第26話

 こうして悠人との仲は、ゆっくりと一般的な恋人同士のような形を取りつつあったし、校内や放課後では美咲や唯と、主に美咲だけど、一緒に過ごしていたせいで、彼女たちとの関係も今までどおりに収まっていた。ただ、悠人と付き合い出したことによる波乱が全くなかったわけではなかった。

 ある日芽衣は三年生の先輩の女子から、話しかけられた。昼休みに入ったばかりの時間で、たまたまそのとき芽衣は一人だった。

「大崎さん? ちょっといい?」

 芽衣が目を上げると、見知らぬ女の子がなにか憤ったように芽衣をにらんでいた。

「はい」

「うちは三年の飯田っていうの。ちょっとあなたに聞きたいんだけど」

 昼休みが終わりそうな時間の中庭で、芽衣は飯田という先輩に話しかけられた。

「はい」

 芽衣は話しかけてきたその先輩の顔を見た。小柄だが気の強そうな人だった。

「うちは佳奈の友だちなの。道下佳奈ってわかるよね」

 悠人の元カノで演劇部の部長のことだろう。

「演劇部の部長さんですよね。知ってます。お話ししたことはないですけど」

「そう。道下がさ、あんたと話したいって言ってるんだけど、これからちょっと付き合ってもらっていいかな?」

 芽衣は、本能的に避けた方がいいという気がした。絶対、悠人がらみの面倒くさいやつだ。

「今からですか」

「そんなに時間は取らせないから。あとでお昼ご飯食べる時間はあるからさ」

「なんの用ですか」

「中庭まで来てくれればわかるって。すぐ終わるし」

「今はちょっと。友だちと一緒にお昼を食べる約束をしているので」

「なに言ってるん?」

「はい?」

「なにぬるいこと言ってるの? 佳奈の彼氏を奪っといて、ちょっとだけ話すこともできませんってこと? あんた何様?」

 やはりそういうことか。それにしても、偏差値の高いこの学校にもこんな乱暴な口調の人がいるんだと芽衣は感心した。

「いいからちょっと来て」

 飯田が芽衣の腕に手をかけて思い切り上に引っ張った。立ち上がらそうとしたのだろう。

「いたっ」

 捕まれた腕の痛みに思わず芽衣が小さな悲鳴を上げたのと同時に、飯田が芽衣の手を離してよろめいて後ろに下がった。

「大丈夫?」

 席を外していた美咲が戻ってきて飯田の手を払いのけたのだが、かなり勢いをつけてそうしたため、飯田の姿勢が崩れたようだ。

「なにするのよ」

 飯田が姿勢を直して美咲をにらんだ。

「そっちこそなにしてるんですか。芽衣、痛がってるじゃないですか」

「あんたに関係ないでしょ」

「わたしは芽衣の親友だし、一緒にお昼ご飯食べる約束しているし、関係ありまくりですよ」

「とにかく邪魔しないでくれる? 用があるのはこの子なんだけど」

「偶然ですね。わたしも用があるのはこの子なんです」

 飯田の顔が真っ赤になった。美咲が芽衣の肩に手を回して引き寄せ、飯田から離してくれた。

「あんたさ」

 飯田は腹を立て芽衣ではなく美咲と向き合った。

「自分だってこの子のせいで失恋したんでしょ。あんたが志賀のこと好きだってみんな知ってるんだよ」

 美咲も紅潮した表情でなにか言い返そうとしたが直前に思いとどまったようだった。芽衣は自分の肩にかかっている美咲の手が震えているのを感じた。

「そもそも、いったいわたしになんの用があるんですか。今ここで言ってくれればいいのに」

「こんな人が多いところで? あんたが恥をかくと思って気を遣ってるんじゃない」

「ご心配はいらないので、ここで話してください」

「それじゃ言うけど。あんたって可愛い顔してずいぶんひどいことするんだね」

「なんのことですか」

 自分から彼女のいる志賀先輩にアプローチしたのならともかく、道下先輩と別れて告ってきた彼に応えただけだ。ひどいこととか言われる理由はない。

「志賀に声をかけて誘ったでしょ? 志賀には佳奈がいることを知らなかったとは言わせないよ」

「なんか勘違いしてますよ。志賀先輩と付き合い出したのは、先輩が道下先輩と別れたあとです」

「あんたが志賀に佳奈を振らせたんでしょうが」

「わからない人だなあ」

 美咲が口を挟んだ。

「芽衣は関係ないってるじゃないですか。道下先輩が志賀先輩に振られたのは気の毒ですけど、芽衣を責めるのは筋が違うでしょ」

「そうだっていう証拠はあるの?」

「証拠とか言い出してるよ。逆にそっちこそ証拠はあるんですか。つうかなんでそう思い込んじゃったんですか」

「なによ、その言い方。あたしは佳奈からそう聞いたの。泣きながら佳奈がそう言ってたから、嘘のはずはないし」

「泣きながら言えば全部本当になるんですね」

 美咲の言葉に皮肉を感じ取ったのか、飯田は、「人前でやりとりするのを避けてあげようと思ったのに。埒があかないから、やっぱり佳奈を連れてくる」と言い捨てて教室を出て行った。

 芽衣と美咲は顔を見合わせた。

「どうする? どっか行っちゃおうか」

 美咲の言葉に芽衣は首を振った。

「どうせ逃げられないし、道下先輩が来るなら話してみるよ」

「聞く耳もたないんじゃないかなあ」

 芽衣があらためて教室内を見渡すと、好奇心にあふれた視線がいくつも彼女たちの方に向けられていた。

「こりゃ学校中の噂になるね」

 美咲がうんざりした顔をした。

「うん。今さら逃げてももう手遅れだね」

「せめて志賀先輩を呼ぼうか? それが一番誤解を解くのに早くない?」

 芽衣は考え込んだ。

 ここで悠人を呼ぶのは、彼氏に泣きつくようでなんだか格好悪い気がするし、すぐに男に頼る女というイメージもついてしまいそうだ。

 一方で、飯田による言いがかりについては、芽衣よりもむしろ悠人自身が当事者であり、説明責任があるのも悠人だ。いちばん効果的に飯田に反論できるのは悠人本人だろう。

 芽衣が悩んでいるあいだ、美咲はスマホを操作していた。

「唯にLINEで志賀先輩を呼ぶように頼んだから」

「なにも唯を巻き込まなくてもいいのに」

 この場にいない唯のことを慮って芽衣は言った。

「だって芽衣、考え込んじゃってるからさ。自分から志賀先輩を呼ぶ気ないでしょ」

「呼んじゃったんならまあいいか」

「志賀先輩、道下先輩よりも早く来てくれるといいな」

「お昼ご飯どうする?」

「ここまできたら、片付いてからにしようよ」

「美咲はどっかで食事していいよ。わたし一人で平気だから」

「ここまできたら付き合うよ」

「ありがとう」

「大丈夫? 先生呼んでこようか」

 この騒動を見守っていたのだろう。クラスメートの中では比較的芽衣や美咲と親しい白井真緒が声をかけてきた。

「ううん、大丈夫だよ。ありがとう」

 芽衣は真緒の心遣いを断った。そこまで大げさにされるとこちらも困る。ただでさえクラス中の噂になることが確定したというのに。

「あ、唯から返事きた」

 美咲が振動したスマホのディスプレイに目を落とした。

「なんだって? というか唯になんてメッセージ送ったの?」

「志賀先輩の元カノに芽衣が責められそうになっている。うちらの教室に来るように志賀先輩に伝えてって。そしたら『すぐに悠人を派遣するから』って」

 芽衣は、悠人を派遣するという唯の表現に少し心にひっかかるものを感じた。唯と悠人の間柄の近さはもとより承知していたけれど、唯はメッセージを受けてすぐに悠人を動かすほど、悠人に対する影響力があるのだろうか。

「大丈夫。唯が頼んだから来るんじゃなくて、芽衣のことだから先輩はすぐに来てくれるんだよ」

 そんなに表情を変えたつもりはなかったが、美咲は芽衣を見てなだめるように言った。

「わかってるよ」

 そのときドアが開き、悠人が急ぎ足で教室に入ってきた。

「芽衣? 佳奈になんか言われた?」

「そうじゃないの。飯田先輩が今から道下先輩を連れてくるって」

「佳奈に責められそうになってるって唯が言ってたぞ」

「わたしが先輩に道下先輩を振らせたって思っているみたい」

「んなわけあるか。佳奈と別れたのは芽衣に告る前だし」

「それを今から来る道下先輩に言ってもらえます?」

 二人のやりとりを聞いていた美咲が、そこで口を挟んだ。

「もちろん。でも言うまでもなく佳奈にはわかっているはずだけどな」

「おお偉い偉い。逃げないでちゃんと待ってたか。佳奈入ってきなよ」

 入り口が再び開き、教室に入ってきた飯田がそう言った。

 その声を聞いた悠人が背後を振り返った。ちょうど飯田の声を聞いた佳奈が教室に入ってきたところだった。悠人と目が合った佳奈が凍り付いたように立ち止まった。

「悠人」

「なんでおまえが芽衣のところに来るんだよ」

 悠人の低い声を聞いて、佳奈が怯んだように飯田を振り返った。

「なんで悠人がいるの」

「あんたら、なんで志賀を呼ぶのよ。志賀には関係ないでしょ」

「おれに関係ないってどういうことだよ。芽衣はおれの彼女なんだから関係はぜんぜんあるんだよ」

 悠人は佳奈をにらんだ。

「おまえ、芽衣がおれにおまえを振らせたって芽衣に言ったんだってな」

「わたしにそう言ったのは飯田先輩」

 だいぶ落ち着いてきた芽衣が口を挟んだ。

「飯田、おまえそれ誤解だからな。おれと佳奈は性格の不一致で別れたんだし、芽衣は関係ない。それは佳奈だってわかってるだろ?」

「あのときはそう思って納得してたよ。悠人とは一緒にいていろいろと合わないというか、違和感も感じてたし。だから別れようって言われたときは、あたしもそれがいいかなって思った。でも」

 佳奈が悠人をにらんだ。

「結局、あんたはこの子と付き合いたいからあたしを振ったんじゃん。性格が合わないとかダンスの練習時間がとれないとか適当なことばっか言って」

「そうじゃねえよ、本当に」

 悠人のこういうやりきれないというような表情を、芽衣は初めて見た。

「最後の方っておれたち、会ってるときはいつも喧嘩してじゃんか。いつもいつも。だからおれたち会わないんじゃない? て言ったんだよ」

「だって、実際に別れてすぐこの子と付き合い出したじゃん。別れ話をしたときにはもうこの子とあたしと二股かけてたんでしょ」

「たしかにあのときはもう芽衣のことが気になってたよ。それは認める」

「じゃあやっぱり、この子にあたしと別れてって言われて」

「芽衣は関係ない。佳奈とは合わないと感じてたし、芽衣のことも気になってたんで別れ話をしただけ。あのときは芽衣はおれのことなんてなんとも思ってなかったし」

「もういい」

 佳奈が吐き捨てるように言った。

「認めてるじゃん。この子と付き合うためにあたしを振ったって」

「そうだとしても、芽衣は何も知らなかったんだからな」

「佳奈のこと振っただけじゃ足りずに、この子が嘘ついてるのをかばって佳奈を傷つけて。こんなんするほど佳奈のこと嫌いなの? どれだけ佳奈のこと傷つければ気が済むのよ」

「飯田は黙ってろ。おまえに関係ねえだろ」

「あたしは佳奈の親友だもん。関係ないわけないじゃん!」

「関係はあるでしょうね。飯田先輩は志賀先輩のことが大好きですしね」

 皆の視線がこれまで忘れ去られていた美咲の方に向けられた。これはさっき、飯田に、あんたが志賀のこと好きだってみんな知ってるんだよって言われたことへの美咲の仕返しだった。

 飯田の志賀への気持ちは美咲以外には誰にも気づかれていなかったけど、飯田にとって不名誉なことに、そのことを初めて知った芽衣はそのことに驚きや特段の興味を感じなかった。

 ただ、飯田から感じていた敵意の原因が、友だちが振られたことへの同情ではなく、自分自身の裏切られた恋愛感情からだったのかと納得しただけだった。

「とにかく、芽衣は佳奈とおれが別れたことには全く関係ねえからな」

 悠人が吐き捨てた。

「あと、余計な部外者は黙っててくれ」

 悠人を好きなことを暴露されたうえ、その事実を当の本人に黙殺されたばかりか、部外者呼ばわりされた飯田は顔を真っ赤にして教室を去って行った。

「佳奈。まだ文句があるなら教室で聞く。そろそろ昼休みも終わりだし、教室に戻ろうぜ」

「わかった」

 意外と素直に佳奈が悠人の言葉に従った。飯田の悠人への恋愛感情を知って、これまでの飯田の応援が佳奈自身のためではなかったことを知り、少し放心しているようだった。

「芽衣、悪かったな」

 悠人はそう言うと美咲の方を振り返った。

「美咲ちゃんもごめんな。あと、芽衣を助けてくれてありがとう」

 悠人と佳奈が出て行ったあと、芽衣は美咲に礼を言おうとしたが、美咲は悠人が消えた教室のドアの方をじっと眺めていた。美咲の顔は先の飯田とは違う理由で赤くなっていた。

 やっぱり美咲から悠人を奪ったことに少し罪悪感を感じる。ただ、芽衣が身を引いていれば、悠人が美咲のわかりやすい好意を受け入れていたかというと、正直疑わしかった。

 悠人のことだ。飯田の好意の扱いと同列で、彼の中ではどうでもいいこととして整理されていたのかもしれなかった。

 それは悠人が芽衣に向ける好意と比較すると、残酷なまでに違いが浮き彫りになっていて、芽衣は、そのことに優越感ではなく、むしろ重荷を感じた。


 悠人と佳奈の話がどのように決着したのか、悠人は芽衣に話してくれなかったから、彼女にはわからなかった。ただ、もう心配ないよ悪かったなという悠人の言葉と、実際にあれから飯田や佳奈がなにも言ってこないことから、この話は一件落着したのだと思うしかなかった。

 今回の一件で芽衣が再確認したのは、美咲はまだ悠人のことを忘れられていないみたいだということだった。

 美咲は飯田が芽衣を責めてきたとき、芽衣をかばって飯田に反論してくれた。だから美咲が親友として芽衣のことを考えていてくれることに間違いはなかった。ただ、美咲がいくら友だち思いだとしても、彼女の恋愛感情は都合よく消去できたりはしないだろう。

 芽衣には、日ごろから親友として美咲に寄り添うこと以外にできることはなかった。だから、会う頻度でいうと悠人よりも美咲の方が高いくらいに彼女と一緒だった。

 その頃から、悠人の言動が以前とは少し変わって来ていた。飯田や佳奈との出来事の際には、悠人は芽衣を巻き込んでしまってごめんと謝ったが、あのときの自身の態度に満足しているばかりか、どうも芽衣にも悠人の行動が感銘を与えたはずだと思ったらしい。彼女たちの攻撃から芽衣を守り、責任は自分一人で負ったこと。

 芽衣にしてみれば事実無根なことで責められたのだから、悠人が一人で事態を収めてあたりまえなのだけど、悠人の中ではピンチの芽衣を救った王子様なおれ、ということになったようだった。

 頭のいい悠人にもこういう一面があったことに、最初は芽衣も微笑ましく思ったが、デートのたびにこのことを持ち出されたりほのめかされたりすると、いい加減にうっとおしく感じるようになった。

 悠人が一人語りをする分にはおとなしく聞いていればいいことだけど、悪いことに彼は芽衣の反応や感想を欲しがった。最初は悠人に合わせてあのときはありがとうという話をしていたのだが、繰り返されると芽衣の話す種も尽きる。そうすると悠人も彼女の反応の薄さに微妙にむっとした様子になるのだった。

 さらに、嫉妬心からくる束縛が少しずつその姿をあらわし始めた。きっかけはなにかの拍子に互いの初恋の話をしたことだった。

 彼氏といえども、自分のプライベートや過去の思い出を話すことが気が進まない芽衣だったが、芽衣を救った悠人王子の話が延々と続くよりはましだったから、彼女はその話に付き合った。

「わたし、小学校二年のとき今の家に引っ越してきたんだけど、ママが仲良くなった人がいて今でもその人とママは仲がいいんだけど」

 芽衣はこの学校に入って初めてその話をしたことになる。

「その人の子どもがわたしより二歳上で、小学校のときよく二人で遊んでたの。幼なじみなんだけど、その男の子が初恋の人かな」

 最初、穏やかに聞いていた悠人の表情が少し変わった。

「それ加賀から聞いた。幼なじみの男の子が好きだからごめんなさいって芽衣に振られたって」

 芽衣は不意を突かれた。加賀って誰だっけ。よくわからないけど、この学校に入学してから告ってきた人の中で上級生は二人いたからそのどちらかだろう。どちらにせよもう一年くらい前だったはずだ。

「初恋の話だよ? 今は先輩がいるんだし」

「でも、少なくとも加賀を振ったときにはその幼なじみが好きだったんだろ」

「本当はその人を断るためにそう言っただけで、好きっていうより懐かしいというか、そういう感じなの」

「ひでえ。嘘ついて加賀を振ったんだ。というかその人は今はどうしてるの。たまに会ったりしてる?」

「ううん。全然会ってない。小学生の頃の話だもん」

「その人って富士峰じゃねえの?」

「彼は明徳中高。そのまま明徳大学に入ったみたい」

「そっか」

 なんで不機嫌そうなんだろう。悠人は視線を合わせず黙ってしまった。

「ねえ。昔の話だよ? なんでちょっと怒ってるの」

「別に怒ってねえよ」

 面倒くさい。絶対不機嫌になってる。芽衣が悠人の告白に応えたのは、彼が思っていたより人をよく見ており、たいがいの芽衣の友人たちより互いに話がよく通じるからだった。

 その彼が今では単なる嫉妬深い彼氏にすぎない。最初から彼のこういう面を見ていたら、こんなに簡単に彼の告白に応じなかったかもしれない。


 悠人に幼なじみのことを話した日の夜、芽衣は自宅でその幼なじみである大輝の話を母親から聞かされた。

 悠人が見せ始めた束縛の片鱗に嫌気がさした芽衣が、もう少し一緒にいようと誘う悠人を振り切って帰宅したのは夜の九時ごろだった。母親の小言を覚悟していた芽衣が拍子抜けしたことに、自宅は夜の底に暗く沈んでいて誰もいなかった。これ幸いにシャワーを浴びてリビングのソファに身を沈めた。 

 悠人二人で下校するときは、どこかに寄るのではなく最寄りの駅まで一緒に帰るだけにしようとしていたのだけど、何度かに一度は悠人の誘いを断り切れずに、公園に寄ったりカフェで話したりするようになった。

 そのことを母親は気にしていて、帰宅が遅いことを注意するようになった。今日も遅くなったので母親に説教されなかったことは僥倖だった。

 芽衣がソファに腰かけてキッチンの方を見ると、キッチンのテーブルにラップをした食事が置いてあった。立ち上がってテーブルによっていくと、夕食と置き手紙が置いてあった。

 母親の手紙には秋田さんと一緒に外で食事をして帰るので帰りが少し遅くなること、父親も今日は帰宅しないことが記されていた。芽衣には兄弟がいないため、こうなると大崎家には芽衣一人だけになる。別に一人が怖い年齢ではないけど少しだけさみしさを感じる。

 入浴と夕食を済ませてもう寝てしまおうかと考えていたところに、思っていたよりも早く母親が帰宅した。

「ただいま」

 リビングに入ってきた母親が薄く微笑みながら芽衣に駅前のケーキ屋の箱を渡した。

「おかえり。てかなんで笑ってるの?」

 芽衣は受け取った箱をテーブルの上に置いた。

「今日、秋田さんと会っていたんだけど」

「秋田さんって誰だっけ」

「大輝君のお母さん」

 芽衣は不意を突かれて黙ってしまった。たまたま今日、初恋の人として大輝の話を先輩としたばかりだ。なんという偶然なのだろう。

「ああ、そうなんだ。おばさん元気だった?」

「元気そうだったよ。相変わらず仕事が忙しいらしいけど」

「ふーん」

「大輝君元気にやってるって。芽衣も懐かしいでしょ」

 なんだ、この中身のない報告は。芽衣の母親がこういう強引な話を始めたときは、なにか芽衣に伝えたいことがあるのだ。ただ、きっかけが見当たらないのでこういう中身のない話を芽衣に振っているのだ。

「別に。いったいなんの話なの?」

「もう興味なくしちゃったの? 大輝君が明徳受験したとき、一緒の中学に行けないって泣いてたくせに」

「泣いてないよ。てか昔の話やめて。わたし今、彼氏いるんだよ?」

「ダンスの子でしょ。その子と付き合い出してから、あなた帰りが遅いじゃない」

「今はその話関係ないでしょ」

「ママ、芽衣の彼氏は大輝君がよかったなあ」

「なんでママって先輩のこと嫌いなの? 彼のこと知りもしないでおかしいでしょ」

 かなり本気で芽衣は腹を立てた。悠人については手放しでかばうつもりはないが、長年全く会ってもいなかった大輝のことを引き合いに出してまで、悠人のことを悪く言われるいわれはない。

「嫌いなんて言ってないでしょ」

「大輝君の方がいいって言ったじゃない」

「とにかく芽衣の彼氏を嫌いなんて言ってないから。嫌いとか好きとか、会わせてもらってないのにわかるわけないでしょ」

「だったら大輝君の方がいいとか言わないでよ」

「もう言わないから。だけど、その彼に誘われたとしても夜遅くなるのはだめよ」

「うん」

 芽衣だって遅くなるまで志賀悠人と一緒にいたいわけではないが、しつこく誘われると何回かに一回くらいは付き合わざるを得ない。

「話は変わるけど、大輝君、中学高校が男子校だったでしょ。しかもずっとパソコン部にいたとかで、今まで彼女がいたことないんだって」

「ママ!」

「秋田さんと話をしたことをしゃべっているだけでしょ。大輝君の話もしちゃいけないの?」

「もういいよ」

 芽衣は席を立って自分の部屋に退散した。

 そうか。大輝君には彼女がいたことはないんだ。

 ベッドに横たわると、芽衣は昔のことを思い出そうとした。言い寄ってくる男子相手に好きな人として名前を借りてきた大輝のことを、彼女はこれまで真剣に思い起こしたことはなかった。幼なじみであることは確かだけど、その思い出はすでに薄れ、すり切れ、色あせていた。

 芽衣が小学校二年生から五年生になるくらいまで、大輝との交友関係は続いたはずだ。お互いの行き来が絶えたのは、大輝の中学受験が佳境に入ったからだった。

 その三年あまりの期間に、小学校の終了後、互いの家を行き来して、だいたい毎日どちらかの家で二人で遊んでいたはずだ。リビングのテレビの前でゲームしたり当時流行っていたカードゲームをしたりした。ただ、そのとき大輝とどんな話をしたのか、どんな感情を彼に抱いたのかよく思い出せなかった。


 翌日から、悠人に対する芽衣の態度は少し柔らかく妥協的となった。その変容はほぼ母親への反発から生じたものだったが、そんなこととは知らない悠人は、芽衣の自分への態度が親密に変ったことを喜んだ。

 最近の悠人の行動にも、いろいろと刺げ刺げしさがあり、それが芽衣の心中に不快や不安を生じさせていたが、芽衣の態度の変化が悠人の態度をも変えたようで、悠人の芽衣への態度から刺げ刺げしさが消えた。

 大輝の話題は、一昨日悠人を不機嫌にさせ、昨日は母親により芽衣を不機嫌にさせた。それに起因する芽衣の態度の変化は自覚的なものではなかったが、期せずして悠人と芽衣の関係を落ち着かせることになった。  

「そろそろ帰らないと芽衣がママに怒られるかな」

 日が落ちた公園のベンチで話し込んでいたとき、ふと周囲が暗くなっていることに気がついたのか悠人が時間を気にした。

 悠人は以前より芽衣を気遣うようになった。そう思った芽衣は微笑んだ。

「どうした? なに笑っているの」

「先輩がそんなこと気にするなんて珍しい」

「一応、いつも心配してるんだぜ。俺も一緒に芽衣の家に行っておまえのママに謝ろうか」

「やめて」

 母は悠人が芽衣を夜遅くまで(といっても夜八時くらいなのだが)連れ回していると思っているうえに、芽衣が誰かと付き合うなら相手は大輝の方がいいと思っている。せっかくの好意だが、悠人が顔を出す方が事態を悪化させることになる。

「今日はそんなに遅くなっていないから大丈夫だよ。ここでいい」

「わかった。明日は部活だから先に帰ってな」

 二人は同時にベンチから立ち上がってお互いを見つめた。身長差のあるせいで上向きになった芽衣に悠人が初めてキスした。

「じゃあ。気をつけてな」

「うん。先輩バイバイ」


 その日の帰宅時間がいつもより早かったせいか、母親は帰宅時間も大輝のことにも触れなかった。入浴と夕食を済ませた芽衣が自室でスマホを見ると、美咲からメッセージが来ていた。

『あしたの放課後は先輩と約束ある? なければ新しくできたカフェに行かない?』

 そのカフェのことは美咲から聞かされていたし、開店したら一緒に行こうよとも話していた。

 明日の放課後は悠人とは約束がないし、最近、少し美咲との時間が減っていることを芽衣は気にしていたので、これは好都合だった。了解したことを返信すると、間を置かずに美咲から喜んで跳ね回っているようなウサギのスタンプが送られてきた。

 翌日は朝から曇天模様だったが、授業が終わり美咲と一緒に駅前にできたカフェに着くころには雨が降り出していた。

「やばい。傘持ってこなかった。美咲ある?」

「わたしもない。やまなかったら駅で傘買おうか」

「そうだね」

 そのカフェのスイーツはレベルが高かった。来てよかったなと芽衣は思った。最近あまり付き合えてなかった美咲との時間も確保できたし。

「最近、悠人先輩と超仲いいよね。見ていてうらやましい」

「そんなこともないけど」

 美咲の感情に配慮するとあまり迂闊なことも言えないのだが、実際に悠人との仲が親しさを増しているところを目撃されている以上、なんでもないとも言えなかった。

「最近、彼のこと少しだけ見直したというか」 

「見直したってどういうところを?」

 美咲はそのままスルーしてはくれなかった。

「前は基本的に自己中なところがあったんだけど、最近は気を遣ってくれるし、なんか前より優しい」

「たしかに芽衣と付き合う前の先輩って、自分に自信があるせいか自分の彼女に尽くすとか、彼女の気持ちを気にかけるとかするような人じゃなかったよね」

「私と付き合う前っていうより、付き合ってからもこの間まではそんな感じだったよ」

「それが変わったんだ」

 美咲がからかうような、うらやんでいるような複雑な表情を見せた。

「本気で芽衣に惚れたんだ。あんたを失いたくないから優しくするんだよ」

「そうかな」

「そうだよ。それにしても見直したのはいいけど、それだけであんなにラブラブにならないでしょ。なんかあった?」

 嘘をつくのは簡単だが、一度嘘をつくと次から次へとつじつまが合わなくなることを芽衣は知っていた。

「彼にキスされた」

「やっぱりね」

 それは、考えていたより温度の低い声だった。

「なんかそういうことがあるんだと思ってた。キスしただけ?」

「だけ」

「よかったね」

 二人でいるときにはあまり起きたことがない沈黙がしばらく続いた。美咲は芽衣から視線をそらして手元の空になったティーカップを見ている。芽衣も続けてなにを話していいかわからなかった。

「雨が強くなってきた」

 美咲が窓越しに駅前広場を見た。

「そろそろ帰ろうか」

「うん」

 支払いをしてカフェの外に出た。ここはまだ駅の入り口から張り出した屋根に覆われており、雨に打たれることはない。

「傘買わないと帰れないね」

「駅の中にコンビニがあるじゃん」

「芽衣ちゃん?」

 二人がコンビニの方に行こうとしたとき、背後から女性の声がした。芽衣が振り返ると大輝の母親、秋田舞が芽衣に笑いかけた。

「おばさん」

「芽衣ちゃん久しぶりだね」

「ご無沙汰しています」

 最後にあったのがいつだったのかも思い出せないが、おばさんは以前とあまり印象が変わっていなかった。第一線で働くキャリアウーマンだからか、若々しい印象だ。

「この間、芽衣ちゃんのママとお会いしたのよ。芽衣ちゃんの話もいっぱい聞いたんで、久しぶりに会いたいなあって言ってたの。そしたらさっそく会えるなんて」

 いったいママはなにを話したんだろう。

「あ、はい。おばさんとお会いしたってママから聞きました」

「あたし、前に一度芽衣ちゃんを見かけたんだよ。芽衣ちゃんはお友だちと一緒だったから声はかけなかったけど」

 お友だちと一緒? もしかして。

「おばさん、そのことをママに話しました?」

「うん、話した。あ、話したらまずかった? もしかしてあのときの男の子のことママには内緒だった?」

「いえ、大丈夫です」

 これでわかった。夜二人で歩いているところを目撃した話をおばさんから聞いたから、母はあんな話をしたのだろう。

「学校の帰り?」

「はい」

「傘ないみたいだけど大丈夫?」

「平気です」

 おばさんが自分のハンドバッグを探り始めた。折りたたみ傘でも探してくれているのかもしれない。

「そうだ。もう家に帰るんでしょ」

「そうですけど」

「うちの子に車で送らせるよ。まだ、そこにいるから」

「いえ、大丈夫ですから」

 そう言った芽衣の声が届いたのかどうか、おばさんは駅前のロータリーの方に歩き出した。

「こっち」

 芽衣と美咲は顔を見合わせた。

「わたしは傘を買ってバスで帰るから」

 美咲がささやいたが、芽衣は美咲を逃がさないように彼女の腕をつかんだ。

「断るから一緒にきて。おばさんの子どもって男なんだ」

 それで納得したのか、美咲はおとなしく芽衣の後についてきた。

 おばさんに追いつくと、彼女は一台の小さな車の運転席に話しかけていた。

「ちょうどいいからあんた家まで送っていってあげなさい」

 運転席にいる男の人があたりを見回している。

 芽衣と男の人の視線が合った。これまで記憶の底に沈んで隠れていた映像と、この人の顔が一致した。これは大輝君だ。

「芽衣ちゃんとお友だち、今日は傘を持っていないんだって」

 おばさんは美咲のことも芽衣の友人としてきちんと認識していた。芽衣は再度美咲と顔を見合わせた。美咲がかすかに首を振った。

「あたしたち大丈夫です。バスに乗って帰るんで」

「芽衣ちゃんちバスを降りてから歩くじゃない。大輝に送らせるよ」

「無理強いすんなよ。芽衣ちゃん、かえって迷惑だよ」

 いきなり芽衣ちゃんと呼ばれた芽衣はとまどった。美咲も今度は面白そうな表情で芽衣と大輝を見比べている。

 その声は、彼の顔よりもっと芽衣の記憶の中ではっきりと輪郭を結んだ。声変わりはしているとしても、これは間違いなく小学生の頃の大輝の声だった。

 一度頭がそう整理されると、親しげにちゃん付けで呼ばれたことにも違和感がなくなった。ただ、昔は芽衣と呼び捨てにされていた記憶はあるが。

「迷惑っていうか、大輝君が面倒でしょ」

 芽衣の方も自然に昔の呼び方が口をついて出た。二人の会話を聞けば、久しぶりの再会というより日ごろから仲のいい友人同士の会話のように聞こえただろう。

「迷惑もなにも家は近所じゃない。ついでだって。そうでしょ?」

 おばさんが口を挟んだ。最後の方は大輝に向けた言葉らしかった。

「おれは別にかまわないけど」

 大輝が芽衣を見た。大輝がそう言ったことで、芽衣としてはなんとなく断りづらい感じになってしまった。大輝がその気になっているのに、ここで断ると大輝と一緒にいたくないように思われるかもしれない。

 それでも芽衣はおばさんと大輝と車内で三人きりになるのは気が進まなかった。

「でも」

 芽衣は美咲を訴えるような目で見たが、その意図を知ってか知らずか美咲は、「あ、わたしはバスで帰るから気にしないで。芽衣は送ってもらいなよ」と言った。

 そうじゃないのよ。一緒に乗ってくれてもいいじゃない。

「お友だちも一緒に乗って行きなさいよ。どうせこの子は時間持て余しているし」

 おばさんが助け船を出してくれた。

「ちゃんと送って行きなさいよ。雨降ってるから気をつけて運転するのよ。じゃあね、芽衣ちゃん」

「おばさんは帰らないんですか」

 おばさんすらいないとなると、美咲がいなければ車内で大輝と二人きりになる。

「これから仕事なの。たまには昔みたいにうちにも遊びにきてね」

「はい。おばさん、気をつけて」

 おばさんは芽衣に手を振り美咲に軽くうなずくと、駅の入口の方に去って行った。

「じゃあ、よかったら後ろに乗って」

 送るかどうか決まる前に母親が去っていったことで、大輝は彼女たちを送っていくという母親の言いつけを既定事項だと思ったようだった。

 美咲はなおも遠慮したが、芽衣は美咲を逃がさなかった。男の子と車内で二人きりにされたらたまらない。いくらそれが親しかった幼なじみの男の子だとしても。なにより先輩に知られたらまた揉めるに決まっている。

 そういう意味では芽衣は美咲を信用していなかった。二人きりで帰ったら、間違いなく美咲から先輩に伝わる。唯経由になるのだとしても。

 大輝が美咲の家の場所を聞いた。

「上町の方なの」

 美咲が断る前に芽衣が美咲の家の方向を伝えた。

「大輝君ごめんね」

 二人は狭い後部座席に収まった。車が動き出して雨の中をロータリーから抜け、交通量の多い県道を走り出した。

 車内には遠慮したような空気が漂った。以前に美咲のお兄さんの車で学校から自宅まで送ってもらったことがある。その外国車の後部座席に美咲と並んで座ったのだが、美咲が自分の兄を無視してしきりに芽衣に話しかけたので、車内は賑やかだった。その美咲も今は黙っている。

「先にお友だちの家の方に行くから」

 前の席から振り向かずに大輝が言った。

「上町の交差点まで行ったら家まで案内してね」

 後半は美咲に言ったらしい。美咲は男の子には愛想よく話をしない子なので、自分がフォローしないとなと芽衣は思った。しかしその心配は杞憂だった。

「ありがとうございます。お願いします」

 芽衣は困惑した。悠人を除いて、美咲がこんな柔らかい声で男の子に話をするのを聞いたことがなかった。

「この子、美咲っていうの。同級生。美しく咲くっていう字」

「朝倉美咲っていいます。名前負けしててごめんなさい」

 微笑んでいるようなニュアンスの口調だ。まさか美咲は、男性として大輝に興味を持ったのだろうか。それとも芽衣の知り合いなので気を遣っているだけなのか。

「秋田です。よろしく」

 大輝が落ち着いた低い声で返事をした。さっきも感じたことだが、やはりこの声の雰囲気には覚えがある。

「大輝君ていうのよ。明徳大学の一年生」

 芽衣が補足した。

「すごい。頭いいんですね」

「そんなことないよ。君たちの学校だって有名校じゃない」

「大輝さんはうちらの学校出身じゃないんですか」

「大輝君は中学校から明徳だよ」

 美咲がなにか言いたそうな顔で芽衣を見た。なんでいちいちあんたが口を出すのよ。そう言いたいに違いない。

 大輝の車に乗らざるを得なくなったとき、芽衣は美咲を逃がさずに引っ張ってきた。ただ、男子に対して人見知りする、というかはっきり言えば、美咲はたいていの男子に関心を示さない。だから、大輝がそんな美咲を不審に感じたりしないよう、芽衣は美咲をフォローしようと思っていた。

 ところが美咲は、今までに見たことがないほど積極的に大輝に話しかけている。このため芽衣がしゃべると、結果的に美咲と大輝の会話を邪魔しているようになっている。   

「明徳って中高は男子校ですよね。スポーツが強くて」

「うん、すげえ強い。でもおれは文化系だったから関係ないけど」

「そうなんですね。文化系って何してたんですか」

「パソコン部だよね」

 芽衣は思わず割り込んでしまった。前に母親から聞いていたことを思い出したからだ。

「え、なんで知ってるの」

「ママから聞いた」

「うちの母親がおばさんにしゃべったのかあ」

「なんでパソコン部入ったの?」

「いや、ゲームとか好きだったし。まあ、なんとなく?」

 大輝の返事は何年も会っていなかったブランクを感じさせないような自然な口調だった。

「何それ。変なの。でも昔から大輝君ってゲーム好きだったもんね」

「仲がいいんですね、二人って」

 話に取り残された形になった美咲が気を悪くした様子もなく笑った。

「大学生の幼なじみがいるっていいなあ。なんか憧れちゃう」

「美咲だってお兄さんがいるでしょ」

「兄弟と幼なじみは違うよ。兄貴とは付き合えないじゃん」

「別に私だって大輝君とそんな仲じゃないし」

「そりゃそうだ。芽衣には先輩がいるもんね」

 美咲がそう言った後、後部座席にはしばらく沈黙が漂った。

「ああ、ごめん」

 美咲はそうは言ったものの、あまり悪いとは思っていなさそうな感じだ。

「すぐそういうこと言うんだから」

 大輝の前で本気で怒るわけにはいかない。それに美咲の発言は事実を述べただけであって、大輝に知られてはまずいことではないのだ。そう考えると、このあと何をどう話してよいのかわからなくなってしまった。美咲も黙ったままだ。

「そろそろ道を教えてくれる? 交差点のとこまっすぐでいいの?」

 運転席からの大輝の言葉が救世主となった。

「あ、いえ。上町十字路を左折です。そのあとしばらくまっすぐです」

 美咲が大輝に向かって自宅を案内した。これで少し雰囲気が緩んだ。

「大輝君ってまだ初心者なの?」

「そうだよ。免許取って三月くらい」

「教習所通ってたことも知らなかった」

「知ってたらもっと早く大輝君の車に乗せてもらえてたのに」

 芽衣が笑うと、美咲がからかうように「それは彼氏に悪くない?」

 と言った。やはり、さっき悠人の話しをしたことを本気で悪いとは思っていなかったのだ。

「車で送ってもらったりするだけじゃん。デートするわけじゃないし」

 芽衣が少しむっとしたように反論した。

「それもそうか、ごめん。大輝さん運転上手ですね。初心者とか思えないです」

「いや、普通だと思う」

「うちのお兄ちゃんなんかすごく運転が乱暴なんですよ。乗ってて怖いの。大輝さんの運転は安心できますね」

「いや」

「そろそろ右折です。コンビニのところの信号」 美咲が思い出したように言った。

 美咲の家に着くころには雨はだいぶ弱まっていた。芽衣は何度訪れたことがある美咲の家のガレージを眺めた。美咲の父親のボルボが駐車していたが、美咲の兄の赤い小さな外国車は見当たらなかったので、芽衣は内心ほっとした。

 美咲の家に遊びに行ったとき、美咲の兄は芽衣に関心がある様子を隠さなかった。美咲の部屋を覗いて芽衣に話しかけてきて、部屋の前から動こうとしない美咲の兄に芽衣はとまどった。そのとき芽衣の困惑を察した美咲は、強い口調で自分の兄を追い払ってくれた。

 大輝が美咲の家の前に車を止めると、美咲は車のドアを開け放った。

「ありがとうございました」

 美咲が大輝に礼を言ってから車の外に出た。

「芽衣もありがとう。またね」

「また明日」

 家の中に美咲が消えると、車内は再び沈黙に包まれた。大輝の母親に誘われたときに恐れたとおり、車内で男性と二人きりになってしまった。

 さっきまでは、美咲がフレンドリーに大輝と接したおかげもあって、つられて芽衣も思っていたより普通に大輝と話すことができた。美咲がいなくなると何を話していいのかわからない。

 美咲は大輝のことを異性として気になっているのだろうか。大輝は美咲のことをどう思うのだろう。高校生が相手でも大輝にとっては許容範囲なのだろうか。大輝に彼女がいたことがないことは、母親に聞いて知っていた。

 大輝の気持ちをそれとなく確認してみようと芽衣は思った。気まずい沈黙が続くのも気が重いし、何より悠人のときの借りを美咲に返せるチャンスかもしれない。

「じゃあ戻るか」

 大輝はそれだけ言って車を発進させようとしたが、そのとき芽衣は勇気を出して大輝に話しかけた。

「助手席に移ってもいい?」

 思っていたより緊張していたようで、声が小さくなってしまった。

「ごめん何か言った?」

「ちょっと待って。助手席に移るから」

「別にそのままでいいんじゃない? 雨降ってるし濡れるよ」

「後ろだと話しづらいから」

 芽衣は一度外に出てあらためて助手席に座った。「お待たせ」

 車が動き出してからもしばらく芽衣は黙っていた。何をどう話すか考えていたのだ。

 これでは話しづらいからといって、助手席に移った意味を問われる。何から話せばいいか芽衣は少し焦ったが、思っていたよりその場の沈黙は、少なくとも芽衣にとっては居心地の悪いものではなかった。

 こういう雰囲気が作れる男の人の方が、自分には合っているのかもしれないという考えが芽衣の胸の中に浮かんだが、彼女はあわててそれを打ち消した。

 最近、悠人とうまくいき出したばかりで、変に横道するとまた彼が疑い出すかもしれない。実際、悠人はめざといのだ。

 そうは思っても、心安まるような沈黙に浸っていると、だんだんと芽衣も心が軽くなっていった。

 芽衣の前で緊張して態度や話が固い学校の男子はともかくとして、悠人も彼女の前では緊張せず自然と話をしてくれる。ただその女の子慣れした言動は、大輝のそれのように安らかな沈黙となって結実することはない。

 沈黙したまま自宅への距離の半分くらいまで到達したとき、それまで黙って助手席から通り過ぎる夜の街並を眺めていた芽衣は口を開いた。

「大輝君、格好よくなったね。美咲が大輝君のこと気に入るわけだ」 

 一瞬、自分でも何を口走ってしまったのか、芽衣自身にもわからなかった。居心地のよい時間を過ごし、少し心が酔っているような状態になっていたのかもしれない。考えるより先に言葉が出たのだ。

「え、どういうこと」

「大学生になって大人びたなあって。美咲にしては珍しいんだよ。自分から男の人にちゃんと話しかけるの」

 それでも芽衣は軌道修正して美咲の方に話を持っていった。

「話したうちに入らないよ、あんなの」

「ううん。あの子、たいていの男の人とはほとんど会話しないから、やっぱり大輝君のこと気に入ったんだと思う」

 このころになって、芽衣は自分のぶしつけな言葉が大輝を戸惑わせずに、自然に受け応えしてくれていることに気がつき、大輝に対してより親しみを感じていた。そうでなければ、次にこんなことは聞かなかっただろう。

「大輝君って彼女いる?」

「いない」

 知ってる。ママから聞いていたから。じゃあ、彼は美咲のことはどう思っただろう。

「じゃあ、美咲のことどう思う?」

 美咲の先ほどの態度は彼女にしては珍しく、フレンドリーなものだった。美咲が初対面の男子にあそこまで隔意なく話しかけるのを見たのは初めてだ。悠人にだってあそこまで親しみを込めた対応ではなかったと思う。

 そういう柔らかい態度で話しかけられた男の子が、美咲に興味を持たないはずはないはずだ。

「会ったばっかだし、よくわからない。てかなんでそんなこと聞くの」

「別に。なんとなくだよなんとなく」

「芽衣ちゃんこそ彼氏いるの?」

 その言葉にどういうわけか芽衣は狼狽した。別にイレギュラーな問いでもない。芽衣が大輝の彼女の有無を聞いたのだから、その逆があっても別に不思議ではないのだ。 

「今、わたしのことは関係ないじゃん」

「そっちだって聞いたんだから、おれが聞いたっていいでしょ」

「言いたくない」

 さっきまで軽口をたたいていた芽衣は、思わず固い返事を返してしまった。

 別に彼氏がいることを大輝に知られても何も問題はないのに、大輝にそれを聞かれたとき、芽衣はどういうわけか、自分に彼氏がいることを大輝に知らせたくないと考えてしまったのだ。

「大輝君に関係ないでしょ」

 芽衣のいきなり拒絶的になった返事や態度に戸惑ったのか、それとも気を悪くしたのか、大輝もそれ以上何も言わずに黙ってしまった。

 大輝は芽衣の自宅を覚えていたようで、道を聞くこともなく雨の中を車を走らせたので、芽衣の自宅に着くまで二人は黙ったままだった。

「送ってくれてありがと」

 自宅前で車を降りるとき、沈黙を破った芽衣が小さな声で言った。

「いや別に」

 そう答えた大輝の声からは、彼が不機嫌なのか、それとも別に何も気にしていないのか、判然としなかった。

 気にいらないことがあると、すぐにわかりやすく不機嫌になる悠人とは違うんだなと芽衣は考えた。

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