ざくろ色
エンジンと箱が、おれをごうんごうんと傾かせたり震わせたりして弄んでいた。揺すられていたのはおれだけじゃない、おれを含めて8人もの勇者たちがこのトラックには乗り合わせている。銃剣と手榴弾で武装し、揃いの制服に身を包み、それがまさに我が国の優れたる精神の発露であるような勇者だ。赤熱した石炭みたいに各々は武者震いしていて、おれだってそうに違いない、皆々トラックに負けじと空間を燃やさんとしていた。
このトラックには窓は無い。だから、おれがいまどこにいるのかは定かではない。しかしそれは大したことでは無いのだ。どうせこの土地のどこを見たって畑と道しか無いに決まっている。地元でさえない。おれは遥か遠くの故郷から、長く苦しい訓練を経て、ようやく侵略を受けた同胞を助けるための前線に向かうことができたのだ。それが、今だ。
この草原だって、もちろん、同胞の大地だ。だから、輝かしい土地だ。価値ある土地だ。おれが命を賭すに足る、ザパディア人の頭をかち割るに足る、おれとおれの同胞の宝だ。そこを疾駆するこの箱の中に乗る者は、全員同じことを思っている。おれたちは、その気持ちで連帯していた。
前線までたどり着くのが待ち切れない――あまりにもずっと閉じられた空間で決意だけが充満しているから、ふと気がつけばこの気合が爆発して、ザパディア人だけを殺す奔流となっていやしないかという気持ちにさえなる。そうなっていないのが心底残念だ――ごとごととこの箱を跳ねさせる道の小石でさえも、ザパディア人にくれてやってはならないのだから!
「前線はまだだろうか。そろそろおれの銃剣も錆びてしまいそうにすら感じる。なあ、ミーシャ?」
おれは隣に座った勇者の同胞に声をかけた。そうしなければ、おれのこの昂った気持ちがどうにかなってしまいそうだったからだ。例えば、このトラックを摩訶不思議な力によって風船の如く浮かばせてしまう、とか。
「なあに、そう焦ることも無いだろう。おまえもおれも、そこのサーシャもジーマも、みんな見てみろよ、今すぐにでも
「おれだってそんなこた分かってるさ、ミーシャ、そうは言ってもおれは堪え性が無いんだ、知ってるだろ?」
「よし、じゃあおれがお前の銃剣を見てやろう。本当に錆びてたらことだからな! その間はおれのを見てくれ、そうすればいくらか気も紛れるだろ?」
そう言ってミーシャが渡してくれた銃剣は、傷一つ見当たらなかった。惚れ惚れする。故郷の教会の神具を思い出した――神の血が注がれる器だ。まさにそれみたいだ、と思った。あるいは、稲穂の実る一面の大地、朝焼けに輝く川面、子供の頃に読んだ絵入り雑誌に広告が出ていた懐中時計――そんなところだ。いま手に持っているのに、この世にあり得る物の中で最も完璧に近い、満月のような銃剣だった。
「まあそりゃ傷なんて無いか。訓練で持たされてたわけでも無いしな、おれが見た限りではこいつは完璧なままだ」
そう言って、ミーシャはおれに銃剣を返して寄越した。おれも返す。おれの手に収まった銃剣は、おれに向かって笑った。車内のランプの反射でそう輝いた。気分はすっかり落ち着いたが、焼かれたパンみたいに、おれの意志は良い方向にだけ固まったままだった。
しばらくして、急停車がおれと勇者たちとをぐいと引っ張り、箱の中は沸騰する寸前の湯のようになった。待ちきれずジーマが後方の乗降扉を開け、おれも含めた全員が降りていった。まわりの景色は、驚くほどに予想通りだった――新聞を7度目に読むときでさえ、いまよりは知らないことに気付けるに違いない。それから、降りてから気が付いたが、おれたちはずっとトラックの車列の中にいたらしい。前には何台かがいて、後ろにはその何倍もの数がいた。
まあ、それは問題にはならない。車列全体が停止しているということは、一番前のトラックが止まったということだ。パンクでもしたかとか泥濘にはまったかとか、そういう噂話が細氷みたいにして現れては溶けていった。
その答えが得られるまでにもそう時間がかかったわけではなかった。
伝えられたことは――「敵戦車を発見、警戒に移行せよ」。
おれはにわかに足を地面に付けていられないような感覚に襲われた。いますぐザパディア人の戦車を破壊してやりたい。しかし、味方の前線を突破されているのか。ここはまだ後方のはずだ。おれたちは塹壕線まで前進し、機会を見て突撃する、という役回りだったはずだ。そうなると、前線にあったはずの対戦車装備――わずかだが、無いよりは何倍もマシだ――さえも無いに違いない。砲の一つも無いだろう。それならば、おれの力が十全に発揮される、もしかするとまたとない大チャンスですらありえる。
手に持った銃でさえもこの世のものではないような気がする。掴むのに掴めない。構えるにも構えられない。指先の感覚がなにか天使に取って代わられたか何かのようで、夢見心地だった。おれは必死に訓練のことを思い出した。何度も、何度も繰り返した動きを頭の中でまた転がす。転がさなければ、おれはいま自我を保てないような気がした。そうだ、掛け声に合わせて動くのだ。イチ、ニ、サン、シ。立ち、構え、撃ち、戻す。ただ今回の相手は歩兵じゃない、戦車だ。対戦車訓練だってやっていなかったわけではない、どころか毎日やっていた。食事で言えば牛乳ぐらい目立つものだ。決して主幹には成らないが、欠かしてはならないすばらしい部分。そのことも思い出す。おれは狼のように敵戦車に駆けていき、隙を突いて敵戦車の開口部に手榴弾を放り込む。その手際は鍛冶の神にも負けまい。そうしたらどかん、と爆発が起こる。それで撃破だ。
実際の敵戦車のことを考えると、まず主砲を向けられて無事で済むことはあるまいが、それは歩兵の小銃だって同じことだ。おれに風穴を開けられるのが早いか、それとも奴らが死ぬが早いか、というだけの話に過ぎない。おれの、おれたちの士気の高さからすれば――帰結は目に見えている。おれの口角は三日月みたいになっていった。
すぐにより詳細な命令が出た。ほとんど障害物の無い草原だが、なるべく散兵になって敵戦車の遅滞に努めよ、だと。腰抜けだ。もちろん、おれは敵戦車の撃破を狙う。おれは祖国のために戦うからだ! そんな命令を出す腑抜けとは違う。おれは祖国を照らす太陽のひとりであって、のうのうと見上げて満足する大地じゃない。
腰元の手榴弾をはたいて、その存在を確認し直す。ごつごつとした形が確かに感じられる。じゃがいもを握るようだった。重み、形がその実在をおれに訴えてくるのを感じるのは心地いい。目線も向けてやると、それがじゃがいもではなく、祖国の大義を果たす能力があることも存分に訴えていることがわかった。感覚の戻った手指とともに、銃を携えて、おれは勇者たちと三々五々に分かれていった。
期待に反して、おれは影の形が変わったことに気づくほどの間、ずっと、ずっと暇を持て余していた。てっきり先頭のトラックが目視で戦車を発見したものとばかり思っていたのだが、実際には早馬か何かで連絡を受けたのだろう、待てど暮らせど敵のかげは見つけられなかった。しびれを切らして少し麦畑の中を前進してみたものの、別にそれで状況が変わることもなかった。絵を書こうとして包丁を研いでいるような不合理感を覚えた。
いつになったらおれは民族の大義のために働けるようになるのだ? 一体いつになったらおれは
おれはふと、おれ自身が祖国と同一であるような感覚に襲われた。見上げれば青空がおれと目を合わせ、風はこうこうと耳を吹き、麦は声高に歌っている。その中におれがいる、ということが信じられないような気がした。おれは本当はこの場にはいなくて、その代わりにこの場そのものがおれなのではないか、という気になっていった。畑を踏みしめる反発の感触とか、銃の硬さとか、そういったものたちはおれにそれが錯覚だと言ってくる。しかし、信用に値するのだろうか?
――するに決まっている! おれは祖国の偉大さを噛み締めた。そういうことなのだ。おれとおれの祖国が優れていて、ザパディア人とその国が劣っている理由は、まさにそういうことなのだ。おれにはこれ以上の言語化はできない。できないが、まさにそういうことなのだ、ということばが全てだ。
また影が傾きを変えたことに気がつけるほどの時間が経って、おれは待ち望んでいた変化に急に気付いた。どこからかエンジン音が聞こえた。エンジンはおれなど気にする可能性が万に一つもあるものかとでも言わんばかりに自己を展開している。ザパディアの戦車だ、と直感した。
しょろしょろと麦をなびかせながら歩を進める。いまのおれは、何だ。スパルタのどんな兵士だって、いまのおれよりは勇壮ではない。蛮族の狂戦士だっておれよりは軟弱だ。おれはまさに無敵だった。まさか満月が次の瞬間には陰るまいとだれもが思うように、大河が明日には枯れ果てているとだれも思わないように、おれはそういう種類の永遠を身に宿していた。
それまでの時間に比べれば、実際に敵戦車を目視で見つけるまでは一瞬に等しかった。それから目と鼻の先に来るまでは、一瞬のさらに一瞬だ。おれは手榴弾を手に構えた。あとは、奴らが最もおれに近づくタイミングまでこの麦の中に潜み……その瞬間が来たならば、おれは一瞬のうちにあの戦車の
戦車はごろごろと音を出してあぜ道を進んでいた。おれはこんな騒音には聞き覚えが無かった。強いて言えば、バケツを引きずる音を何倍にも増やして、市場での話し声をその音になぞらえたような、そういうものだった。見た目だってこんな至近距離にあっては驚きでしかない。鋼の箱だ、ということはわかっていた。トラックの親玉みたいなものだ、ということも理解しているつもりだった。それが、ここまで中世の騎士のような鎧に身を包んでいるとは想像できなかった。
おれは騎士殺しだ。なんという素晴らしいことだろう。高潔な、すなわち何の役にも立たない思想を心に抱いたまま、力尽きるとよい。
足は大雨のように地面を打ち付けた。その一歩のたびに戦車との距離が縮まる。鉄の塊があっという間におれの目の前を占めて、ダビデの前のゴリアテのようにおれに姿を顕示している。そう思うと、金属のさびつきはかれの肉体の綻びのようにしか、泥汚れは痛々しい傷跡のようにしか見えなくなってきた。おれはとろとろと進むその戦車に飛びついて、手榴弾のピンを抜いた。そして、不意にハッチが開いて、その中の人間と目が合った。
とうに手榴弾はおれの手を離れ、気ままに空中を飛んでいるところに違いなかった。
おれはその人間を人間だと思った。口元はなんとなくミーシャみたいだった。年はおれとそう違うまい。戦車の、何の担当だったのだろうか。おれと目が合って、そいつは雷が目の前に落ちたかのようにして、驚きと恐怖を水に溶いたような表情を貼り付けた。眉間が硬直して、口角は下がり、目は緊張して、それから小さく顔全体が震えていた。何か素っ頓狂な声も出していたような気がする。しかし、それら全ては戦車の動きがかき消した。
おれは戦車に背を向け、体全体を雪崩みたいにして走り出した。
口の中に血か何かの味がした気がした。おれの頭の中は、訓練の時間を思い出すことでいっぱいになった。
掛け声がひとつ。おれは持った銃を構える。掛け声がふたつ。おれは的に向かって狙いを定める。掛け声がみっつ。おれは引き金を引く。掛け声がよっつ。おれは銃を構えたまま走り出す。
おれの射撃の腕はそれほど良くはなかった。素人よりはマシだろうが、おれを見て百発百中と言うやつがいればそいつは大嘘吐きだ。まっすぐ、いつも同じように狙っているはずなのに、その半分ぐらいは的にかすりすらしない。弾が銃と薬莢を離れて自由の身になったことを喜んで、的から遠くまで飛びたがっていたのだろう。
その気持ちはおれにだってよくわかる。おれは――おれとその民族は、いま、まさに、銃弾と同じようにして自由を勝ち取らんとするところなのだ。旧い帝国は革命の瓦礫になった。新しい共和国がその瓦礫からおれたちの宮城を作り上げる。ただ、そのためにはしなくてはならないことがあった。おれたちを妬んで、おれたちの宮城に火を点けて堂々と盗人を演じようとするザパディア人どもを全員、共和国からは研磨し切り落としてやらなければならないのだ。
訓練場では、誰もがそのことを正しく認識していた。夜になるたびに、おれたちはどうやって
そして、おれはついにそのザパディア人の目の前まで来た――
足は今更止められなかった。いま立ち止まれば、報復に出てきた
一瞬だけ目が合ったやつの顔がおれの視界には張り付いていた。
おれは死にたくなかった。
手榴弾の感触がまだ手に残っている。幼子が母親とはぐれないように手をきっと握りしめるように、おれもあんまりにも強くそれを握りすぎていた。
びっくり箱に驚かされたようなやつの顔が、草の上にひろがっていた。
柔らかくて走りにくい草を、それでも3回軍靴で蹴り飛ばした。背中からくぐもった爆発音が聞こえたのは、そのときだった。神がおれを懲罰しに来た、と思った。腰を抜かして、草むらの中に転んで落ちた。
おれは殺されたくなかった!
顔は消えてくれなかった。死んだだろうか。死んでいないはずがあるか。死んだに違いあるまい。戦車の中は部屋だ。部屋の中で爆発があって、生き延びられる人間などいない。爆発の前では、ザパディア人もおれたちも等しい。
ただ――おれはまだ、生きている。やつは、死んだ。おれが殺した。おれが、やつの戦車の中に手榴弾を放り込んで、爆発させて肉片か、黒焦げか、それとも粉微塵か、そういったもののいずれかに変えてしまった。
立ち上がろうとしたが、膝が溶けたようだった。幸いにも肘はまだ働いてくれた。無理矢理にでも体を引きずって草に擦り付けていくうちに、おれの体は氷嚢が乗せられたようになっていった。頭もだ。体中が真冬と勘違いしていた。
おれは、おれ自身が勘違いしていたよりもずっと弱虫だった。爆発の前では、おれたちもザパディア人も等しい。等しいのならば、爆発で死んだのはおれであっても良いはずだった。その想像をすると、おれは沼に頭から漬けられたような気分になって総毛立った。
まだしばらくはうまく立ち上がれなかった。その後、どうやって車列まで戻ったのかはよく覚えていない。ただ、あかあかと空を照らす炎の群れが遠くに見えた。人参を押しつぶして空に撒いたようだった。
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