第25話
こうして芽衣にとって初めての彼氏ができた。お試しということで始めた関係だったが、付き合いそのものは普通の付き合いと一緒で、お試しだからといってなにか特別なことがあるわけではなかったので、これが彼氏がいるということかと芽衣は妙に納得していた。
芽衣は学校の人たちに悠人と付き合い始めたことを話したりしなかった。ましてお試しということをわざわざ周囲の友人に触れ回ることもなかった。
それなのに悠人と一緒に初めて登校した日に美咲にその様子を発見されたため、芽衣としては言い逃れができない状況に陥ってしまった。
富士峰学園前駅で待ち合わせする約束などしていなかったその朝、電車を降りて改札口を出ると富士峰の制服姿の群れの中に悠人が待っていた。
「おはよう」
少し驚いたがよく考えれば彼がやりそうなことだった。
「おはようございます」
「ございますってなんでよそよそしいの。彼女なんだからため口でいいのに」
「みんなに聞かれてますよ先輩」
「べつにいんじゃね? 俺たち付き合っているんだし」
お試しでね、と言いたかったけど、それこそそんなことは周囲の聞き耳を立てている生徒たちに聞かれるわけにはいかない。
「行きましょ」
「一緒に登校してくれるの?」
「そのつもりで待ってたくせに」
「そうそう。そういう風に話してくれればいいんだ」
意外なことに悠人と一緒に登校するのは楽しかった。今までよく彼から話しかけられてはいたが、そのときはどうやって彼から逃げ出すか考えていたこともあって、ろくに彼の話を聞いていなかったのだ。
周囲の生徒たちの好奇心にあふれた視線やささやき声は少し気になったが、それを意識させないだけの話力が悠人にはあった。
やはりこの人は頭がいいんだな。芽衣はそう思った。見かけのイケメンぶりなんか問題にならないほど、彼の内面には価値があるのではないか。そうしたことは彼に告られ付き合い出さなければ気がつかなかっただろう。
「今度、スタジオにレッスン見学に来ない」
「興味ないし見てもわからないですよ」
ふだんはこんな突き放した言い方を芽衣がすることはない。でも彼になら言えたし、彼も平然と受け止めてくれた。悠人が笑ってなにか言おうとしたとき、背後から声がかかった。
「おはよう」
二人が振り向くと、美咲が言葉だけを二人に残し、それ以上はなにも言わず、視線も合わせずに通り過ぎていった。
「美咲ちゃん、どうしたのかな」
悠人が不審そうに離れていく美咲を眺めた。
どうしよう。美咲の気持ちを思い切り裏切ってしまった。彼女が悠人のことを好きなことを知っていたのに。悠人の告白には答えないと美咲に言い切ったのに。
一言のあいさつだけで、あとは芽衣を無視して去って行ってしまった態度に、彼女が相当傷つき、または怒っていることが表れていた。
どうしようと考えた芽衣だったが、彼女の頭の中ではすでにどうすべきか正解が導き出されていた。こういうことはどんなに気が重くても早く立ち向かった方がいい。逃げているともっと悪い結果に導かれることを、彼女はこれまでの経験でわかっていた。
問題は、美咲になんと言っていいのかわからないことだった。美咲への約束は嘘ではなく、あのときは本当に悠人の告白に応える気はなかったのだ。でも、じゃあなぜという質問にはうまく答えられないだろう。とりあえず彼に見所があったので試しに付き合ってみるなんて。
悠人を好きになったというしかない。実際、芽衣に告るために道下佳奈と別れてきた彼の誠実さに対し、芽衣は心が動いたのだから。もっとも佳奈にしてみれば悠人のその行動は誠実どころか不誠実の極みと感じただろうけど。
少し上から目線だが、悠人を見直して心が動いたと言おう。それで美咲が納得するかというと実に怪しい気はするが。
その日の昼休み、芽衣はなんとか捕まえた美咲を中庭のベンチに連れてきた。
昼休みの中庭はそこかしこのベンチで食事をしているグループであふれていたが、芽衣が美咲を連れてきた中庭の端にはあまり人影がなかった。
芽衣はベンチの前で立ち止まって、不貞腐れた態度で黙って後ろから着いてきた美咲の方を向いた。そして「ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にして頭を下げた。
「何を謝ってるの」
「美咲に言われたとおりだった。昨日先輩に告られた」
「やっぱりね」
「最初に会ったときからずっとわたしが好きだったって」
「先輩に付き合ってくれって言われたんだ。でもなんでOKしたの?」
来た。美咲が悠人を好きなことを承知していて彼の告白に応えた。それは今まで芽衣について周囲の友人たちが抱いてきたイメージと真逆な行動だ。別に自分を飾る意図だけではなかったけど、芽衣は平穏な人間関係を求めていた。生来争いごとが嫌いな性格なのかもしれない。諍いを起こすことを承知の上で自分に正直に行動するなんて、幼なじみの秋田大輝と疎遠になってからは一度もしたことがなかった。
「謝るよ。美咲の気持ち知ってたのに」
「いや、そうじゃなくて」
美咲は明らかに芽衣の謝罪にいらだっている様子だった。
「最初は断ったの。美咲の気持ちを考えると、はい付き合いますとは言えませんって」
芽衣の言葉に美咲はますますエキサイトした。
「芽衣って実は前から悠人先輩のこと好きだったの? ひょっとしてわたしが先輩のこと好きとか言ったんで諦めてたってこと?」
「そうじゃないんだけど」
「そうじゃないならなんでOKしたのよ」
「ごめん」
とりあえず落ち着いてくれないと言い訳もさせてもらえない。
美咲がここまで感情的になっているのは、美咲が悠人に失恋したという事実だけのせいではないのだろう。むしろ、自分の気持ちを芽衣に伝えてあったのに、告白を受けてもOKしないから大丈夫だよと言ってたくせに、結局、芽衣は悠人の告白に応えたのだ。美咲の中では、芽衣に裏切られたという事実の方が重いのかもしれなかった。
「怒ってるんじゃなくて、芽衣は先輩のことが好きだったかどうか聞きたいのよ。この際わたしのことはどうでもいいから」
「美咲の気持ちをどうでもいいとか割り切れないよ」
「いい加減にしてよ。話が進まないじゃない。じゃあ過去の話は聞かないけど、芽衣は今は先輩のことが好きなの?」
「と思う」
「何それ。好きかどうかもわからないのに、告白に応えて付き合い出したってこと?」
ここが、前もって考えてきた言い訳を口にするタイミングだと芽衣は思った。
「だって・・・・・・悠人先輩、ちょっとかわいそうで」
「さっきから意味わかんない。芽衣に振られたら先輩がかわいそうってこと?」
美咲が怖い顔をした。しまった。言い方を間違えた。これでは芽衣自身が上から目線のいやな女のように受け取られるし、なにより志賀を下に見て貶めているようにも聞こえる。志賀が大好きな美咲が頭に血を上らせても不思議はない。
「先輩ね。わたしと付き合いたいと思って、付き合っていた道下先輩を振ったんだって」
芽衣は軌道修正した。
「全然意味わかんない」
「わたしに対しては今まで付き合ってきた女の子たちと同じように接したらだめだって思ったんだって。だからわたしに告白するにはまずそうしないといけないと考えたって」
「先輩にとって芽衣はそれだけ特別な相手だってこと?」
「そうみたいなの。これでわたしに振られたら悠人先輩、一人きりになっちゃうじゃない」
「それがかわいそうだったからって意味?」
「うん」
「芽衣ってバカじゃないの。好きでもないのにそんなこと考えて先輩にOKしたってこと?」
ここで、考えてきたように悠人が好きになった、付き合いたいと思ったと言わなければ。
「わたしもいつまでも昔のことを考えていてもしかたないって思った。美咲には悪いけど、先輩がわたしを好きならわたしも先輩と付き合いたいって思ったの」
芽衣はようやくそう言えた。不信感に満ちていた美咲の表情がく変化した。許したり気が楽にはならないにしても、やっと芽衣の行動の理由に納得がいったのだろう。
「ああ、わかった。芽衣も先輩と付き合っていいって思えたのね」
「うん」
「最初からそう言えばいいのに。わたしのことは気にしなくていいよ。そもそも先輩はわたしのことはなんとも思っていないし。ただの片思いだもん」
「そんなこと」
「そんなことあるんだよ。よかったね。芽衣と先輩がうまくいくように祈ってるよ」
「ごめん。ありがと」
最初考えていたようにはいかない。もうそれしか芽衣に言えることはなかった。
「今日一日で何回ごめんって言ってるの」
美咲がいかにも無理をしているような笑顔でそう言った。芽衣にじっと見つめられていることに気づいた美咲は下を向いた。美咲がそっと指先で目頭を払うのを芽衣は見た。
彼女は本気で悠人が好きだったのだ。そして、自分は本当に彼女に悪いことをしたのだということを、そのとき芽衣は心底から理解した。芽衣はあらためて自分がしでかしたことの意味を悟った。恋愛は自由だとはいえ、芽衣は悠人に興味をそそられたに過ぎない。その程度の軽い気持ちで初めての彼氏を作ったこと、美咲や唯の気持ちを知りつつ悠人の告白に応えたことは、彼女たちに対して相当ひどいことをしたことになるのだ。
してしまったことはもうしかたがない。なるべく美咲に優しくしよう。さいわい美咲は芽衣のことが大好きなようで、そのために悠人をあきらめようとしている節まである。校内では悠人ではなく美咲と一緒に過ごそう、それがせめてもの償いなんだろうと芽衣は思った。
実際のところ、芽衣は美咲への罪悪感がなかったとしても、校内で悠人といちゃいちゃしたり、休み時間にいつも一緒にいたりしようとは思っていなかった。
悠人が前の彼女の道下先輩といつも校内では二人で過ごしていたことは知ってはいたが、道下先輩のその姿を自分に置き換えてみると、違和感しか感じなかった。だから初めての彼氏ができた後も、彼女は校内で今までどおり美咲と一緒に時間を過ごしていた。
「普通はちょっとでも彼氏と一緒にいたいと思うものじゃないの?」
美咲にそう言われた芽衣はまじめに自分の心の中を探ってみるのだが、常に彼と一緒にいたいという気持ちは見つからなかった。
「美咲だったらいつも彼氏と一緒にいたい?」
「彼氏いたことないけど、多分そう思うんじゃないかなあ」
「わたしにはよくわからないなあ。美咲と一緒の方が気楽だし楽しいし」
「なにそれ。芽衣って本当に先輩のこと好きなの?」
照れ隠しなのか美咲はそう言いつつ、表情はうれしさを隠せていなかった。
「好きだよ」
お試しだけどね。芽衣はそう思ったが、悠人に興味がないわけではなかった。もしそうなら彼の告白に応えたりはしなかった。
ただ、あらためて考えてみると、彼のことは好きだと、あるいはそれが言い過ぎなら気になっているとは思うけど、自分の生活のすべての場面に彼が存在するという状態を望んではいなかった。
多分、道下先輩やそのほかのこれまでの悠人の彼女たちは、彼のことで頭がいっぱいになり、生活していく上で悠人の存在が最優先となっていたのではないか。それだけ悠人に夢中になっていたのだ。
日中の校内や登下校中の通学路などで、べったりと悠人に張り付いている彼女たちの姿を見かけたことのある芽衣にはそう思えた。
悠人の存在が芽衣にとっては自分の生活の一部にいるにすぎないとしても、付き合い出せば下校時に待ち合わせしてデートすることもあるし、毎週ではないけど土曜日のデートもあり、彼と二人で過ごす時間は決して少なくはなかった。
そうして悠人と一緒に過ごす時間が続くと、芽衣も彼に慣れだんだんと親しみを覚えるようになっていった。
悠人が芽衣と一緒にいるとき、芽衣に対する遠慮や逡巡、気後れといった感情は彼の様子からはうかがえなかったが、それは芽衣にとって居心地がよかった。
これまでなにかの用事で男子と二人きりになることがあると、ほぼその全員がぎこちない様子で不自然な会話を始める。苦労して話をすることはないのに。別に沈黙が続くことにフラストレーションを感じないたちの芽衣はいつもそう思っていた。
悠人が芽衣に話しかけるとき、そこには不自然な間はなくすべてが流れるように自然だし、彼が話す言葉にはいつも無意味な時間つぶしがない。
これまでよく男の子から聞かされてきた「暑くなってきたね」とか「最近どう?」というような無意味に時間をつぶすだけの会話ではなかった。これだけ自然に会話を成立させていてなお、無意味な内容ではないのだから相当高いコミュニケーション能力が備わっているのだろう。
とはいえ、その悠人の会話の内容が、芽衣にとっても意味があるほど興味深いものかというとそうではなかった。
コミュニケーション能力が高いことは確かだし、芽衣が普通にあいづちをうっている限りは、会話が行き詰まることもないのだが、悠人自身についての話には正直に言うと芽衣はたいして興味がなかった。なので関心のある振りをして相手をしているのだが、悠人はその会話に満足している様子だった。
悠人は自分が打ち込んでいるダンスについて話すことが多かったが、そうした話の合間を縫って芽衣自身について質問をしてきた。住んでいるのはどこか、兄弟はいるのか、今まで彼氏がいたことはあるのか。
そうした悠人の質問からは、自分のことを話したいという気持ちと同じくらい芽衣のことを知りたいという彼の気持ちが伝わって、彼女も悪い気はしなかった。だから芽衣も悠人のダンスの話よりは真剣に彼の話を聞き、それに答えた。
美咲や唯はいい友人だと思うけど、彼女たちは基本的には自分のことが好きな人たちなので、芽衣のことを聞くよりは自分の話を語りたがる。芽衣もしいて自己主張したいとも思わないので、だいたいは芽衣は彼女たちの聞き役だった。
彼女に近づいてくる男の子たちは、芽衣のプライベートのことを聞くのを遠慮してしまうようで、結局、芽衣はこれだけ人気があるわりには自分のことを聞かれたことがあまりないのだ。だから、悠人に自分自身のことを興味を持って質問されるのは新鮮な体験だった。
「住んでいるのは明徳市の添田で、一人っ子」
「先輩が初めての彼氏です」
そうした初歩の、最初の関門的な質問と答えの次に、悠人は芽衣もドキリとするような質問を投げかけてきた。そう言った質問には、流して聞いたり適当に答えたりできないものが多く、芽衣は真面目にどう答えるか考えることになった。
「芽衣って見た目は可愛いって感じだけど、中身はもう少しいろいろなものが隠れていそうだな」
悠人は芽衣に笑いかけた。というか、このときはじめて呼び捨てにされたけど、芽衣はしばらくそのことに気がつかなかった。悠人の言葉の意味を察しかねて考え込んでいたからだ。
いろいろなものってなんだろう。
「中身は可愛くないってこと?」
とりあえず芽衣は悠人を冗談ぽく軽くにらんだ。
「いや、違うよ。つうかほめてるんだぜ」
「いろいろなものってなんですか?」
「それは多分他の人が考えることと一緒だと思うんだよね。人の好き嫌いとか今日これから何がしたいとかさ。ただ、芽衣が他の人と違うのはあまりそれを口に出さないこと。頭の中で考えていることの三分の一くらいしか口にしない人でしょ?」
悠人は見かけによらずよく観察している。芽衣が驚かされたのは彼のこういうところだった。
「考えていることを全部話す人なんかいないんじゃないですか」
「それはそうだけど、人ってどっちかに別れるじゃん。聞くより話す方が好きな人と、相手が聞くより話す人だったら、とりあえず聞いてあげる人と」
「そうかもしれないですね」
「芽衣ちゃんって聞いてあげる人じゃん。そういう子の考えていること知りたいなって思うけど、そういう子って、付き合いでもしないとちゃんと話してくれないよね」
「そんな理由で告白したんですか? わたしがなに考えているか知りたいから? 好きになったからじゃないんだ」
「いや、それは芽衣を好きになったからだけどさ」
「よかった」
芽衣は少しだけ微笑んだ。悠人は食い入るようにその笑顔を眺めた。
「わたしのどこが好きになったの?」
「全部」
「内面はわからないんでしょ? 見た目だけ好きになったんですか」
悠人はなにか答えようとして結局笑い出してしまった。
「なるほど。やっぱり芽衣は頭がいいや」
なるほど。やっぱりこの人は頭がいいのね。芽衣はそう思った。
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