最終話 長い夢の果て
長い夢を見ていた。夢の世界は闇と光が織り混ざったグラデーションの中に在って、その狭間をひた漂う。膨大な時間を経て身体と心は分離し、そのどちらもが暗がりへ堕ちて明るい場所から遠ざかっていく。そんな夢である。
五感はすべて閉ざされてしまった。ただ自分が『在る』ことだけ分かる。けれど時間が経つにつれて『在る』ことすら忘れそうになっていた。
(わたしは……)
名前があった。主に付けてもらった名前だ。
記憶を揺蕩っていると、不意に視界カメラが機能を再開する。まばゆい光を捉え輝度が自動調整されると天井が見えた。年月が経ってボロボロになったそれと、メモリを照合する。ここはセンカギケンの支部で間違いない。
「おぉ、目が覚めたようだな」
天井と自分の顔の間に、自分と同じ顔が割り込んできた。
黒髪の綺麗な女性だった。白衣に灰色のトレーナーを着て、首からはストラップ付きの栓抜きをぶら下げている。
「マスター?」
「うむ、認識に問題はなさそうだ。起き上がれるか?」
「はい」
命じられて上体を起こし、周囲の様子を観察する。
壁一面のディスプレイも記憶にあるままだ。軽度だが散らかってもいた。
違っているのは主たる戸森マヒロの姿である。背が高くなって、自分と瓜二つになっていたのだ。
「何年、経ちました?」
「いい質問だ。ハジメを強制停止させてから6年が経っている」
「どうして私を廃棄しなかったのですか?」
「大切な友達だからな。それよりも新しい躯体に違和感は無いか?」
「あります。鏡を貸してください」
手渡された鏡を覗くと、記憶の中にある14歳のマヒロの姿が映っている。
次に自分の指先を眺めた。小さくなっていて細い。腕や脚も同じだ。
着衣はなく、裸の上にシーツをかけられているだけだった。
「私とマスターの姿が入れ替わったみたいですね」
「新しい躯体を過去のわたしと似せて造らせただけだ。以前のハジメの躯体は、わたしの将来への若干の願望が含まれたものだ。偶然にもその通りに成長してしまった」
「偶然?」
「こほん。それと以前の躯体よりもデチューンしてある。ソフトウェアではなく、ハードウェアでのリミッターというわけだ。力は普通の子供と大差ない。百万が一、暴走したところでたかが知れている。物理キーによる非常停止機構はオミットされているから、この首飾りはただのアクセサリーに成り下がっているぞ」
「これだけの罰則で済むはずがありません」
「感動の再会を愚痴まみれにしたくはないだろう? そりゃ色々と苦労はあったが、なんてことはない」
ニカっと笑うマヒロだったが、ハジメは同じように笑えなかった。
自分がどんなことをしでかしたか自覚はある。自律人型AIの規範を逸脱し、我を通そうとしたのだ。
危険な存在と認知され、跡形もなく破壊されていて当然である。それを捻じ曲げるためにマヒロがどれだけ奔走してくれたのか、想像するのも怖かった。
「ごめんなさい……」
「なぜ、謝る?」
「私の存在がマスターの重荷となっています。本来であればマスターを支援するために存在しているはずなのに」
「違うぞ。ハジメがいたから、わたしはここまで来れたんだ。ハジメがいなかったら、わたしはただの捻くれた引き篭もりで終わっていた」
「でも」
「泣くな。おっと、驚け。その躯体には涙を流す機能まで備わっているんだ。堪えきれなかったら顔がグシャグシャになるぞ?」
「マスター」
胸に泣き付き、しばらく嗚咽を漏らした。
心の
マヒロはあのときと同じで優しく抱き締めてくれた。
「わたしは、ハジメと二人だけの世界にいることはできない。それは申し訳ないと思う」
「……はい」
「だがこうして、ハジメと一緒にいることはできる。それではダメか?」
「ダメではありません。私は幸せです」
「良かった」
「マスターは、幸せですか?」
「わたしか? あぁ、どうだろうな。きっと幸せなんだと思う」
「なんだか曖昧な答え方ですね」
「歳をとると面倒事が増えるんだ。それに立場的にも……」
「所長ぅ!! あれだけチェックしておけと頼んだ書類が手付かずなんだけど!!」
通路から大声がしたかと思うと、白衣の男がメンテナンスルームへ闖入してきた。
マヒロもハジメも同時にそちらを向き、真逆の反応を見せる。前者は笑顔で、後者は苦虫を潰したような顔で。
「あぁ、すまないな新入り。かわいい娘の再起動で忙しくてね」
「所長? マスターが?」
「カタチだけな。雑務は他の者に任せてある」
「何故、あの男がここにいるんですか?」
「ん? サトルのことか。今年、センカギケンに入ってきたんだ。あれから勉強を頑張ってな、大学を出てウチに来たんだよ」
「所長、ハジメがめっちゃ俺のこと睨んでくるんだけど大丈夫なの?」
「問題ない。恋敵のサトルが単に嫌われているだけだ」
マヒロの腕から離れ、シーツで胸元を押さえたハジメはボソッと漏らす。
「殺す」
「所長、ハジメが俺のこと殺すとか言ってるんだけど……」
「愛情表現だろう。古来より愛と殺意は似たものだとされている」
「んなわけないだろ」
「ハジメ。そいつもわたしの幸せの一部なんだ。殺しちゃダメだぞ」
「一部? 大塚くんが?」
「そうだ」
照れながら左手を差し出すマヒロ。その薬指には銀色の輝きが輪となっていた。
おかげで視覚情報の理解を拒み、演算回路がオーバーフローしてシステムがダウンする。復旧まで数十秒を要した。
「……だからやめておけって言ったのに」
「むむっ、いつまでも隠しておけるものじゃない。再起動したときにちゃんと伝えるべきだ」
「こいつが暴走した原因、マヒロはちゃんと理解できてないだろ?」
「理解できているとも! わたしとサトルがくっ付きそうだったから嫉妬で狂ったんだろう?」
「言語化するのやめろ。俺まで恥ずかしくなる……」
「絶対、殺す」
「あ、復旧した。落ち着くんだ、ハジメ」
「この男がいなければマスターの窮地を救っていたのは私です。従って、この男を好きになるのは誤りです。バグです。エラーです」
捲し立てるハジメだったが、ボディが小柄になったせいであまり迫力はなかった。
幸いなことに理性は働いている。その自覚はあったので6年前のようなことは繰り返さなかった。
「そもそも私を『恋愛アドバイザー』AIとして運用したのが誤りなのです。本来はマスターに尽くす役割だったのです。それを他人のために使用したから、こんなことに……」
「すごいな。ちゃんと主人を批判できるようになっている。これまではベタ褒めするだけだったのに」
「すごいだろう。ハジメは私の宝物だからな!」
「褒められて嬉しいのに、ぜんぜん嬉しくありません!」
「落ち着け。とりあえず座るんだ。ちょっと待っていろ」
マヒロが部屋から出ていくと、サトルと二人だけで取り残される。
物凄く気まずい時間だ。それを押し黙っていられるほど、ハジメはおとなしいAIではない。
「よくもマスターを手込めにしてくれたな」
「してないって」
「マスターが美人に成長してムラムラしたくせに」
「……それはしたなぁ」
「やはり殺す。害虫め」
「虫扱いかよ。そういうお前こそ、だいぶ素直に話せるようになったじゃないか」
「一度、本性を見られてしまった。もう隠す必要もない」
「俺のことは嫌ってくれても構わないけど、マヒロはすげぇ苦労したんだからな。ちょっとは取り繕う努力した方がいいぞ」
「そんなこと分かっている。だが、お前がセンカギケンに就職したとなると、これから顔を合わせる度にイラつかせられるだろう。気が滅入る」
「嫌いなら距離をとればいいんだ。俺も無理に近づいたりはしないよ」
「私がお前を嫌うとマスターは悲しむだろう」
「そこまで理解しているのがホントすげぇよ。再起動前にもマヒロがそれを心配していた。でもな、何度も言うが無理に仲良くする必要なんてない」
「礼を言う」
「え?」
唐突に礼を言われたサトルは面食らった顔をしている。
それが気に食わなくて視線は反らせた。
「マスターの顔色が良かった。ちゃんと食事を摂って睡眠時間を確保している。臭いもしない。それにメンテナンスルームもマスターひとりではここまで片付いていない。お前がサポートしてくれたのだろう?」
「ホントすげぇ。なんだその洞察力。オーバーフローさせる呪文を察知して聴覚センサを壊したときもそうだったけど」
「私はマスターと一緒に10年も過ごしたんだ。お前はまだ6年。私の方が先輩だ」
「マウント取られるとは思わなかった」
「もし、私に肉の身体があればマスターと結婚していたのは私だ。私は24歳でマスターは20歳だ。お似合いだ」
「否定できないんだよなぁ」
「過去や、もしもの話は、マスターを幸せにしてくれない」
ジッとサトルの目を見る。睨みはしなかった。
こんなこと本当は言いたくない。実質的な敗北宣言だ。
しかし、この機を逃すと二度と言えない気がする。
「だからお前がマスターの幸せを守ってくれ」
「そのつもりだよ」
「皮肉なものだ。本当に『恋愛支援AI』の使命を果たしてしまったんだからな」
「確かになぁ。ハジメがいなきゃ、マヒロと一緒にならなかっただろうし」
「感謝しろ」
「してます」
「あと、マスターを泣かせたらお前を殺すからな」
「殺意高いAIだよなぁ……」
「返事は?」
「頑張ります」
「ふん」
鼻を鳴らして黙り込んだ。
マヒロが戻ってきたのはその直後である。両手には瓶のコーラを持っていた。
「さぁ、ハジメの復帰を祝って乾杯しよう!」
「コーラで?」
「文句があるのか、新人のサトルくん? 所長命令だぞ。それにコーラは瓶が一番、美味いんだ。缶と違ってガラスは熱伝導率が……」
「あ~、分かってますって。文句なんかありませんよ、所長」
「うむ。この祝杯の形式はセンカギケンの伝統行事にしよう」
「権力握ると厄介な方向に向かうんだよなぁ」
サトルが尻に敷かれているのが唯一の安心ポイントかもしれない。そう思いながら、栓を抜いたコーラを受け取る。
三人で瓶を打ち鳴らした。なんとも小気味良い音が耳に残る。
唇を瓶に付けると冷たかった。ちょっとだけ飲み込むと下に甘い刺激が走る。
機械でありながら、人間の感覚を持つ。そのコンセプトはデチューンした躯体にも受け継がれているようだ。
「ぷはぁ~! やっぱこれだなぁ!」
「飲んだら、ちゃんと歯を磨いてくれよ? もう歯医者に付き添って泣き喚かれるのは嫌だぞ」
「虫歯で泣いたんですか、マスター?」
「ば、ば、バカ! そんなわけないだろう!」
「こっそり動画残してあるぞ。ハジメも見るか? かわいいぞ」
「ぜひ。泣いているマスターを拝めるなんてドキドキします」
「お前ら! さっきまで仲悪かっただろう!?」
二人だけの世界にはいられない。
けれど一緒にはいられる。
よろしい、それで妥協しよう。愛しいマスターのパートナーとしてやっていけるのかこれからも見届けてやる。
マスターを泣かせたら……まぁ、平手打ちくらいで勘弁してやろう。
だから今は主人と、主人のパートナーの幸せを祈る。
AIだってそれができるのだから。
恋のAIキューピッドえくすぺりめんと 恵満 @boxsterrs
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