堕ちた伯爵令嬢の未来

彩瀬あいり

堕ちた伯爵令嬢の未来

 帝都の裏通り。入り組んだ路地の先にある、付近の住人を相手に商う御用聞きと雑貨屋を兼務した店。小綺麗な扉を開くと、カウンターに若い娘がいた。

「レティシア・ロストさん」

「……どなたですか?」

 不信感丸出しの声で問い返され、ダレルは笑みを浮かべる。胸ポケットから名刺を取り出し、肩書が見えるかたちで差し出したところ、相手の顔はあからさまに歪んだ。『記者』に対する反応としては至極当然といえる。彼女の場合、立場が立場だ。それでもダレルは努めて穏やかな物腰を崩さずくちを開いた。

「お話を伺いたくて」

「よくここが分かりましたね」

「いろいろと伝手がありますので」

 追及を笑みで躱すと、それ以上は問われなかった。明確な答えが返ってくるとは思っていないのだろう。

「いいわ。ここまで来たのは貴方がはじめてだもの。敬意を表して相手ぐらいはしてあげる。なにが訊きたいの? 私を訪ねてきたということは噂の真偽かしら。残念だったわね。貴方たちにとっては、逃亡を手助けしている男たちや、それを手玉に取っている悪女の姿が欲しかったんでしょうけど、ご覧のとおりよ」

 手を腰に当てて胸を張るのは地味な装いの女性だ。

 襟付きのシャツとロングスカート。汚れ防止なのか、ありふれたエプロンを着用したメイドのような服装。化粧っけもなく、艶を失ったくすんだ金髪を無造作にまとめている姿は、元伯爵令嬢とは思えない。

 あの事件から三年。たしか二十歳になるはずだが、ずいぶんと大人びた顔つきをしている。苦労をしたのだろう。

(まあ、大人にもなるか。あれだけの醜聞にさらされて、貴族のお嬢さまとしては死んだも同然だしな)

 だが、その哀愁がさらに魅力を増大させているのか。事前に見ていた写真とは違う美しさがあり、ダレルの胸が騒ぐ。

 取材対象になにを考えているのか。

 濃紺色の瞳を伏せ、ひとつ呼吸をしてからくちを開く。

「残念なんて思いませんよ。こちらの望みはそれではありませんので」

「どういうこと?」

「貴女の父親にかかった嫌疑を晴らし名誉を回復させる。醜聞もだ。そのために、こうして追いかけてきたんですよ」



     ◇



 ドナルド・ロスト伯爵が横領の罪に問われたのは三年前。

 上位貴族が金を横流しする事件は帝都において珍しいことではないが、それを実行したのが国庫を預かる金庫番であったため話は大きくなった。

 伯は善良極まりない男でこれまで真摯に国に仕えてきたが、なにぶん時期が悪かった。

 時は次期皇帝陛下の座を競い、若き皇太子兄弟の対立が激化しつつあった折である。他国から大量の武器が流れ込み、国内でも暴動が増え、治安が悪化していた。

 そのさなか、摘発された武器商人があげた名がドナルド・ロスト。

 男はロスト伯爵家の紋が押印された書類を所持し、資金源は彼だと言ったのである。

 一触即発の状況が続くなかでもたらされた事件とそれに関わった人物は、情勢をさらに過熱させた。双方の勢力がそれぞれロスト伯爵を糾弾し、敵も味方も入り乱れ、彼をすべての元凶に仕立て上げた。


 もう少し冷静になれば状況は変わっていたかもしれない。

 けれど、上位貴族や国の重鎮たちにとって、これはひとつの好機だったのだろう。悪人を置くことで負の感情が向かう場所を変えた。皇太子らだけではなく、不穏な空気に辟易していた民たちへ怒りの矛先を作り、皇族への不満をそちらへ誘導したのである。


 その事件を機に皇太子兄弟の対立は一時中断され、どちらが立太子となるかは決まっていないが、暴動は収まった。

 ドナルド・ロストは国賊とされ、極刑が下った。過去の献身から伯爵位は据え置かれているが、国へ返還するかは協議中。ひとまずはドナルドの弟が預かっている状態だ。


 ドナルドは妻を亡くしているが、レティシアという一人娘がいた。

 社交界デビューは済ませていたが、事件以降、人前には姿を現していない。不在のあいだにさまざまな噂が流れた。

 父親が横領した金を使って男遊びをしているだとか、他人の恋人を寝取っただとか。父親が捕まったあとも、これまでどおりに外商を呼びつけて宝飾品を買いあさり、支払いは叔父にさせているだとか。

 異国へ高飛びをした、国内で誰かに匿われている、他国の王家をたぶらかして亡命した、娼館落ちして働いている、夜の蝶として君臨している。

 じつにさまざまな醜聞だ。誰もが面白おかしく彼女を語る。国賊の娘らしく、妖艶な悪女だと下世話に嗤う。


 帝国内の多くの雑誌や新聞は、民が願うままにネタを提供した。

 兄から被害をこうむった気の毒な叔父一家へ同情が集まる記事より、高慢な伯爵令嬢の末路を取り扱ったほうが売れるのだ。真偽の定かではないあれこれを書き連ねたところで、当の本人はいない。どこからも文句が出ない。書いたもの勝ちである。

 いかにおとしめるか。

 ゴシップ誌に彼女が登場しない日はなかったが、月日が経てばさすがに下火にもなる。都は話題に事を欠かない。いまさら国賊の娘を持ち出したところで売り物にはなりそうもないが、あれから三年。ロスト伯の爵位についての協議が改めておこなわれる今、またとない好機なのだ。



     ◇



 準備中の札をかけた店内で、ダレルはレティシアと向かい合っていた。

 彼女の顔は警戒心に満ちている。まずは信用してもらうところから始めなければならないだろう。

 改めて名乗り、名刺を渡す。

 ダレルはフリーのライターだ。どこか特定の組織に属しているわけではなく、記事を書き、それを売り込んで報酬を得る形で生計を立てている。

 何度か仕事をした媒体の名を借りた名刺を作ってはいるが、レティシアに渡したのは三流ゴシップ誌の名が入ったもの。彼女は呆れ顔を浮かべた。庶民の暮らしに即しているとはいえ下世話な記事も多く掲載される雑誌は、お嬢さまには受けが悪いらしい。さもありなん。


「それで、父の嫌疑を晴らすというからには、それなりの確証があるということですよね。ご提示いただけますか」

「お嬢さまには酷かとは思いますが」

「構いません。いまさらです」

 冷めた瞳と声色で告げたレティシアに、ダレルは持ってきた紙束を机に広げる。その中からもっとも重要ともいえる写真を一番上へまわし、提示した。

「これは?」

「ドナルド氏を主犯へ偽装した男。真犯人ともいえますかね」

「……叔父さま?」

「そうです。ドナルド氏の弟。ライナー・ロストこそが事件を裏で操っていた黒幕ですよ」

 建物の影から撮ったにしては鮮明ではないだろうか。そこに写っているのは、金貸し屋から出てくる中年の男。通りすがりの浮浪児に帽子を取られ、頭部があらわになった姿である。

「あなたの叔父は随分と金遣いが荒いようですね。裏社会ではいいカモとして有名でした」

「――知っています。伯爵家の資産に手をつけようとして勘当されそうになったところ、父が取りなしたおかげで首の皮がつながったとか。祖母が甘やかしたおかげでああなったと祖父は言っていましたが、本当かしら。同じ親から生まれたとは思えないぐらい、父とは真逆の男です」


 レティシアの声には嫌悪が滲んでいた。もとから折り合いが悪かったのだろうか。

 祖父母と実母を亡くし、父親も罪人として処された。残った血縁者がすべての元凶であったと知れば、こころを痛めるかと思っていたが杞憂だったらしい。

 小さく息を吐くと、軽蔑と取ったのか、レティシアが問う。


「私を薄情だと思いますか?」

「いえ。血が繋がっているからといって、無条件に愛し愛されるわけではありませんから。特に貴族であれば、内情は血で血を洗うようなものです」

 ダレルはそれをよく知っている。

 皮肉げに吊り上がった口許になにを感じたか、レティシアは眉をひそめる。レディに会うために念入りに髭を剃ったせいで、感情が表に出てしまっている。気をつけなければ。

 ダレルは表情を正して笑みを浮かべる。レティシアはほどなく肩を落とし、大きく息を吐いた。


「証拠は揃っているのですよね。なぜ私に声を?」

「これらを表沙汰にすればライナー・ロストは今の地位を失うでしょう。同情は反転し、国民感情はマイナスへ傾く。ロスト伯爵の名は今度こそ消えるかもしれない。しかし――」

「ええ、ロストの血を引く私が生きているのだから、同意が必要になるでしょうね」

 名ばかりとはいえ、女伯爵も認められている。事件当時、まだ十七歳だった娘には法的後見人が必要だったが、二十歳となれば単独でも相続は可能と判断されるだろう。爵位を奪われないように、ライナーが動くかもしれない。金のために実の兄を死へ追いやったような男だ。姪を消すことにも躊躇ためらいはないのではないか。


「貴女は命を狙われる可能性があります」

「身に危険が迫っているから、叔父を告発する前に保護しておこうというわけですか。お優しいことですね」

「真相が明るみになったあとも大変でしょう。貴女は爵位を持っている」

「男癖の悪いと噂の悪女でも、伯爵位のためなら目をつぶろうという男が湧いてくるというわけですね。婿の座に収まれば、自分が伯爵代行にもなれるでしょうし、浮気だってし放題。心労がたたって死んだことにして、私を殺してしまうのもありかもしれませんね」

 ダレルは息を飲む。レティシアという女は存外に頭がまわるらしい。三年間逃げまわり、追っ手を煙に巻いていたのは、協力者の手腕だけ、というわけではないようだ。

 机に広げたいくつかの書類を取り上げ、めくっていく。この状況下で随分と落ち着いたものだ。

 泣きわめいてほしいわけではないが、そうなったときには慰める心づもりはあった。

 ダレルは、自分で言うのもどうかと思うが、それなりの容姿を持つ色男だ。特定の恋人はいないが、取材のために女に声をかけ、欲しい情報を引き出すことには長けていると自負する。

 そういった点を買われて、ゴシップ誌では重宝されていた。編集長とは腐れ縁ともいえる付き合いで、よく仕事を融通してもらっている。今回、レティシアの足取りを追うにも便宜を図ってもらった。

 レティシア・ロストは噂されるような悪女ではなく、居場所を追われた被害者であることがわかっていた。

 貴族として暮らしていたのに転落してしまったご令嬢。

 十歳近くも年下の小娘など、浮名を流してきたダレルにとっては簡単に懐柔できる相手だと踏んでいたので少々面食らう。



「記者さん」

「どうぞダレルと」

 にこやかに笑む。しかしレティシアは意に介さず続けた。

「ここにあるのは父を犯人へ仕立てあげたことの証明よね」

「ええ、そうです」

「では私に対する噂を払拭できる証拠とやらは?」

「出所を探りました。遠回りをしましたが、突き止めたと思います。酷な話かもしれませんが――」

「いまさらだと言ったでしょう? 言い出したのはラリーかしら?」

「……ご存じで?」

「叔父が兄への逆恨みで伯爵家の乗っ取りを企んだのだとしたら、私に恥をかかせようとするのは従兄のラリーと考えるのが自然です」

 身内の恥を晒すようですがと続け、そっと息を吐く。

 ラリー・ロストはライナーの息子、レティシアの従兄である。彼女より三つ年上。癖のない金髪をさらりとなびかせた貴公子然とした優男だが、性格のほうは残念と言わざるを得ない。

 事件以降、社交界にも顔を出すようになり、時の人として注目を浴びた。

 ロスト家の爵位は据え置かれていて、後継ぎの男子はいない。注目も集まろうというものだ。

 本来であれば次期伯爵となるのはレティシアなのだから、爵位を手に入れたければ彼女を自分のものにしようとするのが近道。そしてそう考えたのは、家督を継がない貴族の長子以降の者たちだけではなく、ラリーもだった。

 誰よりも彼女に近く、婿の位置にも近いといえたはずだが、そんな彼をレティシアは侮蔑し、嘲笑とともにあしらった。

 自分の立場を理解しようともしていない、気位の高い堕ちた伯爵令嬢。


「ですが、真実は違っていた。ラリーは求愛を拒否されたことで貴女を逆恨みし、悪評を流した。自分が袖にされたことを隠すために、貴女の評判を堕とした」

「いつ、どんなふうにして彼が私を悪く言いふらしたのかは知りませんけどね」

「ドナルド氏の公判もあり、貴女は身を隠していた。そのあいだに噂は広められた」

 レティシアを表に出さなかった弁護士に悪意があったとは思えない。十七歳の娘を慮っての善意からの行動だとダレルは思う。彼はそういうひとだ。

 するとレティシアも頷き、微笑んだ。

「同感です。バーター先生はいいひとですよね」

 それは彼女が見せた、初めての笑顔だった。

 年相応の、若い娘らしい無邪気な笑み。


 ――レティシア嬢を救ってやってください。


 ダレルに告げたバーター弁護士は、レティシア・ロストにどんな感情を抱いていたのだろう。

 接見時に彼女の父ドナルドから、娘のことを託されたのかもしれないが、おそらくそれだけではない。彼は昔から優しかった。

 ダレルは今でも憶えている。自分は彼に救われたのだ。


「そうですか。先生の入れ知恵でしたか。では貴方がそうだったんですね」

「どういう意味で?」

「帝都から離れる際、先生が言いました。いずれ気兼ねなく暮らせるようにしてみせる、仕事柄、記者の知り合いは多いけれど、そのなかでもっとも相応しい男を差し向けますと。くちは悪いが腕はいいから、仕事を完遂するでしょうとおっしゃっていましたよ」

 ですから、その取ってつけたような丁寧口調はもうおやめになっては? と、レティシアはふたたび笑う。

 ダレルは撫でつけた髪に手をやり、指でかき乱す。

 純粋な帝国民とは異なる焦げ茶色の髪はあっけなく崩れ落ち、宵闇のような濃紺色の瞳を前髪が隠した。そのさまにレティシアは屈託なく笑う。

「貴方、そのほうが似合いますわね。よっぽどらしい・・・ですわよ」

「ああそうかい、お嬢さま」

 椅子の背もたれに身を投げ出し、ダレルは取り繕うのをやめた。レティシアは気にするふうでもなく、会話を続行する。

「すでに把握なさっているでしょうが、私がここに身を寄せることになったのは、バーター先生の助言からです。母の知人がいると聞き、訪ねて、受け入れていただきました」

「母親は市井の出だったとか」

「ええ。貴賤結婚です。叔父はそういうところも気に入らなかったようですね」

 レティシアの悪評の多くが異性関係にあるのは、彼女の母親が他国からの亡命者の一員で、一時的に花街に身を寄せていた過去があるからだろう。あの母にして、というわけである。馬鹿馬鹿しい話だ。

「都落ちなんて言われますけど、私は今の生活悪くないと思っているんです。社交界なんかより、こちらのほうがずっと楽しい」

「戻りたいとは思わない、と」

「ねえミスター。貴方の目的は何? 権力が幅を利かせる帝国社会を崩壊させたいのかしら」

 こちらの問いには答えず、小首を傾げてレティシアが返した。

 だからダレルは答える。

「そんな大それたことは考えちゃいない。俺はあんたの記事を利用して、かの帝都新聞に俺自身を売り込みたかっただけだよ。これで三流雑誌記者生活からはおさらばってわけさ」

「まあ、ひどい」

 嘆きの感情など一欠片も見せずにうそぶく彼女を見ていると、やろうとしていたことが霧散していく心地がした。

 傷心の女を騙して情報を引き出して、甘い言葉で懐柔して、なんならそっと属国へ逃がしてやってもいいかと、そんなふうに考えていたけれど、その必要はなさそうだ。このお嬢さまは逞しい。そして鋭い。


「お好きになさってくださいな。私は先生が寄越した貴方を無下にする気はありませんの。先生は過去にも同じように、冤罪によって地位も名誉も失い、国を追われた母子を助けたことがあるんですって。ナポロフという国をご存じかしら? 亡命された方は、焦げ茶色の髪と夜を映したような瞳がたいそう美しかったそうですよ」

「……帝国に吸収されて消えた小国なんて珍しくもないな」

 政局が荒れ、統治のために帝国が乗り出してくるのは、この辺りではもう当たり前のこと。帝国にくみして母国を売り、愚王を差し出したのが腹心だったのも、よくある話だ。

「王は亡くなりましたが、王族の生き残りはどこかで暮らしているという説もあります」

「そうかい、面白みのないネタだな。どこへ持っていっても買っちゃくれねえよ」

「ならば、ロスト伯爵のネタなんて、もっとつまらないのではありませんか?」

「そこは売り方だよ。ドナルド・ロストが処刑され、浮いたままになっている伯爵位を審議する今だからこそ、価値がある」

 帝都新聞の元同期に、それとなく話は通してある。レティシアの同意さえ得られれば記事の掲載はゴーだ。

 それでもまだどこか不審そうな顔をするレティシアは、事件の概要資料へ目をやる。


「この武器商人とやらは杜撰な男ね。もっとも叔父のちからでは、この程度の男としか繋がりが持てなかったのかもしれないけど」

「相手は国外に拠点を持つ組織の末端だった。帝国内の貴族について、あまり詳しくなかったんだろう」

「たしかに叔父は長く家を離れていたから、知らないひとはいるのかもしれない。でも周囲のひともどうかしているわ。商人に叔父の顔写真も見せてやればよかったのよ。ならばその男も叔父に指図されたと言ったことでしょう。同じ顔・・・なんだから」

 ドナルドとライナーは双子の兄弟。温厚な兄にコンプレックスを抱いていた弟は、反発するように洋服や髪形を変え、兄とは違う人物になろうとしていた。

 しかし意図的に似せることは可能で、宵闇にまぎれた裏取引の現場において、名さえ偽装すれば兄を演じることは容易だったに違いない。

 ライナーはこれまでにも「ドナルド」と名乗って金を借りている。ドナルドはそれを支払い、敢えて否定もしなかったようだ。まったく、ひとがいいにもほどがある。

 だが、産声をあげる、ほんの数秒の差だけで兄となり、長子として爵位を継ぐ立場になったことを、どこかで後ろめたく感じていたのかもしれない。

 双子であることを鑑みてライナーを疑う者もいたはずだが、深く追求がなされなかったのは、これもまた時期が悪かったことに起因する。

 時は皇太子兄弟の争いが激化していた折。双子兄弟の確執が事件に影響していることを、同じく双子である皇太子らの対立と重ね、皇族の威光が失墜してしまうことを帝国の中枢は恐れたのだ。


「馬鹿みたいだわ」

「――本当にな」

 そんなことで揺らぐような君主なんていらない。

 しかし、多くの犠牲の上に成り立っているのが帝国であることもたしかだ。故郷を追われたダレルが、祖国の血を色濃く残した容姿を隠すことなく生きていられるのも、皇帝の手腕。

「ロストの名は必要ありませんから、貴方にお任せします。叔父がどうなろうと知ったことではありません」

「爵位を返還することを、あんた独りで決めていいのか?」

「あら、私はもう父も母も亡くした身の上ですよ。私が決めず、誰が決めるというんですか」

「墓前で確認するとか、やりようはあるだろう」

「では、店主夫婦が帰ってきたら相談という名の報告をしておきますわ。まったく、二度目の新婚旅行って、言葉としておかしいと思いません?」

「いいんじゃないか。生きていればこそ、だろ」

 レティシアを世話しているロスコー夫婦は旅行中らしい。家の事情から別居生活をしていたが、三年前に夫が職場を退職し、多額の慰労金とともにひっそりと妻の元へやってきたそうだ。

 当初は、あれが噂の不誠実な旦那だと敬遠されていたが、経理関係に強く、妻が開いていた店の金庫番として活躍。突然やってきた知人の・・・娘であるレティシアのことも受け入れ、我が子のように可愛がっている善良者であることが浸透していった。いまでは一帯の商店組合の相談役も勤めている。

 男の名はドナト・ロスコー。


「かねてより甘い甘いとは思っていましたが、妻への愛は娘に対するものとは質が違うと知りました」

「そうか、家族仲が良くて結構なことだ」

「二十歳離れた弟か妹ができたら、どうしようかしら」

「楽しそうじゃないか」

「そのうち私が子どもを産めば、年上の甥姪というわけね。ゴシップ誌の娯楽ネタとして楽しくありません?」

「幸せネタなんて誰も読まねえよ。ひとの不幸は蜜の味さ」

 ダレルは机上の書類をかき集め、ケースへ仕舞う。立ち上がって店の扉へ向かうと、レティシアの声が追いかけてきた。

「待ってよミスター」

「達者でな、レティシア・ロスト」



     ◇



 帝都新聞がロスト伯爵の記事を報じ、ゴシップ誌はこぞってライナー・ロストの裏社会での噂や堕落ぶり、その息子ラリーの花街通い、複数の女性と掛け持ちで付き合い、相手を妊娠堕胎させていた過去を報じた。

 ロスト伯爵の名は、爵位としては帝国から抹消ロストされたが、また新たな話題として民のあいだを駆け巡り、帝国史に名を残すことになったのは皮肉な話だ。


 最初の記事を提供したライターについては、頼んだとおり名は秘されている。戻ってこないのかという問いには手を振って返し、ダレルは今日も町を歩きながら特ダネを探す生活を送っていた。

 世話になっているゴシップ誌の事務所をひさしぶりに訪れたところ、編集長のにやけ面と出くわす。


「ようやく来やがった。おまえさんを待ってたんだ」

「金になるネタでもありました?」

「殴ってやりたいぐらい憎たらしいネタならあるぞ」

「なんだそれ」

 編集長のうしろから、若い娘が現れた。

「こんにちは、ミスター」

「おまえ……」

「レティ・ロスコー。こないだ雇った新しい従業員で、おまえさんのファンらしい。あー、やだやだ、顔のいい男はこれだから」

「なんでここにいる」

 嫌味ったらしい編集長の言葉など耳を通過し、ダレルはレティ――レティシアを睨む。細腕をつかむと、脇にある資料室へ連れ込んだ。

 ドナルド・ロストは立太子争いの犠牲者でもあり、国の未来のために敢えて殉じたドナルドの精神を、市民は聖人のように讃えている。

 レティシアの醜聞も、ラリーの悪行の前では消え去った。

 傷心の従妹にも手を出した最低男としてさらに評判を下げ、レティシアは強く抵抗できなかった可憐な伯爵令嬢として名を馳せたところだ。

 帝国の後ろ盾があれば、高位貴族の養女となり、引く手あまたの生活を送ることだってできるはず。

 地味な服を着ていても、その下にある美貌は健在だった。

 強く気高く、折れないこころを持つ高潔な貴族令嬢。彼女と相対すれば惹かれない男はいないのに。


「なのに、なんでこんなところにいやがる」

「……ねえ、それ本当?」

「それって?」

「貴方がたったいま言ったことよ」

「ああ、あんたは美人だよ。だからいくらでも男を――」

「そこじゃないわよ。そのあと!」

「あと?」

 脳内を反芻し、行き当たる。


 ――相対すれば惹かれない男はいないのに。


「い、一般論だろ。年上を揶揄からかうな、小娘の分際で」

「なにを偉そうに。年の差がなによ」

「俺がいくつか知ってんのか。三十二歳だぞ」

「私の両親は十五歳離れているわよ」

「……お貴族さまと一緒にするな」

「でも、貴方は――」

 レティシアの言葉を遮り、ダレルは言った。

「俺はただの風来坊だ。異国の血を引いた、出自もわからん男だ」

「なら私だってそうよ。私はレティ・ロスコー。両親を亡くして、今の両親に引き取られて暮らしている。恩師の紹介で話をした方が気になって仕方がなくて、名刺を頼りに追いかけてきた、みっともないただの女よ」

 息を荒らげ、レティシアは潤んだ瞳でダレルを見つめる。

 興奮のためか赤く染まった頬は、過度な化粧よりずっと女を際立たせ、息を飲まざるを得ない。艶を取り戻した髪はゆるくまとめられ、柔らかそうに陽光に照らされているが、そこに指を差し入れて乱してやりたい衝動に駆られる。


 まったく、男を惑わす妖艶な悪女とはよく言ったものだ。

 ラリーの流した噂はただのひがみからくるものだったが、その素質はあるようだ。それは自分限定かもしれないが、他の野郎に披露されるまえに消し去っておく必要があるだろう。


「――あんたがただの女なら、遠慮はいらんか」

「な、なによ」

 ニヤリと笑ったダレルに恐れを感じたか、反射的に逃げようとしたレティシアを捕まえて、書架の途切れた壁に押しつける。

「俺はな、追われるよりも追いかけるほうが性にあってるんだよ」

 逃げたきゃ逃げろよ。

 耳元で囁き、刹那、身を竦めた彼女の吐息を追いかけて、そのみなもとを封じる。

 しびれをきらした編集長が扉を豪快に叩くまで、ダレルは彼女の舌を追いかけることに専念したのであった。





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