ピソ・グラナダ
月庭一花
Piso Granada
自分の寄る辺というものがどこにあるのか、そもそもそれが一体なんなのか、わからないままこの歳になってしまった。
でも、それでいいと思っていた。これからもずっとそうなのだろうと、思っていた。薄い人間関係のせいで困ったことなんて、今の今まで、一度もなかった。
「子ども……中学生くらいの子って、何を考えているものなのかしら」
わたしがアルコールで口を湿らせながら、何度目になるだろう、呟くようにそう言うと、
彼女の手にした果実酒のグラスに間接照明の灯りが反射して、丸いふちが小さく光っていた。わたしは唇の端だけで薄く笑いながら、ごめん、ちょっと酔ったみたい、と謝りつつ、ミックスナッツのお皿からカシューナッツを見繕って拾い上げ、口の中に放った。
どこかで聞いたことがあるような古めかしいジャズの音色が、わたしたちのあいだを静かに流れていた。
灯心は子どもが苦手なのだ。
自分の心と体と時間を吸い取られる気がして、近くに寄られると落ち着かないのだと。だから、子どもはいらない。作らない。そう決めている。けれど今の夫がそれに対して心の底から同意しているのかどうか、わたしは知らない。
「でもさ、ニーネが子どもを引き取るだなんて、最初は冗談かと思った」
灯心が鼻で笑った。
わたしも苦笑を返した。
「引き取るというか、わたしが引き取られる、というか」
「で、いつ発つんだっけ」
灯心はわたしの言葉を半分無視して、わたしを見ずに言った。
「来週の火曜日」
「P県の?」
「閖町」
「遠いところよね」
「それほどでもないわ」
わたしはちらりと横目で灯心を見ながら、グラスに残った最後の一口をゆっくりと飲み干した。
「あなたがいなくなると淋しくなる」
灯心がわたしの空いたグラスを見つめながら、言った。
「嘘ばっかり」
と、わたしは答えた。
……灯心と初めて寝てから、何年くらい経った?
わたしはわずかに天井の方に目を逸らしながら、指を折ってみる。二年……三年に届くか届かないか、そんな感じ。最初から体の相性はすごく良かった。良過ぎたから、お互いに深入りしないようにした。だから、こんなにもひとりの人と長く恋愛めいた関係が続いたのかもしれない。
理想的なセックス・フレンド。そのあいだに彼女は結婚して、わたしは独身のまま歳を重ねた。
わたしたちの選択が良かったのか悪かったのか、わたしたちにはわからない。
「時々はこっちにも顔を見せに来るんでしょ?」
「どうかな」わたしは言った。「そんな先のことはわからないわ」
「あなたがいなくなると淋しくなる」
もう一度、灯心がわたしの目を見ながら言った。
さすがに今度は、嘘ばっかり、とは、言えなかった。
アルコール混じりの吐息を吐きながらアパートの鍵を鞄の底から探し出して、玄関の扉を開けた。がちゃんという金属的な低い音と、灯心から貰ったキーホルダーが付いたカラビナの、ジャラジャラした安っぽい音が変な和音になって耳に届いた。
……今日、灯心とホテルに行けばよかったかな。
デフォルメされた熊のキーホルダーを見つめて、小さな声で呟いてみる。
灯心とこれで縁が切れてしまうわけではない、とは思うけれど、それならそれで仕方がないかな、とも思う。わたしは来週にはこの街を離れ、見知らぬ土地で生きていく。気軽に、頻繁に会える関係ではなくなってしまう。
灯心には片意地を張って、それほど遠い場所なんかじゃない、と言ってしまったが考えてみたら随分と遠いところに行くのだな、と今更ながらに思えてきた。
わたしはあと少しで主人を失う、住み慣れた室内を見渡した。随分と閑散としてしまった、殺風景なわたしの部屋を。
あらかた荷物はリサイクルか廃品に出してしまて、すぐに使わないものに関しては、幾つかの段ボール箱にすでに仕分けが済んでいる。
また飲もうよ、いつでも連絡して。
最後に灯心はそう言って、駅の改札に消えていった。わたしはその背中を、不思議な気持ちで見ていた。最後にわたしを見た彼女の目を、思い返していた。切ないような、悲しいような、けれどどこか吹っ切れたような、不思議な気持ちで。
灯心の指が好きだった。
仕事で荒れて、いつもハンドクリームの匂いのする、灯心の木蓮のような指が、好きだった。
窓を開けると花の匂いが幽かに流れてきた。
薄い、桜の花の匂い。
春の靄と、淡い輪郭の街灯の明かり。
遠くを行く車の音。
夜の気配。
あともう少しで、全部わたしから遠ざかってしまうもの。ううん、違う。わたしが遠ざけてしまうものの姿を。
わたしはじっと立ち尽くしながら、静かに感じていた。
もう耐えられない、と思ったのは、去年の年の暮れだった。
ひと月前から始まった新型ウイルスの感染症が病棟を蹂躙して感染者の数を増やすなか、人手が全然足りなくて、わたしたちはそれこそ文字通り、予防着を身につけ、病棟内を走り回っていた。
わたしが勤めていたそこは、慢性期の精神科病棟だった。
帰る当てのない長期入院患者ばかりで、いったいどこからウイルスが持ち込まれたのか不思議で仕方がなかった。今にして思えば、わたしたちスタッフの誰かが外から持ち込んだものだったのだろうと、推測することができるのだけれど。
……思い返してみても、病棟の中はとてもひどい有様だった。物があちこちに散乱していて、いつまでも整理がつかず、まるで野戦病院のようだった。
患者にしても同じくらい収拾のつかない状態だった。もともと認知症の患者の多い病棟なのだが、ベッドで安静にしていて欲しいのに、理解が乏しく、熱があっても咳をしていても、マスクもせずに廊下を徘徊する。状況が理解できず、些細なことですぐにナースコールを押して、対応が遅れると怒り出す。点滴は自己抜去する。酸素マスクもモニターもすぐに外してしまう。悪いことが次々と重なる。何かある度にわたしたちは走り回らなければならない。
その日は夜勤で、もうすぐ仕事が終わるという時間帯で、でも、作り笑いのストックもそろそろ尽きかけた、朝食介助のあとのこと。
俯き加減で廊下を足早に歩いていたわたしに、ひとりの男性患者が声をかけてきたのだ。さも偉そうに、腕を組んだ姿勢で。
「あんたさ、看護師がそうやって俯いて暗い顔をして歩いててさ、俺たち患者に悪影響だと思わない? プロとしての自覚ないの?」
と。
わたしはそれを聞いた瞬間、心の中の何かがプツンと切れてしまって、何も言い返せなかった。ただ、涙が後からあとから溢れてきて、止まらなくなってしまった。そして何かが確実に消えてしまった。こんな仕事辞めてやる、と初めて思った。
呆然と立ち尽くしているわたしを発見したスタッフのひとりが、慌ててわたしの手を引いてナースステーションに戻させ、バックヤードに連れて行った。そのあいだもずっと、わたしは静かに涙を流し続けていた。
しばらくしてから記録を書きに戻ると、一緒に夜勤をしていた先輩スタッフが散々わたしを泣かせた患者の悪口を言ってくれて、少しだけ胸がスッとした。でも、この仕事を辞める、という決意は、結局覆らなかった。
そんな程度のことで仕事を辞めるなんて、と、この話を聞いた人は思うかもしれないし、実際、そうなのだろうと自分でも思う。看護師をしていれば嫌な思いをすることなんて、それこそ枚挙にいとまがないのだから。あるいは根性なし、という誹りを受けることだって、あるかもしれない。
それでもわたしは、もう、看護師としての自分の将来が、見えなくなっていた。あれほど苦労して取得した資格なのに、放棄することになんの未練もなかった。でも、看護師を辞めて何をして生きていくのかなど、そのときは想像もつかなかった。
泣きすぎてひりひりする頬のまま家路に着くと、わたしはシャワーを浴びることも無くリビングに敷いたカーペットの上に突っ伏して、そのまま動けなくなってしまった。化粧を落とさなきゃ、そもそもコートすら脱いでない、なんて、つらつらと思いながら。
どのくらいそうしていただろう。
不意に何かが震えている音に気づいて上半身を起こしたわたしは、無意識のうちに床へ放り投げていた鞄の中に左手を伸ばし、スマートフォンに触れた。
そのとき、予感がした。
何か大きな流れの中に、入り込んでしまったような、そんな予感が。確かにしたのだ。
画面を見ると、見知らぬ番号だった。市外局番にも見覚えがない。
いつもだったら、そんな電話、絶対に出ないのに。わたしはなぜか通話の表示をフリックして、そっとスマートフォンを耳に宛てがっていた。
「もしもし」
わたしの声は思った以上にかすれていて、刺々しかった。いかにも不機嫌そうだった。
「どなたですか?」
「……
答えたのはとても若い、女の声だった。
聞いたことのない声。多分、初めて聞く……声なのだけれど、何故だろう、どこか遠い昔、聞いたような気がする、不思議な声だった。
「そうですけど、あなたは?」
「わたし、
わたしは絶句した。
現実感がなくなって、周囲から色が消えていく気がした。
姉の一花が失踪したとき、彼女が妊娠していたらしいということを、あとから親に聞かされて知ってはいた。でも、まさか。それが本当で、その娘がわたしに電話をかけてくるなんて、思ってもみなかった。
「急に電話してごめんなさい。どうしても、新音さんに伝えなきゃいけないことがあって……」
「一花のこと?」
わたし声は更に低く、硬くなっていた。それに気圧されたのか、佐久と名乗った女が一瞬言葉に詰まった。
「いいえ、
「母が?」
「……今朝、息を引き取りました」
「え? 待って、何? ……え?」
「死んじゃったんです」
頭の中が真っ白になって、何を言われたのか理解できなかった。
喉がカラカラで、舌が口の中に貼り付いて、言葉にならない。
「ごめんなさい、電話で、こんな話をして。でも、もう」
電話口の声が、しゃくりあげるような涙声に変わった。
わたしは慌ててスマートフォンを右手に持ち替えた。
「佐久? 佐久ちゃん? お願い、一花はそこにいるの? 佐久ちゃんと代わってくれる?」
わたしは言った。でも、耳に届くのは彼女の嗚咽だけだった。
「ねえ、佐久ちゃん? 聞いてる?」
「母は」
また、沈黙した。わたしは我慢強く耳にスマートフォンを当て続けた。
「わたしに母はいません。どこにいるのかも知りません」
わたしは足元から地面が崩れ落ちていくような感覚にとらわれながら、ただ、その言葉を聞いていた。
何が何だかわからなかった。
わたしの実家は、埼玉の桶川だった。
だった、と過去形なのは、もうすでにそこには家がないからだ。建物としては残っているかもしれない。でも、もう誰も住んでいないはず。あるいは買い手がついているのだろうか。わたしはよく知らない。
母はわたしが知らないあいだに家を処分してしまっていたらしい。
一花の娘……佐久が言う今の居住地であるP県閖町という地名には、まったく聞き覚えがなかった。
なぜ母がそんな場所で人生の最期を迎えたのか、どうして一花の娘が母の最期を看取ったのか、やっぱりよくわからない。佐久が電話口で混乱していて、うまく説明できなかったというのもあるし、わたしはわたしで気が動転してしまっていて、言葉が耳の中を文字通り、素通りしたのだった。
そういえば、実家には何年帰っていなかったのだろう。あれは、父の葬儀のときが最期だから……もう四年近くになるのか。
実家のすぐ近くの畑には、市の特産品の紅花が植えられていて、初夏には黄色やオレンジの花を咲かせていた。連作不可の植物だから数年ごとに違う作物を植えていたはずだけれど、父が亡くなったときにも紅花は、美しい黄色やオレンジの花を咲いていた。……あの景色もずいぶん遠くなってしまった。
感染症がまだ収まりきらず、忙しい病棟の業務をひとり抜けるのは少しだけ気が引けたけれど、さすがに母の葬儀に出席しないわけにもいかない。というか、わたしが喪主になるのかもしれないのだ。
師長に母のことを相談すると、快く、とはいかないものの、苦労して勤務調整をしてくれた。わたしはクリーニング店の袋に入ったままの喪服と、礼装用のハンドバックなどを旅行用のキャリーケースに詰め込んで、その日のうちに出立した。もう何年も会っていなかったからだろうか、なんだか現実感がわかなくて、悲しいのかどうかもよくわからなくて、まるでふられたあとの、傷心旅行にでも出かけるような気分だった。
新幹線に乗って、外を見ていると、不意に胸の内に去来するものがあった。
わたしも姉も、ずいぶんと親不孝だったのかもしれない、と思う。
母があの家を出て遠い場所で暮らすようになったのは、あるいはわたしたちのせいなのかもしれない。
佐久の話では、母は心臓の発作で亡くなったらしい。
車窓を景色が流れていく。口の中が苦くなった。
わたしはそれ以上考えないように、窓の外をじっと見つめていた。
閖町に着いたのはお昼過ぎだった。駅を出ると、なぜか水の匂いがした。
雨……じゃない。もっと質量のある、水そのものの匂いだった。
空は晴れている。
遠くの、まだ雪を頂に載せた山の峰に、僅かにたなびくような、色のない雲が浮かんでいた。ずいぶん遠くなのに、迫ってくるように見える。まだ春が遠いからだろうか。雪の白さが目に痛いほどだった。
ふと目を戻すと、駅のロータリーを出たところでコートを羽織ったセーラー服姿の女の子がぽつんと一人、ぼんやりとした目つきで佇んでいた。はっとするような美少女、というわけでもないのだけれど、寒さに頬を染めているのにどこか泰然としたその立ち居姿は、不思議と人目を惹いた。
肩につくくらいのミディの髪が、右のおでこのところで斜めに、ぱっちん式のヘアクリップで留められている。
その子どもっぽさとは真逆に、胸元に結ばれた真っ赤なスカーフが、なぜか年齢に似合わずとてもエロティックだった。そこだけが冬の景色の中の唯一の赤で、なんだか見てはいけないもののように感じてしまって、わたしは彼女の顔に視線を戻した。
「はじめまして、佐久です」
わたしの目の動きに気づいたのか、女の子が小さく頭を下げた。彼女の方ではわたしのことを、すでに気づいていたらしい。
わたしも慌てて、ぺこりと頭を下げた。首に巻いた新しいマフラーが、少しだけちくちくした。
「新音です。あなたが佐久ちゃん?」
わたしはマフラーを緩めながら訊ねた。
「ええ、電話では取り乱してしまって、申し訳ありませんでした」
そう言って佐久がもう一度頭を下げた。そのとき、ちらりと見えてしまった。
彼女の頭には、つむじが二つあった。
それが、その位置が、いなくなってしまった姉にそっくりだったので、わたしはおもわず息を飲んだ。
面立ちはあまり一花に似ていない。
でも、子どもっぽい艶やかな髪のつむじの位置が、あまりに一花に瓜二つで。
ああ、本当にこの子は一花の娘なんだな、と思った。
すとん、と腑に落ちた気分だった。
「……あの?」
「ううん、ごめんなさい。それで、さっそくで悪いんだけど」
「はい。でも、通夜やお葬式の手配はもう、教授が」
「教授?」
「ええ、ピソ・グラナダの」
「え? ピソグラ……ってなに? 待って、ごめん、全然話がわからないんだけど」
佐久がきょとんとした瞳を向け、わたしを見上げていた。どうしてわからないの、と言いたげな視線で。小さく首を傾げている。
「もしかして伶子お婆さまから……何も?」
「ええとその……」
わたしは少ししどろもどろになって、
「母とはずっと連絡を取っていなかったから。埼玉からここに越したのだって、今回初めて知ったくらいで」
本当にこの人は娘なのか、という疑いの目で、佐久がわたしを見ていたわけじゃない。でも、後ろめたくて、わたしはそっと視線を外した。佐久のローファーが、つやつやと光っていた。
「ピソ・グラナダは、伶子お婆さまのアパートです」
佐久が小さな声で言った。とすると、母はそのアパートにひとり……いや、いつからかはわからないが、孫の佐久と二人で住んでいたのだろう。そして教授というのは御近所さんか誰かのことで、ハイソサエティーな人の特性ゆえか、生前から親身になってくれていたのに違いない、……なんて。そう、思っていたのだけれど、
「ううん、アパートというよりも……ピソ・グラナダは伶子お婆さまが大家さんをしていた、下宿みたいなところです」
続けてそう言った佐久の髪を、冷たい風がさらりとゆらした。
広い中庭の中央に、古い柘榴の木が植えられていた。
もしかしたら、グラナダ、という名前は、この木から取ったものなのだろうか、と、ゆれる冬でも濃い緑の葉を見つめながら、ぼんやりと思った。
そのほかにも中庭には、雑多な木がいくつも植えられている。藪椿が赤い花を咲かせている。桜の木はまだ冬枯れのまま。午後の光がさわさわと、地面の上で踊っている。
けれども一番存在感があるのは、やっぱり大きく枝を広げた柘榴の木だ。
わたしはまだ喪服姿のまま、西日の射すベンチに腰をかけて、その木を見るともなく見続けていた。背後には古びた西洋風の館が建っていて、その中では人の気配がゆらゆらと動いていた。生活の匂いがした。もうずいぶん前にやめたはずなのに、無性に煙草が吸いたい気分だった。
「ニーネさん?」
ふと声をかけられて視線を向けると、中庭に面した露台に教授が立っていた。
軽く会釈をすると、教授……
プラチナブロンドに青い瞳。華奢な体つき。上品な佇まい。名前から日本人とのハーフなのかもしれない、と最初は思ったが、鴻というのは死別した夫の姓らしい。本人はイギリス、ウェールズの生まれだと言っていた。歳はわたしの母と同じくらいだと思うのだけれど、どうだろう。人種の違いもあってよくわからない。ただ、声は驚くほど若々しかった。
「お疲れでしょう」
彼女がゆったりとした仕草で、わたしの隣に腰を下ろした。そして左手に持っていた封書を、自分の膝の上に置いた。
「わたしより、ええと……」
「アリスで構いませんよ」
「アリスさんの方こそ」
「こういうのは、年の功ですから」
教授は言った。そしてほんのわずかだけれど、とても美しい笑みを頬の上に浮かべた。この人があと三十歳若かったなら、わたしは彼女の虜になっていたかもしれない。
おっとりとした仕草や振る舞いとは裏腹に、葬儀の手はずや手配はとても速やかで、非の打ちどころのないものだった。そういった手腕に長けた人なのだと思った。慣れないわたしは反対に、ただ右往左往していただけだった。
「友人を見送るのに慣れてしまったら、本当はいけないのでしょうけれど、ね」
「母とは、その、どういう関係だったのですか」
わたしは訊ねた。葬儀のあいだもずっと疑問に思っていたのだけれど、聞くタイミングが見つけられなかったのだ。
「伶子さんとわたしは大家と店子、それだけです。でも」
アリスさんは手にしていた封書を、わたしにそっと手渡した。
「あなたへの手紙を預かるくらいには、友人だったと思います」
手渡された封筒はしっとりとした冷気をまとっている。さて、この手紙はどうしたものか、と思っていると、
「新音さん、それに教授まで」
今は灰色のカーディガンを羽織っている、制服姿の佐久がわたしたちのところに来て、小さく首をかしげた。
「
「少し、ニーネさんに話があったの。
教授がまぶしそうに目を細めて、佐久に訊ねた。
「
「佐久は、まだ着替えないの?」
わたしが訊くと、佐久は苦笑して、私服よりも楽だから、と答えた。制服の方が私服よりも楽だななんて、ちょっと変わっている。
「新音さんだって喪服姿のままじゃないですか」
それはそうなのだけれど、わたしの方はなんとなく居場所がなくて居づらくて、そのままにしてしまっただけだった。
教授が居住まいを正した。
「わたしたちも、もう少ししたら行きますから。
「ええと……やっぱりまだ、おつらそうでした」
「そうですか……」
教授は小さく息を吐いて、顔をうつむかせた。
わたしは一度挨拶をしたはずなのに人物の名前と顔がまだ一致しなくて、口を挟むこともできず、ただ、教授と佐久の会話を横で聞いていた。
「じゃあ、お待ちしていますね」
佐久がぺこりと頭を下げて、背中を向けた。わたしと教授は佐久の遠ざかっていく後ろ姿を見送っていた。
「実はね、生前の伶子さんに言付けを頼まれていたの。この手紙だって、まさかこんなに早く手渡すようになるなんて、思ってもみなかった。いつぽっくり逝くかわからないから、なんて伶子さんは笑っていたけれど。でもやっぱり……こんなに早く逝くとは思わなかった」
教授は佐久の背中を見つめたまま、わたしに向かってそう言った。
「アリスさんは手紙の内容を?」
わたしは訊ねた。教授は小さく頷いた。
「手紙を読んでいただければわかると思うけれど、伶子さんはあなたに佐久のことを……というよりも佐久にまつわるあれこれを、頼むつもりはなかったみたい。ここのことだって、……本心はどうかわからないけれど、わたしに一任すると言っていたわ。でも、わたしはあなたが継いでくれて、佐久の後見人になってもらえたら、嬉しいなって、思うんです」
そして教授はわたしの目を見つめた。
「それが一番正しいことだと思うの」
わたしは少し汗ばんだ両手を、封筒の上で重ね合わせていた。
その日の夜、夢を見た。
葬儀と通夜と過去と現在がごちゃ混ぜになったような不思議な夢で、ああ、やっぱり母を亡くしたことが相当堪えているのだろう、と、夢の中で思った。いわゆる明晰夢だった。
母は、畳の部屋に寝かされていた。顔には白い布がかけられていた。母の周りを、店子である入居者の方たちが囲んでいる。
夕暮れの部屋は薄暗く、冷えていた。
人の気配に気づいたのか、取り巻いていた人の輪が崩れて、わたしたちを見た。わたしは佐久の手を引いて、母の顔のすぐ近くに座った。でも、
母に触れるのが、少しだけ怖かった。
佐久が薄い表情のまま、ぽろぽろと涙を流していた。そっと、母の手を握ってくれていた。なんのてらいもなく。
わたしも意を决して、母に手を伸ばしかけた、そのときだった。
「新音さん、でしたっけ」
髪を赤く染めた少し目つきのきつい女の子が、わたしに向かって声をかけた。
「あまり大家さんと似てないんですね」
「ゆりねさん……今そういうのは」
か細い声で窘めたのは、長い髪の眼鏡の女性。青白い顔をしている。わたしと目が合うと、小さく頭を下げた。わたしも彼女の色素の薄い榛色の瞳を見返したまま、会釈を返した。
「もうすぐお坊さんが来るはずだから、ゆりちゃん、そちらをお願いできますか」
教授が言うと、彼女は無言で立ち上がって、部屋を出て行った。
「ごめんなさい。あの子……度会さんも悪い子ではないのだけど」
「いえ」
不意に読経が聞こえてきて、慌てて立ち上がって部屋を出ると、次の間は町のセレモニーホールになっていた。母の写真が飾ってあって、焼香の台が設置されている。
小さな女の子が、手に持ちきれないくらいの、花を持っている。白い花弁が手からはらりとこぼれた。
「夢、棺の中にお花を入れてあげて」
叶さんがそっと少女の背中を押す。
女の子が母の棺に次々と花を落としていく。
抹香の匂いがする。
佐久がわたしの袖を、そっと引いた。
「伶子お婆さまは天国に行けますか」
お焼香の列に並んでいるのは、見知らぬ人たちばかりだった。その中に、一花の姿を見つけてわたしは慌てて駆け寄った。
「今までどこに行っていたの? いつこっちに帰ってきたの?」
窓の外を見ると、一面に紅花が咲いていた。
蝉の声が聞こえた。
あれ、ここはどこだろう、と思っていると、遺影が父のものに変わっていた。
母がわたしの隣に立っていた。
「こんなときにも、一花は戻ってこないのね」
母が溜め息まじりにそう言って、ハンカチで目元を拭った。姉さんならさっきそこにいたわよ、とわたしは母に声をかけ、振り返った。
でも、そこに立っていたのは佐久だった。
佐久ははらはらと涙を流しながら、わたしを見つめていた。
そして一言、
「お母さん」
と、小さな声で呟いた。
ピソ・グラナダ 月庭一花 @alice02AA
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます