〈後編〉

 茜とふたりで結索標本を作った日から、およそ二週間後のこと。僕らは、とある港町にある茜の実家を訪れていた。

「母さんは、パートに出てて夜まで帰ってこないから」

 初めてお会いする茜の親御さんに、一体どんな自己紹介をするべきなのか。ここまでの道すがら必死に頭を回転させていた僕は、すっかり肩透かしを食らってしまった。

「こっちよ」

「お邪魔します……」

 ひんやりとした薄暗い玄関で靴を脱ぎ、しんと静まり返った家の中をそうっと足音を潜めて進んでいく。

 そうして辿り着いた先は、居間でもなければ、茜の私室でもなかった。

「……?」

 入り口から部屋の中を見渡した僕は、その不可解さについつい眉をひそめてしまう。

 その部屋をひと言で表現するならば、書斎という言葉が一番近い。ただし、釣り竿や魚拓、それに操舵輪や櫂、ガラスの浮き玉といったマリン関係のグッズが所狭しと飾られているのを考慮すると、書斎を模した趣味部屋とでも呼ぶべきだろう。

 問題は、これが誰の部屋なのかということだ。

「この部屋は……」

 僕の問いかけに、茜はすぐには答えなかった。

 しばらく押し黙ってから僕の顔を一瞥して、ふいっと視線を外してしまう。それから、普段と何も変わらない口調でその事実を口にしたのだった。

「ここね、亡くなったお父さんの部屋なの」

「…………」

 茜が、部屋の中に足を踏み入れた。

 一歩、二歩、三歩……デスクの前で立ち止まってくるりと振り向くと、窓から射し込む薄ぼんやりとした午後の陽光を背景に、僕に向かって小さく笑いかけてくる。

「原因は、遊漁船の事故。遺体は結局、見つからずじまいよ」

「…………え、あ」

 とっさに何かを喋ろうとした僕の口から、意味をなさない音声がポロリと漏れた。

(もっとなにか……まともな反応しないと)

 なんとか言葉を紡ごうとしたけど、淡々と語られた悲惨な過去に対して、口下手で感情表現が苦手な僕では、余りにも為すすべがなさすぎる。

 一秒にも満たない時間の中で早くも自己嫌悪の波に呑まれようとした僕だったが、それは他ならぬ茜によって阻止された。

「ああ、気にしないで! 私の中ではもうとっくに折り合いのついた話だし、全然深刻に捉えてないのよ。でも確かに、突然こんな話されたら反応に困るのが普通よね。やっぱり事前に話しておけば良かったー」

 ヒラヒラと手を振りながら一気に話すと、テヘッと舌を出して見せる。そのおどけた姿からは、特に芝居じみたものは感じられない。嘘ではなく、本心から言っているのだろうと思う。

 だから僕は、あえて気遣いの言葉はかけずに、むくれ顔をするだけにしたのだった。

「……ほんとだよ」

 そんな一幕を経て、僕と茜はとある作業に取りかかった。といっても、部屋の壁に結索標本をかけるだけの、本当に一瞬で終わる簡単な作業なのだけど。

「うん、やっぱり様になるわね」

「……だね」

 ソファに腰を下ろして、しばし無言で壁にかけられた結索標本を眺めて過ごす。

 もやい結びに、巻き結び。いかり結びと、クリート結び、それから…………様々な「結び」の標本たちが、額縁と真鍮プレートの効果によってマリンモチーフのお洒落なインテリアへと見事に昇華されている。

(これを、僕と茜が作ったんだ)

 そうして再び、疑問に思う。どうして、茜は僕と一緒に結索標本を作ったのだろうと。

 午後の陽光が、少しずつ傾いていく。柔らかな光が額縁の端を通り過ぎて、いよいよ標本を照らそうとする。その様子をぼんやりと眺めていると、茜がおもむろに語り始めたのだった。

「この部屋、お父さんが最後に家を出たあの日から、全然変わってないのよ。いつ帰って来ても良いようにって、母さんが毎日欠かさず掃除してるってわけ」

 僕は息を呑むと同時に、部屋を見渡して得心した。確かに、主が永遠に不在であるとは考えられないくらい、この部屋には生活感が溢れている。

「三回目の命日を過ぎた頃からかな……私は、もう止めても良いんじゃないかって言ったの。父さんが戻ってくることなんてあり得ないのだし、私も母さんもそろそろ前を向くべきだって。だからこの部屋も『想い出』として保存して、たまに掃除をするくらいに留めたらって……」

 前を向いたまま、クスリと寂しげに笑って話を続ける。

「もう、凄い大喧嘩。結局、三週間くらい口を利かなくなったなあ……」

 しばらく言葉が途切れた。僕は切なそうな茜の横顔から視線を外して、ひたすら結索標本を眺めて待つ。

 数分ほど経って、茜がソファから背中を起こす気配がした。

「この間のドックに向かう途中、かなり時化しけたでしょう? 操舵室から右舷うげん方向を眺めていたらね……」

 膝の上で組まれた茜の細い指が、互い違いに不規則に揺れる。

「かなり高い波が立ってて。その波頭に、影が見えた気がしたの。もちろん、完全な錯覚だったんだけどさ……それでも、一瞬、本当に一瞬だけ思っちゃったのよ。父さんが、この海にいるのかなって……」

 茜がソファから立ち上がって、僕の方を振り返った。午後の陽光が、茜の髪と頬の輪郭を薄暗い部屋の中でくっきりと際立たせている。

「これじゃあ、母さんのこと何も否定できないよね。自分のこととなると、なんにもわかんなくなっちゃう……」

 そう言って目を伏せて、それから結索標本を再び眺める。

 僕は何も言わずにソファから立ち上がると、寄り添うようにして隣に立った。

(お父さんに、見せたかったのかな)

 茜が僕と一緒に結索標本を作った理由について、様々な推測が頭の中をかけ巡る。でも、これをこの場で安易に口に出すことは止めにした。僕が何かを言った途端、それが即座に「正解」となってしまうような、そんな危うさを感じたからだ。

「……あのさ」

 代わりに、全く別のことについて茜に質問してみることにする。

「船員になることについて、お母様から反対されなかったの」

「めっちゃされた」

 茜はあっけらかんとした顔で即答した。それから、悪戯っぽい笑みを浮かべて当時の状況を説明してみせる。

「――そうは言ってもさ、子供の頃からずっと船に乗る仕事がしたいって思ってたのよ? それを、父さんのことで諦めたらさ、海に負けたみたいになっちゃうじゃない? それがすっごく嫌だったの」

 それを聞いて、僕は思わず吹き出してしまった。しんみりした空気にそぐわないとは思うけど、どうしても和まずにはいられなかったのだ。

「それ、すっごく茜らしい」

「な、なにそれ……」

 茜がムスッとした顔をして、でもすぐに、元の笑顔に戻った。

 そして、僕の肩にコツンと、頭を軽く打ちつけた。

「やっぱり、茉子と一緒に作って良かった」

「……僕も、作って良かったって思う」 

 窓から入る陽光が、いつしか茜色へと移り変わっていた。

(この時間が永遠に続けば良い)

 茜色に染められた結索標本を眺めながら、そんな世迷い事が僕の心に浮かんで、すぐに消えたのだった。




***




 大海原が、私の目の前に広がっている。

 白く泡立つ航跡が後方に延びていくのを手すりにもたれて眺めていると、背後から誰かが近づく気配がした。

「ここにいたんだ」

「茉子」

 振り向くと、同僚の一等機関士・北原茉子が、チョコレートブラウンのショートヘアを緩い潮風にはためかせながら立っていた。

 茉子は何も言わずに私の隣に来ると、同じく手すりにもたれて海を眺める。

「……茜って、海は嫌い?」

 藪から棒に、そんなことを訊ねてくる。でも私は、茉子らしいなと思っただけで、特に驚きはしなかった。

 むしろ、ずっとずっと昔からこの質問を待っていた気がするか、嬉しいとさえ思った。

「好きとか嫌いとか……もう、そんな次元じゃないかな」

 そのまま続けようとして、なんだか急に分からなくなる。結局のところ、私は未だに振り切れていないのかもしれない。

 それでもたった一つだけ、確かなことがあった。

「茉子が一緒なら、なんだって好きになるわよ!」

「そう」

 空元気を出した私の答えに、茉子はいつも通りの穏やかな笑みを返してくれたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女と私の結索標本 こむらまこと @umikoto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ