遮断機の向こう側は雨

阿久津 幻斎

第1話 警告音

 六月十二日。梅雨の猛威が列島を直撃していた日。俺は湿気のせいでいつにも増して爆発している天然パーマのまま、駅のホームで次に来る電車を待っていた。一応、朝起きてからドライヤーで髪を整えはしてきたのだが、湿気のせいでその最低限の努力さえも無駄になってしまった。

 まだ六月だというのにここ最近は三十度近く気温が上がることもあり、半袖一枚で家を出てきたのだが、今日に限って少し肌寒い。なにか羽織るものを持ってこればよかったと小さい後悔を噛み締めながら、雨で濡れて雫が滴る傘を意味もなく眺めた。

 履き古したグレーのジャージのポケットからスマホを取り出して時間を確認する。あと三分で電車が来る。その前に通過列車が通るが、一瞬だ。

 電車が来たら、目の前で止まった車両の連結部分付近の一番端の席に座る。そこが空いていなければどこでもいいのでとりあえず座席に座る。できれば端の席がいい。電車に乗るのはたった一駅分だが、立っていると呼吸をするのがしんどいので、座席が空いていれば必ず座るようにしている。そしていつものようにバイト先である小さなスーパーまで五分ほど歩いて、バイトが終わればまたいつものように家に帰る。ただそれだけ。それだけの一日が、いつも通り始まるだけ。

 人生が楽しいとか面白いとか、そんな感覚はもうとっくの昔に捨てているし、今更もう一度感じたいなんて別に思っていない。思っていないはずだ。そうでもしないとこんなつまらない毎日を生きていけるはずがない。

 街をゆく高校生などを見ていると不思議でたまらなくなる。皆して目をキラキラさせて小さい子供のように笑って、挙句の果てには夢を語ったりしている。俺にはそれが理解できない。今も昔も全く理解できなかった。思えば、俺は昔から生きる意味を探すことを早々と諦めていたのかもしれない。

『まもなく三番線を電車が通過します。危険ですから黄色い線までお下がりください』

 よく声の通る男性のアナウンスがホームに響く。ホームで電車を待っている人達は皆、アナウンスなど全く気にしていない様子でスマホに視線を落としている。

 通過列車が通る時の、風を切り裂くような爆音が嫌いなので、いつもはノイズキャンセリング機能がついたヘッドホンをつけてメタル系の音楽を聴いているのだが、今日は駅にもうすぐ着くといったところでトートバッグにヘッドホンを入れ忘れたことに気がついて諦めたのだった。その代わりに、手のひらで耳を塞いで三番ホームの音を断った。遠くの方から電車が近づいてくる音が僅かだが鼓膜に届く。

 来るなら来いと大袈裟に身構えた、その時だった。視界の左端で、淡い紫陽花色のワンピースが靡いた。その正体は、濡鴉のような深い黒の髪色をしたショートヘアの少女だった。傘を忘れたのか、服も髪もぼとぼとに濡れている。その少女はゆっくりと、しかし軽快な足取りで三番線の線路の方へ向かってゆく。少女の向こう側から、電車が緩やかにカーブを曲がってホームに近づいてくるのが見えた。その間も少女の足取りは軽やかに、着実に、ホームに引かれた黄色い線に近づいていく。

 ──ああ、そうか。死ぬのか、あいつ。俺の目の前で。死ぬんだろうな、きっと。

 俺は少女から視線を逸らせないまま、そんなことをぼんやりと考えた。たった今目の前で痛ましい事故が起ころうとしているのに、不思議と驚きはしなかった。自分の命を自分で終わらせる権利は誰にだってある。例えそれが周りにいる大勢に迷惑をかけてしまうような手段だったとしても、死んだ本人にはなんの関係もないことだ。死ねば責任もない。そして他人の俺たちが死んだやつに向かって文句を言う権利なんてものもない。

 少女のつま先が黄色い線の縁にかかる。カーブを曲がりきった電車はさらに勢いを増してこちらに向かってくる。

 ──このまま本当に死ぬんだな。こんなのにぶつかったらきっと死ぬ時痛いだろうな。でもなんで。なんで死にたいんだろう、あいつは。なんで、なんで俺もこんなに死にたいんだろう。なんであいつと同じ気持ちなんだろう。

「……なあ。お前なんで死にたいの?」

 俺は少女の細い手首を掴んで引き寄せた。完全に無意識だった。体が勝手に動く、なんてよくいうが、本当に勝手に動くものなんだなと自分でも驚いた。俺はただとてつもなく、彼女のことを知りたいと思った。

 通過列車が風を切り裂いて轟音と共に走り去ってゆく。濡れた髪を揺らして振り返った少女の頬は梅雨の雨に濡れていて、ほんの少し潤んだその目には確かに俺を映していた。

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