絵本を開いていないし、大輝とは道ですれ違ってもあいさつもしない関係となった。
「普通知らないよね」
芽衣はよく知っていた。受験勉強の息抜きでスマホで検索してみたことがあったから。
リチャード・スカーリー(スキャリーとも表記する)は、1919年アメリカ合衆国ボストンに生まれた絵本作家・イラストレーターであり、その作品はアメリカ人なら誰もが幼少期に目にすると言われている。
そういうことを大輝に話すこともできたが、その代わりに芽衣は大輝を見上げて言った。
「スカーリーおじさんのその絵本、うちにあるよ」
「芽衣ちゃんも持ってたんだ」
大輝の答えは芽衣を少しがっかりさせた。自分だって、大輝にもらったことを今まで忘れていたのだが。
「忘れちゃった?」
「何が」
「大輝君からもらったの。五冊くらいあるよ」「あの本、君のところにあるの? 君に渡したんだっけ」
大輝は驚いたようだった。
「そうだったんだ」
「うん。前はよく読んでたけど、中学生になった頃から全然読んでいないの」
芽衣は続けた。
「よかったら返そうか」
「返すって言ったけど、別につまらないとかもらって迷惑だったとかじゃないよ。あの本大好きだったんだから」
芽衣が付け加えた。
「でも、買い直すほど読みたいなら全部返した方が本も喜ぶかな」
「全然記憶にないなあ。なんで君に押しつけるようなことしたんだろ」
「押しつけられたわけじゃないよ。わたしもあの絵本好きだったし」
「でも英語だぜ」
「英語教室通ってたし、あの本の英語やさしいからだいたいわかったよ」
二人は並んで話しながら、なんとなく本屋の方に向かっていた。
彼はあの頃の我が家の状況を知っていたのだろうか。それとも何も知らないけど、芽衣が塞ぎ込んでいるのを察して絵本をくれたのだろうか。大輝の記憶がない以上、もう事実は過去の霧の中に隠されてしまっていた。
「ちょっとごめん。本買ってくる」
大輝が取り寄せた本を受け取りにレジの方に向かった。
もっと早くわかっていれば大輝が本を注文することはなかったのに。五冊も持っていれば一冊くらいは取り寄せた絵本と被りそうだ。
買った絵本を見せてもらおう。どれか一冊くらいは重複しているかもしれない。もっともスカーリーは多作で生み出した作品も多いから、奇跡的に重複せずすり抜けているかもしれない。
スクールバッグに入れておいたスマホが振動した。取り出して画面を見ると悠人からの着信だった。
まずい。悠人と待ち合わせしていたことを忘れていた。
「何かあった?」
先日のもめ事に懲りたせいか、待たされている悠人にしては穏やかな切り出しだった。
今からすぐに行くからもう少しだけ待ってて。彼女はそう言うつもりだったが、実際には異なる言葉が口を出た。
「ごめんなさい。急に用事ができちゃって」
「用事? どうしたの」
「昔の知り合いと偶然会ってね」
「会って? どうした?」
「ちょっと家の急用ができたの。だから今日はそっちに行けない。ごめんなさい」
絵本を受け取った大輝が芽衣の方に歩いてきた。「家の用事ならしかたないか」
悠人の「いい人キャンペーン」はまだ有効期間内らしかった。
「じゃあ切るね」
「またな」
芽衣は悠人に対して罪悪感を感じたが、すぐにそれを振り払った。自分がなんで悠人の元に赴かずに、偶然出会っただけの大輝がレジから戻ってくるのを待っているのかという疑問が浮かんできたからだ。
確かに、辛かった時期に自分を支えてくれた絵本を大輝に返すという用事はある。急用かと言われれば微妙だが、後に伸ばすよりも今日返してしまって、その後は先輩が嫉妬しないように大輝とは会わないようにすればいい。
彼女は自分にそう言い聞かした。
やがて手提げ袋を抱えた大輝が戻ってきた。戻ってきたのはいいが、そのまま芽衣と別れて去って行っていいものか迷っている様子だった。
「見せて」
芽衣はそう言って、大輝が紙袋から取り出した、厚い大判の絵本の表紙委のデザインと英字のタイトルを眺めた。
ずっと見ていない五冊の絵本のうちの一冊かどうかわかるか不安だったが、どういうわけか芽衣の頭に五種類の図柄が浮かんだ。目の前にある絵本の表紙はそれとは別物だ。
「よかった。これダブってないよ」
「ダブってないって?」
「大輝君なくした絵本を買い戻したって言ってたけど、これうちにないやつだよ」
「そうなの? この絵本のシリーズってたくさん出ているから間違えたかな」
「でもよかったじゃない。うちにあったの返しても同じ絵本が二冊にならないで」
「あげたやつだし返してくれなくていいよ」
しばらく押し問答した結果、ようやく大輝は芽衣に贈った絵本を受け取ることに同意した。。
「じゃあ早速渡すから、うちに寄っていって」
芽衣は驚く大輝を押し切った。結果、大輝は芽衣と二人で並んで駅ビルから出た。
「電車で行く?」
芽衣は大輝にたずねた。ここからだと徒歩では無理だが、電車でもバスでも二人が住んでいる街に行ける。
「ふだんは学校まで電車?」
「うん」
「じゃ、電車で行こう」
話がついて、大輝と芽衣は駅ビルから直結している駅のホームに向かった。
やがて二人は電車に乗り込んだが、車内は富士峰の制服姿の生徒であふれていた。
まずいかな。芽衣は考え込んだ。
これだけ生徒がいれば芽衣の知り合いは一人ならずいるに違いない。悠人と二人でいるのなら問題ないが、年上らしい男性と二人で肩を並べている芽衣を見かければ、好奇心に駆られて噂話の種にする子もいるだろう。
何人かで連れ立っているグループの子たちも、今この瞬間に芽衣の浮気を目撃した話を声を潜めてしているかもしれない。
芽衣はさりげなく周囲を見回したが、特にこちらを気にしている生徒は見当たらない。どうも高校生より面識の薄い中学生が多いようだ。芽衣は少し安心した。
芽衣が周囲を気にしたり考え込んでいたせいもあり、電車内では特に会話もなかったが、その沈黙は少なくとも芽衣にとっては重荷ではなかった。幼なじみと一緒にいるというのはこういことなのだろうか。
やがて二人は自宅の最寄り駅で下車した。
「うちはこっちなんだ」
大輝が恐る恐るという感じで芽衣に言った。なんかこのまま芽衣の家に付いていっていいのか、迷っている様子だった。彼が女の子慣れしていないことがよくわかった。こういうところは、自分に自信がある悠人とはまるで違う。
「大輝君の家は知ってるよ。私の家の場所、覚えてる?」
「このあいだ車で送っていったじゃん」
「歩いて行ける? 昔みたいに」
「どうかな」
「こっちだよ」
芽衣は大輝を促して、大輝の家とは反対方向の自分の家の方に歩き出した。大輝がためらうように少し後ろを付いてきたので、彼女は大輝との距離を詰めた。
「なんでそんなに離れて歩くの?」
大輝は答えなかったが、実は電車に乗ったあたりから、芽衣と大輝の距離はとても近く、それが大輝を困惑させていたようだった。多分、悠人と一緒にいるときより相手との距離は近いのだが、芽衣はそれに気づいていなかった。
二人が芽衣の家に着くと、大輝は芽衣の家をしげしげと眺めた。
「この間は車から降りなかったから気がつかなかったけど、昔遊びに来てたのとなんか違うな。建て替えた?」
「建て替えてはいないけど、去年改築? リフォームっていうの? それをしたの」
「庭とか玄関とか感じが違うもんな」
「でも意外」
大輝がかつてこの家に遊びにきたことを覚えているとは意外だった。逆に芽衣の方が、昔よく訪れていた大輝の家の様子を思い出せない。
「うちの家のことなんて覚えてないと思ってた」
「なんで」
「だってもうわたしに興味ないでしょ? 今日だって無視したし」
「してないって」
カーテンの隙間から一階のリビングの灯りがもれている。少なくとも母親は在宅なのだ。
芽衣は鍵をあけ玄関のドアを開いてから、少しためらった。
「あがってく?」
「いや、もう夜だしいいよ」
芽衣は内心ほっとした。大輝を家に入れたら、母親が騒ぎ立てるであろうことは容易に推察できたし、それは勘弁してほしかった。たとえ大輝への親しみからくる歓迎であったとしても。
「そう? じゃ本持ってくるから待っててね」
「うん」
芽衣は家に入り後ろ手で静かにドアを閉めた。母親に気がつかれる前に、絵本を探し出して大輝に渡してしまおうと彼女は思った。
リビングを素通りして自分の部屋に行こうといた芽衣は、母親につかまった。
「外にいる人は誰なの」
リビングの窓のカーテンの隙間から覗いて、誰かが立っていることに気がついたらしかった。
「ひょっとして彼氏? 送ってもらったの」
こうなったらしかたがなかった。
「大輝君」
「あら」
母親の表情が明るくなった。
「なんで? 今日は彼氏とデートだって言ってたからまた遅くなるのかなって思ってたのに。彼氏じゃなくて大輝君と一緒だったの」
「偶然会っただけだよ。それよか大輝君に絵本を渡さなきゃいけないの。どこにしまったっけ」
もう母親を相手にせず、芽衣は絵本を探すために二階にのぼって自室に入った。母親は大輝を家の中に招じ入れるだろうけどもうしかたがない。それとも妙に遠慮深い大輝のことだから家に入るのを断るかもしれない。芽衣が誘ってもそうなのだから母親の誘いに乗ることはないのかもしれない。
芽衣は本棚の奥を中心に五冊の絵本を捜索したが見当たらなかった。すぐに見つかると思っていた芽衣は当てが外れた。
たしかに最近は全然開いていない絵本だが、開いていないだけで本棚にはあると思っていた。どうしてしまったのだろうか。
少し考えるとひとつの可能性が思い浮かんだ。部屋のリフォームのときにほかの部屋に紛れ込んだのかもしれない。そうなると母親に聞くしかない。そこに大輝もいるだろうと予期しつつ、芽衣は階段をくだり再びリビングに向かった。
ドアを開けると、案の定大輝がソファに座って母親と話をしていた。
「上がってもらったの」
ドアのところに立ったまま大輝を見ている芽衣に向かって、母親が言った。
「見当たらないならいいよ」
大輝も入ってきた芽衣に気づいてそう言った。
「なによ。わたしには家には入らないって言ってたくせに、ママに誘われたら上がるんだ」
芽衣が軽い調子で大輝に言うと、母親が嬉しそうに、
「芽衣がわたしに妬いてる」
と言って笑った。
「ママ、リフォームしたときわたしの部屋の本とか一度ほかの部屋に動かしたじゃん。あれどこに置いた? スカーリーおじさんの絵本、そこに残ってない?」
「納戸の中かしら。ちょっと待ってて」
母親はそう言うとリビングを出て行った。
芽衣はその後について行かずに、大輝の隣に腰を下ろした。
「絵本のことで手間かけちゃってごめん」
「別にたいしたことないよ」
「いや、だけど今日は用事があったって」
「ママが言ったの?」
芽衣は思わず渋面を大輝に見せた。
「いつも余計なこと言うんだから」
悠人と芽衣は付き合っているのとか言わなくてもいいことを話したのだろうか。別に知られて困ることではないのに、芽衣は少しむっとした。
「別に用事の内容とかそれ以上のことは聞いてないから」
大輝が慌てた様子で言った。
「気にしてくれたの?」
「そりゃ予定を変えてもらったみたいだし」
「昔はそんなこと気にしなかったくせに」
「そうだっけ」
「年上だからってなんか偉そうだった。もっともわたしもあの頃生意気だったけどね」
大輝は何か答えようとしたが、芽衣のスマホが振動したことに気がつき口を閉ざした。
芽衣はディスプレーをちらりと眺めた。悠人からだった。さっき話をして納得したはずなのに。とりあえず芽衣は通話に出なことにしたが、しばらく待っても振動は鳴り止まなかった。
芽衣はソファから立ち上がったが、少し考えてまた座り直して電話に出た。
通話を始めたとたんに電話の向こうから悠人の低い声が響いた。落ち着いた声音だが、こういう声をしているときの方が怒っていることを芽衣は知っていた。
「男と一緒に電車に乗ってたんだって? 電車の中で芽衣が男と親し気に話しているのを見たって、佳奈がLINEで教えてくれたんだけどどういうこと? そいつ、おまえの初恋相手の幼なじみなんだろ」
「さっきも電話で話したじゃん。知り合いと会って用事ができたって」
「知り合いって誰で、どんな用事か言えよ。なんでさっきそいつだって話さなかったんだ」
「どんな用事だっていいでしょ。なんでいちいち先輩にそんなことまで説明させられなきゃいけないわけ?」
「俺って芽衣の何?」
もうこんな話に付き合っていられない。
「おれそんなに無理なこと言ってる? 付き合っている自分の彼女が男と二人で一緒にいるんだぜ? だめとは言わないけど、せめて隠さないで正直に教えてくれよ」
悠人の言葉がだんだんいらいらした乱暴なものに変わっていったが、もう芽衣は何も答えずに電話を切るタイミングだけを見計らっていた。
悠人の話は続いたがそのうち芽衣は聞くことすらやめてしまった、視界の端に、大輝が居心地悪そうにしている姿が映った。
「もう切るよ。なんでも先輩の都合に合わせたりできないから」
芽衣は途中で、一方的に話続けている相手の話に割り込んで電話を切った。
芽衣が隣の大輝を見ると、大輝も芽衣を見ていた。
「ごめん」
どういうわけか大輝は芽衣に謝った。
「大輝君のせいじゃない。わたしこそごめんね。変な話を聞かせちゃって」
大輝は黙ってうなずいた。
「今のは彼氏なの」
「うん」
芽衣は少しだけ大輝の方に身を寄せるようにした。
次の瞬間、芽衣は大輝に抱き寄せられた。
彼女は、大輝の胸の辺りに顔を埋めたたまま彼に寄り添った。そのまま二人は視線を合わせず、しばらくその姿勢でじっとしていた。
「絵本あったよ。ほら」
ドアの外で母親のがした。ドアが開く前に二人は申し合わせたように身体を離し、ソファの上に座り直した。
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