第17話 死神の刃は羽ばたく エピローグ となりにアラン

 芽衣を救急隊員に託した。

『小木さん、お祖父おじいさんの家に行くと言っていましたよ』

島田は何が起きているのか判らないまま、思いつく限りのことを話した。その中にその会話があった。

 とにかく小木を見付けなければならない。

「小木はまだ逃げられると思っているのかな」

神崎は呟くように聞く。アランにも判らない。逃げるってどうやって? 心をよぎる。逃げ方もいろいろある。

 小木の祖父の家は、小さな古い木造の家だった。昔は立派な家だったのだろうが、今は古ぼけていた。

「そう言えば、祖父の家を売りに出したとか言ってな。その縁で結婚する女性の実家の仕事に就くことになったって……不動産屋だ」

アランは小木と交わした会話を思い出す。

 いろいろな謎が解けいていく。

 玄関でアランたちは声をかけたが、誰かが応じる風はない。人の住んでいる気配がない。彼らは庭に回った。

 小木の祖父の家には、縦に細長い庭があった。季節によって咲き変わるだろう花々があり、庭の奥手には古い大木が一本あった。その大木の前に白い背もたれのあるプラスチックの椅子あった。小木がそこに腰をかけていた。

 そばに高層のマンションが建ち、庭にはほとんど陽が当たらなくなっていた。昼間でも薄暗い。この薄暗いさは彼らの恐怖を掻き立てる。

 大木の前に座っている小木はまるで王の風格だった。彼の椅子の下の辺りの地面に掘り返した後があった。雑草の根が露出し枯れている。

 あそこに福田先生が眠っていたかもしれない。不意にそう思った。

 小木はここでアランと神崎が来るのを待っていたようだ。

「小木、どうして芽衣を埋めた。どうして福田先生や堀川ゆき、優太さんを殺した。本当にお前なのか」

アランは、じっと彼らを見ている小木に言った。

「優太さんとやったのか。お前たちどんな関係だったんだ」

神崎も聞いた。小木はニヤニヤしていた。

「成り行きだよ」

小木は、一瞬耳を疑う言葉を言った。

「元々は優太が福田先生を襲ったのが悪いんだ」


 赤い夕陽が不気味な日だった。生徒のほとんどは帰宅していた。部活などの片づけをしてる生徒が数名いる程度だ。小木もあの日、遅くまで校内に残っていた。携帯に付けていたストラップがなくなっているのに気づいてあちこち探していた。彼は自分の行動を思い出し、花壇に寄った。そこで福田先生に会った。先生は彼を見るとまだ帰ってなかったのと気さくに声をかけて来た。

「先生も、遅いんですね」

小木は言った。

「私は忘れ物を取りに来ただけよ」

先生はやれやれという顔で笑っていた。彼はストラップをこの辺りで失くしたかもしれないと話すと一緒に花壇の付近を探してくれた。

 「あった」と先生がそういい、花壇の石の所にあったそれを拾い上げると彼に渡した。縁起担ぎの祖父からもらった竜の落とし子のストラップだ。祖父が亡くなってから最後にもらったプレゼントとして妙に気になっていた。ダサいがなんだか好きだった。彼は礼を言ってそれを受け取る。

 考えてみると先生と二人きりで過ごす時間というのはなかった。花壇に一緒にいたりすることはあったが、特に会話をかわすわけでもなくこんなに先生の顔を近くで見ることもなかった。

「いつもありがとう」

彼は言った。彼としては、いじめに遭った時もいろいろ助言をしてくれたことの礼も込めていた。それが通じたのか先生はにっこりと笑った。

 その表情が突然変わった。真顔で

「間違っていたらごめんなざい。小木君って昔、私と会ったことがない?」

と言ったのだ。小木は驚いた。

「昔って?」

小さく聞き返した。

 先生は言葉を選んでいた。

「私ね、大学に入る頃、悩んでいて病院に通ったことがあったの。心のこと。失恋よ。よくあること、でも……子供を堕して……当時は世界が終わるくらいの衝撃を受けて悩んでいたの」

やっぱり。彼は緊張が走るのを感じた。

「たまたまある日、白衣の先生が男の子を連れて小屋へ行くのが見えて……なんかすごく嫌な予感がしたのね。それで……あなたってあの時の……?」

言葉の余白に彼は笑おうとした。否定した方がいいのか迷った。何の話ですか? 言おうかどうしようか迷った。けれど言葉が出なかった。

「気にしなくていいのよ」

先生は察したように言った。小木は一生懸命に何気ない様子を装おうとした。

「ごめんね。変なこと言っちゃって」

先生もそれ以上は言わない方がいいと思ったようでそのまま笑って、それで話は終わった。彼は先生にもう一度礼を言って踵を返そうとした時、そこに片瀬優太が立っているのに気づいた。

 話を聞いていたと思った。小木は考えを巡らせた。片瀬優太は、小木のことなどほとんど気にしていなくて、福田先生に注目していた。彼が先生に片思いしていることは小木も気づいていた。

 叶うわけがない。小木のほかにも気づいている生徒は笑っていた。

「また明日ね」

先生は小木にいつもの笑顔でそう言った。

「お疲れ様です」

先生は素っ気無く言い、片瀬優太の前を横切った。片瀬優太は何か話したそうにしていたが引き留める言葉が見つからなかったようでそのまま後姿を見送っていた。

 その後、教室で鞄を取って何故まっすぐ帰らなかったのか。後になっても理由は判らない。何故かもう一度中庭に寄ったら、それが起きていた。

「しっかりして」

片瀬優太が倒れている福田先生の肩を激しく揺すっていた。

 小木が驚いて近付く。片瀬優太は

「倒れて、頭を打って……」

と小木に助けを求めて来た。先生は倒れて花壇の仕切りに使っている石に頭を打ったようだ。どうしてこんなことにと思ったが、この事態をどうにかする方が先だ。

 先生のそばにかがみこんだ時、何故か、片瀬優太が福田先生を襲ったんじゃないかと思った。何かを強引にしようとした結果、逃げた先生が足をもつれさせて、運悪く倒れ、花壇の仕切りになっている石に頭をぶつけたんじゃないかと思った。

 小木の中で暴力的な感情が渦巻き始めた。

 この時間なら他の先生たちも、生徒たちもいた。救急車を呼ぶことだってできた。でも何故かそれをしなかった。小木も片瀬優太も共に慌てていた。特に優太が慌てていたことが決定的だった。やっぱり人に知られたくないことがあったんだろうと小木は思った。

 早く病院へ連れていこうとして、彼らは倒れた先生の両脇を抱え校門の所へ出た。優太の車に先生を乗せていこうとした。後部座席に乗せようとしたが上手くいかず、ごろりと横にできるトランクを選んだ。

「どうしよう……」

優太は動揺して今にも泣き出しそうだった。小木は優太のことが鬱陶しかった。なんなんだこいつは。大人の癖に、まだ中学生の彼に頼っている。小木の中で暴力的な感情が火を噴いた。

「お前が襲ったからだろ」

小木は怒鳴りつけた。優太はそれに恐れたように黙り込んだ。彼は否定も反論もしなかった。

 優太は逃げるように車を出す用意をしようと、運転席の方へ行った。その時、先生が呻き声をあげて動いた。

 何故だろう。この時の気持ちを小木は説明できない。

 まずいと思った。どうにかしなきゃと思った。

 次の瞬間、彼は脇に落ちていた石を拾って先生の頭に打ち付けていた。

 何故か長い間思い出さなかった、あの病院の小屋での白衣の男の行為が、生々しく蘇った。荒い息遣いが、今彼に襲い掛かっているようで、彼は何としても逃げなければと焦った。

 いわゆるフラッシュバックと呼ばれるものかもしれない。自分を守らなければと小木があの瞬間に考えたのはそれだけだった。


「お前、先生を憎んでいたのか」

神崎が聞いたことを消化しきれずに聞いた。

「そういうことじゃないよ」

小木が答えた。

 と言って、不幸な事故だったとも言えない。

「優太さんはお前と一緒に福田先生をそこに埋めたのか?」

アランは小木がいる場所を指して言った。

 小木は自分が座っている場所を見下ろし

「そうだよ。あいつはお前が殺したんだから一緒に責任を取れと言って、それに従わせたんだ」

と言った。

「あいつも埋めるのを手伝った。あいつも共犯なんだよ」

アランが考えたことを先回りして小木が言う。

 福田先生の死体を前に、優太はどんな心情だったんだろう。少なくとも自分が原因を作ったことで先生が意識を失い、更に目を離した隙に、小木が殴った。それを考えると、優太はその時どんな判断をするべきか迷ったのかもしれない。

 それでも素人判断をせず病院へ連れていくとか、誰かに助けを求めることをしなかった。そこは優太自体に後ろめたい理由があったと思われても仕方がない。

「お前たちそれでずっと、共謀してきたのか」

神崎が理解できないというように言った。

「しょうがないだろう。もう一蓮托生だよ」

小木はどうでもいいというように言う。

「優太さんは……それでお前に従ってきたのか?」

アランには判らない。少なからず優太は大人だ。何か手を講じることしなかったんだろうか。自分が殺したわけでないことにやがて気づくだろう。手を貸してしまったとしても罪の重さは違う。小木にしても未成年者の犯罪であれは罪の償い方も違う。だったら何故清算することを考えなかったのか。

 小木は首をかしげる。

「優太の気持ちは判らない。考えたこともない」

小木はあっさり切って捨てた。優太をなめ切っていたんだろう。

 優太には、彼なりに小木をかばおうという気持ちがあったんだろうか。小木が殺しに加担しているとしても、罪を認めるとなると払う代償は大きい。

 けれどその場合、福田先生のこと、その両親への償いをどうするつもりだったのかと思う。

「あいつは漫画が描ければそれでよかったんだろう」

小木にとって優太の気持ちは本当にどうでもいいらしい。あまりにも雑な物言いがそれを現わしていた。

 漫画さえと言われても、それで気持ちの埋め合わせができるのか。アランには理解できなかった。

 小木は吐き捨てるように言った。

「だから堀川ゆきが気づくことになっちゃって、余計な種を蒔いたよ」

「堀川ゆきは秘密に気づいたのか?」

アランは聞いた。

「何だかそんなことを匂わせてたよ。どういうつもりだったか今となっては判らないけど、変な好奇心を持つから、こんなことになった。とにかく駆け落ちを考えているというから、婚約者の不動産屋が管理している廃病院を教えてやったらそこへ行った。……あの病院、あそこも変な縁でいつまでも俺に付きまとう」

小木の言ういたずらがあったのが、あそで、白衣の男とはそこに勤めいてる医師だったのだろうか。

「ここを売ることになったから、お前は先生の骨を返したのか?」

神崎が聞いた。

「掘り返さないことにはここが売れない。もう返してもいいと思った。俺の数少ない良心の発露ってことだ」

小木は最初に先生の父親に青いリボンをつけた箱を送った。その後も誰かを殺す前に送って来た。

「一度に返すと言っても量が多いし、死因が判る部分は返しづらいし、いろいろ考えてこんな方法でいいのかと思った」

小木の考えは理解できない。

「それが先生の両親を傷つけるとは考えなかったのか?」

アランの声が小木を責める。

 小木はひるまない。

「そうだな。もうそこまで構っていられないろう。結婚する前に片付けないといけないことっていろいろあるんだよ。特に過去の清算っていうのは大変なんだ」

小木にとっては持っていた福田先生の骨も今ではもうどうでもいいことだったようだ。

「何故最初の骨に俺のカードを混ぜた」

そのアランの質問にだけは

「お前に容疑がかかるのも面白いかと思ったが、全く反れたみたいだな。本当に運のいい奴だよ」

憎々しげでさえある言い方に、小木に嫌われていたことを痛切に感じた。

 小木は目を反らし

「お前の目は特に嫌だったよ。いつも何もかも見通してるみたいに悟り澄ましていてさ」

目のことはいろんな言い方をされる。どういわれても、彼にはどうしようもない。この目は彼のせいじゃない。

 小木はアランを見た。アランの表情がよほど寂しそうだったのだろうか、彼の目に苦痛の色が浮かんだ。

 言い過ぎたと思っているのなら

「芽衣にあんな真似をするのなら俺に直接しろよ」

と言った。小木はアランをただ見て

「その方が苦しいだろう」

平然と言う彼に

「どうしてお前は」

「でもすぐに死なないように工夫はしたよ」

けれどそれで何の問題も生じないわけじゃない。助かって身体の機能に問題がなかったとして、まだ十三歳の少女が土に埋められる恐怖を受け止めてこの先、生きていけると思っているのか。

「俺が憎いなら俺に当たれよ」

「憎くなんてない」

小木はかすかに囁いた。

 その時彼らの背後から

「小木義春」

叫ぶ声に振り返る。後ろから松木刑事が叫んだ。

「あなたにいろいろ聞きたいことがある」

松木刑事のそばにはガタイのいい田尾刑事が逃がさないと阻む城壁のように構えていた。周囲を制服姿の警官たち数人が取り囲む。

神崎が小木に

「小木、もう逃げられない。降伏しろ」

頼むからと言ってるような悲痛さが滲んだ。

「じゃあ、俺はどうしたらよかったんだ」

彼は自分の前に広がった光景に言った。

「俺はどうやってあの苦しみに耐えればよかったんだ」

小木は子どもの頃に遭った出来事で傷つき、それを誰にも言えなかった。彼の中でその傷は変容し小木の心を歪めた。

「誰が責任を取ってくれるんだ」

小木の声が苦しみに滲んだ。

 けれど。だから誰かを殺していいわけじゃない。

 小木は目を見開き、硬く口を結んだ。

 後ろに隠していた利き手を振り上げた。手の先には果物ナイフが光っていた。

 それを自分の首にあてた。

「小木」

アランと神崎が叫んだ。

「俺は死ぬ」

小木は叫んだ。刑事たちに緊張が走った。

「止めてくれ、小木」

神崎の声が悲痛に歪んだ。

 友人だった男が、人を殺して、自分に刃物を突き付けて、自ら生命を絶とうとしている。

「違うよ、小木」

アランは言った。

「お前の身に起きたことはつらかったし、お前が深く傷ついたのは判る。でもお前はお前のした責任を取らないといけない。福田先生を殺したこと、堀川ゆきを殺したこと、優太さんを殺したこと、芽衣を埋めたこと、お前は責任を取らないといけないんだ」

そうでないと福田先生や堀川ゆきの両親が深い悲しみを抱いたまま生きていかないといけない。優太のいとこの高羽だってこの苦しみを抱えて生きていく。芽衣の家族だってそうだ。アラン自身だってそうだ。彼らだってその現実に耐えられなくなってしまう。

「どうして俺だけ」

小木が叫んだ。

「どんな理由があっても、お前が殺してしまったからだよ」

アランは言った。

「気づいてやれなくて、ごめんな」

小木がアランを見た。食い入るように見た。

「アラン……」

小木の表情が一瞬緩んだ。

 しかし

「お前はいつだって格好いいんだよ。いつだって涼しい顔をして、いつだって達観していつだっていつだって……」

緊迫した表情の小木が怖った。何をする気か判らなくて、アランは震えた。

 小木は自分の首筋に果物ナイフを当てたまま動かなかった。アランと小木はそのままじっと対峙した。

「どうしてだよ、小木。どうしてこんな……ちゃんとしろよ」

神崎が感情的になって耐えられなくて叫ぶ。アランは神崎を落ち着かせようとした。そばにいる神崎の肩に手をかけてみる。神崎はそれには反応しない。感情が激しすぎていて、小木のことしか見えていない。

「小木義春、果物ナイフを離しなさい」

松木刑事が徐々に距離を縮めてくる。

 アランはこの状況をどうにかしようと頭を巡らせる。

「やめろ。とにかく罪を償って」

「いやだ」

小木が即座に却下する。

「どうして俺ばかり」

「殺したんだよ」

アランは声を荒げた。

「逃げられるわけがないんだよ」

「小木、降伏しろよ」

神崎が叫んだ。

 三人は肩で息をした。感情的にギリギリのところで対峙していた。

 このままでは松木刑事たちが小木の様子次第で突撃してくるだろう。その瞬間までアランたちはこうして小木と対峙することしかできないのか。

 警官たちにもみくちゃにされて逮捕される……しょうがないかもしれないが、小木をそんな目には合わせたくない。もっと穏やかにこの場を納められないか。

 それにもし、小木が果物ナイフでこのまま自分の生命を絶ってしまったら……。

 風が吹いた。

 ざわざわと小木の後ろの大木の葉が風に揺れた。ユラユラと風にリズミカルに揺れた。アランの考えに共鳴しているように揺れた。

「死ぬなんて、止めろ」

アランは言った。

「死んでどうなる。それで逃げたつもりか。情けないなお前」

小木が目を丸くしてアランを見ていた。

「だからお前はダメなんだ」

小木の首にあてた果物ナイフを奪いたい。アランは前に出た。

「アラン、止めろ」

神崎がアランが何をしたいか判らずに制した。

「刺激してどうするんだ」

 小木はアランを睨みつけた。アランも睨み返した。歯を食いしばる。

「お前のことなんて嫌いだ。芽衣を殺そうとしたお前のことを許さない。死んで逃げるなんて許さない」

小木は果物ナイフを握る手に力を入れた。

「お前のことなんて嫌いだ」

小木が叫んだ。

「こんな時でも立派な振りがしたいのか。格好をつけたいのか。お前なんて嫌いだ」

「俺だってお前が嫌いだ。いつもヘラヘラして嫌なことから逃げ回るお前が嫌いだ」

アランは小木に近づいた。

「止めろよ、アラン」

そのアランの片手を神崎がつかんで止めようとする。

「止めてくれよ」

神崎が泣いていた。アランは小木に近づいた。

「来るな、死神」

身体を緊張させて小木が拒んだ。首元の果物ナイフを持つ手に力が籠った。

「死神だってなんだっていいよ。でも俺が死神でもお前には死は与えないよ」

アランは小木にさらに近付いた。

「死を与えず、生きて生きて生き延びさせてやる」

「凄い嫌がらせだな」

「そうさ。俺は死神だからお前への死を操るんだよ。どこまでお前を苦しめるんだよ」

アランは手を伸ばし、小木の果物ナイフを持っている腕を掴んだ。小木は慌てて更に首元の果物ナイフを持つ手に力を込める。二人は近距離で果物ナイフを挟んで睨み合った。

「生き直せ」

アランは言った。必死に目で訴える。死ぬな。小木は必死にアランを睨みつける。ふいに小木の目に潤んだ。

「アラン……」

唇が動いた。

「お前のこと大好きだった。仲良くしたいと思ってでもできなくて、またお前と会えて、だから嬉しかったけど……」

アランの小木の腕を抑える手から力が抜けた。次の瞬間、小木の瞳孔が縮まり、小木は全ての力を込めて、自分の首元に当てていた果物ナイフをアランに向かって突き付けた。アランの首に鋭い痛みが走った。

「止めろ」

神崎が叫んで、アランと小木の間に割って入ろうとした。後ろから刑事たちが突進してくる気配を感じた。

「絶対に死なせない」

アランは小木の手から果物ナイフをもぎ取った。



エピローグ


 芽衣は鏡の前に立つと薄いクリーム色のブラウスに付いた棒タイのリボンを丁寧に直した。

 鞄を持つとパンプスを穿き、行ってきますと母の菜々子に声をかけて威勢よく出かけた。

 いろいろなことがあった十年間だったと思う。人より二年遅れて大学を出ることになる。父母の涙も自由にならない心も身体も全て乗り越えた月日だった。

 この道を懐かしく通る。全てがキラキラと輝いて芽衣を迎えてくれるような気がした。

 校門が見える。近くの大学の校舎に通っていたから使う電車も同じだったが、それでも十年前のあの日にどんどん近付いて行くような、また違う今日に進んでいくような複雑な気持ちがあった。

 芽衣が敢えて教職を目指したのはアランの影響が強い。

 芽衣を土の中に埋めた小木義春は、警察の取り調べにものらりくらりしていたという。生きながら死んでいるというか、もうどうでもいいというような態度だった。だから起訴をされた後、あっという間に、風邪から肺炎になって亡くなったことを聞いても何も感じなかった。

 アランはあの後、無口になった。アランが小木をどう思っているのかはよく判らない。ここまで追い詰められ多くの犠牲者が出たことを彼なりに受け止めるのに時間がかかったようだ。それでも教職を目指し、学園として再生を目指す愛広まなひろ学園で教職をしている背景にはいろいろな事情があると聞いている。

 芽衣は中等科の校門の前にアランの姿を見付けると大きく手を振った。今日が教育実習スタートの日で、わざわざ迎えに出てくれていた。もちろん芽衣が教職を目指すことは大反対している。芽衣の両親も賛成はしていない。今はただ芽衣の気持ちを尊重しようとしてくれているだけだ。

 芽衣としては逃げたくないのだ。小木のような子どもが育ったのも教育の在り方だといろいろなことを通して考え、学んだ。一体自分に何ができるのか判らないが、生命を取り止めたのは、意味があったことと思う。それを芽衣なりに模索し、返していきたいと思っているだけだ。

 教師としてすっかり貫禄がついたアランだが、相変わらず芽衣の自慢の美しいいとこだ。大好きなお兄ちゃんだ。

 芽衣は信じていた。芽衣がこれからどう生きようと、きっとアランがその生き方を自ら見せてくれるはずだ。芽衣はアランの背中を見ていくつもりだ。

 芽衣は駆け寄る。アランが少し厳しい顔をした。

「よく来たな」

冗談めかしてアランは言う。

「石神先生、宜しくお願いします」

芽衣がかしこまって一礼する。先輩教師としてアランは鷹揚にそれを受け止めた。

 芽衣は信じている。将来に希望を抱ける子どもを育てたい。そうしたら、小木のように不幸な末路を辿る青年を減らすことができるはずだ。

 芽衣は校舎の中に自信をもって足を踏み込む。

 芽衣の教育実習は、こうしてスタートする。


                                 ーENDー

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となりの死神 @Manon3

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