からあげ
夏瀬縁
からあげ
蝉の鳴き声が聞こえそうな朝に目が覚めた。
枕元に転がった飲みかけの十六茶を握って離して、充電器のコードに繋がったスマホで時間を確認した。
4時32分。
カーテンを閉めたままの薄暗い部屋。
何となく高校時代の修学旅行を思い出す。
普段とは違う環境で、
いつもなら一人の朝と夜に友達が一緒で、
楽しさからか明日への期待からか中々眠ることが出来なかった。
それなのに次の日の朝はいつもより早くやってきて、私は同部屋の皆の凄い寝相を拝んだものだ。
先日、ホテルに着いてから夜まで他愛もない話で盛り上がってたのに、
いつもよりちょっとハイだったあの子も、
死んじゃうんじゃないかってくらい抱腹絶倒していたあの子も、今はまだ夢の中。
ほのかに青い天井を見つめたまま手探りでコードの山に手を突っ込んだ。
何台かのスマホを乗り越えて、ようやっと手にして電源をつければ人工的で鋭い光が私にもう戻らない時間を表示する。
朝食までまだだいぶ時間がありそうだ。
似てる。
今や大学生になった私はのっそり体を起こして、狭い部屋の中心のローテーブルに持ったままのスマホを置いた。
あの時間が好きだった。
まだ寝てるみんなを起こさないように、こっそり慎重にカーテンを開けて1人薄暗い京都を見てた。
いつもと全く違う町で、非日常を全身に浴びた。
朝早いと言うのに京都の大きな道路を往来するトラック。
私が寝ている間に、毎日世界は動いていたんだと妙な感心にも似た感動を覚えた。
そんなあの時間を早起きする度に思い返す。
これから過ごす何百、何千日の中のあのたった3、4日間は特別なものだった。
今後あの感情を迎え入れることは出来ないのだろうか。
感じることは二度とないのだろうか。
もっとはっちゃけるべきだったか。
何となく過ごすんじゃなくて、もっと噛み締めるべきだったか。
過ぎた時間は戻らないのだろうか。
彼からのLINEはもう来ない
昨日の別れ際、彼の瞳に私はどんな
何がいけなかったのか反芻するでもなく、ぼーっとしたまま機械的にスーパーで夜ご飯を買った。
忘れてしまいたいとか、泣き叫びたいとかそういった類のものは不思議と顔を見せなかった。
昨日はへっちゃらだった喪失感。
やけにくすんで見えるお気に入りの洋服は皺だらけ。
いつもの倍時間をかけて準備、笑顔の確認をした洗面台。
昨日の夜に帰ってきてから今この朝まで、私は私の惨めな姿を一回も見てない。
重苦しい
飲みかけの飲料水。
置き直したスマホの隣。
スーパーの唐揚げが2個余り。
◽︎
「え!?別れちゃったの?」
こくり、頷くだけに留めた。
なんだか自分が惨めに思えた。
ずるずると重い体を引きづって、やっとの思いで大学にたどり着いた私の顔は死んでいたのだろうか。
友人が声をかけてくれた。
うんともすんとも話したがらない私を、犬を予防接種にでも連れていくかのように手を取って「スタバ」。
引っ張った。
今の私には東京のあちこちにあるそれが、カロリーを過剰摂取するだけの寿命を縮める施設のように思えた。
全く失礼な話だが、高校時代喜び勇んで足を運んだ場所が寿命を縮めに行く逆病院に見えた。
話したくない。考えたくない。思い出したくない。
スターバックス前の交差点で信号待ちをしている時に、葛藤に揺れながら彼女に目を向けてみれば、彼女はちょっと舌を出した。
そうして私と繋いだ手を前後に振った。
随分と楽しそうでなによりだ。
逃がしてくれなさそうである。
冒頭に戻る。
「・・・なんかあった?」
「ん。」
さっきよりも顔を近づけて声を潜めて囁いてきた。
そんな金髪で派手な見た目をしているくせに、そんな気遣いしないで欲しい。
話したくなってしまうでは無いか。
頼りたくなってしまうでは無いか。
大学に入ったばかりの時、右も左も分からなかった私に出来た友達と呼べる友達はこの子だけであった。
私は元来明るい性格では無いことを自負しているが、どうしてこんな真反対な子と友達になれたのか。
1年半前の私に問い詰めてみたい。
でもこの友人は世の女子大生を象徴する見た目とは裏腹に、相談やら雑談やら何を話しても、時には真剣に時には笑顔一杯でなんでも聞いてくれる子だった。
この世界、裏や表で人格まで変わってしまっていると錯覚する程に歪んだ人間が多いと感じることが多々あるのに、彼女は全くそれを感じさせない。
人間以外で例えるとなんだろうか、犬とかそんなベタな生き物じゃない気がしてくる。
もっと笑顔が上手い。
クオッカが1番近いだろうか。
「いや、んってなに…」
「ん、は、んだよ」
ちょっと強調してアーモンドミルク ラテを口に含んだ。
彼女はなにそれと呟いて笑って、私と同じように目の前のクリームいっぱいの飲み物を口にした。
よく胸焼けしないな。
気づけば朝の沈みに沈みきった感情は少し軽くなってきた。
自然と口角が上がるのを感じた。
「え、どうしたの?急に笑って」
全く、ちょろいやつだ。自分で自分に悪態ついた。
心の準備が出来たとでも言うのか。
「いや、怒りが1周まわった」
この際、全部ぶつけてしまおうと思った。
楽しかったこととか2人だけの思い出とか、全部全部考えないように奥へ押し込んで、何もかもこの子に吐き出して吐き出して。
吐き出して、もう心の奥の沈殿した何かも、なんにも出てこないくらいにさらけ出してしまおう。
上目遣いで彼女を見た。
私より背が高くて、しゃっとしてる。
にこっと笑った。
その後、私は文字通り空っぽになるまで話した。
私がひとつ、悪口を言うと笑った。
笑ってくれた。
愚痴に擬態したエゴを投げると、共感してくれた。
嫌な顔、ひとつしなかった。
余計なことも口にしないで、目の前のでっかいカロリーマシマシの甘い爆弾が無くなるまで、全部聞いてくれた。
人間の考えてることなんて分かりはしない。彼女も心の奥底でこんな私を嘲笑していたりするんだろうか。
なんてことを考えてみたりして、
悪い想像を払拭するように話を続けた。
スマホ依存症気味であることも忘れてた。
ただ2人で話していた。
話していたなんて言ってもずっと私のターンだったかもしれない。
けど、彼女があまりにも素のままに見えたから。
きっと私も自然体だった。
結局、私たちは15時頃に入ったスタバを17時半に出た。
私の手にはちょっとだけ飲みかけ。
友人がすっかり空っぽの容器を捨てて、綺麗な歩き方で店を出る。
私はもそもそとついて行く。
終始笑顔で聞いてくれた。
なんだかスッキリした心持ちだった。
けれどそのスッキリが、店を出る今になって少しづつ、少しづつ罪悪感のような一種の不安に蝕まれてきているのを感じていた。
迷惑じゃなかったかな、他人の愚痴って笑えないよね、早く帰りたいかな。
こんな長くなるなんて思わなかったよね。
本当はーーー。
「ごめんね」
ふとしたら立ち止まっていた。
私の私が、口に出していた。
彼女も背を向けたまま、立ち止まった。
相変わらず綺麗な人だ。
並んだら私の存在なんてかき消しちゃいそうだ。
後ろ姿ですら何かオーラのようなものを感じさせる。勝手だろうか。
何台かの車が、歩道の私たちを舐め去った。
今日の夏空は曇り空。
奇妙で不快な風は少し息苦しい。
キャミソールが背中に張り付く。
彼女は振り向いて、もう一度笑った。
「いいの、謝らないで」
絞めたばかりの鶏のはらわたの中に手を突っ込んだみたい。
いやになまあたたかい風がふたりを抱いた。
◽︎
街灯に照らされる帰り道。
彼女と別れた駅からはそう遠くない。
気づけば今日はもう終わりそうだ。
終わりなんて来なければいいのに。
あれが最後のドッヂボールだとは思わなかった。
あれが最後のホームルームだとは思わなかった。
あれが最後の制服だったなんて、信じられなかった。
あれが最後の…。
せめて一言でも言ってくれればいいのに。
『終わり』そのものを擬人化したらきっと、冷たくて薄情なんだろう。
今はもう軽い洋服。
帰り道の坂をのぼる。
私を振ったあの人への想いを浮かべる。
家のドアノブの鍵を回す。
誰もいない部屋に呟くのは一人暮らし女子からしたら最早常識を通り越して、当たり前の習慣だ。
昨日の痕跡が微かに残る部屋。
食べ忘れていた唐揚げが目に入った。
昼の暑さで腐ってしまったのか、妙な匂いと共に萎びている。
買った時はさくさくそうだった外側も、油だろうか、謎の水分を含んで水っぽい。
コバエのような小さな虫がたかっては離れて、たかっては離れてを繰り返す。
部屋の電気が明るいもんでよく見えた。
私はただ黙ってその様子を見つめた。
私、唐揚げみたいな人間になりたい。
みんなから人気者で、特に目に留まる。
なんでそんなに美味しいのかって、誰にも分からない。
確かな質量を持って、誰かを満足させてあげられる。
外はさくさくで、
柔らかい中身を隠して生きてみたい。
冷めたら美味しくないのは嫌だけど。
歓迎しがたい来訪者もいたのか、黒い汚れがプラスチック容器に見て取れた。
どこへ行ったかその犯人の姿はない。
「あーぁ、もったいない…」
影ひとつない水が半分ほど残ったペットボトル。
ガラス鉢のようだけれど当然魚はいない。
やや変色したからあげ。
今日の私を見る私。
真っ黒なゴミ袋にそっとふたつ、まとめて捨てた。
からあげ 夏瀬縁 @aiuenisi8
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