昇り日 - ファンタジー, 約24900字

 うっかり凍らせてしまった瓶の水がある。真昼間の太陽の下に出しても、あまりにも短い昼はそれを溶かすほどの役にも立たない。表に水の一滴すらも溶け出さず、ただ凍った表層は無慈悲にそのざらざらとした顔を示すだけで、他にはなにもない。おれにとって、冬とは生まれてからずっとそういう季節だった。

 どういうわけかは知らないが、川の水はそういう冬でもいつも流れている。川面ばかりは氷が張るが、おれがひとたび鋤を叩きつけてその氷を割ってやれば、すぐに蕭々と流れる水を見つけられる。いつものようにその水にバケツを差し入れ、そして引き上げた。数秒前の何十倍もの重さになったそれを腕が支え、がり、と音を立てて砂利の上に着地した。これだけの量――片手に持てるだけ――でも、冬の一日分なら十二分になる。

 昨日も運んだ水だ。今日も運ぶ。そして明日も運ぶだろう。面白い日課とは言えないが、耐えられないほどの苦しいというわけでもない。だから、特段気にすることもなく、今日もそのまま取って返すことができるはずだった。重くなったバケツを運ぶために少しばかり気合を入れ直し、よし、と顔を上げたときになって、おれは誰か見知らぬ人影が対岸にあるのを認めた。

 おれは最初、彼 (背格好からしておそらく男だと思ったのだ) のことを浮浪者だと思い込んだ。行商なら日の長い夏以外歩くわけが無いのだし、一人で説教旅行をする神父様なんてものも無い。すると、彼はどこかを放逐された浮浪者か、そうでなければ狂人に違いなかった。狂人だとすれば運が良すぎるから、そういう手合はだいたい浮浪者だ。

 ただ、良くよく見てみれば、彼の身なりは控えめに言っても整っているものだった。それなので、おれは彼のことがさっぱりわからず、彼をじっと見つめて少しばかりの時間が流れた。

 彼もおれのことを眺めていたか、あるいは睨みつけていた。おれはといえば、見つめると言っても特段面白い見世物でもないのですぐに興味もなくなってしまったのだが、彼がこちらへ向かってくるからには少しは気にしなければ、という意識だけで彼の方を向いていた。おれはその辛抱もすぐに堪らなくなった。

「……ウスティ・ツークに何か?」

「村があるのか」

おれは首肯し、彼は破顔した。おれは露骨に怪しいやつに声をかけてしまったことを後悔すべきかどうか少し悩んだ。尖兵でも無いのにそんなことを気にする必要なんぞ無いことにすぐに気がついた。

 ウスティ・ツークはおれが生まれ育った村だ。村は背後の林を抜ければそう遠くない。おれはそこから来て、そこへ帰るのだ。

 彼はおれに向かって川の中に突っ込んできた。

 この川はいつもおれにとっての世界の果てで、そこを越えてどこかへ行くということはめったに無い。思い返しても、子供の頃に冒険心からざぶざぶと渡ってみたことがあるくらいだ。そのときは、水に漬かった足の感触が気持ち悪くて、それなのに川を越えても何か奇跡とかそういった種類の面白げな変化が起こったりはせず、うっすら失望しながら帰ったはずだった。ともかく、おれにはこの川を越える必要が無かったのだし、川の向こうはおれに関わりのある場所ではなかった。

 そして、彼は一歩で川面の氷を踏み抜いて、それからもう一歩で川をまたいで、おれのそばまでやってきた。

「大変そうだな」

彼はおれを見てそう言った。そのときには、もう彼は川のこちら側にまでやってきていた。

「ああ、まあ」

おれのバケツを見たのだろう、確かに重くはあるこれを、大変だと言うのも大変ではないと言うのもいまひとつだと思っておれは曖昧な返事をした。確かに一仕事だ――だが、毎日やらねばならないことだ。これを大変だと表現するには、あまりにも収穫の時期の慌ただしさが記憶に新しすぎた。

「案内してくれないか」

おれはまだ彼を判断しかねているし、判断しなくても良いか、とすら思うようになってきていた。ただ、それは連れて帰ればいいのか、それとも置いて行ってもいいのか、そういうところの悩みから解放してくれるものでもなかった。結局、置き去って明日来てみたら凍死体があった、などということになれば気分が悪いから連れて帰ろうということにした。

 村に連れて行ってからのことは、村の皆で決めればいい。おれは立ち上がってバケツを持ち上げ、彼に顔だけ向け、付いて来い、という意味で顔を村の方に回し振った。

 川からしばらくのところまでは、あちこちでどこからともなく沢が湧き出ていて、野草もまばらにしか生えていないものだから、こんな冬でなければ泥だらけの土地になっている。冬であれば代わりに雪の層をざくざくと踏みしめれば良い。少しばかり泥濘が残ることには違いがないが、雪解けのころに比べれば、何倍だって楽だ。

 昔、これは神さまの慈悲の一つの表現だと教わった。冬の寒さで辛い時期と、雪解けで地面がぬかるんで辛い時期とを上手いことずらし、人間が生きやすいようにしてくれたのだ、と。冬になるたびに、本当にそうだと実感できる。

 少し歩いて、ずっと後ろに付いていた彼が少しだけ歩調を上げておれの横に来た。こうして見ると、彼はおれよりも少しだけ背が高く、おれよりもずっと若いことに気がついた。きっと、齢は30にも達していないのだろう。もしかすると、おれの半分にもならないのかもしれない。

「その、少し私の話をしてもいいだろうか」

おれは何かを言う代わりに、首だけを軽く縦に振った。

「ありがとう。単刀直入に言うと、私は農民の生活を良くするために来たんだ。……詐欺や強盗のつもりではない、言ったところで意味は無かろうけれど」

おれが露骨に怪しむ表情をしたことで、彼は一瞬言葉を詰まらせたが、それも予期していたように、なんでもないような風で彼は話を続けた。

「見てくれで分かったと思うけれど、私は都市から来た者だ。私は都市でずっと、人々のために何ができるかを仲間内で考えてきたんだ。……馬鹿にするつもりではないんだが、都市に行けば、農村では夢想だにしないものだってあったりもする。思想だってそうだ。それで、私たちは村々へ散って、それぞれの村で手助けをしようということになった。……それがどれぐらい本気なのかってことは、私の靴を見――いや、証明はできないか」

おれは自分の履物と彼のそれとを見比べた。彼のは頑丈そうな革靴だった。対して、おれのはすっかり細かな傷だらけの木靴だ。彼がそう言ったのだから、おそらく、彼の革靴は少しばかり汚れているのだろうとわかった。その程度だ。ただ、

「どうやってだ? 『手助け』とは言っても、簡単なことではなかろうが」

おれはそれだけが気になった。

「……私の考えでは、一応、まあ、説得が主なんだが、それ以外にも必要とされていることがどの村にもあるだろう、それは行ってみないとわからない」

「説得?」

「そうだな……本当は村に着いてから皆の前で、と思っていたんだが、先に言っても問題あるまいね。かいつまんで言えば、人には自ら助くる力がある、ということだ。当たり前なようで、思ったよりも人々はこのことをわかることができていない」

要領を得なかった。ただ、彼はおれの目を見て、前から強風でも吹いているみたいに前に身を乗り出して、その声は神の偉大さを称えるときのようだった。だから、彼はたぶん善人なのだろうと思った。

「……よくわからない。機会があればもっと詳しく言ってくれ」

彼の顔は一瞬華やいだが、すぐに眉根を下げて目を細めた。風もないのに砂埃か何かが目に入ったみたいに見えた。

 村へはそこからすぐで、バケツを置きにおれの家に寄るだけ寄って、それから長老の方に連れて行ってやるのもやはりすぐと言える範疇だった。長老の家系は代々鍛冶屋を営んでいて、その方へ向かうほどに冬でも威勢良く響く金属音がだんだんと大きくなっていく。行きがてら、おれは彼にそのことを説明した。長老たちが作る金物が無ければ、畑仕事は何もかも成り立たなくなってしまう。鍬、鋤、鎌といった直接関わるものだけでなく、燃料のための斧とか、ちょっとした補修をするための釘とか、そういうものだって無くてはならない。もし長老の家が鍛冶をやめると言い出せば、どこかの家がそれを受け継ぐ羽目になるのだろう。幸いにも、今のところそんな話は噂に出しても一笑に付されるだけなのだが。

 それだけ鍛冶が大事となれば、外から行商が持ってくるくず鉄もまた何より大事だ、となるのは当然の流れというものだった。だから何にも先んじて長老家が材料を確保する必要があったし、長老家が行商 (と、その他の外からやってくる人々) との折衝役になるのもまた効率性の問題でしかなかった。だから長老家は長老家になったのだ、と。

 これはおれにとっても爺さんが語っていたことでしかない――おれが生まれたときには長老家は長老家だった――が、もっともらしいので納得している。そして、ひとたび長老という職を得たならば、その偉さ、地位というものもまた自然と纏われて来るものだ。だから、長老家はおれが生まれたときから偉い家だった。たぶん、俺が死ぬまで偉い家であり続けるのだろう。

「その威厳を疑問に思ったことは?」

そこまで話して、彼はそうおれに言った。

「偉くあるというのは大変なことだろう。なんでもとりあえず長老に取り次げば間違いが無いというのだから、長老に話を通すだけ通しておれは知らん、とすればいい。そうしても長老はそこからは逃げられない」

「でも、君らは冬の間にこつこつ作ったものを一旦長老にただで渡さなきゃならないんだろ、その後の配分に長老のえこひいきが入ったりしたこともあるんじゃないか」

農村では冬の間確かに農業はできない。では何をしているのか、と言えば当然別の仕事をしている。そうしなければ、家族を養えないからだ。そういうものは、彼の言葉で言えば、家内制手工業とか言うらしい。長老やほかの所の手伝いをする者もいるし、別に木をいじっていろいろと作ったりする者もある。それで確かにその成果物は一旦長老に預けられる――が、それは単に長老が行商を相手にする村唯一の人物だからというだけの理由によっている。

「贔屓はもちろん多少はあるが。長老と言えども人間だ、取り入るやつもいる。おれの方だって度が過ぎてると思えば文句も言うし、同調してくれる仲間を探すだろう。だが、いちいち目くじらを立てても仕方がないことだ」

おれはそこで足を止めた。他の家とは明らかに雰囲気の異なる煉瓦造りの建物が少し奥に見える。その手前には他の家とそこまで違いも無さそうな建物があった。それこそが長老の家だった。話し込んでいるうちに、とうにおれたちは村の中まで入ってきていたのだった。長老の家は中心からは少し外れたところにあるので、おれの住む家まではまだ距離があった。

 おれがそうして話しているうちに、彼のおれを見る目は少しばかり険しくなっているように見えたが、彼は何も言わなかった。

 その後は少し厄介なことになった。長老は「私個人としては歓迎するんだがね」と言って、何人か人を集めてきた。近所の人が3人、確か今年で31になる長老の息子、それからたまたま長老に用事のあった1人、おれ、それから長老を合わせて7人もの大所帯で外から来た彼を取り囲んでいた。そういえば名前を訪ねていなかった、と気づいたのは長老が初めに彼に問うてからだった。彼はアレクサンドルと名乗った。長老だけは彼をサーシャと愛称で呼び、彼は少し嫌そうな顔をした、ように見えた。もしかするとおれの気のせいかもわからない。

 問題はその後だ。アレクサンドルは何と言ったと思うか? 彼はこんなことを言った。曰く、

「農民の力を自覚させ、農民の地位を向上させ、以て農民の生活をより良くするため。私はそのためにここまで来たのです」

と。おれにだって詐欺師の言うことだと感じられたのだから、ここで初めて彼を見た人々がどう思ったかなんて想像に難いわけがない。現に、彼が話す言葉は節々に意味のよくわからないところがあり、真実味が無く、何かを騙すためにつぎはぎにしたかのような印象を受ける、なんて感想が近所の村人から出ていた。おれも最初にこれを聞いていたなら、そう思ったに違いない。おれは彼がどんな仕打ちを受けたとて知ったことではないはずなのだが、おれはひとがそこで危険にさらされていることを見逃せるほどの悪人でも無かった。

 仕方なくおれは彼の擁護に回った。最初、おれは一人を寄ってたかって非難するのは正しい行いではない、と苦しい言い訳から始めなければならなかった。それは事実ではあっても、そして非難の調子を少し弱めるのには役立っても、人々の心象をどうにかする役には立たなかったに違いない。その後もたびたび「おれは善意からだと思う、おそらく」とか「詐欺にしてはよくわからなすぎるし持っていくものもなかろう」とか、そういう苦しい言い訳に終始して、なんでおれがこんなことをやっているのだろうと思う羽目になっていた。

 最終的に、おれは彼をおれの家に居候させることになった。全員 (この全員にはもちろん、おれも含みたいのだが) 彼のことをうっすら危険人物だと思っていて、外から何か厄災を持ち込む輩なんじゃないかと疑っていた。だから、どうしてもという感じで擁護を続けていたおれに、長老の息子は「そんなに肩を持つならお前が責任を持て」と言い放ち、おれも売り言葉に買い言葉となってしまったのだ。

 おれだってアレクサンドルを怪しむ一派であることに違いはない。ただ、人が袋叩きにされていることが許せなかっただけ――それと、人が何かやろうとしていることを邪魔立てできないだけなのだ。その場でそう愚痴を吐いたが、お前はお人好しが過ぎるときがあるな、と軽く流されてしまっただけだった。ただ、村に留まることは許してもいいだろう、ということについて最終的には合意が出たので、おれは彼にそれをはっきりと伝えてやって、彼は今すぐにでも追放されるんじゃないかと思っていたらしい、やたら大げさに胸をなでおろして喜んだ。そのときに彼が吐いた息の白いもやがまるで鍛冶場の煙突から出るもののように見えたので、うっかり吹き出しかけるところだった。

 さてしかし、おれが人の責任を持つとはどういうことかというと、こと冬においては兎にも角にも彼を死なせないことでしかない、とおれは最初思っていた。

 それだけでは済まされない、ということを認識したのはそのしばらく後になってのことだった。

 彼を家まで連れて行き、まず薪ストーブを焚こうとしたとき、彼は玄関口に突っ立ったままおれに声をぶつけはじめた。

「この世をもっと良くすることができるんだ」

おれは構わずに薪を放り込み続けた。

「農民が、各々村の中で団結して、村同士で繋がって、そうしたら、どれだけの数の農民がいる? どれだけの力がある?」

ストーブに種火を入れ、火が大きくなるように薪を少しずらす。

「それなのにどうだ、君は腹いっぱい食べられているか? とてもそんな風には見えない。税吏が『余分だ』とみなした分は全て持って行ってしまうからだろ」

火は自立した。バケツの水を少し分けて鍋に注いで、大麦をすり潰して作った粉を水で練った団子を鍋の水の中に入れた。いつもの2倍の量だ。

「そもそも、あの『長老』だって君を搾取しているんだ。君が生まれる前からそうだったということは何の理由付けにもならない、ただの権威だ」

スープになるまでずっと見ている必要も無い。おれはそこで振り返って彼を見据えた。おれの視線が飛んだ途端、彼はすこし背をのけ反らせて、口を一文字に結んだまま動かなくなった。

「この家に住んでたのはおれ一人だ。なんでだかわかるか」

「……独り身……ではないか、親とも家内とも死別して、子供らは……できなかったか、出ていったか……」

「2年前と3年前は不作だった。父さんと母さんはとっくに死んでたが、その不作で妻と娘の1人を亡くした。もう一人の娘は別の村に嫁入りしていっていたし、一人息子は出ていったきり行方知れずだ。死んだ方の娘の方の孫は村にいるが、おれと住むような家族関係でもない。だから、おれだけが残ったんだ」

「……餓えて? いや、それも税吏が無ければ」

「税は金で払った。長老はそのぐらいの蓄えを村のためにやってくれている。税があろうが無かろうが、食うに困れば、もうどうにもならない。ガーリャオーリャも、結局は肺病で死んだ。都市っていうところにはいつでも食べ物があるのかもしれないが」

彼は黙りこくってしまった。まだ湯は沸かないので、その沈黙が火のゆらめく音の隙間に流されていって、おれはそこまで居心地悪いとも思わなかったが、彼がどう思ったかは知る所ではない。

「まあ、そういうわけだから空き部屋はある。お前はそこを使ってもいい。去年も今年も豊作だったから、少なくとも今はお前を食わせられるだけの食べ物もある。少しは働いてもらうことにもなるだろうが、運がいい」

またしばらくの沈黙があった。そのおかげで湯は十分に温まり、おれは手をかざしてそれを確認して、塩を少し入れてから器へ注ぎ込んだ。その動作を2回繰り返すことが思い出させる記憶は、柔らかく、喉が乾いた。

 冬の昼間は短い。日の沈まないうちに社交をすべく、村人たちは寒い中を押して出歩きもする。おれは出なかった。寒いからだ。おれは、必要が無い限りこのストーブで温められた家を出たいとは思わなかった。

 驚いたことに、アレクサンドルはスープを飲んでからすぐにその社交場へ勇み行って、おれの会話の後にもかかわらず同じような御高説を垂れたようだった。さらに輪をかけて意外なことだったのは、彼のその主張に乗り気になった人々がいたことだ。おれには彼の言うことは現実離れした空想のように思われた。ただ、おれがそれを正面切って言い返しても詮無いことだし、人が熱意を持ってなにかをやろうとしていることを取り立てて妨害する必要もない、と思っていただけだ。

 だから、本当に彼の言うことに耳を傾ける人がいるということに、畑の草の葉に見慣れない模様があるときのような不安を覚えずにはいられなかった。植物についてであれば、大抵の場合、そういうものは病気の兆候だったが……人にまで適用するのは馬鹿のやることだろう、と思い直した。

 次の日、おれは彼を水汲みに行かせ、その間ぼんやりとする時間を味わっていた。もしおれがもっと勤勉ならこの時間も隙間なくなすべきことをしていただろう。つまり、そこに放られている羊毛を糸に撚って、手布を縫い上げるか、染め汁を用意するためにそこに山積みになっている茎葉たちをすり潰すか、そういうことをやるべきだ。そうした方が、少しは裕福にもなれるというものだろう。

 ただ、おれにはそうする理由がなかった。おれが大量の成果物を作っても、村の皆に褒められこそすれ、親しい身内の者はもう誰もいない。妻も娘もいないのだ。行商にたくさん売りつけてガーリャに何かを、と思ったとしても、今はもう何もできることはない。そう思うと、もし今何もしないことでおれの将来にツケを残すことになるのだとしても、どうしても手を動かすことができなかった。

 まだ暗い、冬の朝にはいつも気が沈んでしまう。水を汲みに行けば、冷たく切るような空気のこと以外を気にしなくても良くなるから、このことをはっきりと思い出すのは久々のことだった。そろそろアレクサンドルは川まで着いたころだろうか、おれも作業に手を付けていなければ格好が付くまい、という思考が雲の形に何かを見出すみたいに無理矢理に浮かばされてきたが、重い腰は椅子からは上がらなかった。

 結局、アレクサンドルが帰ってくるまでおれは何もしなかった。それがさも当然のことかのような風でおれは彼を迎え、持ち帰られた水をいくらか分割して、今日はつけっぱなしにされていたストーブの上でまたスープを作った。

 体が温まれば、沸騰した水が湯気となって飛び去っていくようにおれの体も軽くなるというものだった。

 それからおれはアレクサンドルと少し会話した。彼はどうやら、昨日成功した何かの演説をまた別の人々にもやっていこうと思っているらしかった。おれはそれが少しばかり気になって、気分は上向いたものの何となく仕事をする気にもならず (春から秋まで植物と取っ組み合いをした成果が倉庫にはたっぷりあるのだ) 、ひとまず彼についていってみることにした。

 ストーブの火を消してから外に出ると一気に寒さが襲いかかってきて、おれは縮み上がった。それもすぐに慣れて、動けないほどの冷たさを感じた一瞬は星が瞬いたように解け去ってしまっていた。

「そうだ、エフゲニー、君は冬の間は布を織って糧を得ているわけだろう」

ドアを開いてこの部屋を冬の凍りついた空気に占領させようとしたところで、アレクサンドルが急に話しかけてきた。おれはドアから手を離して振り返って彼の方――声のした方に振り向いた。彼は俺に背を向けていた。その視線の先、おれもすぐ見えているところにあるのは、おれが昨日切り上げたときのままになっていた作業場だった。

 厳密には作業場になっているのは冬だけで、それ以外の時期はいちいち倉庫に取りに行くのも面倒な農具とかを置いておくちょっとしたスペースになっている。幅はおれが2人半ぐらい、奥行きはその倍ぐらい、その程度のちょっとした空間だ。ともかく、今は冬であり、そこに置かれた台だか机だかとその上に乗るやたらとこまごました物たちが、土ではなく指先から物を作り出す時期であることを主張していた。

「あれは綿か? それとも羊毛か?」

「羊毛だ。その横のカゴのは染料の素だ」

「なるほど。羊毛とその……まあいい、それはどこから買ってるんだ?」

「羊毛は秋口にこのあたりを毎年通りがかる連中からだ。干し肉とかチーズとかも一緒に買っている。最近はあいつらの要求してくる物が増えてきていて、おれたちでも動物を飼ってみて良いんじゃないかという話をしているが、何せ土ばっかりに向き合ってきたからわからんってことで今のところ頓挫している。マレーナ染料の素の方はおれが育てたものだ。葉が……」

おれはそこまで言ってマレーナについても説明を加えようとしたのだが、アレクサンドルはそこで振り向いて、「なるほど」とだけ言ってすたすたとこちらへ歩いてきたので、おれも寒さを家の主にさせてやることにした。

 予め告知か何かでもしていたのだろう、アレクサンドルがおれを伴ってまで到着すると、すでにそこには聴衆希望者が何人か集まっていた。もしかすると偶然居合わせただけの人もいるかもしれないが、少なくとも彼の顔 (と、おれの顔) を見て嫌そうな顔をした人はいなかった。むしろどうやら彼は外から来たなにか偉い人らしい、という風説が流れていて、一体どんなありがたい話が聞けるのだろうかとわくわくしているものすらあった。

 おれがそんな話を少しやる時間など些細なもので、彼の咳払いが無ければあと数倍は続けられたに違いない。ところが彼はもうとっくに演台代わりの錆びついたくず鉄の板の上に立っていて、ずいぶんとせっかちだと感じられた。あるいは、都市の時間感覚なのかもしれない。この村ウスティ・ツークでは失っても何も惜しくない、挽いた後のクズにひっついた僅かな粉のような狭くて仕方のない時間が、都市では何か莫大な富でも生み出すのかもしれない。もしそうだとしても、やはりここでは何かの役に立ちはしない。

「みなさん、お集まりいただきありがとうございます。管見の限りで、私がみなさんのお役に立てるようお教えできることをお伝えしたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします」

一瞬だけ強まる雨、のような拍手が起こった。おれも途中から手を鳴らして、3回両手をはたいたところでやめた。

「本日は、2つの隣接する事柄について申し上げたいと思っております。まず1つは、農民の皆さんがたは力を持てるのだし、持つべきであるということ。そしてもう1つは、その力を持つための障害は非常に身近な手段によって打破できるということです。

 なぜ、農民の皆さんが力を持つべきなのでしょうか? これは、私が前々から述べていることでございます。この国に住む人々の大半は農民であり、しかしながら国を動かす人々は農民からは遠く離れていて、さらに悪いことに、国を動かす人々も、都市民も、そして農村をまとめようとする者まで、大雑把に言えば、寄ってたかって農民から搾り取れるだけ絞り取ろうとしているのです。それがこの国の現状であり、ごく少数の善意ある者は改善のために努めているものの、全く力は足りておりません。そんな状況が果たして許され得るのでしょうか? いいえ、私の良心が許しません。そう、私はひとえに皆さんの幸福のためにここに来たのです。

 また、皆さんはこう思ったことがあるのではないでしょうか? 不作でも税は減らないし、豊作だと買い叩かれる。一年かけて働いた結実物なのに、年を追うごとにどんどん買い値は安くなっていく。その結果が飢饉なのです。皆さんの働きが足りないのではない――むしろ、皆さんは十分なほどすでに働いています。なのに、なぜこのようなことが起こるのか?

 それは、実を言えば単純なこと。都市にとってこの村がだからなのです! どうでもいい存在だからこそ、村から買うときにはなるべく安く買い叩いて、売りつけるときにはなるべく暴利を貪る。なぜなら、この村が潰れてしまっても何も困らないからです。

 では、どのようにすれば皆さんは幸せになれるのか? どのようにすれば皆さんは都市にとって無視できない存在となり、あまりにも不平等な対応を迫られずに済むのか? そう、都市が無視できない、そういった力をつければ良いのです!」

彼はここまで一気に話し、ここで少し間を置いた。村人たちの反応を伺っているようだったが、おれから見た限りでは、それなりに感銘を受けていそうな顔の者もいたが、いまひとつよくわかっていない顔の者も少なくない割合で居た。おれもその一人だった。

 何せ、彼の話すことに心当たりがあまり無いのだ。食べるものが足りなくなっても、いくらかは村の中で融通し合うのが普通だ。近くの村まで頼みに行くことも、その逆もある。だから、安く買い叩かれるとかいったことはあんまり人の不幸には――とりわけおれにとっては、妻と娘の死には――関係が無い。税が減らないのは確かに辛くないと言えば嘘になる……しかし、辺鄙な村だ、徴税官が来ないような年すらある。都市にアピールなんぞするよりも、もっと耕す領域を広げたほうがよっぽど役に立つんじゃなかろうか。

「本題に入りましょう。そう、どのようにして皆さんは力を付ければ良いのか、という話でした。力と言っても、暴力のことではありません。皆さんが銃を手に蜂起したとして、見せしめにされてしまうだけでしょう。なぜなら、搾取しようという意志のある者たちは農民が反抗してくることを異常なまでに嫌うからです。すぐに殲滅されて、それっきりでしょう。

 では、どのような力か? ここで私は、経済力という答えを示したいと思っています。都市はほとんど経済だけでできています。国家も、半分ぐらいは経済でできていると言っていいはずです。であれば、皆さんが都市にとって無視できない水準の経済力を身につければよろしいのです。では、経済力はどのようにして身につければ良いのか? これは簡単な話です。もっと多くの物をなるべく高く売れるようになればよいのです。

 もっと多くの物を、と言っても、もうすでに皆さんはたっぷりと働いています。だから、もっと働けと言いたいのではありません。それに、少し働く時間を伸ばしたぐらいで増える物の量なんてたかが知れています。

 それでは、働く時間を増やす代わりに、ちょっとした工夫によってたくさんの物を売れるようになるとしたら? そんな方法は無いだろう、と皆さんは言うかもしれません。しかし、実は存在します。

 その方法とは、分業を行うことです。

 今のやり方では、ある一人が羊毛を糸に紡いで、染めて、布にして、と全てのプロセスをこなします。これに対して、紡ぐ専門の人、染める専門の人、布に織る専門の人、と分業をするのです。分かれれば、それだけ各々の技量は専門化していくことができます。そのようにすれば、どんどん作業は早くできます。そうしていけば、ほら、働く量を変えずして、売るものの量だけがずいぶんと増えた状態になるわけです。そうなれば、もう皆さんは経済力を付けた状態になるはずです。

 そのようにして、ぜひ農民の力を高めませんか?

 ……ここまで私の話を聴いてくださり、ありがとうございました」

話し始めと同じぐらいの拍手が起きた。今度はおれは拍手しなかった。わからなかったからだ。話がわからなかったわけではない。彼の話したことが絵空事かそれとも本当に起こり得ることなのか、その判断に困ったのだ。

 おれは彼の言ったことを反芻してみた。そして、おれの経験と照らし合わせた。やはり、わからなかった。

「……誰が、何をやればいいんだ?」

おれはそう呟いた。彼は、少しばつが悪そうにして、

「まあ、それは各々の希望に応じてなど……まずは作業場の手配をですね」

とか言った。作業場? そんな場所、候補すらあるまい。各々の家にはちょっとした作業スペースはあるだろうが、大規模化なんて夢でしかない。あるとすれば、それは長老の家の鍛冶場ぐらいだ。

 それ以前に、一つ重大なことが忘れ去られていた。ここは屋外だ。寒いのだ。おれの呟きに対して応答した彼の、その勢いの減った様子を見てか、集まっていた数人の村人がもう三々五々に散ってしまった。家に帰っていったのだ。そうしておれと彼だけがこの場に取り残され、彼は満足げな顔をしていたのに、おれは口を一文字に結んだままでいるしかなかった。彼の演説が、果たしてどのくらい響いてくれたのか、おれには推測するよりほかになかった。

 その場にはもう誰もいなくなってしまっていたのだったし、おれだってすぐに家に帰ってストーブの前に陣取った。それから羊毛をほぐして、ほぐして、そうして一日を終えた。

 それからの一週間、安息日の一日を除いて、彼はずっと宣伝を続けていたようだった。だった、というのはおれが興味を失って人づてに聞いた話だったからだ。おれは誰かがやる気になって組織化でも始めようというのであればそれに乗ればいいし、そうならないのなら今まで通りだ、と思ってわざわざこんな寒い中で彼の話を聞きに行こうという気をすっかり削がれきっていた。そして、それを伝えてくれていた長老の息子も、今日になってはもう流石に追いきれない、アレクサンドルは放置でもいいだろう、という結論に達していた。

 彼の言うことは、率直に言って、経験不足の賜物とでも言うべきものだ、とおれは思った。彼の熱意自体は確かなのだ――なにせ、彼が住んでいた都市からこの村ウスティ・ツークまで、彼はざっと3週間の旅をしたことになる。その上で、全く知らない村で倦むこと無く演説を垂れ続ける。なんでこんなことをするんだ、と問うてみたこともあったが、そのときの彼はと言えば、人々の不幸は断じて許されるべきではないから、とだけあまりにも真面目な顔で答えていた。おれはその彼の様子が、年に1、2度来る説教旅行の団体が神の恩寵を無条件に信じていると口に出すときのような、そういう種類の確信を得ているときの言い方に重なって見えて、それ以上追求することはできなかった。

 今日は、おれは染め汁を作る仕事だけをすることにした。延々とすり潰し続ける作業は、畑作業に比べれば疲れはしないが楽しみも少ない。それでも続けていると、人の精神はうまいこと状況を楽しむようにできているらしい、だんだんと愉快になってくる。愉快になってくると作業の能率も上がる。なるほど、アレクサンドルの言うことはいくらか正しいのだろう。たぶん、いつもより多くの染め汁を作れたはずだ。……いつもは足りなくなれば補充、というサイクルをやっていたので、どのぐらい作っていたのか定かではないが。

 ただ、他の家と協力しよう、という機運は結局起こらなかった。より正確に言えば、彼が最初に演説をした日が最高潮で、それからは麦も凍る寒さのせいでか、だれもやり始めようとしなかったのだ。そのうちに彼の演説も日常に変わっていって、まさか感銘を受ける人がいるなどということはもはや期待できなくなっていた。

 そしてまた安息日が訪れた。

 礼拝が終わり、皆が教会から出ていく。それに先んじて、アレクサンドルはその出口で皆を待ち構え、特に集結している今であればこそ効果覿面だと思ってか、もはや毎日のこととなった宣伝を手当たり次第に行おうとしていた。

 ただし、おれを含む村の住人は、普通、正直を以て美徳とする。そして、おれから見て、アレクサンドルの誘いを興味無さげに断ってゆく村人たちは、その美徳を、ともすればあまりにも実直に実践しすぎているような気配があった。

 「農民の地位を向上するため」とアレクサンドルが言えば、「一体どうやってだよ」という答えばかりが返ってきて、「集産と分業によって」と彼が答えれば、「俺らの仕事のことなんか分かってないくせによ、都市民が」と。終始そんな調子では、もしや彼に共感を得ている村人も一人や二人ぐらいはいるのかもしれないが、人目を憚らずに彼と協力しよう、などということができる雰囲気は、全くないと言って語弊になるところもなかった。おれが見ていない間に、彼は随分と飽きられてしまったようだった。

 村人がことごとく帰っていき、輔祭さまもいなくなるまで、おれは突っ立ったままのアレクサンドルを少し離れて眺めていた。最後の一人に至るまで、彼は心の底からの確信だけが生み出せる種類の熱意を持って説得にあたろうとしていた、とおれは思った。とはいえ、段々と疲弊の色が隠せなくなっていたのも確かだ。成果の出ないことをずっと続けるというのは、狂人でもなければ耐え難いことだと思う。あるいは、彼も狂人の一種なのかもわからないが。

 そして今、がらんどうになった広間の入り口で、彼はついにうなだれていた。おれは、あるいは彼が「もう無理だ、諦めろ」と周りの人から言われて、それで気持ちよく諦められるようになるタイミングを待っているのではないかとすら思った。そのぐらいには、おれの常識の埒外まで彼は粘り続けているように見えたのだ。そして彼が今、少し土で汚れた石の床にその目線を突き刺して、掘り込まんばかりに握り込まれたその右の拳が見えて、おれは彼がやはり真っ当な感覚を持った人間だ、ということを確認することができた。

「アレクサンドル」

おれはそうすべきだと思ったから、声をかけた。

「分かっているだろう。お前は失敗したんだ」

彼は素早く顔を上げて、おれのことを見た。その顔貌から受けた印象は、深い土の中に肥沃さを併せ持つ黒土のように見えた。その表情を読み取った一瞬に感じられた恐ろしさがそれに続く森じみた確固たる意志に上書きされて、おれは結局、彼の表情に少し慄いた。

「だから何だって言うんだ。失敗は失敗だ、それは認めよう。ならば、やり方を変えねば、ということだろう。……ただ、私にはそのやり方もまだわかっていない。君は手伝ってくれるか?」

「すまないが、嫌だ。おれはもうお前を居候させ、飯を食わせ、ついでにお前がいることによる評判も背負っている。これ以上何かを差し出すことはできない」

「そうか」

おれは何もしないことを選んだ。おれは卑怯だからだ。おれが卑怯だということは、今の今まで知らなかった。

 尤も、おれ自身のことを弁護させてもらえるとすれば、おれは風見鶏だったとしても最低限の水準は死守した、というところをアピールしたい。おれは彼を放逐しなかったのだ。

 それも、薄弱な意志ではできなかっただけだろう、と言われるかもわからないが――おれは、それを考えないことにした。

 それで、彼はおれ無しでなんとか新しいやり方をやろうとしているようだった。安息日には休むべきだから、そんな準備なんか捨て置けばよいのに、とおれは思ったし、これについては実際に彼に話しもしたが、彼は生返事のみで済ませてしまったのでおれはそこから会話を広げられなかった。短い昼はその程度で終わってしまったので、彼のやろうとしていることを明らかにする仕事は次の日へと持ち越された。

 朝になってみると、アレクサンドルは家にいなかった。一旦都市に帰ることにしたのか――そう早合点してから、彼の唯一の荷物、腰に回せる小さな道具入れが彼に貸している寝床に残されているのを発見して、おれはまだ肩の荷を下ろせないことに少し苛立った。苛立ってから、そのような思いを持つのは決して良いこととは言い難い、と思い直した。さて、今日は糸染めでもしようか。

 しばらくの時間が経った。前兆無く扉が開いて彼が帰ってきたのは、日も南中を過ぎて少し傾いできてからのことだった。おれは彼を見て、思わず口角を上げてしまった。おれは、てっきり彼が未来のない喧伝ばっかりを続けているものと思っていて、それであればおれは彼を諸手を挙げて応援するということはできなかったが、今帰ってきた彼の表情は決して袋小路に行き詰まってしまった男の顔ではなかった。それを見て、おれもつい嬉しくなってしまったのだ。やっぱり彼の善意には偉大なところがある、と思った。

「アレクサンドル! 何か良いことがあったんだろう、どこに行ってたんだ? ついにお前の言うことを試してやってもいいと言ってくれた奴らがあったか?」

「そうじゃないけど、やるべきことはわかった」

おれはにわかに不安になった。

「やるべきこと?」

この頭でっかちの若造は一体何をする気だ、ということ以外の心配は雲が陽射しを隠すように消え失せ、おれは色を失った。ただ、杞憂ではあった。

「決まっているさ。冬の工芸は農民の本懐じゃない。農業について私がより良く知って、私自身がいっぱしの農民として理解されるようにならなければ、私は『村のことを何も知らない余所者』と言われておしまいだ。だから、そうしよう、と。こんな簡単なことに気づくまで、随分と時間をかけてしまった」

ごとりと音を立てて、彼がバケツを床に置いた。まだ水は残っていたから今日汲みに行く必要は無かったのだが、あるならあるで使いようはある。

「それなら、今は時期が悪いだろう。冬には何もしない。雪が溶けるまでの間、畑という畑は雪布団を被って寝過ごしている。何かあてはあるのか?」

「無い。無いが、農業というものは単に働くだけが全てじゃないから、まあやりようはあるだろう。次の春からは私も働くから、居候させてもらっている分はそれで返させてくれ」

おれはやっぱり不安になった。

 まずはおれの農場に案内してくれ、と彼は言ったが、あいにく今日は薪を拾いに行かねばならない頃合いだったので、それはまた朝からということになった。

 一晩経って、まだ薄明のころからおれとアレクサンドルは畑に向かった。畑と言っても半分ぐらいは牧草地みたいになっていて、雪を剥いでも耕された土の痕跡なども無いのだが。今年もその「牧草地」の一部を耕し、そして去年耕した場所の一部を同じ広さだけ「牧草地」にしてやる。そうやって土を休ませてやらないと、収穫は減るわ、雨風にも弱くなるわ、終いには何か病気をしてしまうわと、作物もろとも体力を無くしてしまうのだ。

 彼はおれがそのことを話すのを聞きながら、倉から持ち出してきたスコップを手に雪を掘っていた。そう大した厚さでもない、脛ぐらいまでの雪の層の下には、もちろん土があって、彼はそこを見たいのだと言っていた。掘っていたそこは畑の端に当たるはずのところで、おれも正確にはわからないものの、そのあたりに道との境目があるはずだ、というところをおれは指示した。

 ついに土が見えて、2人で小さな歓声を上げた。しかし、土は土だ。とりわけおれにとっては、もうさんざっぱら見飽きた土だ。いや、本当にそれが見飽きた土なのか、それとも見飽きているわけでもない川向こうの土なのか区別も付かないが、ともかく、二月ぶりのその土にもおれを感動させる何かは潜んでいないようにおれには感じられた。

 彼は何が楽しくてそんなにしげしげと眺めているのだろうか。掘り起こされた地面の方を見てみると、そこは道との協会からは外れていて、全面が畑の中といった様子だった。雪の下で枯れ草がいくらか沈んでいた。土の表は凍りついていたが、それだってもう少し掘り起こせばあっという間に適温が現れるはずだ。

 もうすこしこっちを掘れば道があるぞ、とおれは言ってすぐ足元のところの雪を足で掬い上げた。細々とした雪のかけらが散って、ほんの少しだけが彼にくっついた。彼はそれを意に介さずにスコップを雪に突き刺して、おれは違いがわかるが彼はわかるだろうか、というような土色が顔を表した。彼は霞を掴んだような顔でおれの方を見たので、おれそこが正しいと言ってやる代わりに頷いてやった。

「このあたりが境だな。とはいえ、切って合わせてるわけでもないから、どこが道の終いでどこが畑の始まりだっていうのは無いんだが」

「……なるほど、踏み固められた痕はある。こういう感触か」

彼は土くれのひとかけすら覚えておこうとでもしているかのような観察っぷりを示していた。

 おれはそろそろ飽きてきていた。

「何か面白いものでもあったか?」

「強いて言えば、全部が、だ。私は農業のことを知るべきだ。農業のことについて農民と同じ水準まで知るということは、単に農業の本を読むだけで達成できることではなく、そもそも畑はどういう構造をしているのか、どういう空気に満ちているのか、どのような感触が足裏に伝わってくるのか……ともかく、そういったものを理解しなければならない。そうでなければ、私は一生余所者のままだ」

「……そういうものなのか?」

彼は無言で首を縦に振った。やはり要領を得なかったし、単に彼が余計なことを考えすぎているように見えたが、おれはそれをわざわざ言って喧嘩になる必要も無いと思って、結局言わなかった。

 その後も、彼はまだ他の場所を掘ってみたいと言うので、おれは彼を置き去りにして先に家に帰った。どこを掘ったってどうせ土しか出てこないのだから、彼の気が済むまでおれはどうしようもあるまい。いや、それとも何か聖なる物でも掘り出されたら、おれもその霊験に預かれるだろうか。そういうことを考えると少し愉快になったが、ストーブに薪を補充するよりはどうでもいいことだった。

 それから、毎日のように彼はに出ていた。おれは毎日家で引きこもって糸を繰ったり、染めたり、あるいは織ったりしていた。水と薪は彼が運んでくれるから、去年の冬よりは相当楽だ。しかも、彼の言うことを曲げて実行したところ (気分で作業を変えるのではなく一日の仕事を一つに定めてやってみている) 、思ったよりもかなり仕事が早くなったというもあって、おれは彼が穀潰しになっていることを許せる気持ちになっていた。何であれ、沢山できるということはうれしいものだった。

 彼は日没から少し経つ頃、まだ辛うじて村が暗闇に閉ざされていないころになって帰ってくる。おれはその頃なら食事の用意をしているか終えるころで、彼と一緒に夕飯を食べる生活が続いていた。彼はそのときにいろいろとを話してくれた。たとえば、よく見れば黒さに違いがある云々、土の勾配が均等だ云々、雪の重みにも土はあまり影響されないようだ云々。そうやって、彼の考えることのうち話題になる部分だけをつまみ食いできるなら、なかなかおもしろいものだった。

 おれだって何十年も見てきた土地なのだから、おれはもちろんすべて知っているはずの土地なのだ。それなのに、彼の話にはたまにおれの知らないことが交ざっていたし、二度ほどは信じがたいこともあった。片方は彼の勘違いによることだったのだが、もう片方は見に行ってみれば実際に真実だった。しかも、それ自体はおれも確実に見たことのあるものだった。

 矛盾しているようだが、おれが見たことのあるものが、彼の口から信じがたいこととして出てきたのだ。その間隙にあったものは、彼の考察だった。土の様子から推論を重ねれば、かなり突飛な結論が出せ、しかもそれもまた土の様子から正しいかどうかを検証できる、と彼は言っていた。その威力を目の当たりにしては、おれも彼のような頭が使えたら、と思わずにはいられなかった。ただそれも、思う以上のことは無かった。

 そしてまた安息日が訪れた。おれが目を覚ましたときには、まだ外は暗いままで、半月よりも少し太っていた月からの光が僅かに窓辺の影を作っていた。夏であれば日も出ている時間なのだろう、と根拠なく思って、その窓辺の薄明かりに当たれば空気の冷たさからいくらか逃れられるような気がしてそちらへふらふらと行ったが、ただ明るいだけで何も暖かさは感じられなかった。それでやっときちんと目が覚めた、と思う。

 ストーブから燃え残りをかき出して、空いたところに新しい薪を放り込んで、着火する。少しすれば火も強まって、その前に座るおれの体も温まってくる。よく燃えるようにストーブの中の薪をつつきながら、夜の間に止まってしまったような人間の芯をまた温めてやる、そういう必要が冬にはある。

 椅子の上に座っていたおれは、冬の刺々しい空気を人間が住めるようにしてやっている中で、いつの間にかまどろんでいたことに気がついた。ふと空気のことを気にしてみると、床板に突く足にだけうっすらと寒々しさが残るものの、あとは概ね快適と言ってもいい温度になっていた。おれは椅子から立ち、アレクサンドルが寝ている方を見に行った。もし彼がまだ寝ていれば不用意に起こしたりしてしまうことがないように、足音を潜めながらストーブから離れる。彼は布団の中にいて、顔はおれから見て向こうにあった。寝ていると見なしたほうがいいだろう、とおれは思った。

 空は白み始めていた。特段やることも無いが、ストーブに火を焚いたまま水を汲みに行くわけにもいかず、おれはただぼんやりする時間を享受していた。ここ最近は、アレクサンドルに何かを言ってやったり、逆に彼の言っていたことに従って布を作ってみたり、思い返せば今のようにぼうっとする時間があまり無かったように思う。

 今年の冬はこれまでとは大違いだ。一昨年は妻と娘の2人を看病していたからそれだけで忙しかったし、2人が順々に逝ってしまってからは悲しみの中に沈むだけ沈んで時間の感覚など無くなっていた。去年は、生きていくために必要だからと春に植えたものを秋に収穫するまで育てることこそ惰性でなんとかできたが、冬になっては寂寥がおれとこの家とを満たした。おれが何かをやっても、それを見て笑ったり、怒ったりする人間はいなかったのだ。そうなると、おれはなんで手縫いなんぞをやっているのか、それに答えを出すことはできなかった。おれ一人が生きるだけなら畑仕事で十分だ。ただ、ひたすらに何か作業をしている間はものを忘れることができたから、それでおれにはまったく不必要なものが作られることもあった。

 翻って、今年はどうだ。もうアレクサンドルが来て3週間ほどになる。その3週間――1ヶ月足らずだ!――の間に、よくもまあこんなに物事をできるものだと思った。おれは出来上がった布を何度長老の倉まで運びに行っただろうか? 去年は一ヶ月に一度あれば多い方だったはずだ。今年は……少なくとも、今作業場に積まれている量からすれば、明日の作業でまた持っていく必要が出てくるだろう。そのぐらいの頻度があるのだ。

 日光が部屋の中を貫いて、おれは彼が起きてきていたのに気づいた。おれはストーブの火だけ見といてくれ、と行ってバケツを持って川へ向かった。なんとなく、彼にさせっぱなしにするのは忍びないような気がして、おれ自身の手で運ばねば何かが……何かは知らないが、なまくらになってしまうと思ってのことだった。

 おれが川べりに着くと、そこには先客が2人いた。長老の息子とイオアンだった。イオアンは確か、おれが初めてアレクサンドルの演説を見に行ったときの観衆の一人だったはずだ。そのことを除けば、あとはおれと同じ、ごく普通の村人だった。おれは特に親しいわけでもないが特に嫌ってもいない、そういう奴だ。

 おれはおはよう、と彼らに声をかけた。彼らはおれの方を向き、2人ともが何やら主の奇跡にでも向かうような、怪訝そうな、というよりは神妙そうな……それか、少し哀れみを持ったような表情でおれのことを見たので、おれはバケツを川に差し入れようとした手を止めた。

「エフゲニー、ちょっといいか。お前が住まわせてやってる奴のことで、気になる噂話があってな」

長老の息子がそう言った。おれは身構えた。わざわざそうやって一言挟むということは、悪い話に違いないからだ。

「そいつがな、最近畑の方に出てて怪しい、と。……毒でも撒くよりほかに、あいつがやることは無いだろうという話になってな」

「そんなわけないだろう」

おれは大声を出したつもりだったが、実際に出たのはかすれ気味のそれだった。

「とはいえ、エフゲニー、お前は都市から来たあいつがどんなことをできるか、それはわからんだろう? イオアンも言ってたんだ、何か土地を腐らせるような毒でもこっそり使ってるんじゃないか、と」

イオアンも頷いていた。おれは自分の顔が硬直していくのを感じた。凍りつくような寒さのせいではない。内から湧き上がってくる不安――それも、他の村人が根も葉もない噂話をしていてそれをどうにかすることはできないんじゃないか、という不安ではなく、もしやそれが真実だったら、という不安だった。

「……アレクサンドルは……きっと、そんなことはしない」

「なら、何の目的で畑にいたんだ? まさか遊ぶためってことは無いだろう、わざわざ都市から来ておいて」

おれはアレクサンドルを心の底から信じることはできなかった。彼の言ったことをそのまま口に出すことはできる――しかし、それはむしろ怪しさを増すだけの結果に終わる。おれは彼の発言の意図する所をぜんぜんわかっていない。だから、もしおれがそれを言ったとしても、どういう意味だと聞かれればしどろもどろになるより他になく、それはおれが下手な共謀者だという印象を与えるだけになってしまうのだ。

 だから、おれには彼の人格を擁護するしかできない。それなのに、おれはそれが大岩を持ち上げるように困難だと感じてしまった。

「……とにかく、おれは彼がそんなことをする奴じゃないと信じている。それに、土地を腐らせる毒なんか、わざわざ使ったってしょうがないだろう」

「なら、もしその噂が正しくて、今彼を止めればなんとかなったものを、野放しにしておいたから来年の収穫がゼロになってしまった、なんてことがあれば、お前はどうしてくれるんだ?」

おれは何も言い返さなかった。言い返せなかった、というよりはこっちのほうが正しい。なぜなら、おれは何もしないことを選んだからだ。おれは卑怯だった。

 バケツに水を入れ、おれは来た道を戻った。家に帰り着いて、その室内が温かいことに涙が出そうになってしまった。

 おれは、本当ならその日のうちに彼に警告しておくべきだったはずだ。それをしなかった理由は、やはり卑怯だからということに求められる。おれは、彼に畑の方には行くなと言って、それは何故かと問われたときにおれはお前を擁護できないから、とは答えられなかった。だから、最初から何も言わなかった。

 状況はあっという間に悪くなった。3日で噂は村中に広まったらしく、おれがアレクサンドルを連れて歩いているときに、彼が公然と悪罵を受けることさえあった。彼はそのとき、もちろん力の限りとでも言わんばかりに激しく反論を展開して、おれもあれほど血気盛んに口を出すことができればどんなに良かったか、と思った。

 とはいえ、アレクサンドルと村人のどちらが信用されるか、と言えばそれは火を見るよりも明らかというものだった。おれも多少は彼を援護したが、おれの力と勢いは彼に遠く及ばなかったし、疑わしさを排除すべきだという村人たちの主張に対しておれは弱々しい根拠しか示せないので、おれは口論になると毎度のことのように竜頭蛇尾の態度にならざるを得なかった。

 とかくアレクサンドルは畑どころか一切の外出を控えたほうが良いだろう、とこの期に及んでやっとおれはすることができた。少なくとも、毒を撒いているというのは噂話に過ぎないのだし、誰かその瞬間を見たわけでもないので、顔を見られなければ今すぐに追い出されるようなこともないだろう、と思ってのことだった。

 その翌日、おれはアレクサンドルが見る中で初めて布づくりをやっていた。今日やる作業は糸繰りに決めていた。羊毛をほぐす作業と糸繰り車で糸を撚りあげる作業との2種類に大別できるが、羊毛はまとめてほぐしておいても積み直せばどうせ絡まる。だから、この2つはまとめてやるしかない、とおれは思っている。

「羊毛は、刈り取って運ぶまでは圧縮されているんだ。こうやってほぐしてやらないことには、糸口なんぞ見つかるものも見つからん」

おれは羊毛の塊を2掴みほど台に置いて、それを両手で引き裂くように引っ張り始めた。引き裂いてしまっては問題があるので、無論そのあたりの力加減は学ぶ必要がある。そうやって空気を含ませてやってから糸を引き出して、糸繰り車に引っ掛け、そうしたらあとは糸を引き出すだけだ。引き出し切る前に新しい羊毛から糸口を引き出して、その端にまた撚ってやれば、糸はいくらでも伸ばせる。そこまで口上を垂れてから、おれはアレクサンドルにやらせてみることにした。

 彼は、正直に言って、とても不器用なように見えた。うっかり羊毛を引き裂いてしまうことはなかったがそれはおそらく単純に筋力が足りないためで、糸口を切ってしまうとか、糸車からすっぽ抜けさせてしまうとか、そういうことばかりで、おれがやったときの何分の一の進みになるだろうか、とかそういったことは早々に考えないことにした。

 時間はある程度彼に味方した。いくら不器用とはいえ、ゆっくりとながらも、彼はなんとかしてちょっとした長さの糸を繰り出すことに成功した。そのときにはもう日が沈みそうになっていたが――冬の昼間は本当に短いのだ――彼は倦まずに練習を続けていたので、おれは何も気にしなかった。

 次の安息日を翌日に控えて、ついにアレクサンドルは布を少しだけ完成させた。彼が撚った糸を染めるために染め汁から作るのでは流石に時間がかかりすぎるのでもうおれが染めてあった糸束を使ってもらった上、布のうち9割ほどはおれが縫った部分だった。それでも、彼の初めての成果物だということに違いは無かった。

 成果物になったということは、納品できるということだ。おれはそろそろほとぼりも冷めてきた頃合いだろうし、冬だからといってずっと引きこもらせていれば病気をさせてしまうと思って、彼を連れて長老の倉庫までそれを持っていくことにした。

 冷たい空気は、おれにとっては日常の一部でしかない。慣れ親しんだ冷たさは、おれが生まれたときからそのままだ。だが、彼にとってはどうなのだろうか――もしや、彼には敵対的な空気として映っているんじゃなかろうか。そんなことを思ったのは、彼がいつにも増してきょろきょろと路地を見回し続け、おれの一挙手一投足にさえ怯えているように体をこわばらせていたからだった。

 長老の倉庫に着くまでは結局誰とも出会うことはなかったが、倉庫には人が居た。長老とその息子が2人して何かをやっていた。おそらくどちらかが倉庫番をしていて、もう一人はおれたちのように何か理由があって来たのだろう。そう、ここで誰かと会うことは必至だった。だからこそ、おれはアレクサンドルを守るために一緒に来なければならなかったのだ。

「布を持ってきた。記録しておいてくれ」

おれはそれだけ言ってそそくさと去れないかと一応試みてみた。

「待った。ここ一週間、お前はあいつを匿ってたわけだろ、毒を撒いてたって話は本当か?」

長老の息子はそう言った。その声音は鉄のように冷たかった。

「アレクサンドルはそんなことはやっていないと言った。おれは……ひとの言うことは信じたい。むしろ、何の理由があってそんなに彼を疑うんだ?」

「逆に訊くが、エフゲニー、お前はなんでそんな得体の知れないやつと一緒に暮らしてやることができるんだ? そいつは村の外からやってきて、俺からすれば、徹頭徹尾怪しい動きしかしてないんだ。どこにも信じるに足る理由がないんだよ。なら、俺がそいつを村に留まっていても良いと言うことの意味と、その怪しさとを見比べて、俺はどっちを選んだら良いと思うか?」

「……おれを信じてくれ。おれは、確かに最初こそ成り行きでだったが、一ヶ月アレクサンドルと暮らしてきて、彼は決して悪い人物ではないと確信できた。彼だって、おれと同じだ。ひとの嫌がることをわざわざやるようなやつじゃない」

おれは布を持ったまま、長老の息子とそのまましばらく睨み合った。おれは、長老の息子におれのことを信じてくれと言うことしかできない。それに引きかえ、長老の息子は、そこまでの賭けはできるわけがないと思っているはずだ。だから、ここで口論して鉄を叩いても、そこから出てくるものは屑鉄ノロだけだ。それをお互い分かっていたから、おれと彼とは口をきけなかった。

 おれは唐突に彼から目線を外して、布を置いた。アレクサンドルはそこまでずっと押し黙ったままだったし、おれは彼が怯えてすらいるような気配を感じ取っていた。おれが彼にしてやれることは、もう何も無いような気がしていた。

 帰ろうとしたとき、また別の村人が倉庫にやってきた。イオアンだった。おれの顔を見て、やあ、と軽く挨拶をしたが、イオアンはアレクサンドルの顔を見るとその動きと表情とを無くして、またおれの方を見て口を開いた。

「まだそいつはいたのか。この際だからはっきり言おう、俺はそいつのことが嫌いだ。ろくろく仕事もできないくせに口ばっかり達者なやつだ。そんなクズ、おれが住まわせてやってるんだったらとうに追い出してたぞ」

「……アレクサンドルはそんなやつではない。だが……そうだな、お前が言うところは、確かにそうだ。ただ、彼は自己改善のために努力をしている。おれを信じて、もう少しだけ堪忍してもらえないか」

イオアンも口を噤んだ。おれはおれの意図が本当に伝わったとは全然思えなかったので、彼が黙ったことが空恐ろしかったが、やはりおれには何もできなかった。おれはアレクサンドルを連れて、さっさと倉庫を出てしまうことにした。その際に、背中から「どうだか」と言うイオアンの声が聞こえた。

 おれは、結局なにかアレクサンドルにしてやれたことがあったのかと言うと、何もしなかった、というのが正しいのだろう。おれは、大概卑怯で臆病で意気地なしの、彼の言うところの「保守的農民」でしかなかった。

 終局はすぐだった。次の日、安息日の朝、日が出るまであと少しだろうという頃に、長老がおれの家のドアを叩いた。その叩き方は氷を割るためのそれのようで、どんな火急の用があったのかと思っておれは迂闊にもすぐにドアを開けてしまった。

 その外には、1ダースほどの村人が集まっていた。それぞれ思い思いに鍬だの棒だのを持っていて、おれはもうどうしようもないことを悟った。悟ってしまったので、おれはまだ寝ていたアレクサンドルを叩き起こし、着の身着のままで彼らに引き渡した。彼らは農具でつつきながらアレクサンドルを無理やり歩かせ、歩かせ、見えなくなる所まで言ってもまだそうしているので、おれは少し着いていって、それからやっとアレクサンドルは解放された。「二度と来るな」、「都市の悪魔め」、「詐欺師」、そういったやはり思い思いの悪罵が寒風とともにアレクサンドルを打ち付けていった。おれはそれを遠巻きに眺めて、その村人連が飽きて帰りそうになったところで気づかれないようにおれも家まで戻った。

 おれは、どうしたらよかったのだろうか。事ここに至っておれは胸の内に割れ物を砕いてしまったような痛みを覚えた。おれは、もっと為すべきことがあったはずだ。そうすべきなのだ。

 彼が置いていった鞄がまだあった。おれは決めた。おれは、為すべきことを為さなければならないのだ。

 おれはその鞄をひっつかみ、中の空いていた空間に干し肉をひとつかみ詰め込んだ。それを肩にかけると、おれには短い肩紐が少し締まるような感覚があった。それから、家を出る前にストーブを消し、おれはアレクサンドルのいた方を追いかけた。

 おれはすぐに追いつくことができた。彼は解放されたその場所で、へたり込んで天を仰いでいた。彼はまだ若造だ。あんなに激しく、あんなに多くの人間――事実上、あれは村の総意だ――から、あんな態度を取られたことは、彼の人生の中で一度も無かったのだろう。彼はいま、自身の信条を真っ向から拒否されてしまったのだ。

 だったら、おれができることもある。

!」

おれはアレクサンドルに向かって叫んだ。彼は驚いてこちらを向こうとして、体勢を崩してしまって、地面に体を倒した。

「おれは自分の道を決めた。サーシャ、都市までのを頼めるか?」

おれは努めておかしそうにそう言った。それが奏功したか、アレクサンドルは転がったまま頷いてくれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

金角湾に沈む鎖、もしくは短編のあるべき箱庭 山船 @ikabomb

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る