Day31 遠くまで

 城館に戻った頃には、既に夜の帳も降り切っていた。レイニーは手早く自室で身だしなみを整えると、背中のロンに小さく声を掛けた。返事がなかったので、そっと指で鱗に触れてみたが、やはり動きがなかった。静かに掌の上に乗せて、心配そうに覗き込んだ。

「…………」

 くるりととぐろを巻いた体は、僅かに上下していた。それは静かな生命の気配を感じさせた。レイニーはホッとしながら、しばし思案した後、ロンが元々入っていた香炉の側に白いふんわりとしたハンカチを敷いて、その上にロンを寝かせた。

 レイニーは、しばしロンの気配を探るようにそこに立っていたが、やがて静かに扉を開けて部屋を出て行った。


「遅かったじゃないか」

 魔王アッシュは、部屋に入ってきたレイニーに背を向けたまま、そう言った。天窓は宇宙の色を映して暗かったが、室内は全面が明るく、壁も床も輝かんばかりだった。いくつもの植物が、白い床を丸く切り取った土の上に植えられていて、さながら人為的に備え付けられた小さな森のようだった。アッシュは、それらの植物の影にあって、僅かに青い髪が見えるばかりだった。

「申し訳ございません……その、湖で」

「溺れかけたんだろう。聞いたよ。……災難だったね」

 振り向いたアッシュの顔には、しかし労りの色はなく、むしろレイニーの様子をしげしげと探るような薄笑いがあった。レイニーは小さく「はい」と呟き、頭を下げながら、「しかし、サイン様が助けて下さいました」と、アッシュの顔を見ないままに続けた。

「ふぅん」

 アッシュが漏らす吐息からは、その話に何の興味関心も抱いていないことがありありと分かった。彼はただ、レイニーが何かしらの嘘や誤魔化しを――自分への不義理を働いているのではないかという、それだけが気がかりだった。

「君はこの間、七夕の物語を聞いたのだろう」

 突然そう訪ねられ、レイニーは不審に思いつつも、小さく頷いた。アッシュの影が、青々と茂る木々の間から現われる。彼は両手を後ろに組みながら、唇だけに朗らかな笑みを浮かべて、血の色の瞳でレイニーを見下ろしていた。

「君も歌ってくれだだろう。恋に落ちた恋人達は、職務を忘れ、睦言に耽った」

 アッシュは、音もなく伸ばした指先で、レイニーの黒い髪を撫でた。レイニーは、何故そんな話をされているのかも分からないまま、困惑の表情を浮かべながら、アッシュの顔を見上げていた。

「……そういう訳ではないよね? レイニー。お前は、私に無断で、恋に耽っている訳ではないよね?」

「……?! む、無論、ですが……?」

 驚きの余り、レイニーの声は震えた。アッシュの言っている言葉の意味が、全く理解できなかった。

 恋。それは、今のレイニーにとっては想像も及ばない感情。恋人との時間が何よりも優先され、相手なしではいられなくなるような、身を焦がすほどの情熱、とは……一体何なのかもわからないまま、どうして自分が溺れなくてはいけないのだろう。

 そう疑問に思う反面、そんな言いがかりをつける程に、魔王の怒りは深いのだろう……と得心した。レイニーは悲しげに眉を寄せる。

「魔王様……此度の件は勝手に遠出をし、湖を渡ろうと決めた、私の判断の誤りが原因です。少しでも長くお歌を捧ぐことが、せめてもの償いになれば――」

「ああ、もちろん」

 もちろん、お前の歌は十分な償いになるさ。魔王は小さく笑う。

「月で最も美しい歌を唄う、お前の声は何よりもの貢ぎ物だ。黄金よりも真珠よりもそれは尊い。素晴らしい、私のカナリア……」

 自分の歌には価値があり、それが対価になると信じている小さな鳥よ。

「私の為に歌ってくれ。私の為だけに」

 レイニーの肩を抱き、その顔を至近距離から覗き込むアッシュの、くらく、独占欲に満ちた表情を、レイニーは見ることができない。ただ、彼は頷くだけだ。その為に生まれ、その為に生きるカナリアなのだから。

「……魔王様」

 ふと、そうして遠出をしてまでこの月の景色を見せたかった、新しい友人が出来たのだと言うことを、アッシュに話そうとした。しかし、アッシュは魔法によって腕の中に造りだした硝子色のハープを、黙ってレイニーに押しつけるだけだった。

 さあ、早く。そう、言外に匂わせていた。

「――はい。それでは、始めに夜の歌を……」

 ハープの弦がかき鳴らされる。雫の落ちる音のように、静かに、清らかに。

 その音色に続くように、レイニーは歌を唄う。

 カナリアとは、歌う為に存在するもの。それを奏で、聴かせ、愛でられる為の籠の鳥。

 レイニーは、喉を反らしながら、天を仰いだ。決して開かない瞼の向こうで、紺碧の空が、天窓の果てに覗いていた。


「…………」

 歌が、幽かに聞こえた。ロンは首を持ち上げて、薄闇の室内で銀色の瞳を開いた。

 それはレイニーの歌声だと、すぐに分かった。城館内に響くでもなく、しかし染み込むように流れてゆくものは、それしかない。しばらくの間、首をもたげてそれを聴いていたが、やがて机の上から降り、するすると窓辺へと移った。

 そして、小さな掌を器用に使って、キィッと部屋の窓を開けた。

 歌声が夜風の隙間を流れ、黒く遙かな宇宙へと散ってゆくのが見えそうな程に、清らかで静かな夜だった。造られた積み木の街のような白銀の都市の上で踊る、その見えない帯のような歌だけが、確かな質感を伴っているかのようだった。ロンは、そのまま夜景を黙って見ていた。

 歌声は伸びやかに、そら色の夜の底へと解けていく。見えない程の遠くまで。


(MOONLIGHT MEMORIES/終わり)

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MOONLIGHT MEMORIES 鳥ヰヤキ @toriy_yaki

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