金角湾に沈む鎖、もしくは短編のあるべき箱庭

山船

みどり児は遡り - SF, 約17800文字

 市民コード2009996 Iota 88520 (もしくはローカル個体識別名「眼鏡ギャリア」) は、齢18にして初めて生まれ育ったアルカディア市の領域と言える範囲を出た。ただし、抜け出たその瞬間を彼は感慨を持って迎えたわけではなく、ただ猛然と進む水中翼船の船室で、ふと彼と彼の仲間たちの頭上にその市民コードを示すプレートが浮かばなくなっていることに気づいたために市の庇護の外に出たことを認識したのだった。

 管理上の都合による識別記号アイデンティファイヤでしかないそれは、とかく人間に覚えられづらくなるように工夫して設計されたかのようだった。昔はもっと人間にも覚えやすい名前を個々人が付けていたらしいが、そのような名前は単純に衝突するので不便だとか、特定の名前に悪印象が付けられたときに連想から関係ない人間まで悪弊が出るとか、そういった理由で自然に使われなくなっていった。少なくとも、「眼鏡」はそのような経緯だと理解していた。何せ、彼が生まれるよりも四半世紀以上前にほとんどの人はその流れに従って子に名前を付けなくなってしまったのだ。彼にはただそれが伝統である、という以上に認識することができなかったし、その必要も感じていなかった。

 とはいえ、覚えづらいことには変わりがない。彼だって彼自身の市民コードでさえそらで言えと言われたら厳しいだろう。Iota88520まではなんとか言えても、それより前はさっぱり覚えていなかったのだ。いわんや他人のコードをや、ついさっきまで談笑をしていた相手――彼と同じ18歳の男――の、その市民コードは今やどこにも表示されていない。「眼鏡」はすっかり困ってしまった。困ってしまったので回想をしてみたが、特に何かの役に立ちそうではなかったので、彼は困ったままでいた。

 談笑していた相手の彼――市民コード2013806Alpha72254、もしくはローカル個体識別名「プサリディ」――は、さっきまで話をしていた相手が急に黙り込んでしまったので、その彼に呼びかけようとしてプレートの無いことに気がついた。ただし、「鋏」は「眼鏡」よりも少しばかり困難に直面した経験が多かったので、そのようなときにどうすればよいかをすでに学習していた。

「ウシア」

「はい、マスター」

彼は彼のすぐ横にふよふよと浮いていた正八面体に向かって声をかけた。「ウシア」と呼ばれたそれは、合成音声だと分かるように意図的に微妙な不協和音を含むよう調整された声によって返答して、主人にその存在を示した。

「市民コード照会ってできます?」

「畏まりました。現在オフラインですので、オンラインになりましたらお知らせします」

そしてやはりそれだけ言って「ウシア」は止まってしまったので、「鋏」もまた困って停止してしまった。少しばかりの差が明暗を分けることはしばしばあるが、この場合は特に何も影響しないものであった。

 しかし、何ももたらさなかったわけでもなかった。「眼鏡」は「ウシア」に話しかけるという解決策があることを見出した。彼もさっそく彼自身の空飛ぶ正八面体に首を向け、そして口を開いた。

「ウシア、僕はこの人をどう呼べば良いと思う?」

簡単なことだ。わからないことは参照する、それだけで――

「はい、マスター、先程までマスターは市民コードの一部を用いていらっしゃったので、その方式を継続なさるのがよろしいかと思われます」

「それじゃだめなんだ。参照できない」

「でしたら、そうですね、名前とは各々のアイデンティティを表すことに使われていましたから、どのように呼ばれたいのかを周囲に説明するのがよろしいかと思います。このことを――市民コード取得失敗、便宜的に『その方」とお呼びします――その方にお伝えし、判断を伺ってみてはいかがでしょうか?」

「眼鏡」と「鋏」はそこで顔を見合わせた。「眼鏡」は、その内心、どう呼ばれたいかについて全くと言っていいほど意識が向いていなかった。だからここで突然言われたことに対しても、そうか、と思いはすれど、それ以上の連想は浮かばなかった。そこの向かいの彼「鋏」もそうだろう、と「眼鏡」は類推した。

 多少順番が前後するが、この「眼鏡」とか「鋏」とかいったローカル個体識別名は彼らがこの直後に編み出したものであって、ここまでは便宜上用いられていたに過ぎない。本来はここまで全て市民コードを用いていちいち「市民コード2009996 Iota 88520は」のようにするべきであったのだろうが、流石に面倒が過ぎる。そういうわけで、多少不正確であるがこのような表記となった。また、これを記述している「私」が誰であるかについてもおいおい示されることだろう。それまで暫しお待ちいただきたい。

 閑話休題、「眼鏡」の推測に反して、「鋏」はすぐにそのローカル個体識別名の希望を出してきた。それが「鋏」だった。「眼鏡」はというと、彼が「鋏」と言ったことから、それが道具であることとか、なんとなくの響きとかに押されて、その口から「眼鏡」という言葉をこぼした。それが彼らのローカル個体識別名となった。一度決まってしまえば、もとより特に深い意図も無いそれであったから、しっくりはまると言えばそのように感じられた。だから「眼鏡」は「眼鏡」であることを承認した。その日のうちに、ほとんど同様の手法によってその船に乗っていた全ての人が何らかのローカル個体識別名を得た。

 ここで、そもそもなぜ彼ら (船に乗っていたのは全員が18歳の男であった) が、アルカディア市から一斉に出てこのような体験をしているのか、それを不審に思っても不思議ではないと思う。実を言うと、これはアルカディア市の仕組んだの一環であった。この船の向かう先は、一言で言ってしまえば廃墟である。快速の水中翼船を以てしても18時間ほどの距離のあるそこに、「眼鏡」を筆頭とする彼らは探検の名目で向かっていた。

 念のため誤解の無いように言っておくと、彼らは完全な自由意志によって集められた者たちである。彼らは過去に何度もこのたぐいの探検があったことを知っていたし、その成果も華々しく報告されていた。「進歩」に総身を捧げる偉大なる若者たちに拍手を、と毎年一度や二度ほど報道されるのを、彼らは幼い時から何度も目にしてきた。無論、稀に帰らぬ身となった者のあることも彼らの知見に含まれる。それを押してでも参加する、という血の気の多い者たちがこの船に乗っているのだった。決して棄民のようなことではない、とだけ留意されたい。ともかくも進歩、進歩、進歩だ。その合言葉がアルカディア市全域を結ぶ常識だった。

 アルカディア市といえば、「眼鏡」は、市民コードではない「名前」を付けるという行為に、過去の「名前付き」の偉人を連想していた。あるいはこの探検で大きな成果を発見することさえできれば、彼もまた一躍偉人となって歴史に名を残せるかもしれない、といった淡い願望も、青年らしくその胸のうちに秘めていた。

 ことに彼が思い浮かべていたのは、イオアニス・メタクサス――アルカディア市の創立者、その人であった。イオアニスの伝説はやたら数多い。偉大なる芸術家であっただとか、アルカディア市の教育システムをすべて作り上げただとか、火薬を再発明して家を燃やしただとか、まあともあれ、一人の業績と見るにはあまりにも色々と伝承がありすぎるほどにある。それにそもそも、その名前はアルカディア市の創立時期と異なる時代の独裁者のそれと一致する。明らかに複数の人々の伝説が集合した、存在しない人物像であった。だがしかし、まだ若き青年がそのようにならんと夢想するにはちょうど良い影でもあった。

 そして、「眼鏡」も「鋏」も、おそらくこの船に乗っている全員が、このもまたイオアニスの手法ドクトリンに従ったものだ、と言われてきていた。イオアニスの見えざる手に領導され、未来と進歩へ貢献する――それが、この船の中に満ち満ちた雰囲気であった。

 一夜が明け、船は岩の多い湾内に進入して速度を大きく緩めていた。「眼鏡」は窓の外に大きく連なる岩場を認めた瞬間から、到着は今か今かと待ち望み、そしてそのまま30分が経過したので流石に飽きてきていた。窓の外から目線を外して「ウシア」か「鋏」か、あるいは別の通りかかった人にでも話しかけたい気持ちが彼の中にはあったが、しかし一方でその窓の外に何か新たな何かが現れる瞬間を見逃してはあまりにももったいない、という気持ちもあった。結局その後の30分も彼は窓の外に釘付けになっていたことを見るに、やはり好奇心が勝ったのだろう、とあたりをぶらついていた「鋏」は思った。「鋏」はというと、甲板に出たりそこに吹く風に音を上げて船室に戻ったり、そういうことをしながらやっぱり景色をずっと見ていた。

 そうしてようやく船が止まり、各人の「ウシア」がそれぞれその主人に降船を促すので、そこは一瞬だけとてもにぎやかになった。皆がリュックを背負ってタラップに向かい、数艘のボートに分乗する。桟橋に向かうまでの数分は、ここ1時間ほどもぼうっとさせられていたことを思えばほとんど一瞬だ、と「眼鏡」は思った。

 「発見」はすぐに彼らを出迎えた。上陸してからひび割れた舗装路沿いに少し歩くと、それまで海からは切り立った山に塞がれて見えなかった建物が、その滅び故の禁足地らしい荘厳さを携えて彼らを慄かせた。

 近づいていくと、それは屋根の落ちた平たい建物だということがすぐにわかった。舗装に使われているものや、おそらく昔は機能していたのであろう突堤の残骸、そういったものの材質を見るに、もっと多層化した建物があってもおかしくないはずだ、と「眼鏡」は思った。

「すると、この土地の価値が恐ろしく低かった、ということなのだろうね」

「いや、港があるんだからそんなことはないと思いますよ。ここの元の政府がど田舎にまで港湾整備を出せるほど儲かっていたっていうんなら別ですけど、たぶん違うでしょう」

割って入ったのは「鋏」だった。ついさっきまでどこにいるのやらと思っていたのにいつの間に、と「眼鏡」は思った。名は体を表すとは言うが、それはつい昨日付けたばかりのローカル個体識別名でもそうなのだろうか。

「ということは、さしずめ、低層でも儲かるか、儲ける必要が無かったってことか。なら観光地か、邸宅か、あるいは宗教施設か。ウシア、あの建物についてデータはあるか?」

「申し訳ありません。ローカルデータにはこの周辺の詳細情報は載っておりませんので、市に戻られた際に参照していただければと思います。リマインダを設定しますか?」

いやいい、とだけ答えて、また歩みが再開された。18ともなれば、誰でも自分の性格を知らずには過ごせない。もちろん「眼鏡」もその例に漏れず、もしこの場でわからないのであれば帰るまで興味が持つはずがない、とわかっていた。

 建物の探索にはそう時間はかからなかった。おそらく木造の建築物だったのだろう、崩落した屋根と思われる部分のレンガのようなものと礎石のみが概観から見える全てだった。屋根も柱もとうの昔に腐り、割れ、虫にでも食われきってしまったのだろう、やけにだだっ広い場所があると思えばよく見ると礎石がある、というようなこともあった。屋根まで全木製だったか、資材か何かとして昔に持ち去られてしまったのだろう、と「眼鏡」と「鋏」は推測し、それぞれの「ウシア」も同調した。

 やたらと男手ばかりがあるので、その瓦礫を退かせて埋もれたものが無いか探してみよう、という声がどこからか出て、反対の声も無く自然その方針が採用された。石同士を打ち付ける、特筆性はあるにもかかわらず快いとも不快とも思わないようなよくわからない音 (これは「鋏」の感想だ) が少しの間その空間のBGMとなってから、誰かが指先を切った。それは初めての危険との遭遇であって、同時に初めての成果物との遭遇であった。

 その誰か (具体的には市民コード2051018Pi07952、ローカル個体識別名「六芒星エクサグラッパ」である) は速やかに絆創膏により治療されたのでここでは追求しなくても良いし、「眼鏡」と「鋏」を始めとしてすべての探検隊が注目したのはその成果物の方だった。「六芒星」が手を切ったそれは、近づいて見てみるとガラスの破片であった。何人かが手袋をはめ、せっせと瓦礫を放り投げてそのガラスのあったところの全貌を明らかにするところを、「眼鏡」と「鋏」は遠巻きに眺めていた。

 まず初めに掘り出されたのは、砕けて中身のないガラスケースの残骸だった。いや、「なんだ、ハズレか」と言った「眼鏡」に「鋏」は「なにかが炭化して付着したのでしょう、分析にかければ何かわかるかもしれませんよ」と目ざとく見つけて言いはした。掘り出す面々にそれは気づかれなかったか、あるいは気づいても興味を惹かなかったのか、すぐにそれはまた放り投げられてもう少し細やかに破片を生んだ。それを咎める者がいなかったのは、そんなものに固執せずとも掃いて捨てるほどの宝が幾ばくもないうちに掘り出されるだろう、と全員が思っていたからだった。

 実際に掃いて捨てられていたものはこの時点まではまだ瓦礫だけだったのだが、その次に掘り出されたものは「アタリ」だった。砕けたガラスケースであったことには違いが無かったが、その底面にはプラスチックらしき物体が固着しているように見えた。おそらく何かを包んだ袋だろう、と「眼鏡」は思った。

「袋の大きさは……ここからだとわからないな。まあいいか、あとでどうせわかる」

「……僕は今すぐ知りたいですね。ウシア、測れますか?」

「はい、測定致しました。推定、縦3 cm 、横22 cm 、奥行き15 cm です」

「内容物は推定できますか?」

「申し訳ありませんが、ここからでは情報が不足しています。長方形、あるいはそれに近い楕円形状であることまではわかりますが、それ以上は測りかねます」

「……よくそんなことやるなあ」

「知らないことを放置しておくことができるほどの器がないだけですよ」

そう「鋏」は素っ気なく言って、また2人は忙しく眺める仕事に戻った。

 瓦礫がどかされきるまでは30分か1時間か、そのあたりだったと思う。さっき見つけられたあのプラスチック以外には、投げ捨てられたガラスの砕けた破片が少し密度を増した程度の収穫しか無かった。それでも皆は意気揚々とそれを持って海岸まで戻り、戻ってみるとそこにはいつの間にやら立派な仮設基地が出来上がっていたので、「眼鏡」は素直に驚いた。

「まだ来て3時間も経ってないだろ、テントなんかも持ってきてないからてっきり船に戻って寝泊まりするもんだとばっかり」

「……まあ確かに、ここまで来るだけだったら水上機でも十分ですね。あの船の腹にこんなに資材が隠されていたとは」

「鋏」もまた感心の声を漏らしていた。そのまま基地に入ってみると、当然空調は効いているし、衛生室もあるし、個人部屋まであった。そして何より、お宝を調べるための検査室なるものがあった。我先にとそのお宝の解析に人が押し寄せるので、「眼鏡」も「鋏」も伝聞形でしか言えなかったのだけれど、その部屋には電磁波という電磁波を使って非破壊検査を行える装置がみっしり詰まっていたという。

 そして、伝聞形で伝わってきていたものの中にはその検査の結果まで含まれていた。簡単な赤外検査だけが行われた後に、「六芒星」の主張によってその袋は破られて開けられたらしい。その中身は本と小袋だった。本が入っていたのは予想通りだったものの、しかし、その表面には何の表記も無く、そのまま開けたので開いてみても手書き文字ばかりが並んでいて読めたものではなかった。より正確には、あの場にいた誰かの端末に入れてあった即時翻訳では太刀打ちできなかった、というだけだが。小袋の方はといえば、逆にこちらは即時翻訳で何者であったかがすぐに明かされた。それによればどうやら乾燥剤のたぐいであったらしい。

 読めないとはいえ、こんな探検に参加する男たちだ、野次馬根性でその中身を見たくないと言い出すはずもない。本の内容は希望者に、と言うよりも先に画像化されて全員に送信されていた。手際のよろしいことで、と「眼鏡」は「鋏」と笑った。無論、二人ともその後はぺらぺらと本のページをめくり眺めて (言葉の綾であり、実物の本をめくっていたわけではない) いたので、それだけ手際の良いことは二人にとってもありがたいことではあったのだが。

 少しして、「鋏」はこの本の面白さを味わい尽くした。読めなくてよくわからない形の何かである以上、「発掘されたお宝」という付加情報が無ければそもそも一瞥すらしないようなものだから、飽きるのもそれ相応に早かったというわけであった。「眼鏡」もそんなところだろう、と「鋏」は思っていたが、意外にも「眼鏡」は熱心にその本を眺めていた。邪魔するのも悪いと「鋏」は思って、軽く手を振るだけで自室へと去っていった。

 翌日もだいたいそのような調子で発掘が進められた。一夜を挟んで異なる点があったとすれば、それは皆が「発見」にそこまで色めき立たなくなった、ということだろう。現に、今日ここまでに発見されたものだけで、絵画と思しきものが3枚、本らしきものが1冊、何らかの金属製の物体が1つ、とどめに石碑が1つ、といった具合だった。

 しかし、それらはすべてそれだけ言っておけば足りる、些細なものだとみなされた。というのも、この後に発見されたものによって、この探検が帯びた任務は大きく方向転換したからだった。

 日もおおよそ天頂にあるとは言えないほど傾いた時間になったとき、「眼鏡」は昨日とは別の建物の瓦礫の下に地下室があることを発見した。何人かのリュックから逆重力場装置を集めて崩れた階段の下へ降り、そこに光が当てられた瞬間、「眼鏡」は息を飲んだ。

 残念ながら、それはその地下室がほとんど酸欠環境だったからで、「眼鏡」は昏倒したのだが、幸いにも逆重力場が彼を酸素の豊富な場所へと放り出した。一瞬の気絶の後に「眼鏡」は目を覚まし、すぐ近くにいた「鋏」も自分の方を向いているのを認識してから彼は立ち上がった。

 「眼鏡」は迂闊さを恥じはしたが、一瞬目に焼き付けたもの、その印象はすぐにフラッシュバックして彼の意識の主役を再び奪った。そこは酸欠環境の地下室だったのだ。つまり、山ほどの保存状態の良い遺物が眠る貯蔵庫だったのだ。それを再び自覚して周囲の仲間すべてに知らせようとしたところで、彼は立ちくらみを覚えてまた座り込んだ。

 「眼鏡」は皆がその地下室から物をているのを眺めていた。保存状態が著しく良いことから、いろいろな「ウシア」が慎重にその遺物を扱うよう助言しているのがあちらこちらから聞こえ、それでかなり慎重に操作が進められていたので、すっかり回復してからは「眼鏡」は暇になってしまった。少し向こうに「鋏」が座っているのが見えたので、彼はそちらの方に向かった。「鋏」は「眼鏡」に気づいてもだらっと座ったままで「眼鏡」を見上げていた。

「おっ、死人じゃないですか」

「取り憑いてやろうか」

「いやー、悪霊退散悪霊退散。というか、あっち見てなくてもいいんですか?」

「倒れてる間には埋まっててな。あんたこそ」

「鋏」は小さく笑いながら目線を逸らした。その視線の先には、ほとんど風化しきってしまったような廃屋があって、「鋏」は立ち上がるとごまかすようにそこに向かって歩き始めた。サボっていることには違いは無いので、「眼鏡」もその後についていった。予想通り何の収穫もなかったので、あたかも仕事したかのように振る舞いながらもすぐに二人は戻ってきたが。

 その僅かな時間のぶらつきで、彼らはこの日の探索でもっとも価値のあった部分を見逃してしまった。すなわち、周辺の地図の発見である。とはいえ、何か花火が飛んだり稲光があったり、あるいは地面が割れたりとか、そういうアミューズメントのあったわけでもないので、見逃して損だったのかと言われると微妙なところだろう、とあとでそのことを「六芒星」から言われた「鋏」は思った。

 して、彼らの「ウシア」の言うところによれば、この地図が発見できたこと、海岸の地形、それから蓄積された全球地図データベースを照合することによって、詳細な周辺地図を作成することができるらしい。その上で作成しますか、と問われ、逆にそこで拒否する理由があるだろうか。

 地図を出してみてくれ、と「眼鏡」が彼の「ウシア」に言うと、「ウシア」はやたらと縮尺の大きなそれを見せてきたので、「眼鏡」それをピンチアウトしてみた。するとすぐ南に小さな三角州とそこに注ぐ川のあることが彼の目に留まった。もう少しピンチアウトすると、その水源と思しき湖も見えた。そして「ウシア」の音声システムの駆動音が聞こえた。

「意見具申してもよろしいでしょうか……はい、ありがとうございます。明日以降の探索では、この川を遡上して湖を目指すのがよろしいかと存じます。と言いますのも、探検隊が帯びた任務は文明もしくはその痕跡の探査ですから、耕作が行われていた可能性の高い、水域周辺を調査するのが妥当かと思われるためでございます。もちろん、最終的な決定権はマスターにございますから、どうかご自由にご判断なさってください」

「やっと探検らしい探検になるな。湖までの日程は?」

「およそ4日と推定されます。まず拠点は移動できませんから、その分荷物が増えることになり、その影響による遅延から……」

「眼鏡」はもはやつらつらと喋る「ウシア」の声を聞いていなかった。そしてもちろん同様のは全員に対してか、そうでなかったとしても十分多くの人々に行われているのだろうという確信もあった。それで、「眼鏡」は少しばかり話を通しておけば明日以降の行動は固まるだろうと踏んでいたし、実際にそうなった。「鋏」の苦笑いが見えたが、「眼鏡」はそれに対して煽るように笑い返した。

 その日の夜、「眼鏡」は興奮ゆえの入眠の困難さを覚えた。もとい、が楽しみすぎて眠れなかったのだ。寝床に入ってから10分ばかりの間だけ彼はすとんと入眠できることを期待していたが、今やもう諦めて部屋の明かりを再度灯していた。

 理屈で考えれば今は明らかに寝たほうが良い、というのは彼にも自明のことだった。そのための手段として、到着初日 (論理的には一昨日) に発見されたあの「本」の解読が選ばれたのは、ひとえに偶然による。その偶然がイオアニスの微笑むところになる――と言うと、ここではまだ時期尚早というものだろう。

「……何か、これの参考になるようなものはないかな、ウシア」

「過去の手書き文字の解読データが利用可能です。また、この地域で使われていた言語の翻訳でしたら、辞書データは予めインプットされておりますので、ご自由にお使いください。端末にインストールしますか?」

自然と声音を抑えていた彼とは対照的に、「ウシア」の方はいつも通りの声を吐き出した。それが金切り声のようにすら聞こえたので、彼は眉間にしわを寄せながら無言で首肯した。

 データ転送を待つ間に、彼はその「本」を開き、いくつかのページを見比べながらその字体を眺めていた。それは全て彼の知らない文字、もしくは知っているものだとすればあまりにも既知の字形から隔たっている。にもかかわらず、似たような字形がページ内の複数箇所に現れていることを彼は目ざとく見つけた。読みがわからずとも、辞書データさえあるのであれば発音などの言語の必需品を全く迂回して解読が可能ではないか、と彼は思った。即時翻訳に失敗している以上はそう簡単ではないことは明らかだったが。

 見比べられていたそれぞれのページには必ず短いヘッダーがあった。そのヘッダーの内容はどのページでも概ね同じ形式を保っている――にもかかわらず、隣接する場所では僅かな違いしか認められない。彼にはこの形式を守るものの心当たりがあった。すなわち、彼はこれを日記なのではないかと推測していた。ヘッダーなどと仰々しく言ったが、要するにそれは日付欄のことだった。

 字形から文字を推定し、文字から単語を推定する。それが辞書に無いのなら、再度文字を推定し直し、単語にし、辞書にあたる。そうして真の単語を見つけ出したなら、次の語へ。そう繰り返す作業は、単調で成功がすぐに見え、しかしそれ故に正解の上に足が置かれていることの確証は決して得られず、続く作業は恐ろしくつまらないので、彼の頭はすぐに寝床へと戻された。

 夜が正しい道に戻るように、部屋の明かりもまた消された。

 そしてそれから1日半が過ぎた。野営地であった河岸段丘の上の、河原の石ぼこよりかは格段に良い環境の地面の上に張られたテントを片付けて、時間はといえばそろそろ移動を始めようという頃合いだった。

 「眼鏡」は、暇な時間を見つけては (より正確に言えば、隊列を組んで移動中などの暇ではないはずのときにさえ) しばしば端末を睨みつけていた。そして今もそうだった。何とは無しに、やるべきことを放置しているような感覚があって、彼はずっとあの「本」の翻訳にかかっているのだった。

 「鋏」にはそれは無用なことに時間と労力をやたらつぎ込んでいるように見えた。端的に言えば、「変」だった。それなので気になって、ついさっき「そんなに面白いのか」と尋ねてみもしたが、「面白くはない」という答えが返ってきてしまった。ではなぜそんなことを、という質問にははっきりとした答えは返ってこなかった。

 そういった詮無い会話のうちに、移動開始の招集がかかった。翻訳された中身も聞いておけばよかったと「鋏」は思ったが、次に思い出したときにでも訊けば良いことだったのでその場では言わなかった。

 予定では、隊は明後日の昼前に湖まで到着することになっている。その予定は過去のデータと突き合わせた結果生成された地図と道の情報に基づくものであって、それが現状に照らして不正確なら当然その行程も送れざるを得ない。

 何が言いたいのかというと、隊は出発して早速その歩みを止める羽目になってしまった、ということだった。

 川には護岸が建設された痕跡があり、しかし土砂の堆積も著しく、ほとんどの場所でその工事は意味を為さなくなっているように見えた。いつか洪水でもあったのだろう、橋脚だけを残して他には何もない、橋の亡霊に隊は出くわしたのだった。渡ろうと思えば渡れるのだろうが、やはりその護岸工事によって急峻になったそこに進入し、出られなくなってしまったらと思うと、まずは迂回路を探すのが先決だろうと「眼鏡」は思った。次いで、先頭の方にいた誰か――「六芒星」である――が、一旦ここに陣取って策を考えよう、と言い出し、隊はそれぞれ適当にばらけていった。あるグループが簡易に橋をかけるために丸太を取りに行こう、と話しているのを聞き、随分とアグレッシブだなあ、と「眼鏡」は「鋏」に言った。

「で、どうする? 僕は迂回路を探したほうが良いと思う。もう少し渡るのに適した場所があるかもしれない」

「……もしかして、水ん中をそのままじゃぶじゃぶ行くつもりですか?」

「丸太で橋をかけて、そこからすっ転んで水の中に全身漬けるよりはマシじゃないかな」

「鋏」は鼻で笑った。それから、いいですよ、何か探しに行きましょう、と半分笑いながら言った。

 残念ながら、そこから上流に30分ほど歩いたにもかかわらず、良い迂回路になりそうな所は見つからなかった。端から端まで浅くなっているような水中堤防のような構造が自然にできるか、というと甚だ疑問ではあるので、当然といえば当然のことだ、と「鋏」は結論付けた。

 それとは別に、本来の目的とは全然関係のない思わぬものも目にする、ということもあった。二人は、巨木がその壁や天井やを巻き込んだために倒壊せずに済んでいる掘っ立て小屋を発見した。扉も固着していたので、「眼鏡」はそれを焼き切って人が通れるサイズの穴を開け、そして二人はその中に入っていった。

 室内に何があったのか、そこは今やほとんど想像しないで済む余地が無いほどに朽ち果てていた。見たところ小さな2部屋が連結された簡単な作りで、一方の角には何か錆びきった金属の塊があった。持ち上げてみるとそれはすぐにより細かなパーツに分解されて、蹴ってどかせばその下にはやはり何も無いことが明かされるだけであった。二人の興味を惹くようなものはその室内には何一つ残されていなく、ただ残骸だけがざらざらと降り積もっていた。

「……なあ、『鋏』。この辺の遺跡を昔に作ってた人らってさ、どうしてこうなったんだろうか、って……思わないか」

「眼鏡」は地面に座りながらそう言った。地面は少し湿っていた。

「さあ。考えたこともない……というより、興味が無いです、僕には。戦争か、地震か、それか隕石か、あるいは単に経済力がしぼんでいっただけか、時の政府が強制移住させたか……っていう妄想ならできますけど、本当のところを探るには情報不足ですよ。ウシア、そのあたりの情報ってあります?」

「ローカルデータには該当情報はございませんでした。しかし全地記録より、自然災害が原因であるという説は棄却可能です。記録をご覧になりますか?」

いやいいです、と「鋏」は頭を振った。そして会話には不適当な数瞬の間があってから、「眼鏡」の声が口から出た。その数瞬は、「眼鏡」のニューロンが情報を自動織機の針にように激しく飛ばした数瞬だった。

「ウシア、地震の記録を見せてくれ」

「はい、年代と場所についてより詳細に指定しますか?」

「場所はこのあたり、年代不明。新しい順に遡ってくれ」

そうして「眼鏡」の「ウシア」は次々と彼に過去の地震の記録を見せつけていった。大半は葉が落ちるぐらいのわずかな揺れだったが、それに埋もれて、人死が出る大震災が時折見つけられた。

 「眼鏡」は、初日に投げ捨てられたガラスケースの中の炭化物を先に年代測定しておかなかったことにやや後悔の念を覚え始めていた。この地域はあまりにも大地震が頻発していて、あの建物が崩れた地震がどれだったか――「本」に記述された地震がどれであったか、彼は特定することができなかった。

 しばらくの間、日陰の室内にはわずかなホワイトノイズ以外の音も無かった。

 そうしてついに諦めて、「眼鏡」はのっそりと立ち上がった。「鋏」も続いて起き上がって、元の橋跡まで戻るためにその小屋は再び忘れられることになった。

「ただな、思うんだよ。結果的にこの場所には人は住んでいないけど、自由、以外にも、進歩の端女にならない、そんな楽しい自由っていうものが、あっていいんじゃないかな……というか……」

その発言の意図を掴みかねて、「鋏」は何も言わずに歩き始めた。

 その日のその後は特筆に当たらない。それから、次の日もただ障害なく登っていっただけだった。湖に到着した日、その日の午後になってから、示すべきことは再び顕れた。すなわち、彼らに一人一台ついてきた空飛ぶ正八面体、「ウシア」がすっかり応答しなくなってしまったのだ。

 誰かが彼の「ウシア」に問いかけても何も応答しないところを見て、周囲の他の誰かがまたその彼の「ウシア」に問いかけてみた。やはり応答しない。それを見たさらに周囲の皆が試し、そしてやはり無理で、という風にあっという間に全ての「ウシア」が機能不全に陥っていることが明らかにされた。

 ここまで登ってくることができたのは、全面的に「ウシア」が表示する地図データに頼ることができたからだ。誰かがそう言った。すると、「ウシア」が沈黙したならば、迂闊に動けば遭難が待っている。別の誰かがそういった。いや違う、これは俺たちに仕掛けられた罠だ、探検の名目でわざと遭難させに来たんだ、と「六芒星」が叫んだ。見る見るうちに「六芒星」の周りにグループが形成されていって、彼らは今すぐもと来た道を戻って船に乗る、という主張を始めた。

 あまりにもバカバカしい、と「眼鏡」は思った。戻ったところで船を動かせるのか。そもそも放逐するつもりだったのなら、戻って救難信号を送ったとしても何の応答も無いだろう。そのうちに食料が尽きて、それでどうする。そう「眼鏡」は激しく言った。

 湖の水面はゆらめいていた。おそらく、そこには食料になる魚が棲んでいるだろう。飲水にだって濾過すればなる。日光を気まぐれに全反射するそれは、きらめきというよりは無目的的な厳しさとして「鋏」の目には映ったが、ともかくも、いくらかの安全を提供してくれる存在だった。

 最終的に、とりあえず湖岸沿いにいくらか進んで野営地を確保してから決定しても遅くは無いだろう、ということで「眼鏡」が「六芒星」を言いくるめた。もしかしたら、もう少し待てば「ウシア」たちは復活するかもしれない。もしかしたら、この湖によってしばらく心踊る冒険ができるかもしれない。もしかしたら、意図的に我々を成長させるために「ウシア」たちは黙りこくり始めたのかもしれない。もしかしたら、もしかしたら。ひとまず、まだこのまま進んでも問題は無いようだから迂闊なことをしないように、という主張に多くの隊員は説得されてしまって、「六芒星」とその周りの急先鋒だけがまだ反発をしている、そんな有様だった。

 数人ではできることもできやしない。仕方がないのだ、という雰囲気を漂わせて、その夜までは結局全員が野営地にまとまっていた。ヒステリックなことを言い出す割に根性のコの字も無いやつだ、と「眼鏡」は思った。

 日が落ちてから、「眼鏡」は暇を持て余していることに気がついた。「ウシア」が反応しないのだから、いつも進めていた日記解読はもうできない。おそらく、同様に娯楽を「ウシア」に頼っていた人たちが多くいたのだろう、テントの外に出てみると、日も暮れているのに出歩いている人の数がやたらと多いように見えた。見渡したが、「鋏」の姿は無かった。ふいと後ろを向いて、「眼鏡」は森の影まで少し歩いた。

 暗い森に入っていくと、あっという間に飲み込まれて二度と出られなくなってしまうような気がしたので、「眼鏡」は慌てて少し野営地の方へ戻った。そして木の根に座って、何を考えるべきだったのかを思い出した。

 本音を言えば、「鋏」と話すことで考えをなんとか滑らかにできたら、と「眼鏡」は思っていた。いない以上はどうしようもない。では沈思黙考と洒落込もうか――

「第一級思考犯罪を検知、通報処理を行いました。厚生担当者の到着をその場でお待ち下さい。繰り返します……」

――と思っていたその時にこんなことをどこからか言われれば、誰だって驚きで飛び上がってしまうものだと思う。本当に飛び上がるのだ、人間は心底驚くと。

 その音源は頭上のようだった。立ち上がって木の枝の隙間を覗き込むと、何か赤い光を放つ小さな物体があるのを発見した。手持ち光源で照らしてやると、それの表面の塗装は剥げていて、平たく言ってしまえば、あからさまにオンボロなのだった。

「……蹴飛ばしたら落ちるか?」

「警告します、正当性監査子機に対する加害行動は不法行為となります。不法行為者はその後然るべき処置がなされますので、ご理解とご協力をよろしくお願い致します」

そこらに丁度いい長さの枝が落ちていたので、「眼鏡」はそれを拾い上げて、オンボロめがけて投げつけた。空洞のある金属をカァンと弾いたときの音がして、そのオンボロは枝から地面に落ちた。

「アルカディア市のやつじゃないだろ、お前」

「はい、私は新大湖沼造成帯第1地区に割り当てられた正当性監査子機です。ご理解いただけましたら厚生担当者の到着をそのままお待ち下さい」

つまり、そのオンボロも遺物なのだ。生分解性の物質がことごとく朽ちに朽ちていることから、おおよそ数百年単位でこの地域は放棄されていたのだろう。それにもかかわらずまだ稼働状態にあるとは。「眼鏡」にとっても驚きでしかないが、おそらくアルカディア市に持ち帰っても大発見のたぐいとして受け止められるのだろう。そう思うと「眼鏡」は自身が高揚するのを感じた。これを持って戻るのはもう少し後でも遅くはあるまい。

「……ええと、僕が何をしたって?」

「第一級思考犯罪です。あなたは領導を拒否し、闘争-逃走的自由を盲信する一派の影響を受けているものと判定されました。厚生処置が必要です」

「……そんなことは無いと思うんだけどな。闘争って何のことだ?」

「知らず知らずのうちにデマゴーグによる扇動の影響を受けているのでしょう。ご安心ください、そういった生得的な病的志向は治療可能ですから」

「扇動なんか受けてるはずないんだがなあ」

「いいえ、あなたの思考にはその痕跡が認められます。特に短期記憶領域にそれがありますから、ごく最近、そのようなアジテーションを受けたはずでしょう。領導によって人民のエネルギーを特定の方向に収束させ、以て不和や人間の相争うことを予防する、そのような適正さに唾を吐きかけているものに、心当たりはございませんか? もし情報提供いただけましたら、それ相応の報奨が用意されておりますので、ぜひご連絡ください」

「たぶん何かの誤検知だと思うが……」

そこで「眼鏡」は口ごもった。唐突に彼の頭の中で物事が繋がったのだ。それは「本」だった。日記の中身は、都市からの移住者を足蹴にするような内容だった。それは、自分らの自由は侵させまいとする主張だと読み取りうる、とオンボロは思ったのだろう。しかも、他人に対する攻撃的姿勢を伴うものであることは明らかだった。だからか、と腑に落ちた。

「『進歩』について、どう思う」

「進歩それ自体は、良くも悪くもなり得るものです。進歩によって攻撃性が増幅されることもありますし、より豊かさを獲得することもまたできるでしょう。進歩しないことによる良し悪しもまた然りです。ですから、肝心なことは、それを取り扱う上で自由を統御下に置くこと、そのことなのです」

そして、また混乱した。生まれてこの方、当然ながら、「眼鏡」はアルカディア市以外の思想を耳にしたことなどなかった。そもそもこの探検よりも前にはアルカディア市の外にすら出たことが無かった。とにかく進歩し続けることが本質的な重要性を帯びている、とアルカディア市は――イオアニスは、ずっと言い続けてきた。そして、そうなのだろう、と「眼鏡」もまた理解していた。

 「眼鏡」だけでなく、すべての人が進歩を奉じていたはずだ。探検に集まった者たち、「鋏」や「六芒星」を含む、そしてもちろん「眼鏡」も含む誰もがそう思っていたはずだ。「眼鏡」が生まれる前から、あるいは生まれる前に死んでいった先人たちでさえそう思っていたはずだ。なにせ伝統なのだから。だからこそ、そんな顔も名前も知らない人々だって仲間で、帰るべき都市を構成するメンバーだったのだ。

「進歩は……本質的では、ない?」

「はい。唯一の根幹は制御であって、枝葉末節はここから導くことができます。制御下に無いものは、いずれ爆発などを起こして価値を損害せしめるものです。ご理解いただけましたか?」

「………………」

「眼鏡」は答えなかった。より正確には、答えられなかった。彼にはこのオンボロの言うことが、ある面ではまったく同意できて、またある面では殴り壊したいほどの怒りに襲われるとんちんかんなものだと感じられた。息を吸い、吐いて、少し落ち着いた。彼はとりあえず気に食わない方だけ攻撃しておくことに決めた。

「制御なんぞクソ喰らえだと思うけどね」

「アジテーションによる重度脳障害の影響が推察されます。本来であればもう厚生担当者は到着しているはずですが、何らかのトラブルがあったのでしょう。到着まで今しばらくお待ち下さい」

「自由の方向を制御するなんて無理だろう。無方向なものが自由だ。無方向なんだから、その病的志向とやらを抑えようとするなら全部抑えなきゃならないだろ。そうしたらもう自由なんか無いようなものだ」

「……厚生担当者の到着をお待ち下さい。これまでの言動は随時レポートされております」

言うだけ言って、しかし攻撃は何も「眼鏡」の内的整合性を改善しない。それを無視して、彼はオンボロをそこに放置したまま野営地まで戻った。

 その日の夜は長くは無かった。混乱と疲弊はあっという間に彼を寝付かせ、そしてその睡眠と朝のルーチンワークは彼にとって福音と言っても言い過ぎでは無かった。それらが彼の頭をはっきりさせた。あとに残る問題は、これをいつ表明するか、ということだけだった。

 テントはいくつか畳まれはじめていた。いや、よく見るとすでに撤去された部分もある。合わせると6割ほどだろうか。ここを拠点に動こうという話なのだから、畳んでいる人たちは全員船まで戻ろうという派閥に違いない。ということは、「ウシア」は一晩経ってもやはり動かなかったのだろう。

「おはようございます。戻る派はいま最後の呼びかけって言ってますけど、いいんですか?」

「……ちょっと、決めたことがある。僕は船には戻らない。それは今だけの話じゃなくて、将来もだ。いや、もしかするともう何年も経てば違うかもしれないけど」

突然の主張に何を、と「鋏」は目を丸くしていた。

「それをあっちにも伝えてくる。すぐ戻ってくるよ」

そして、反応も待たずに半ば逃げるように去った。去れば、何か言うことを挟むほどの距離があるわけでもなし、まだ「鋏」の視界の中に捉えられているうちに船派の元へたどり着いてしまった。「六芒星」は「眼鏡」を見て怪訝そうな顔をした、とするのは彼の自意識過剰かもしれない。

「僕は船には戻らない。今だけじゃなく、この探検の日程が終わってもだ。もはやアルカディア市は僕の帰るべきところじゃない。じゃ」

踵を返した彼の背に、今度こそ困惑した「六芒星」の視線はあった。変なやつだ、と認識はされても、変なやつに構うよりも先にやるべきことのある彼らはすぐに「眼鏡」への興味を失った。そのあたりで彼も「鋏」のもとへと戻った。

「どういうことですか?」

「イオアニスは、進歩のために自由の枠組みを作ったんだろ。僕はまったく逆がいい。自由のために進歩があるべきだ。自由のためにならない進歩なんか捨てちまえ、そう思ったんだ」

過激だ、と「鋏」が漏らした。ああ過激だとも、と「眼鏡」は言って、昨日の夜に見たオンボロの方へ「鋏」を連れて行った。すぐにやかましい声が聞こえてきた。夜に歩けば相当距離があったように感じたこの森も、日がさせば僅かな道だと思えた。

「何らかの理由で厚生担当者がアクセスできないことは理解しました。ですが、しかし、あなたが――あなたがたが、誤りで満たされた海の中の誤りの島であるような自由に向かって突進していくのは、私は擁護できません。すぐに厚生がなされるべきです」

オンボロは「鋏」のことも「思考犯罪」を行った者だと断じたらしい。それなら、たぶん探検隊は全員そうなのだろう。本能的に、自由を欲するのだ。

「すごい遺物じゃないですか。これは?」

「昨日の夜見つけた。賑やかしにはなるし、会話応答能力もある。水先案内にももってこいじゃないかな、と思ってさ。オンボロや、君の言う厚生担当者が来たら大人しく厚生とやらを受けてやるからさ、必要な時以外は静かにしてもらえるかい?」

「誰がオンボロですか」

そうしてそれを持ち上げ、また野営地へと戻った。やっぱり短くて明らかな道だった。

 野営地からはもう船派は出発していたようだった。残ったメンバーにはオンボロは大ウケした。そして、とりあえずの生存には何が必要かを試しに聞いてみたら、畑でも作ったらどうかという返答があり、これには皆同意した。手製の鍬を作り、それが土へとめり込んで草を剥ぐ。自由の素晴らしさを自覚的に感じたのは、彼にとってこれが初めてのことだった。それからのことは、さらに後世の探検隊が語ることだろう。

 ちなみに、イオアニスの企みは、ここまでのところ順調だと言えるだろう。

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