第7話 Ⅴクラウド・キッズ
1
待ちわびたチャイムが鳴り響き、授業の終わりを告げる。
ようやく、ランチタイム。
皆やれやれといった顔つきで、教室の外へ出て行く。
夏休み明け直後。
時間が経つのが超遅い。
放課後まで、まだ先は長い。
ため息まじりで、廊下を歩いていると視線を感じた。
……向井龍樹。
こちらへ向かって来る。
心拍数が急上昇。
足元に視線を落とし、緊張を気取られぬようにする。
が、向井クンはあっさり横を通り過ぎていく。
思わず、ふうと大きく息を吐く。
あれから、もう四十日以上。向井クン、きみにとってはまだ、昨日のことのように感じられるだろうね。きみがまず最初に犯人として疑われるのは、こちらの計画通り。おかげで色々と隠蔽工作する時間の余裕を得られました。
感謝!
警察から長時間取り調べを受けて、とても怖かったことでしょう。
でもねえ、一年前のことを思い出してみようか。あれだけのことをやらかしておいて、何のお咎めもなかったんだよ。それを考えれば、こう言っては何だけど、いい気味さ。
やばっ。
ちょっと、顔がにやついてしまった。
注意、注意。
渡り廊下を過ぎて角を曲がる。
「先生。小林先生」
突然、背後から声を掛けられた。
振り向くと、さっきすれ違ったはずの向井龍樹が、思い詰めたような表情で立っている。
「この前のクラウド・キッドの正体って、実は先生ですよね?」
2
校長室のドアは閉じていた。
二学期になって、ドアは常にオープン状態にしておくという方針を変えたのだろう。
龍樹の後ろには、小林教諭が立っていた。
一緒に来るよう要求したのだ。
先ほど、いきなり廊下で糾弾した際は、こちらが期待した以上のはっきりした動揺を見せた。
一笑に付され、相手にされないことも覚悟の上だったが。
逆に言えば、もう後戻りはできない。
拳を上げて、ノックした。
「――どうぞ」
ドアを開けた。
正面のデスク越しから、校長が覇気のない視線を投げてきた。
一瞬、驚いたようにも見えたが、すぐに疲れた表情に戻り言う。
「どうした、二人そろって? もう面倒は勘弁してくれよ」
「この前のクラウド・キッドの正体について、話しがしたくて来ました」
龍樹は言った。
「……実はやっぱり、きみがやったってことか?」
い ぶかしげに校長が言う。
「違います」龍樹は後ろを振り返り、うつむいたままの生物教師を見やった。「ぼくは、クラウド・キッドの正体は、実はこの小林先生じゃないかって思ってます」
校長は、冷ややかな目つきを龍樹の背後に向けた。
「小林先生? 一体、どういうことです?」
小林教諭は一言もしゃべらない。
校長は、あきらめたようにため息をつくと応接セットを指さした。「まあ、いい。ふたりとも、とりあえず、そこに座りなさい」
「……何だかよくわからないが、手短に頼むよ」
正面のソファに深々と腰を落として校長が言った。
「努力はします」背筋を伸ばして龍樹は応じた。「今回、一連の騒動に関わる中で、何となく引っかかる点がいくつかありました。まず、小林先生が言ったことなんですが」隣を横目で気にしつつ続けた。「先月の初め、例の犯行予告文の件で、ぼくはここに呼び出されました。そのあと偶然、裏の川原で小林先生と生物部の生徒たちに会ったんです。先生は川魚の捕獲をしていて、部員たちはそれを手伝いもせず、ラジコンで遊んでいました――犯行で使われたのと同タイプのラジコンです。それゆえ、後日彼らは疑われてしまったのですが、それはひとまず置きます――水槽の魚が全滅したから、先生は魚獲りをしていたんですよね? 何種類かの小魚のうち、もうある程度は集め終えて、すでに水槽にいる。ただ、まだ捕獲できていないものがある――たしか、そういうお話しでした。ぼくが、(おやっ?)と思ったのは、生物室の施錠について先生に尋ねたときです。特に貴重品を置いているわけではないので、今この時も鍵は掛けていないと小林先生は言いました。でも、魚の全滅の原因について、先生は毒物の混入の可能性も否定せずというスタンスだったはず。同じことをやられるのではないかとの懸念を、普通は抱くと思うのですが。苦労して、同じ魚たちをまた集めているわけでしょう。先生にとって、水槽の魚は貴重品ではないんですか?」
「なあ、逆なんじゃないか」校長が退屈そうに言う。「たとえば、きみが、空き巣の被害に遭ったとしよう。数日後にまた同じ目に遭うなんて、普通考えるか?」
「たしかに考えないかもしれない。ただ戸締りは、きちんとしようと思うでしょう」
「フン」と校長が鼻を鳴らした。
「それと、はっきりしない原因で魚が全滅したことへの動揺、悲しみ、もしくは恐怖といったものが、小林先生から伝わってこなかったんです……。そもそも、素人ならともかく、小林先生のような方にとって、全滅の原因が濾過装置のトラブルか毒の混入かわからないなんてことがあるのでしょうか。その辺りがどうしても腑に落ちなかったんです。それで、終業式にあの事件が起き、再び小林先生のことが、あくまでおれの中でですけど、クローズアップされてきました。生物部員たちのアリバイを証明してあげたと警察から聞きました。でも、これって、逆に自分にはアリバイがあるっていうアピールでもありますよね。何だか、都合がよすぎるように感じました」
「いったん、ある人物を疑うと、そのすべてが疑わしく見えてしまうんだな」校長が皮肉な調子で言う
「先月末の加々見川クリーン・フェスタにぼくも参加したんですが」龍樹はめげずに話しを続ける。「そこで生物部の生徒たちも見かけたんで、いい機会だと思って、色々訊いてみたんです」隣で小林教諭が身じろぎするのがわかった。「今、触れたように、今回の件で彼らは容疑者扱いされました。ぼくも同じだったんで、お互いひどい目にあったねというとっかかりで。幸いにも、彼らは、小林先生の証言のおかげですぐに疑いが晴れた。七時半前後のアリバイが、今回重要なポイントになっています。彼らがその時刻に生物室で会話していたことが、先生の証言で証明されたのです。だけど実をいえば、先生は彼らとずっと一緒だったわけではなかった――そうですね、先生?」
龍樹は、ここで初めてまともに隣へ目を向ける。小林教諭はうつむいたままだ。
「彼らへ、試しにちょっと、かまをかけてみたんです――きみたちは、小林先生と大体七時十五分から四十五分ごろまで、一緒だったって聞いたけど、本当かな? 別の場所で小林先生らしき人を見た気がするんだけどって――彼らは、あわてた様子で、白状してくれました。ここだけの話しにしておいてくれという約束で。彼らが言うには、いつもの習慣で仲良く時間をつぶしていたところ、先生が姿を現した。それで先生も会話に参加……ただ、先生は途中スマホに着信があったらしく、退室。およそ、七、八分後にみんなのところに戻った。その後、終業式で事件発生。それぞれが教室に戻り、ラジコンの件でもしかしたら自分たちが疑われるかもと怯えていると、小林先生から各人に送信されてきた。その内容は、(心配するな。七時半前後のアリバイがある者は犯人ではないそうだ。きみたちのアリバイはぼくがきちんと証明するから)というものだった……」
「七時半前後が問題になるということは」校長は顔をしかめながら言った。「我々教員には、早い段階で明かされていたからな。まあ、褒められたことではないかもしれんが、生徒のためを思っての善意の嘘だろう。たった数分間のことだ。杓子定規に目くじらを立てることもあるまい」
「七、八分あれば、生物室と放送室の往復は十分可能だと思いますが」
「いや、まいったな」校長が笑い出した。「トイレに入ってたとかの理由で、アリバイを証明できない教員もいたよ。そういう人たちも、みんな犯人扱いかい――幸い、わたしは、あの時間帯は常に誰かと一緒だったが」校長は小林教諭のほうを向き、「きみはこんな風に言われ放題で、なぜ黙っているんだ? いい加減に顔を上げなさい」
小林教諭は反応を見せない。校長はため息をつくと龍樹に視線を戻した。
「おそらく、生徒に疑われてショックを受けてしまっているんだろう。ほんとに人が好い男だからな、この小林くんは……なあ、向井くん。きみは、この男があんな大それたことをやったと、本気で信じているのかね? 周囲にばれないようラジコンの操作なんて、できると思うかい? あれって、操作がかなり難しいんだろ。あの日体育館にいた教師たちに、特に不審な仕草はなかったと聞いているがね」
「ええ。そのようですね」龍樹はうなずいてみせた。「ただ、ラジコン本体を自分のほうに引き寄せる操作に限っていえば、実は簡単なんです」目の前を見据え続けた。「あの時、校長は舞台上で理事長の後ろに隠れるように立っていましたね」
龍樹は唾を飲み込んでから続けた。
「校長、あなたがラジコンを操作していたのでは?」
3
少し沈黙が続いた後、校長が口を開いた。
「もう、理解できないというか。完全についていけないな」無表情だった。「小林先生が怪しいという話しはどこにいったんだ?」
「クラウド・キッドは一人じゃない。あなたたち、二人だったんです。だから、キッドではなくキッズというべきですね」
小林教諭がようやく顔を上げた。校長を心配げに見つめる。
校長はそれを無視するように感情をうかがえない声で言った。
「……聞くだけは聞こうか。きみが、どうしてそんな結論に至ったのか――他にも根拠はあるのかね?」
「今回の件で、最初に関わった時点から、実はちょっとおかしいなと感じた部分がありました。校長から見せられた、あの犯行予告文に関してです。なぜ犯人があんなものを書いたのか、その理由については特に疑問はありません。去年との関連でぼくに疑いを向けるというのも大きな理由のひとつ。だけどそれだけなら、犯行後に声明文を出してもいいわけです。あえて予告の形を取ったのは、理事長の意識へ、何らかの劇薬のたぐいが使用されるかもしれないという刷り込みをしておきたかったのでしょう。そうしないと、いざ当日ラジコンが自分のほうに飛んできても、ポカンと口を開けるだけになってしまうかもしれない。ただ、去年ぼくは予告文をばらまきましたけど、今回はもっとあからさまに危険を示唆する内容です。生徒たちから保護者に伝われば、警察へ対応を依頼しろという意見も当然出てくるでしょう。犯人はなるべくなら、それは避けたかった。学園内で劇薬などの紛失があったわけでない。となれば、なるべく内々で処理というのが、予測できる組織の論理だ。それで、犯人は、校長不在の時を見計らい、予告文をあちらの机の上に置いた。とりあえず、あなただけが目にして、その対応を検討できるように……でも、そう考えると、ちょっとおかしいんです」
校長はまぶたを半分閉じてじっと聞いている。何を考えているのかはわからない。
「だって、この部屋は、生徒に向かって常に解放された部屋ですよね。たまたま、犯人の後に入ってきた生徒が、予告文を目にしてしまう可能性があるということです。犯人が実際に机の上に予告文を置いたのなら、そういった点は絶対に気にしたと思います。たとえば、封筒とかに入れてあったというのなら、まだわかります。でも、そうじゃない。あなたは、予告文はむき出しで、ペラ一枚の状態だったと、たしかにおれに言ったんです。だから、風で飛ばされて、床に落ちていたので、気づくのが遅れた。したがって、犯人が出入りした時間も特定が難しい――そういうお話しでした」
「まあ、まあ、ちょっと、待て」校長が小馬鹿にしたような様子で言う。「当然、犯人は裏返しの状態で置いたのだろう。それをわざわざひっくり返して読むような生徒はいないだろう」
「でも、風で飛ばされてしまった……」
「窓を少し開けていたからね」
「それもおかしいんですよ」龍樹は落ち着いた調子で言う。「ただの紙一枚。窓が開いていたのなら、飛ばされる心配は誰でも抱く。それなのに、机の上にはちゃんとあの通り文鎮があるのに、なんで使わなかったんでしょう……あの日、ぼくとこの部屋で話した段階では、あなたはその辺りの矛盾を気にしていなかった。自作自演のゆえでしょう」
「窓は、かなり細めに開けていた。だから、犯人はそれに気づかなかったんだろう……」校長はまるで動じていない顔つきで言う。「だいいち、常にドアを開放しているといっても、残念ながら、生徒がこの部屋に顔を出すなんてことは滅多にない。だから、犯人だって、他の生徒に読まれるかどうかなんて、あまり気にしなかったのだろう」
これは校長の明らかな失点だ――
龍樹は勢い込んで言った。
「それは残念ですね。生徒は滅多に来ませんか……。でも、その事実を断言できるのは、校長、あなただけでしょう。犯人が第三者であるなら、そのあたりは知りようがない」
「いや、そんなことはない」校長が首を横に振る。「生徒が来てくれないことは、よく愚痴っていたからね。教員はみな知っているはずだし、ということは生徒たちにも伝わってるんじゃないかなあ――なあ、そうだよな、小林先生?」
小林教諭が、何度もうなずいてみせる。
「少なくとも、ぼくの耳には届いてないですね」龍樹が言う。
「きみはそうかもしれんが、知っている生徒はいたに違いない。ただ、それだけの話しだろう」
まさに、ああ言えば、こう言う。
さすがに校長は手強い。
「……あの日、体育館で、クラウド・キッドを名乗る者の声が流れていた際、校長が舞台袖へ走ろうとした場面がありましたね。ちょうど、そのタイミングで例の声が(動くな!)と叫んだ。だから、皆、クラウド・キッドがあの場にいると疑わなかった。あれは犯人に取ってラッキーな偶然なんかじゃなかった。あなたの自作自演の行動だったんだ」
「それこそ、当てこすり以外の何物でもない。ただの偶然にすぎない」校長が、わざとらしく腕時計に目を落とした。「さてと、わたしもヒマじゃないんでね」
龍樹は隣へ目を向けた。
「水槽の魚が全滅していたという件ですが、小林先生だけがそう言っているだけで、実際にそうなっている状態を、生物部員は誰も見ていないそうですね。本当は、魚たちを生きたまま川に放して、水槽を空にしただけなんじゃないですか?」
「向井くん、もういい加減にしたまえ」校長が言った。
「あなたたち二人は共謀している。そう考えれば、いくつかの不自然な点もつじつまが合う」
「では、聞くがね」校長は頭痛がするとでもいうように、こめかみへ人差し指を当てた。「あんなことをやって、我々二人に何の得がある?」
「そうですね。一体、何の得があったんでしょう? それはぼくも知りたいです」
「話しにならん」校長がいきなり立ち上がった。「さあ。もういいかな。これ以上は時間の無駄だ」
「事件当日、捜査に来たヨシナガという警部に言われたことがあります」龍樹は座ったまま淡々と言った。「たとえ、この事件でぼくが犯人でないとしても、全く責任がないとは言えない。去年の件で、今回の犯人に示唆を与えてしまっているのだからと」校長はその場に立ったまま、龍樹を見下ろしている。「犯人は、大人に恥をかかせて喜ぶガキだとも言ってました」顔を上げ、校長の鋭い視線を受け止めて続けた。「ぼくに、犯人を糾弾する資格なんてない。それはわかってるんです。去年、あんなことをやって、ぼく自身何の咎もうけてないんですから……ただ、お二人がなぜあんなことをやったのか、その理由は知りたいと思いました。それこそ、ぼくみたいな馬鹿なガキと同レベルの行動じゃないですか」
「あいにく、その疑問には答えようがない」校長は薄笑いを浮かべ言った。「我々は犯人ではないからね」
「わかりました」
龍樹は腰を上げ、出入り口へ向かいかけた。
その背中に声がかかる。
「ところで向井くん。もしかしてきみは、今のその妄想じみた内容を、警察にも話すつもりなのかな?」振り返って口を開こうとしたが、校長に手で制された。「いや、別にきみの好きにしてくれていいんだが、一応は言っておこう……数日前、あのヨシナガという警部も、わたしに対してやはり言いがかりをつけてきてね。つまり、例のラジコンの操作は実はわたしがやったんじゃないかと……いやはや、いきなりだから唖然としたよ。本人は軽い冗談のつもりだったと、すぐに弁解したが。それにしたって、シャレにならん。人を疑うのなら、誰もが納得できる物的証拠を見つけてからにしろ、と叱り飛ばしてやった」校長は余裕に満ちた笑みを浮かべる。「だから警察に行くなら、具体的な証拠を持参してあげないとね。そうじゃないと、時間の浪費になると思うよ。今きみが長々としゃべってみせたのは、単なる推測に過ぎない」
少しの間、見つめ合った後、龍樹は踵を返してドアに手をかけた。
校長の声がさらに言う。
「まあ、わたしも近々この学園から、いなくなるんだ。お互い、ことさら波風を立てるのはやめようじゃないか――」
「いなくなるって!? ウソ! どういうこと!」
小林教諭が突如叫んだ。
4
招かれざる客二人を部屋から追い出し、ホッと一息つく。
それにしても、向井龍樹――
ほんとうにムカつくやつだ!
去年、このおれにあんなことをしておきながら、何なんだあの偉そうな態度は。
あのとき、当然退学させるしかないと、兄貴に進言したのだが……
――そないな漠然とした噂だけを根拠に、退学なんてまずいやろって。
兄貴は、なぜか上機嫌だった。
――その子、名前が龍に樹で龍樹というのやろ? いやはや、ナーガールジュナってことやないの。何、お前、そんなことも知らんかったか? 勘弁してや、ほんまに。大乗仏教を完成させたお方と、畏れ多くも同じ名前ってことよ。仏教の歴史上、釈尊に次いでナンバー2の偉いお方やんか。その偉いお方も、若い頃はさんざん悪さをしとたって話しよ。まっ、それは今はいいわ。昔からよう言っとるやろ。わしみたいな生き方しとる者には、宿命は色々謎かけを仕掛けてくるわけよ。今回のことを考えてみい。ほんまはわしが狙われとったのに、間一髪で難を逃れ、代わりにお前が真っ黒にびしょ濡れや。ほんで、犯人の名が龍樹ときた……。おもしろいのう。お前とわしの生き方の差が、人間の格の違いが、そういうとこではっきり告げられるのよ……。他の生徒へ悪い影響? なあ、わし、何度か説法でイワシとナマズの話をしたやろ。あの説法の意味、お前わかっとるのかな。イワシは言うなれば、生徒やお前ら教員のことよ。ナマズは龍樹くんみたいな子のことよ。ほんと、お前らときたら、他と比べて高い給料もろうとるくせに、楽ばっかしくさって。この学園、みんなおとなしい子ばかりやないの。あの工藤かて、表面上は静かなもんやろ。たしかに厄介な案件には違わんが、あいつが卒業するまでの辛抱やんか……。頼むから、もっとみなさん苦労してくださいよ。それしか、自分を高める方法はありません。
したり顔で話し続ける禿げ頭に、拳を見舞いたくなるのを必死にこらえた。なお、腹が立つことに、兄貴はここぞとばかりに、朝礼時のエアコン使用に踏み切ってしまった。
元々はおれが、生徒を甘やかすことになるからと使用を反対した。兄貴も暑さには参っていたはずだが、普段の自分の言動があるゆえ、渋々同意していたのだ。
心頭滅却すれば火もまた涼し――ふん、そんな偉そうなことをほざいていながら、茹で上がった豚のように汗だくになっていやがる。
そう思うと、毎回少しはスカッとした気分になれた。
それなのにだ――
犯人を罰さないどころか、言われた通りに従うとは。
もっとやれと、アホな生徒どもを煽ってるようなものじゃないか!
教員たちがもっと苦労すればいい、それで自分を高められる――
はあ?
おれは、そもそも、高校の校長なんてやりたくないんだよ!
兄貴は(お前はビジネスよりこっちの方が向いている)とか言うけど、冗談じゃないぜ。
こっちはあんたの希望通り一生懸命勉強して、MBAの資格だって取ったんだ。
姪の旦那の、あの筋肉バカがクーデター未遂を起こし、もしかしてその後釜に座れるかもって期待してたのに……。
さすがに我慢の限界だった。
おれだって、もう若くない。
さあ、どうする?
計画のアウトラインは、容易に思いついた。
ただ、おれ一人では無理だ。協力者が絶対必要――目立たなくて、こっちの言いなりになる奴……
生物担当の小林の顔が脳裏に浮かんだ。
あの薄気味悪いホモ野郎。
あの手のやつに秋波を送られることが、今まで何回もあった。
小林自身は、隠しているつもりだったろうが、おれはすぐに気づいていた……。
声を掛けると、まるで野良犬が尻尾を振らんばかり。
熱心過ぎて、こっちが閉口するほどだった。
計画の細部はあいつにまかせ、CDやラジコンなどの小道具も準備させた。
怖気は隠して、それなりの(ご褒美)をほのめかしてやった。
万が一の時は、あいつが全て罪を被ってくれるかもしれないとの計算もあった。
それにしても、成功の場面をイメージするだけで、年甲斐もなくワクワクして溜飲が下がっていく思いだったな。
あの兄貴に公衆の面前で大恥をかかせることができるのだ!
それに、うまくすれば向井に罪を押し付けられる。
たとえ、それが無理だったとしても、別に問題はない。
重要なのは、去年の事件を御咎めなしにしたことが、今回の件を誘発したという事実。
だから向井のやつが唐突に、去年のことは自分がやりましたと白状したときも、あえて不問で済ませたのだ。
しかも、今回の犯行予告も公表せず、隠蔽した。
どう考えても、学園側の対応に問題ありということ。
だから、その点は、おれが男らしく責任を全て被って、辞表を提出するのだ。
さすがの兄貴も負い目を感じて、今後はおれになめた態度を取れなくなるだろう。当然、こちらの希望を丸呑みで、おれは晴れてビジネスシーンに復活となるはず!(小林に対しては、今回理事長に大恥をかかせるのは、あくまでおれが学園での主導権をにぎるためだと説明していた。だから、さっきは驚いていたようだが、あとで適当に言いくるめておこう)
で、見事に計画は遂行されたわけだが……。
ここにきて唯一、ちょっと気になるのは、吉永警部か向井のやつが、おれについての疑念を兄貴の耳へ直に吹き込まないかということ。
とはいえ、確たる証拠もなくそんな振る舞いに及べば、とんだ藪蛇の危険があることは大概の阿呆でもわかるだろう。実の弟を侮辱されて、他ならぬあの加持武雄が一体どんな反応をするか。いやはや、想像するだけで恐ろしい……。
いきなりドアの開く音がした。
一瞬、ヤクザが怒鳴り込みにでもきたのかと思った。
ボルサリーノ帽にサングラス、ダブルのダークスーツ。
兄貴だった。
机の前につかつかと歩み寄ってくる。
「実は最初から、わかっておったぞ!」
いきなり吠えるように言った。
さては向井のやつ、しゃべりやがったのか――
思わず心臓が縮こまる。
「しょせんは、ガキのやらかしてることや!」兄貴は唾を飛ばしながら続ける。 「ほんまに毒ガスの散布なんぞ、できるわけがあらへん――あの日、わしは舞台の上ですぐにそう確信できたんや。胸糞悪いあのラジコンかて、ただのはったりに決まっとる。硫酸なんぞ、積んどらん。そばに来たら、はたき落としてやるつもりでおったがな……。けどなあ、そこで、はたと考えたわけよ。要は、こいつは、わしの情けない振る舞いを、ぜひとも見てみたいってことやろ。それが期待通りいかなんだら、何らかのやけを起こす可能性はわずかながらある――ここはあえて、わし一人が恥かいて、そんで結果的に生徒たちが無事なら、ええんやないかと」
兄貴は机越しにぐいと顔を寄せてきた。
サングラスには、おれのポカンとした表情が映っている。
「……ちゃんと飲み込めたんか? これから、お前はな」人差し指をこちらに突き付けて、「今わしがしゃべった内容を、ことの真実として学園中に広めなあかん……。そうやな。理事長からは黙っとるようにとの指示だったが、自分は言わずにはおれんっちゅう体がええんやないかな。ところで、よう聞けよ。お前が責任とって、ここを辞める必要なぞ全くあらへんぞ! どうせ、あんなもんやらかすんのは、親の育て方が悪いからやんか。わしら学園側は一番の被害者やん。そんでも、ガタガタぬかすような親どもには、ガツンとかましてやったらええねん。ご不満なら、お子さんを退学させるなり何なり、どうぞご勝手にってな」
兄貴は、おれの肩に手を置くと言った。
「やっぱ、わしが間違っておった。今までが甘すぎた。その点は謝るわ。そもそも学校なんてもんは、監獄でええんや。最近のガキどもときたら、ほんま陰湿やからな。殊勝な態度に騙されとったらあかん。これからはなるたけ締め上げて、性根を叩き直すようにするわ。もちろん、今回の犯人かて、必ず見つけ出す。まあ、とにもかくにも、この苦境、兄弟力合わせて、何とか乗り切っていこうやないか!」
5
校長室を追い出され、龍樹はとりあえず学食へ向かった。
混雑のピークは過ぎていた。
カレーライスを購入し、隅の方に腰を下ろす。
が、手も付けず、しばし呆然としていた。
つい先ほど目撃した小林教諭の様子が、少々衝撃的だった。
――そういうことだったのか。
とにかく、小林教諭が校長に協力した理由だけは察せられた。
まあ、愛の形には色々あるさ。
性差、年齢差、立場の差とか、そんなもの関係ない。
と、わかったような振りをしてみる。
工藤とサチウスは、学校を辞めた。
二人で一緒に暮らしているという。
この手の情報は、本当に伝わるのが早い。
うまくいってほしいな。こころから、そう思う。
それなりにハートが切ないことは、否定しないけど。
ジャ、ジャ、ジャ、ジャ
突如として、エレキギターの音が鳴り響く。
間違いようのないあの曲。
学食内の時間が止まった。
と、音量がカットダウン。
天井のスピーカーから舌足らずな女の子の声が流れ始める。
――ハーイ、みんな! 夏休みは、大いに楽しんだかな? 二学期最初のサウンド・ブレーク、これから始まるよ! 火曜日担当DJのミサミサでーす。 お昼休みのひととき、どうか最後までお付き合いくださいね!
というわけで、今流れてる新学期の一曲目、 クラウド・キッドさんからのリクエストで『スクールズ・アウト』! メッセージも頂いてるので、ご紹介しまーす――
生徒諸君! ぼくはきみたちの味方だ。それだけは、信じて! 今後、もし、ぼくのことが必要になったら、学園のどこかでこの曲を大音量で鳴らしてくれ! よろしく!
曲がカットアップ。
スクールズ・アウト! フォーエヴァー!
(了)
スクールズ・アウト! @8419blue
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます