俺だけ早い夏休み

八木沼アイ

お見舞い

 朝、カーテンから入る日差しとともに俺は起きる。白い壁に手を置き、体を支えながら歩く。意識があやふやだからか壁を触る感覚が薄れているように感じる。寝起きだからだろう。この世界になぜ俺が生まれたことを考えながら洗面所へと足を運ぶ。


「おはよう」


 鏡に映るこのいけ好かない顔とも今日で数万回目だ。まだぼんやりとしていて、視界も思考もはっきりしていない。目が覚めるように冷たい水で顔を洗った。タオルで顔を拭くと、意識がはっきりしてきた。そうだ、思い出した。今日は俺の脳の移植手術の日だ。自分が本当に脳移植の当事者なのか、自分でもよくわかっていない。感覚が薄れている手で壁を伝いながらベッドに戻り、横になっていると、看護師が来た。


「高峰さん~」


「は、はい」


「今日の午後、予定通り手術が行われますので、事務的な確認を行っていきます」


「わかりました」


「では初めに……」


   ○


「……以上で終了となります。ありがとうございました」

 と、不愛想に言い放ち、彼女は去っていった。自分が脳移植の当時者であることを再認識させられ、憂鬱な気分がとぐろを巻いて体に纏わりついた。ふと窓に目をやると窓の表面が濡れていた。どうやら看護師と話している内に雨が降り始めていたようだ。空を伝い、木を伝い、目の前の木の葉を伝い、一滴の雫が零れ落ちる。あぁ、孤独だな。そんな文学的な感想を持ち合わせながら、窓を見つめた。


 窓から見えたのは、傘を持って病院に入っていく人達だ。それを見て今日の手術の他に思い出したことがもう一つあった。そのことが正しいかどうかを確認するため、隣の棚の引き出しからメモ帳を取り出した。そこには見覚えのない付箋が貼ってあった。そのページを開くと短い一文が書いてあった。


 「7/2(日) 11~12時  お見舞いにいきます」


 ただ、見る限り俺の字ではない。明らかに綺麗だからだ。推察してみるに、女性の字だ。このメモから読み取れる情報は今日の正午前ぐらいに、誰かがお見舞いにきてくれるということだけである。俺が思い出したことの答え合わせをして、俺は改めて訝しむ。その人が誰かは知らない、ただメモ帳を見たら書いてあった、それだけだ。


 しかし、信じられない。


 俺は人のことを好きにはなれない性格だ。原因は俺にある。コミュニケーション能力が低い。所謂コミュ障というやつだ。「小中高で、一番親しく接していた友人はいますか?」と聞かれたら、俺は素直に答えられないだろう。なぜなら俺は、散々人の好意を無下にした挙句、自分から外界との接触を切ったからだ。だから疑問に思った。なぜ、俺なんかのお見舞いに来るのか。もしかして、冷やかしか、と一瞬考えたが、そもそも冷やかしをされるほどの関係値を築いた友人がいないことに気が付き、その可能性はないと帰結した。


 怪しむと同時に、俺のお見舞いに来る人がどんな人なのか、興味を持っている自分がいた。正直なところ、少しワクワクしていた。顔も知らない、誰か。自分なんかと会ってくれる誰か。妄想が膨らんでいくうちに、時間は経っていった。


 俺は緊張していた。鼓動が高鳴り、耳を澄ますと耳の周囲の血管が心臓のように音を鳴らしていた。そんな感覚は久しぶりだった。時計を見ると、針は11時半を指していた。

 待ちわびていると、病室のドアが開き、看護師さんと後ろに少女が立っていた。


「今日、高峰さんと面会する方がいらっしゃいました」


「あ、はい」


「失礼しま~す」


 そこには果実の入ったバスケットを肩にかけ、制服を着た短髪の少女。華奢な可愛らしい少女。

 かわいい。

 素直にそう思った。というか誰がどう見てもそう思わせるような風貌だ、見て確信した。俺の完全に知らない女性だ。どれだけ記憶を探っても思い出せそうにない。

 人付き合いが乏しい俺にとって、あんな子と知り合いになった暁には飛び跳ねて大喜びするだろう。だからこそ忘れるはずがない、忘れてはならない。しかし、記憶にない。


 彼女がこちらに歩き始め、口を開く。


 「こんにちは」


 「え、あ、はいこんにちは」


  ぎこちない挨拶から会話は始まった。


 「私のこと覚えていますか?」


  俺はこの時、過去の俺を恨んでは呪った。


 「その様子だと覚えていませんね、私の名前はシキです。小湊シキ」


 「そうか、シ、シキさんはどうして俺のお見舞いに?」


 「さん付けなんて、呼び捨てでいいですよ!高峰さんに果物持ってきました」


 「あ、あぁ、ありがとう…」


 (俺の質問無視かよ…)

 

 彼女はバスケットから取り出したナイフで、リンゴの皮を剥き始めると俺が食べやすい形に切ってくれた。


 「はい、あーん」


 咄嗟なことで勢いのまま、身を乗り出して口を開ける。


 「あ、あーん」


 そこで目の前が暗くなった。正確には画面が暗くなった。

あぁ、忘れていた。俺は、VRのゲームをしていたんだ。VRゴーグルを外すと、周りに映るのは空虚な自分の部屋だった。没入感から脱すると突然自分の存在を過小評価しはじめる癖がある。俗に言う賢者タイムに近いものかもしれない。


 俺は横に顔を向ける。ベッドに置かれている彼女は動かない。もう笑顔は見れないのだ。彼女の顔に似たキャラクターが目に入れば、すぐに買っては遊ぶ。彼女の幻影をいつまでも追いかける。その繰り返しだ。現実は直視したくない。逃げたいのか、いや違う。受け入れたくないのだ。それを受け入れてしまえばきっと、本当に彼女は動かなくなってしまうから。俺は再び、ゴーグルをつけた。

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