第2話 偽善の手

「痛いっ……!」

 目の前の彼女は、俺の腕を振りほどこうとして必死で身をよじった。

「教えて。なんで死にたいのか……って、え?」

 答えを聞くまでは彼女の腕を離さないつもりでいたが、手のひらにふと生暖かい感触が伝わってきたので反射的に目をやると、彼女の手首から流れ出た血液が俺の手のひらまで滴っていた。きっとそこまで出血しているわけではないのだろうが、雨が打ち付けてくるせいで皮膚に流れた血が滲んで、あたかも大量に出血しているかのように見える。腕が切れるほど強く掴んだわけではないので少し驚いたが、きっと元々あった傷口が開いたのだろう。

「あ、ごめん。大丈夫?痛むか?」

 俺が彼女の腕の傷口を思いっきり握ってしまったせいでこんなことになっているんだと気づくまで数秒の間があったが、トートバッグにタオルを一枚入れてきたことを思い出して急いで取り出し、彼女の細い手首にあてがった。

 ホームには人がちらほら立っていたが、皆スマホの画面を食い入るように見つめていたり、イヤホンで音楽を聴いていたりする人が大半で俺たちの一連のやり取りを見ていた人はいないようだった。

「……なんで。なんで止めるの?あなた誰?」

 真っ直ぐに俺を見据える彼女の表情はどんどん曇っていく。怒っているのか悲しんでいるのか、俺にはよく分からなかった。

「なんでか、分からない」

 本当に自分でも分からなかった。目の前で自殺しようとしている人がいたら自分はどうするだろうか、などという妄想をすることがよくあったが、決まって結果は、そのまま見過ごす、だった。なのになぜ俺は今、目の前の彼女を引き止めてしまったのか。これは偽善だ。完全なる偽善。俺が心底嫌っているはずの。

 ──深い自己嫌悪に襲われた。助けなかった方がよかったのではないか。彼女にとって生きるということは死ぬことよりも辛いことだったに違いない。あのまま死なせてやるのが最も慈愛に満ちた決断だったのではないか。彼女が最後に振り絞った勇気を俺が全て無駄にしたのだ。とてつもない後悔が押し寄せてくる。

「ごめん。本当にごめん。でも、お前が死ぬ前に、その、話がしてみたいと思ったんだよ……ごめん」

「いい。もういいよ、別に。ごめんばっかり」

 彼女は歯切れの悪い言葉をつらつらと並べる俺をしばらく横目で睨んでいたが、何度も謝る俺に罪悪感を抱いたのか、もしくは嫌気がさしたのか、どちらにせよ最後には許してくれたようだった。

「あと……お前って呼ぶのやめて。偉そうに」

 彼女はタオルで包まれた手首につまらなさそうな視線を落とした。

「あ、ああ。名前は──」

一夏いちか都築一夏つづきいちか

 俺が尋ね終わるよりも先に彼女が答えた。

「一夏……。あ、俺は弘原海わだずみ

 しまった、と思った。彼女に名前を聞かれたわけではないのになにを調子に乗って俺は自己紹介をしてるんだと思った。俺の名前なんて別に知りたくもないだろう。完全に出しゃばりすぎだ。いや、死のうとしている人を引き止めた時点で出しゃばりすぎもいいとこなのだが。

「ふーん。下の名前は?」

 俺の予想とは裏腹に、一夏の反応は意外なものだった。てっきり、あなたの名前なんて聞いてないけど、などと言われると思っていた。

「……祥平しょうへい

 俺は一夏の目を見ずに答えた。見ずに、というより見れなかった。俺のせいで生きる絶望をもう一度与えられた人の顔を見るのが怖かった。

「祥平か。ねえ、祥平。なんで死にたいのかって私に聞いたよね」

「うん、まあ」

 引き止めるときにもっとましなセリフがなかったのかと自分に問いたくなった。

「別にね、理由なんてないんだよ。なんにもないの」

 一夏は赤い手首をタオルで押さえながらホームに溜まった水溜まり目がけて小さくジャンプをした。水溜まりは、ぽちゃん、と丸い音を立ててホームに弾けた。

「理由もなく急に死にたくなったのか?」

「そう。なんとなく消えたくなったの」

 水かさの減った水溜まりを未だ足でぽちゃぽちゃと鳴らしながら、一夏は平然と答えた。だが、その声は僅かな焦燥感を孕んでいるように思えた。

「でも……祥平のせいで失敗しちゃった」

 一夏が消え入りそうな声でぽつりと零した一言が、俺の胸の奥をぐさりと無慈悲に突き刺した。

「それは……本当にごめん」

 俺は自分の膝が見えるくらい深く頭を下げた。

「いいの。ていうか普通は、死ぬな!とかそういうこと言うよね。変な人だね。理由を知りたいなんて」

 一夏は肩を震わせて含み笑いをこぼしたかと思えば、くるっとこちらへ体を回転させて俺の方に歩み寄ってきた。

「ねえ、今日休み?」

 なにか企んでいるようないたずらな目をしてこちらを伺う一夏に、俺はなんだか嫌な予感がしたが、「バイトだけど」と返答した。

「日曜なのにバイト?頑張りやさんなんだね、祥平」

 自分で自分が頑張っているなどと思ったこともなかったし、誰かに認められたいとも思っていないはずだった。なのに思わず表情が綻んでしまいそうになって、俺は慌てて咳払いをして空模様を気にかけているふりをした。さっきまでざあざあと降っていた雨は、気がつけば小雨程度に落ち着いていた。

「ねえ、私お腹空いちゃった。パフェ食べたいなあ」

 なにを言っているんだこいつは。今さっきホームに身投げして死のうとしてたのは誰だ。感情の起伏が激しすぎやしないか。

「あーあ、お腹空いたなあ」

 そう言いながら一夏はゆっくりと、さも意味ありげに俺を上目遣いで見つめると、わざとらしく瞬きをした。

「腹が減ったならパフェじゃなくて飯の方がいいんじゃ……。それに雨で濡れて体冷えてるだろ」

「パフェ大好きなんだもん。それに私、暑がりだから全然平気」

 どうやら是が非でもパフェを食いたいらしい。今いる駅の近くに大型ショッピングモールがあるから連れて行ってやれんこともないが、何せ今日はバイトがフルタイムで入っている。まあ、人に怒られるのは慣れているし今更どうってことはないのだが。それに、こうなってしまった責任も感じている。

「分かった。バイト先に連絡するからちょっと待ってくれ」

 俺はバイト先に適当な理由をつけて今日一日を休みにしてもらうことに成功した。本当は休みたい日の前日までに連絡をしないといけないルールなのだが、今日に限ってはそんなことを気にしている場合ではなかった。一瞬断られそうになったが、勢いでなんとか押し通した。

「休みもらえた。行こう」

 俺は若干の罪滅ぼしの意味も込めて、三番ホームに到着した電車に背を向けると、一夏のご希望通りにショッピングモールへ向かうことにした。

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