第3話 相対する瞳の光に(完結)

城の西、魔族の喧騒すら聞こえない断崖に佇む高い塔、最上階。

朝は東に向かう大きな窓枠が白銀に輝き、目を爛れさせ。

昼は強い太陽の光が天窓から床を焼き切り。

夜は大きな月が小さな人を嗤った。

ひとり。

私に残されたのは、胸元の小さな銀の十字架だけ。


私の町で、聖女と呼ばれた人は、一説に因れば生まれて間もない我が子を失った母だったと云われる。

聖女が子を失ったとされる理由には諸説あって、定かではないが、魔族に殺されたとする説もある。

どうだったとしても、聖女の喪失感の大きさは、私には量ることはできない。

想像しようにも比べられるものがない。

そんな状態で魔族の命を助け、献身的に介護し、ゆくゆくは心を通わせることができた聖女の行いは、立派だと思うし、それが町を上げての女性としての目標になることには、何の異論もなかった。

当然だと思っていた。


時代は、魔族と人族の垣根が現代よりも低く、生活が入り乱れて、毎日の食事を共にすることも、争うことも、今よりも遥かに頻繁だった。

小さな小競り合いで血を流し合って、罵倒し合うようになり、それがいつか大きな戦争へと発展したのだが。

その頃にはまだ、魔族と人族は対等だったのかも知れない。

精霊は、まだ、世界を見放していなかったのかも知れない。

精霊は、人が、人として、命を大切にすることを喜んだ。

聖女は精霊に認められたのだと


……そう、思っていた。


また夜が来た。

雲が厚く、月明かりが届かない。

人工的な照明を持たないこの部屋で、私はひとり居る。


何故、生きているのだろう。

ふと、思った。


聖女は、子を失って、ひとりになって、何故生きていられたのだろう。

子を失って、魔族の命を救って、何故生きたのだろう。

聖女は、そうやって、自分に役目を課すことで生き永らえたのではないのか。

目の前の命を食らうことで、自らの生を延ばしたのではないのか。

自分が生きるために、何かしたかったから。

自分のために。

後世、それが大悟徹底の善意と賞されるようになるなんて、全く意図していなかったのだ。


私の町が破壊されてから、そろそろ一年が過ぎようとしている。

この窓から見えるのは通年変わらぬ深緑を保つ広大な森だから、季節感が把握できないでいる。

時折訪れるファイサルの姿を見て、季節の移り往く様を窺っている。

私が、ファイサルの前に立ってから、一年。

町はどうなっているだろう。

家族は、友人は、あの人はこの人はどうしているだろう。

皆、私のことを何と言っているだろう。

住んでいた町を、家族を、夢を希望を奪われて私は……。


そう考えては、答えを求めぬ自分に出会う。

乾涸びた砂を蹴散らすように、思考が白紙に戻る。

頭を預けた壁が冷たいと、思った。


ファイサルは十日に一度ほど、顔を出した。

こんな日は、ファイサルが来る予感がした。




窓の外の闇。

時折差し込む月の光に浮かび上がる夜の森は静かで、風に撫でられる木々の囁きが歌のように耳に届いた。

その歌が季節の変わり目を報せていた。


ファイサルは、装備をしない服装で、ベランダにひらりと舞い降りた。

いつもと同じ軽やかさで。

彼は、夜を拒む黄金で、私を見つめた。


ファイサルの微笑が温かく感じられるのは、私がファイサル以外の人と触れていないからなのかもしれない。


彼が窓辺に腰掛けて、月明かりに照らされる姿は一枚の絵のようだった。


綺麗な人。


私はただぼんやりとその姿を眺めた。

時折絡み合う視線は、痛いほど真っ直ぐだった。

だからなるべく目を伏せた。


ファイサルは気が向けば、話をした。

彼の話は私に外の世界を教えてくれる。

そして隔絶された空間を思い知る。

だけど、それはもう辛くなかった。


「リリィが率いて、俺の部隊が明日帰ってくる。

 ここのところラシュの調子が良くないからな……

 城に帰れば親父殿が五月蝿いかもしれない」


王子という立場のファイサルが戦場で先頭に立って戦うのは、支配が血によるものではなく、力によるものだからだと気が付いてから、ファイサルの薄ら笑いの裏にどこか必死さを感じえずにはいられなかった。


言葉が途切れ、ファイサルは立ち上がって寝台の天蓋を捲る。

きし、とばねが鳴いた。

長い指が伸びた私の髪を掬う。


ファイサルは今日も人を殺めてきたようだった。

唇に触れた指先から血の臭いがした。


錆のような臭いを味わいながら顎を上げると、近付くファイサルの瞳に焦点が合った。

闇でもファイサルは金色に輝く瞳を持っている。

光を持っている。


「お前は他の人族の女とは少し違う」


急に体ひとつ下がって、ファイサルが座り直した振動が伝わった。

石畳に降ろした両つま先が跳ねた。


「お前は、何なんだろう」


傲慢に言い放った。

その問い掛けに答えることはない。

答えを、私は知らない。

黙したまま白いシーツの上に置かれたファイサルの瞳から爪先へと視線をずらした。

ファイサルは絹を握り締めた。

誰に聞かせるでもない独白。


「かつてお前と同じように立ちはだかる者は居た。

 何人も。

 男は女を守り、女は子を守った。

 その瞳に決意と覚悟を宿して。」


一年前のことを思い出す。

ファイサルが過去の出来事を語るのが、珍しい。


「みな、守るものがあるという。

 自分を犠牲にしても守るものがあるというのだ。

 俺は、そういうものはくだらない自己満足だとしか思えないが」


自己満足、そう、残された者の感じ方次第では自己満足に過ぎないのだろう。

でも、人として暮らしていれば、守りたいものは自然に溢れてくる。

自分の命よりも大切な物が、できるのだ。


そんな尊い精神を一刀両断するファイサルの言葉には、今までに聞いたことのない力があった。

あまりにも真っ直ぐに体の芯に響く。

強靭な彼だからこそ言えることなのか。


それともこれは、彼の弱さの一端なのか。


「お前は、あの町を守ろうと思っていたのか」


盗み見るように、瞳を探られた。

私は、あの時、町を守りたいと、考えていたのか。

ちっぽけな自分で、町を守ろうと。


ファイサルの金の瞳が思いを巡らせると同時にくるり、と回った。

中身を知らない贈り物を開ける子供のような顔。


「お前はさも当然のように現れた。

 お前は、とても静かな表情をしていた」


ファイサルは、あの時の私の顔を、覚えている。

今この時になっても、ファイサルは、私の顔を思い浮かべることができる。

衝撃が胸を打つ。

あの時自分が自分の心情とは裏腹に取った行動よりも尚、激しい驚き。


「それがずっと昔から、そうあるべき姿であるかのように。」


あの時、私は、聖女にでもなるつもりだったのか。

恐れ、慄き、怒り、殺意。

そんなものを、何も持たずに。

自暴自棄になった覚えもない。


ファイサルの前に立ちはだかった自分。

自分でも持て余したその理由。


不思議だと。

彼にはそれが伝わっている。


「何故だと考えたことはないか」


一年、座って、考え続けた。

堂々巡りだった。


唯一、

確かだと思ったこと。


私にはその答えがある。

だがファイサルに言う気にはならない。


「……そうか」


黙って、彼を見た私に、それでも彼は満足そうに形のよい唇を持ち上げた。


この笑みだ。


いかにも王子らしい、自分を信じた、力のある笑み。

あの時もそんな顔をして。


そう。


ただ、あの時のファイサルが綺麗だったから。

それだけ。


「おまえは、故郷を焦がれることもないのだな」


ファイサルの話し方が引っかかって、顔を上げた。

哀れむような。

懐かしむような。


私の代わりに、故郷に焦がれるような。


町で、聖女を信仰し、永遠の平和と安らぎを願っていたあの頃。

家族がいて、友人がいて、毎日の糧があることに感謝して。

大きな怪我も病気もしたことがなく、当たり前に年老いるまで生きると感じていた。

しかし、今の自分と何ら変わることがあろう。

奪われた多くの命に安らかにと祈りを捧げ、自分がここで暮らすことに罪悪感もなく。

自分が生きていることを時時不思議に思うくらいで。


そんなことを思う私は、どんな顔をしていたのだろう。

ファイサルは、私の瞳の中を見て、頷いた。


「……名も知らぬままだな」


伏せ目がちになった長い睫毛の下に、純粋に煌くファイサルの太陽の瞳。


「ケイト」

「ケイト、か……」


繰り返し、それから、ケイト、と名を呼んだ。

ファイサルが立ち上がる。

今宵の月はまるで日の明かりのよう。


「おそらくは自分の命にすら固執しないおまえに、与えよう」


郷愁を振り切るように前髪を掻きあげ、ファイサルは笑った。


彼は、私にすぐに何か与えたがる。

何も持たずにここへ来た私に衣食住、飽きるほどの嗜好品の数数。

無駄になったものも多い。

質素な部屋の一角に寄せられた、多彩な色の装飾品。

ちらりと目を遣ったその物を隠すように、ファイサルは私の前に立った。

意味ありげにこつり、と歩み寄る。


ファイサルは知っている。

私が、故郷や切り取られた窓の外の世界や、人族であった自分の姿には、最早何も未練などないことに。

私が、ファイサルしか見ていないことに。


私は、聞き返すべき問を投げ掛けた。


「何を」


「新たな命だ」


黄金の瞳に私が映る。

ただの薄茶色の私の髪や目まで、ファイサルの黄金の光に染められているようだ。

出会った時のような至近距離。

手を取られ、初めてファイサルの温もりに触れたのだと思った。





ただ、あの時のファイサルが綺麗だったから。


それが恋だったと


今は思う。

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光の深奥 霙座 @mizoreza

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