燕雀は飛ぶ

 後から思い出そうとしても、きっと電車はいつもどおりに震えながら滑走して、学校はいつもどおりに生徒らを睥睨して、でも当然ながら僕がいても良い場所なのだから歩くだけで木々も主人に一礼をする、そういう普通の日だったのだろうとしか思えなかった。空も多分晴れていたはずだ。それが複雑さを諦めたみたいな青一色だったか、それともほどほどに雲を纏って感情を見せていたか、どちらだったかはわからない。ともかく、太陽光線を遮る番傘を空が用意してくれていなかったことは確かだ。

 確かに思い出せる、ように思うのは教室に入ってからだった。その日は1、2時間目の代わりに生徒が皆して体育館に集合し、生徒会のあれこれを更新したり所信表明演説を聞き流したり、そういう日だった。僕は席に座って、いつもの癖で1時間目の英語の教科書を取り出しかけ、今日はいらないんだ、と思い出していた。

 で、僕が教科書を不要に過労状態に陥れようとしたのはどうでもよくって、本題はそのときの生徒会の構成の話だ。僕はもちろん出馬していないどころかだれか候補に投票しなければならないときにだってランダムに投票するつもりだったから、本当に関係ないものと思っていた。幸いにも候補者は各役職に1人ずつだったから、誰かが僕の代わりにその面倒を肩代わりしてくれたのだと思う。それで、生徒会長と副会長が僕のクラスのひとだったのが少しだけ興味を引いた。

 どっちを先に言おうか。面白いものは後回しにしておいたほうがいいだろうね。というわけで、まず副会長は白鳥しらとりくんだった。あんまり話したことは無かったけれど、見たところイケメンな、黄梅のような顔をしていた。それから演説もはきはきと理念を語ってくれていた。よく知りはしないが、たぶんひとから好印象を得やすい質だろうと思った。それか、金箔の擬人化と言っても通じるといえば通じるかもしれない。

 では会長はどんなだったかというと、このとき僕の隣の席に座っていた女子、鴻ノ池こうのいけさんが選ばれていた。席が隣だから、当然少しばかりは話す仲だった。だから、おお、となった。無論僕が当選したわけでもなければ、応援をしていたわけでもなく、それどころか出馬する意志を持っていたことさえ知らなかった。でも、はまり役だった。

 彼女は僕からするとかなり頭の良いひとに見えていた。体育館から教室に戻ってすぐにもちろん茶々を入れたのに、3時間目で返却されたテストの結果を見て僕はこのちょっかいを繰り返してはやっかみにしかならないだろうと思って少し後悔させられてしまった。そのときの科目は数学だった。僕はどうにも理数系科目が苦手で、国語みたいに覚えれば覚えるだけ点数になる科目なら楽なのになあ、とずっと……今でさえ思っている。あるとき、何かの雑談の流れかなにかでそのことに話が向いたけれど、彼女は確か真逆のことを言っていたはずだ。曰く、「数学は知らなくてもわかっていれば解けるから良いのよ。英語は知らないと解けないから……嫌ね」と。文系科目なら点数で勝てることもあるけれど、彼女だってもう少し勉強に時間を割いていればまず間違いなく僕なんかに負けることは無いはずだ。

 ともかく、鴻ノ池さんはすごいひとだ。猛吹雪が道路を夢の中に追い落とすみたいにして、彼女は僕の感覚を時折狂わせてくる。僕だって高校の2年に至るまでそこそこ生きてきたんだから、判断に使う定規の1つや2つぐらいある。彼女は、当然のような顔をしてそれを蹴っ飛ばすことがある。教科への評価はその最たる例だった。そのおかげで少しばかりは彼女に優位を取れているのだから、悪いことばかりではない気もする……と見せかけて、きっとそんな「優位」など彼女はかけらほども気にしていない。

 結局のところ、彼女は僕にとって瞬く雲のようなひとだった。

 特筆することの無い日というものは、放課後までいつも通り、蓮根に穴が空いているのは当たり前であるのと同様に楽しいのが当たり前の、そういう時間になる。とはいえ話題ぐらいは思い出せる。話していたと言っても鴻ノ池さんとではない。彼女とは実のところそこまでは親しくない。町ですれ違えば会釈する程度ではあるけれど、他生の縁は他生の縁でしかない。金輪際会うことも無いわけでもないからといって、それが何か棘になって刺さることも無かった。丸くてなめらかな、ビー玉みたいな関係だった。

 じゃあそれで誰と話していたのかというと、

「いやー、あたしも幼馴染が副会長サマとあっては鼻が高いわ」

「寺田さんと白鳥くんってそうだったんだ?」

「あれ、石井には言ってなかったっけか。1年のときは同じクラスじゃなかったから、まあね」

「まあ……僕もあれだよ、席が隣だよ、会長さんと」

「だからどうしたよ」

というところ。こういう、本当にどうでもいいことで爆笑するのが気の置けない雑談というものだ。

「というかいるんだから呼べばいいじゃん。白鳥ー!」

「ちょっとキリ悪いから待ってくれー」

僕も寺田さんに合わせて白鳥くんの方を見た。机に向かって何かをしている。背中しか見えない。いや、後頭部も見える。彼は姿勢を変えないまま、たぶんノートか何かに向かっていた。

「ほら、アイツは見ての通りマジメくんだから。副会長とはいえ、生徒会に立候補するなんて普通めんどくさくてやってらんないじゃん?」

「……そうなの? 僕は考えたことも無かったからわからんや」

「いやだって考えてみ? 生徒会に入る時点でいらんことしなくちゃいけなくなるわけよ。少しは内申点になるって言ったって、めんどくさすぎるじゃんね」

それもそうか。僕はそこで席を立った。白鳥くんの方に接近して、横に回ってみた。彼は僕をちらっとだけ見たが、すぐに視線を机に戻した。その視線を追ってみてやると、綺麗な字で書かれたノートが目に入った。矢印と簡単な図で支持された文章は、ついさっきの世界史の授業についてのものだった。

 内心、なるほどこういう真面目で勉強のできるひとだから副会長になれるのだなあ、と思った。僕はこれに比べると至極適当だ。世界史になんかほとんど興味は無い。先生が重要だぞ、と言ったところをノートに書き写して、テストの前に見返して詰め込むだけ。だって、僕にはほとんど関係の無いことなのに、そこからどうにかして興味を持てと言われても困る。白鳥くんのノートをぼんやり眺めても、やっぱりそう思った。なんなんだ、レヒ川 (どこ?) で戦いがあったからって。

 そうしているうちに彼は書き物を終えて、ノートがハエトリグサみたいに閉じた。体を折っていそいそとノートをリュックに仕舞っていく彼の、そのつむじが視線の上に流れ来た。渦を巻いていた。鳴門の渦潮のことを連想した。それか、ゲームに出てくるようなこれ見よがしにくるくると回る竜巻だ。どちらもしっかり見た覚えは無かった。寺田さんの方に戻ろうとして顔を後ろに回すと、彼女が歩き寄っていたので僕は近くの席に腰を落ち着けた。

 白鳥くんは意外に気さくな人だった、と思う。少なくともその日に僕が受けた印章はそうだった。流石は幼馴染と言うべきか、寺田さんがボケをかますたびに白鳥くんはツッコミを絶妙な間で入れていて、それで僕は笑い転げた。まあつまり、なんてことはない、いつもの楽しい放課後を過ごしていたのだ。2年に進級してからしばらく経って、こうもいきなり仲良くなれるクラスメイトがまだいるとは思っていなかったから、そこは新鮮に驚き……というよりは面白さを覚えた。虹がプリズムを通して出てくることを初めて目にしたときみたいな、世界の仕組みが喉を潤したような感覚だった。

 次の日、登校してすぐに白鳥くんと鴻ノ池さんが話しているところに出くわした。都合後ろ側のドアから教室に入るので、椅子に座っている白鳥くんに対して鴻ノ池さんがその机に両手を突いて何かやっているのを最初に見たとき、2人ともの表情がよく見えなかったもので、キスか何かをしているように見えた。すぐに彼女の表情がかなり真剣そうだと気がついたし、何より話し声の勢いは到底そんな甘いものではなかったので、勘違いは文字通り瞬く間に雲散霧消したが。でも、お似合いだと思った。

 何を話しているのかはよくわからなかった。話の途中からしか聞いていないからという面はたぶん小さくないだろうけれど、それにしたって、「そうするだけの能力があるのに逡巡する理由は?」とか「しなければならないこととすべきことは完全に重なるわけではないということ、知らないではないでしょう」とか、そういった言葉が使われる対象が存在するのかどうか、僕は頭を捻らざるを得なかった。

 彼女は少しして僕の隣の席まで戻ってきた。溜息を吐いてから、机の上にノートやら教科書やらを取り出し始めた。今日の一時間目の化学のそれだった。その様子を僕はずっと頬杖を突きながら眺めていた。HR前のこの時間は割に暇なのに、鴻ノ池さんはあんまり話し相手にもなってくれないのだ。だからあるとき意趣返しと思ってこうしてみたのに、彼女は全然気にしていないようだった。それで僕ばっかり子供じみた風にやっていると思えてしまって意固地になって、それから時折こうやって眺めている。目が合うと呆れたような顔をする……ような気がするが、何もしていなくてもいつも僕に対してはそういう顔をしている気もする。

 ぐるりと顔がこちらを向いた。びっくりした。彼女の真一文字に結ばれた口が開くところは初めて見たかもしれない。開いてみれば当然のことだけれど、彼女も人間だし喋れるのだから当然この口も動かせるのだ。そのことが意外に思われるぐらいには、そうやってきつと視線を突き刺す姿が堂に入っていた。

「あなたは……校則って、きちんと確認したことがあるかしら」

「入学式の後に軽く見たっきりだと思う。なんで?」

「いま見てもらえればわかると思うけど、かなりの割合が有名無実になっているの。先生だって把握してないんじゃないかしら、これとか。ほら」

そう言って彼女が指さした生徒手帳の一文は、髪留めについての規定だった。あまり派手でないもの、かつ黒のみが許可されている、と。僕は彼女の髪に視線だけ持ち上げた。赤いピンがあった。

「私以外にもこれを破っている生徒はいくらでもいるわ。でも体育科の先生にだって怒られたことは無い。この校則が制定されたのがいつかは知らないけれど、少なくともここ10年といった話では無いでしょうね」

「なるほど。確かに変な校則だね」

とはいえ、それをたてに先生が意味のわからない強制を仕掛けてくるわけでもないのなら、実害も無いし少しばかりインクが無駄になっているだけだ。こうして雑談のタネにはなるだろうが、それ以上のことは無い。

「だからくすわ」

にへらとぼんやり笑っていた僕の顔は、その言葉を聞いて目は見開くわ口はばかみたいにぽかんとするわでずいぶんと見目を良くしようという意志を放りだしてしまった。復帰までは2秒か3秒ぐらいだったのだろうけれど、ジェットコースターの最初の登り坂めいて何倍もの長さに感じられた。

「……無くせるの?」

「ええ。冷静になって考えてみて頂戴、特段の改正条項は無くともこの学校のすべてに同意が得られればわけはないわ。生徒には生徒大会で総意を取ればいい。その総意を以て先生方……というよりは校長および教頭先生ね、そういった役職持ちの先生に話を付ければいいでしょう」

「そうなんだ」

鳩が豆鉄砲を喰らったような、という形容は今の僕にこそ当てはまるものだった。無論生返事だ。箸で米飯を食べることができると言うような気軽さで、鴻ノ池さんはできると言った。何を? ずっと昔からある意味のわからない、もう死んだも同然の校則を蹴飛ばすことを、だ。ただ、このあたりでHRが始まったので、幸いにも僕はそれ以上よくわからない話に生返事を合わせる義務を負わずに済んだ。

 放課後がまたやってきた。鴻ノ池さんはさっさとどこかへ消えてしまった。壮大すぎて意味のわからない話が続くことはないという安堵がある一方、毎日どこへ行っているんだろうという疑問もある。そういえば部活はやっているのだろうか。それか生徒会室か何かだろうか。生徒会室だとしたら、白鳥くんがここに残っているのはよくわからない。もしや白鳥くんも追ってそっちに行くのだろうか? 僕は彼の机まで足を運んでいた。

 歩数にして2歩、場合により3歩。散歩は考え事に向いているという人もいるけれど、まさか2歩の間では逡巡さえもできない。なので、どう話しかけようかノープランのまま、僕は結局彼のすぐ横まで来ることになってしまった。ノートか何かを覗き見して茶々でも入れようかと思ったけれど、6時間目は数学だった。ちょっかいを出せるほどの理解はできてない。

「やっぱり生徒会ともなると勉強なんかできるのが前提になってくるものなんだろね」

僕は半分本気で、もう半分は何も考えずにそう言った。鴻ノ池さんはもちろん才気煥発の体現のような人で、白鳥くんも見ている限り真面目なようだからテストでよほど低い点を取るような姿は想像できない。

「白鳥、昔は数学苦手だったじゃん。最近は頑張ってるみたいだけどさ」

気づけば寺田さんまで来ていた。

「寺田ぁ、そうバラすなって。あと石井にも悪い影響をあんまり与えないでくれよ、石井まで俺がまだノート書いてるっていうのに話しかけてくるようになってる」

「……そのノートって、そんなに大事なの? それだったら僕はあっち行っとくけど」

「いやいい。書くことはもう出来上がった。でまあ、バラされたからには取り繕っても仕方ないから言うけど、言うほど勉強できなくちゃ生徒会入れないってもんでもないぞ。真面目そうだって思われてる必要はあるんだけどな」

「あ、そうなの? じゃあ鴻ノ池さんが例外なのね」

彼が急に顔をしかめて苦虫を噛み潰したようになったので、僕はそれを見て焦った。焦ったと言ってもどうして彼がそうなったのかもわかっていないから、散ったあとの桜の花びらのような行先の無い焦りでしかなかった。

「……嫌なこと思い出した。鴻ノ池……会長、死ぬほど面倒なことやろうとしてるらしいんだよ」

「校則変えようっていうやつ?」

「耳が早いな。なら話も早い。俺は反対だ。役に立たないことに力を注げるほど暇でも慈善家でもないからな」

「待った待った、白鳥も石井も何の話してんの? 仲間はずれにしないでちょーだいよ」

寺田さんは白鳥くんの前の席の椅子を引いて、そこに前後逆で座った。大仰に話を聞かせてもらおうか、とでも言わんばかりの体勢だったけれど、そこまでのものでもなかった気がする。僕もせっかくなので白鳥くんの横の席に座った。

「ほら、これ。この校則、見た覚えあるか? 俺は今日の朝まで把握してなかった」

「ネイル禁止。そうだったんだ?」

彼女はそう言って僕たちに爪を見せてくれた。よく知らないけれど、少なくとも何もしなくても出るような赤色では無さそうだった。鮮やかな、りんご飴のような綺麗な真紅は勲章か何かのように誇らしげだ。

「俺はその校則も今知った。でだ、寺田、それ怒られたことあるか?」

「無いよ。……なんでだろうね?」

「先生も誰も把握してないからだ。つまり、無いも同然ってことだ。それを鴻ノ池会長は無くそうって言ってる。意味無いだろ、そんなのは」

僕は朝方に鴻ノ池さんがどう言っていたかを思い出そうと努力したけれど、あまり精度よく掘り起こすことはできなかった。ほとんど空約束になった校則があって、だったら放っておいてもいいはずなのに、彼女はそれを無くす、と言っていた。それがなぜかは……わからない。

「んーまあ、あたし的には無くしてもらえるならそれでもいいと思うけど。何かの拍子に怒られたりしたらヤだし」

「裏を返せば、その程度の利益しか無いんだ。放っといても変わらんよ」

「それもそっか。んじゃあ……鴻ノ池さんはなんでやりたがってるん?」

白鳥くんはかぶりを振った。白鳥くんがわからないのなら、僕だって当然わからない。わからない、わからないなあと声を掛け合うだけでその会話はそれ以上進展しなかった。これなら三角関数のほうがまだいくらかわかるというものだ。

 ともかく、3人の意見が鴻ノ池さんの考えることは掴み難いというところで一致してその日はお開きになった。

 次の週の月曜日の放課後になって、珍しく白鳥くんのほうが僕の席にやってきた。大した労力でもないけれど、たった2歩でもそれをこちらが費やすばかりだったから、栞を挟まずに閉じた本を開いたときにぴったり元のページが出てきたときのような嬉しさがあった。

「よっ、石井。ちょっと愚痴を聞かれてくれないか?」

「僕でいいなら。でもどっちかっていうと寺田さんとかがそういう役回りなんじゃないの?」

「もう話した。というわけでお前が被害者第二号だ。観念したまえよ」

彼は笑いながらそう言って、僕の隣の席にどっかと座った。そこの本来の持ち主は、いつもの放課後の例に漏れず、自由になった瞬間即座にどこかへ行ってしまっている。どうやら生徒会の会合は週に1回らしく、金曜日には白鳥くんもそっちへ行っていたが、今日はそうではない。図書室でも覗けば居るのだろうか。

「ああそうか、この席って会長のか。……まあいいか。この会長サマがよ、件の校則、あれの投票を無理やりやろうって言いだしたからさ。俺はもちろん反対した。やっても意味ないことで仕事増やす意味は無いんだ。書記と会計も俺の側に回ってくれたから生徒会内でも反対多数ってわけだ。……でも諦めてないみたいなんだよ。絆されないでくれよ、生徒会内に協力が得られなかったとなれば外にアピールしに行くだろうからな、会長の性格からすると」

「なるほど……お疲れ様、で合ってる?」

「まだある。会長が頑として折れないから実務上の無理があるって方で反論したんだ。そしたら、投票をいつどこでやるかも想定が無かった。素直に行くなら学生大会だが、半年後だ。でも学生大会ってほぼ完全に形式的だろ? だからイレギュラーなことを挟む余地が無い。規定のないことの投票には向いてないって言って却下だ。まあそこは俺もそう思う。で、会長サマの言うところの『学生の総意』、どこで集めるんだよって話になってさ。ノープランだった。それなのに従えって言うからさあ」

僕の脳裡にはすばやく鴻ノ池さんの詰めの甘さに対する意外が膨らんでいった。案外ジェンガなんかも崩すタイプなんだろうか。しかし、成績は僕の知る限りすべての分野で僕より上だ。覚えなければならないから嫌だ、と言っていた英語や漢文でもそうだった。だから違和感は強かったけれど、鴻ノ池さんとそこまで親しいわけでもなし、僕が勘違いしていただけだろうと思った。

「すっきりした。ありがとな」

「あはは、本当にお疲れ様……」

それから後の雑談は、思い出せと言われれば提示できるものの、益体もないものでしかなかったので省略しておく。まあいろいろだ。授業中に出たしょうもないこと、インターネットコンテンツ、スポーツニュース、そういったことへの笑い。そのときにはこの上なく面白いし楽しいけれど、だからこそ、あとから振り返ったって仕方のないものだった。

 木曜日の放課後だった。白鳥くんは塾で、寺田さんは部活でもう帰っていってしまって、帰宅部の僕だけが暇なまま取り残された。僕とは違うグループのひとが教室の反対側で談笑している声が我が物顔で僕の耳にまで遊び回ってきていた。もちろん、この場に残っていても楽しいことが降って湧いてくるわけでもない。あるいはあのグループに割り入ってみるという手も無くは無い……が、僕はそこまで気が強くなかった。

 ひとつ妥協案が思い浮かんだ。今日も今日とてどこかへ去ってしまった鴻ノ池さんがいるかもしれないと思って図書室にでも出向いてみようか、という気分だ。もちろん当て図方なのだからいない公算のほうが高い。居たら居たで何をするでもないのだから困ってしまう。居なければ……本の背表紙を眺めてから帰ろう。そのようにしたら何か面白いものが多少はある、と……思う。うん。

 結論から言うと、僕のこの行動は裏目に出た。図書室の扉を開けてすぐに僕は鴻ノ池さんを発見してしまった。彼女は机を従えて、竹のようなすらっと伸びた姿勢で座りながら本を読んでいた。ちょうど集中の薄くなったときだったのだろう、僕が開けた扉の音を聞いてか視線を上げた彼女の目は、僕の視線の先にもあった。

 反射的に目を逸らして、適当な本棚の中へ潜っていった。しかし本棚を視線で走査しても気もそぞろ、何か僕の意識を捕まえるような背表紙は見つけられなかった。無理矢理にでも読んでみると、集合論入門だとか書いてある。集合の論? ジャンルさえわからない。せめて別の本棚へ、と思って通路へ顔を向けた。鴻ノ池さんがいた。声が出るかと思った。

 息を潜めて僕はすり抜けようとしてみた。まあきっと鴻ノ池さんも偶然この棚に用事があったに違いない、彼女のことだから僕では意味のわからないような本をざくざくと読み漁っては及びもつかないことを考えに考えているに違いない、という希望を抱いて。

「……石井くん、?」

声が刃物を持って人を一突きにしようと企んでいる。そうでもなければそういう種類の音にはならない、と思った。

 そういうわけで、僕は彼女に連行されていった。一応の抵抗はしたけれど、このあたりの本に用があるという僕の口からでまかせに対して「本当に?」と叩き返されてしまい、僕はそこからうまい言い訳を作ることができなかった。見事僕は特段の理由もなく図書館に遊びに来ただけであったことを看破され、お前のような馬鹿に必要な部屋であるはずがないと言わんばかりに彼女は僕を連れてすたすた歩いていった。

 いやに姿勢の良い彼女の背を追いかけながら、もう学校の敷地からも外に出てしまった。最寄り駅までは徒歩で10分もかからない。だいたいの生徒はその駅を使うのだから、駅までなら (そして駅からでもいくらかは) 同じ経路になるのが自然だ。ということは、一緒に歩いているだけで生徒らに囃されても不思議は無い気がする。どうなんだろうか。鴻ノ池さんはそこまで考えているのだろうか? どちらかといえば、彼女と僕とでは一目見て不釣り合いであることが明らかだと思っていてもおかしくは無いけれど。

 無言が僕に首輪を付けて引っ張っているようだった。駅へ向かう道だから周りには学校に関係のあるなしに関わらずひとがいくらでもいて、車通りもあって、そういった雑音があたかも僕らの会話に取って代わって満足しているように見えた。彼女の背中にはそういう種類のやかましさはあり得なかった。

 突然彼女は角を駅とは反対方向に曲がった。あと2つ曲がれば駅にすぐたどり着けるところだった。視界に彼女が映らなかったのは一瞬の間だけだったけれど、それがひどくあるべき姿であるような気がした。そしてそれは打ち破られた。僕も追って角を曲がると、僕の方を振り向いた彼女が立ち止まっていた。割られた黒曜石の断面のような鋭い真顔だった。

「さて……石井くん、用があるなら先にどうぞ」

「えっ、いや、特段無かったけど」

「……まさか本当に本を探していただけなの?」

「そ……ういうわけでも無い、んだけど」

「でしょうね」

雑踏は遠かった。これまでに僕が図書室を使ったことなんて数えるほどしか……どころか一度でさえあったかどうか怪しかったから、きっと彼女は日常的に使っているのだろう、僕が現れたのは彼女を探すために違いないと踏んでいた、ということで合っているはずだ。

「じゃあ何かしら、私を物笑いの種にでもしようと思っていたのかしら?」

「いや、そんなつもりは無くって……」

彼女の声は、苛立っていると言うよりは林檎に刃を通すような面白がり方をしているように聞こえた。それで言うと、僕は包丁の待機列に並ばされているようなものだと感じられたけれど、すでに彼女の目線でぐさぐさに刺されきっているのだから大差は無いかもしれない。

「本心はどうだか……どうでもいいことね。私の直近の動きは知っているでしょう。副会長はおしゃべりだから、あなたにもきっと話していることでしょうし。それに、あなたには直接一度言ったわね」

「……校則のことで合ってる?」

「ええ。で、生徒会の面々はだーれも賛成してくれなかった、ってところまで話が通っているかは知らないけれど」

僕はそれにどう答えたらいいのかわからなかった。確かに白鳥くんは大反対していた。寺田さんは賛成とも反対とも取れる、有り体に言えばなんでもよいとするような立場だったはずだ。僕だってそうだ。いらない校則は無くせと言われたら尤もなことだと思うし、死文化している規則をわざわざ蹴り飛ばす意義は無いと言われたらやはりこれも正当だと感じる。やりたいならやればいいと思う。思うけれど……問題は、やりたいと思っているのが鴻ノ池さんだけだ、ということだろう。

 彼女が不利な立場にいるのは火を見るよりも明らかだった。だからといって僕が掣肘するほどのやる気があるわけではない。どうでもいいんだ。彼女がやる気を持って為そうとしていることは、白鳥くんが断固反対していることだ、という構造があるだけだ。僕はそのどちらが勝っても、そうなんだ、とついていくよりほかにやるべきことを見いだせない。やめとけ、とどちらかに言って口喧嘩でも始まれば、そのうち僕は倒れ伏してしまうに違いなかった。

「こんなことなら生徒会長なんてならなくても良かったわ。上から改革を進めれば労力少なに済むだろうと思っていたのに、とんだ期待外れだったわ。はあ……」

「……お疲れ様……?」

「あなた」

彼女は未使用の白チョークみたいな真顔になっていきなり僕を見据えた。もちろんのこと、僕はうろたえた。

「あなたは私に賛成かしら、反対かしら」

「えっ、まあ、えっと……賛成、でもいいと思うけど」

「いい判断よ。なら、あなたからも他の生徒に働きかけてもらえないかしら。人間は複数人から言われたことは正しいと思うようにできているのよ」

「そうなんだ……?」

「では、期待しているわ」

あっと思う間も無く彼女は立ち去っていってしまった。道路を渡って駅へ向かう彼女のだんだんと小さくなっていく背姿を遠くぼうっと見ていた。その背には後光や神々しさのたぐいは無かったけれど、それゆえに、彼女が僕と同じ人間のはずなのにこうまで高低差があるということが雪の眩しさのように思われた。

 さて、よくよく考えると僕は彼女に結構な頼み事をされてしまったことになった。そう、彼女は僕に頼ったのだ。……たぶん、僕でなくともよいことにおいて。

 本当ならここでなんらかの理由によって呆然とすることで何か深いショックでも受けたようにしていたかったが、ぼんやりとするのをやめてみると僕の足はすぐさまサボってなんかいませんでしたよとでも言わんばかりに働きを再開し、道の風景は普通に、いつも通りに流れていった。そして駅に着いた。そして電車を待った。乗った。降りた。家に着いた。ありとあらゆることにおいて、普段と代わり映えはもはや無かった。

 そういうわけなので、僕が彼女から頼まれ事をしていたということを思い出したのも次の日、金曜の朝になって彼女の顔をまた見ることになってからだった。放課後はしばらくしてやってきた。彼女はいつもと変わらず教室から消え去っている。今日に限っては白鳥くんだってそうだ。それは今日が金曜日で、それがために生徒会の会議なるものがあるかららしい。僕は寺田さんのところまで行って鴻ノ池さんからの頼まれ事を処理しておこうと企んだ。ただ、怖気づいてしまった。

 あれ、僕はいつもどんな話題を振って彼女と笑いあっていただろうか。いつだってどうでもいい話をしていたに違いない。だから、今だってどうでもいい話をすればいいはずなんだ。でも適当に話して笑うだけでは、鴻ノ池さんからの頼みは果たせない。いっそそっちから話を始めようか。うん、それがいい。

「やあやあ。校則の話なんだけどさ」

「あ、鴻ノ池さんの?」

「ご明察めーさつ。ちょっと……頼まれちゃってね。話の流れで鴻ノ池さんに賛成、ってことになっちゃったから。というわけで、僕を助けると思って賛成してくれるとうれしいんだけど……」

「急だね、話が。いやまあ、あたしとしては反対する理由も無いんだけどさ、あたしが何かするでも無いし。でも、なんで鴻ノ池さんがそんなに熱心にやってるのかだけは気になる。なんか聞いた?」

「……そういえばなんでだろ。あれじゃないかなあ、なんか、昔ネイルしようとしてすごく怒られた恨みがある、とか」

「まさかあ。鴻ノ池さんみたいなかっちかちの堅物がそんなわけないでしょ」

わからなかったので、僕は笑っておいた。寺田さんだって笑ったからそれでいいんだろう。

「んじゃまあ、そういうわけでひとつよろしく」

「おけ。でもさ、それで言ったらあたしよか白鳥くんをなんとかしなきゃいけないんじゃない?」

「そうなんだよね。でもだよ、鴻ノ池さんの言うところによれば、複数人でよってたかって言えばそれが正しく聞こえるとかなんとか。だから僕とか寺田さんとかが囲んで賛成してくれーって言えばなんとかなるんじゃないかな?」

「いやそうはならんでしょー」

今度は僕の笑いは自発的に動いてくれたので、本当におかしかったと見える。

 白鳥くんへ話しかけるチャンスはその日にはもちろん無かった。僕も寺田さんも白鳥くんが戻ってくるまで教室で待てるほど暇を持て余してはいたけれど、そんなことのために居残ってやるほどの気概の方がもちろん無く、そんなつまらないことの口の中から吐き出されなければならないというかのようにして僕らは学校を出た。そして週末になった。そして月曜になった。朝になって、昼になって、放課後になった。その間のことに、僕が驚くようなことは一切無かった。つまり、無いのと同義だった。

 放課後が始まると、僕の目線はすみやかに寺田さんの方へ向けられた。別にこちらを向いていたりはしなかった。うまいこと共謀者として白鳥くんを取り囲めるかと思ったけれど、まあそうは言っても鴻ノ池さんに頼まれたのは僕だけであって、そこからの又聞きでしかない寺田さんにやる気があるとすればそちらのほうが不気味だろう。それで、僕はひとりで立ち上がって白鳥くんの横を陣取った。

「白鳥くん、校則のことなんだけど」

振り向いた彼の顔を見ると、眉間に皺は寄っているわ口はここまでへの字に曲がりうるのかと驚かされるほどだわと、言ってしまえばひとができうる表情の中で可能な限り最大限の「関わり合いになりたくない」という気持ちを表現するものになっていたように思う。そんなのを見るなんてことはさっぱり予期していなかったから、僕はかなりびっくりした。

「……そこまで嫌?」

「嫌に決まってるだろ。石井、お前だって俺が会長の愚痴言ったの聞いてたよな? それで会長のこと持ち出すか? というかわざわざ話を始めるってことはそこまで反対しなくてもみたいなこと言い出すんじゃなかろうな」

「実はそう。いやさ、鴻ノ池さんからも話聞いてさ。まあ……なんでかはわかんないんだけど、鴻ノ池さんだってきっとこの校則があったらすごく嫌だって思ったんじゃないかな、きっと。だから助けると思って……」

「お願いを聞いてあげてくれ、って?」

「うん。考えてもみなよ、こんなに拘るってことはこれさえなんとかなれば恩返しも期待できると思うよ」

「……そうじゃあないと思うが。とにかく、俺は賛成できない。どうしてもだ。どうやっても労力がかかりすぎる。そんなんで俺が忙殺されてみろ、骨折り損じゃないか」

そこをなんとか……と言って動いてくれる性格だった覚えは無かった。僕はそこをなんとか通してやることがきっと、どうにかすればできるはずだ。ことの性質を鑑みれば、大したことを言っているわけではないように僕には感じられた。だから僕と白鳥くんとの間には、たかだか校則をひとつ変えようというだけのことによっぽど大きな認識の差があることになる。それがわからなかった。菓子の袋が捩じ切れないときのような、不自然な無理の感触が手に残っていた。

 まあいいだろう。僕は白鳥くんの頭越しに寺田さんの顔を認めた。処置なし、という顔をしてやると、通じたのかどうかは知らないけれど、彼女は大げさに肩をすくめてみせた。肩を上げて下ろすのにたっぷり1秒ほどかかっていたのだ、僕は吹き出してしまった。白鳥くんには怪訝な顔をされたが、僕が寺田さんの方を指差すと、ああ、と小さく呟いて元の姿勢に戻った。僕の話はもう今日はいいとでも言わんばかりだと思った。しょうがないので僕は立ち上がって寺田さんの方まで逃げていった。

 白鳥くんに話が通らなかったとなれば……では、他の人たちに言って回る必要があるのだろう。複数人から言われたことは正しいことだと思い込むのなら……それはきっと寺田さんと一緒になってやるのが一番いい。そういう魂胆で僕は教室に残ってた女子グループに突っ込んでいった。

 結果はまずまずといったところだった。寺田さんもそうだが、そもそも校則を変えようという話になっていたとして、実際にやることはたぶんほとんど無い。形式的な投票がいつかあるんだろうけれど、それは毎年本当に形式的に行われている生徒会予算の賛成反対と同じぐらい、ただ紙に書かれているだけのことだった。その紙を正拳突きによって破ったとして何か起こるわけでもない。粛々と予算は賛成多数で可決されたことになり、生徒会の内輪で同意が得られたのだからOKということにしてすべてが進んでいくのみなのだろう。

 そういうわけだったから、特段反対する理由も無いし、ファッションに関連することではあるとはいえでも現状でもできることなのだからやはり特段賛成する理由もない、まあ賛成して欲しいって言うなら賛成してあげてもいいよ、ぐらいの返答が結論になって動こうとしなかった。とにもかくにも、同意は得られたのだ、それがユトラント半島ぐらいゆるやかであったとしても。

 僕の直接の友達にも、別の日に似たような話をするとだいたい同じような反応が返ってくるものだった。結局のところ、やりたいならやればいいんだ、と誰だって思ってる。それだけのことなんだろう。

 そうしてまた木曜日が訪れた。木曜日の放課後の教室は敷き詰められたように静かだった。そうするべきであるように思われたから、僕はそそくさと教室を空き教室に変えた。足と階段は共謀して上階の図書室へ僕を運ぶ。手とドアノブは目配せしあって僕を図書室の中へ放り込む。そうして開けた空間には、そうであるのが自然だったから鴻ノ池さんが座っていた。

 一週間前とちょうど同じようにして、僕は本棚の間に身を置いた。ところが再演されたのはそこまでで、待てど暮らせど……と言うほどの時間は経っていないが、ともかく、彼女は来なかった。仕方がないので適当な本を引き出して中を見た。ふーむ、日本語が知らない記号に囲まれている。目は紙上を楽しげに滑りまわり、どこかに立ち止まって情報を搬送しようという気は一切持っていないようだった。ずっと遊ばせて疲弊する義理も無く、本は仕舞われた。

 本棚の通路の外を左、右と順番に見た。期待された人影は無かった。所在なく、背後の本棚に振り向いて別の本を取り出してみた。ぱらぱらとめくると図のあるページを見つけたので、目線が駐在できるかを試してみた……が、結果はいまひとつ。数学の丸っこいグラフのどこを面白がるべきなのかはおそらく本文に書いてあるのだろうけれど、僕の脳内にはその面白さに座らせてやる席が無かった。本はまたしても閉じられた。

 3度目をやる気までは起こらない。そうなると、この目的意識に満たされた図書室という空間の中で無目的に立っている僕の存在が不自然なようで、用が無いのならいますぐ出ていくべきだと思われた。ところが用ならあるのだ。それはこの部屋が本質的に孕む属性に対する用事ではないものの。

 その性急さが僕を通路の外まで運んでいった。そうすると椅子に座って背を向けた鴻ノ池さんの姿が見えるわけだ。用を済ませなければならないから、僕は彼女の座る4人がけの机の、彼女の対角線上の椅子に座った。そして顔を向けた。しかし彼女の目線は手元の本に注がれていた。これではまるで僕がナンパでもしているみたいではないか。そんな事実は無いので、僕は彼女が応答してくれることを期待してしばらく彼女の方を眺めていた。

 5分ぐらいだろう、たぶん。眺めるとはいえ大したことをやっているわけでもなかった。視界に映るものは脳みそまで届かず、益体もないことが連想されては立ち消えていって、葉が落ちることに木々が頓着しないのと同じようにして僕は時間を払い落としていた。そこで急に鴻ノ池さんが立ち上がったので、僕は小さく声を出してしまった。

 数分の後、一週間前と同じ交差点で僕らは対面していた。そこまでの会話はひとつも無かった。それなのに彼女は交差点を駅とは逆に曲がり、振り向いて僕を待ち受けていた。それで十分だった。

「用件は?」

「先週言ってた、校則のやつ。あれ、結構なひとに話して回っておいたよって」

白樺の樹皮のようにいつも涼やかな彼女の顔が、人の往来で流れる空気みたいに少しだけ揺れたように見えた。

「……少なくとも、副会長の立場を変えるほどのものにはなっていなかったようだけれど」

「まあ……それはね。僕ひとりで白鳥くんを説得するのは、まあ、ちょっと難しいけど。でも、クラスのひとには結構話してきたよ。反応もいい感じだったし」

「本当かしら……」

彼女はそこで腕を組んで、僕を睨みつけた……ように見えたけれど、ただ目線が僕の胴や首やを狙いすまして貫かんとしているばかりであって、彼女の顔をよく見ればとりあえずのところ睨んでもいないしましてや嫌悪の情も読み取れはしなかった。僕はそれでよしとするより他にできることはなかったので、そうした。

「本当だって。寺田さんが割合賛成してたのは知ってるでしょ。だから女子グループならいけるんじゃないかな、って。その後男子にも女子の賛成があるよって話通したんだ」

「そう……なら……」

僕は言葉の続きを待った。時折車の通り過がることによって鋭鋒のようにうるささの跳ねる遠い喧騒を尻目に、僕らの間には静けさが我が物顔で降り積もった。

「……待って。どうやって話を通したって言ったかしら」

「え? 寺田さんは普通にネイルやってるからネイル規制されたら嫌だよねってことで」

彼女が溜息を吐いた。溜息を喜びの表現として使う人がいるようには思えなかった。だからだ、僕の頭で用意していた次の言葉がそっくり消え失せてしまったのは。口は空気を啜っているかのように半開きのまま動かなかった。舌は口腔の中にピン留めされていたし、喉はロックされて震えるところを許されなかった。

 何秒も空白が続いた。その次の何秒かもそうだった。そうしてたぶん1分ぐらいが空白を演じた。はたと気がつくと視界にものを捉えられるようになっていた。だから鴻ノ池さんの顔を見た。いつもと何ら変わることの無い、薄ら明るい鈍色の真顔がそこには残っていた。なにか溜息に対応するような割れた銀皿めいた顔を想定していたから、それでも脳裡はくしゃくしゃになったまま残った。

「すべての死文について毎回説得して回るつもり? 死文は服装に関するものだけというわけでもないわ。持ち込めるものやすべきだとされていることについての条項もある。各条項についてであれば、それぞれ独立に取り沙汰すれば賛成を得られるということもあるでしょう。何度やるつもりかしら。2度や3度で済む量では無いわよ。つまるところ、二度手間ね」

「えっ、っと……どういう……風に、言えばいいのさ」

「逆に訊くけれど、私がなぜ校則の改正を行おうと思っているのかわかっているのかしら」

僕は沈黙した。僕の想定が誤っているのが明らかだったからだ。彼女の手の爪を盗み見ると、おそらく何も加工されていない薄い色がまばらに写っている。だから彼女はきっとネイルを本当はやりたいのだが、校則に従うことを旨としているから校則の方を変えようとしているのだ、と推測していた。今さっきの彼女の主張はそれが全くの見当違いだと喝破していた。その大声で揺すられた僕の思考のゴンドラの不安定はまだ収まっていなかったし、足元の覚束ない中でさらに頭を働かせようとすることができるほど器用でもなかった。

「もういいわ。あなたに期待した私が馬鹿だった。この際だから言っておきましょう、あなたにも理解できる程度に噛み砕いてあげるから。まず、校則というものは本来学校すべての合意によるもの。これはわかるわね?」

なるべく平静を装おうとしたが、彼女の眉がさらに下がったのを見るに、僕が一瞬でも怪訝そうな顔をしてしまったのは事実なのだろう。校則とは僕にとって天から降ってきたものとそう変わらない。合意によるものではなくて、教師が塩を振るようにして生徒に振りかけるもの、そう思ってまず間違いだということはなかった。

「……ともかく、そうだから、学校すべての合意によって変更することが可能なのよ。ところで、学校の大半は生徒だから、生徒すべての合意によって教師に要求を突きつければ、よっぽどのことがなければ教師は拒否できないわ。となれば、事実上生徒すべての合意によって形成されるものが校則であるはずなのよ。ところが、現状では生徒のだれもそれを本気で受け取っていない。もし全員がその事実に気づいたならば、この学校をよりよくしていくためにはどのようにすればよいか、様々な意見が活発に議論されるに違いないわ。そうして全員の利益を増進したい、と、そのようなわけ」

半分でも聞こえていたかは怪しかった。なにか、聞いた感触的には、ハンマーを振るえば氷を割ることができるからかき氷は夏に良いし太陽の熱さが好ましい、みたいなギリギリ支離滅裂でない話をされているような印象があった。それができるという前提に立つことは難しくない、だからといって本気で動かすことまでできるとは思えない。モアイ像を動かせるということがにわかには信じがたいのとほぼ同じことだった。

「そのようにして、学生自主管理をこの学校に根付かせてやること、および自主管理によってより適正な環境を構築し、以て生徒の利益を代表するのが生徒会長としての役割だと私は確信しているわ。その第一歩として、いちばん手頃そうだと思った死文に攻撃をかけるべきだ……という話をしていたのよ。わかったかしら」

僕はうなづいた。ところで、うなづくのに必要なものは首の筋肉だけであって、頭の中の理解ではなかった。

 小学生のころ、学校行事で登った山に霧が立ち込めて視界のほぼ無くなったときのことを思い出した。ほんの数分前まで遠くの峰々やら木々やらがよく見えていたのに、息を吸って吐くことを何度か繰り返した程度の時間で濃霧はたちどころに僕を世界から切り離してしまっていた。同じ班の友達がいたから虚勢はいくらでも張れたけれど、道がこの先にはほんとうは続いていなくて僕が立っている場所にだけ辻褄を合わせるように存在して、霧が晴れれば二度と戻れない場所に来てしまっていることに直面するのではないか、という種類の不安がずっと脳裡に貼り付き続けていた。そのときはよくわからないうちに他の班と合流できて、そうしたらいつの間にか視界も元通りになっていて、口の中で飴が溶け切ったときみたいに確かに起こったはずのことなのにいまではもはや現実だと主張するには感覚的根拠が不足していた。

 そして、いまはどうだろうか。

「わかったならその方針で説得し直して頂戴。……いえ、言葉が歪むわ。私が直接説得する。そのときにあなたは適宜同意しなさい。そのくらいは流石にできるでしょう」

今度は頭の中もわかりながら首は縦に振られた。なんとか彼女の言葉にふつうの意味のところがあることに気づけたのが嬉しくて、僕の口角はそれだけで少し持ち上がっていた。かろうじて、本当にかろうじて、なんとか僕は彼女の役に立つことができる、と、思う。

 電車は嬉々として僕を家まで運んでいった。そして週が変わればやはり勇んで僕を学校まで連れて行く。僕の側は嫌々だろうが気合に満ちていようが変わらないのに殊勝なことである。

 月曜の朝まで金曜の帰りの気分が保存されていたような顔の僕を迎えた教室は驚いたかもしれない。僕が進入してすぐに鴻ノ池さんと目が合った。彼女はその一瞬だけ目線を上げ、すぐ手元に戻していた。机に座る人影は降り始めの雨ほどのまばらさで、見当たらない者の中には白鳥くんもあった。

 僕は彼が来次第すぐにでも応戦してやろうという気概でいっぱいになっていた。机や椅子にだって肌を通して気概が伝わったのなら自然と浮き上がってきたとしても驚くところは無いほどだった。ただ、間の悪いことに、白鳥くんが教室に現れたのは今日に限ってはHR開始のほんの1分前で、とても話す時間などは無かった。仕方がないので放課後に先送りにされたものの、やる気の方はもうこの時間さえすぎれば発散しても良いと勘違いしていたらしく残存してくれなかった。あとには端然として陰りのないクリスタルガラスのような鴻ノ池さんの横で落ち葉のようになった僕が残された。

 放課後になって、白鳥くんへの攻勢が開始された。彼は概ね予想通りに反発の色を隠さなかった……かと思えば、なにかよくわからないが、急に態度を軟化させていたように見えた。というのも、

「俺だって馬鹿じゃないんだ、反対するのだって根拠がある。擦り合わせられるだろ。もうちょいそっちの根拠を厳密に述べてみてくれ」

とか言っていたのだ。それで鴻ノ池さんも緩やかになって、その後は一度も僕がそうだそうだとやいのやいの言うことに動員されることもなかった。暖簾に正拳突きをしようとしたらその手前で転んでしまったようなものだ、と思った。

 鴻ノ池さんはもうどこかへ行った。今日は白鳥くんもそれに着いていっていた。ということは今日は図書室ではなく生徒会室なのだろうか? ……どちらにせよ知ったことでは無い、が。

「寺田さん、鴻ノ池さんの言ってることって正直わかる?」

「んー、まあなんとなくでしょ。アタマ良いヒト達の言うことに全部付き合ってたら身が持たないじゃん」

「それもそっか。鴻ノ池さんとか白鳥くんとかは僕らよりずいぶんだもんね」

「そそ。それよりさ、このヘアピンどう? 校則見たらさ、ヘアピンも実は黒以外だめって書いてあったんだよね。だから付けてみた、赤いの」

階段を踏み外したように虚を突かれた。そのヘアピンは彼女によく似合っていた。だから、僕はすぐさまいいねと言ってよいはずだった。問題は、僕とすっかり同じで優等生たちの深遠な目論見なんぞ遠くにあって把握できるはずもないと思っていた寺田さん、その彼女でさえも、影響されて校則のことを少しは見ていた、ということだ。僕はそんな考えさえ持っていなかった。持てなかった。

「いいじゃん、どこで買ったの?」

だから、また誤魔化した。

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金角湾に沈む鎖、もしくは短編のあるべき箱庭 山船 @ikabomb

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