花の名前

月庭一花

Flos nomen

「ねえ、お姉さま。あの噂はもうお姉さまのお耳に届いていらっしゃる?」

 笑夢が背後からわたしの髪を梳りつつ、耳元に唇を寄せて、ねぶるような、ささやくような声でそう訊ねた。

 わたしは開いた文庫本に目を落としたまま知らない、と答えた。女子校独特のかまびすしい噂になんて取り立てて興味はない。そもそもわたしぐらい学園内の噂に疎い人間はいない。

「乃都さまが何か企てているご様子ですわ」

「乃都……? ああ、杏珠のこと? そういえばリューシカの姉だったわね」

「ええ、お姉さまの、本当の妹の……羨ましいこと」

 笑夢がわたしの耳に歯を立てた。わたしはその痛みに、わずかに目を細めた。

「リューシカは義理の妹よ。母方の叔父の娘を、わたしの父が引き取ったというだけの、ね。……あなただって知っているくせに」

 わたしは鼻で笑って改めてそのことを伝えた。けれど笑夢は納得した様子を見せず、さらにわたしの耳朶を強く噛み、耳の奥へと舌を伸ばしてきた。

「血、というものは馬鹿になりませんもの」

 その言葉にちらりと振り返ると、笑夢のまなじりが赤く染まっている。学園が決めたこととはいえ、共住みの……わたしの妹になってからの一年間。ずっと、おもちゃにしてきたのがいけなかったのだろうか。すっかり頭のおかしな子になってしまった。

 絵夢は今年、学園内のとある重要なポストに着いたような子で、外見と外面だけはいいのに。二人でいると、まるで頑是ない、子どものようになってしまう。

「笑夢。あなたいつまでわたしの部屋にいるつもり? 鈴音が寂しがるでしょう?」

 この学園、カトリック系のミッションスクールである成安御心女学館はその開校当初から、全寮制を敷いている。三年生は学年が上がると同時に個室をあてがわれるが、二年生、一年生は同じ部屋で共住みをする決まりとなっている。同室になった二年生は新入生を妹とし、すべての規範の模範となる。彼女たちの、擬似的な姉として。

 ときにこの姉妹の絆は血よりも濃くなるもの、なのだけれど……義理の妹も擬似的な妹も、わたしにとっては所詮、赤の他人だ。

 ちなみに鈴音というのは笑夢の妹で、寮に入ってまだ一ヶ月。あどけない、乳くさい顔をしている。あれも一年経てばこんな風になってしまう可能性があるのか、と考えると、少し面白く思えた。

 わざわざ邪険にしてみせたのに、笑夢の態度は変わらなかった。わたしを背中から強く抱きしめて、髪に顔を埋めている。吐息が頭皮に、直接吹きかかって熱い。

「わたし、あの子に祝福を授けるのは嫌です」

 そしてそのまま、小さな声で言った。

「なんの話かしら」

「乃都さまの企みの件です。今年の花の君には、リューシカを擁立するようですよ」

 わたしはふうん、とひとつ頷いて、文庫本をぱたりと閉じた。


 伝統というのは壊すためにある。なんてアナーキーなことを言うつもりはさらさらない。そもそも伝統なんていう化石みたいなものにはさして興味がない。だからリューシカのことにしても、最初はどうでもいい、と思っていた。

 わたしは昼休みだというのに、教室の窓辺の席でハードカバーの小説を読んでいるリューシカの横顔に熱い視線を送っている有象無象の女の子たちの姿を、何とは無しに、廊下の隅から見ていた。リューシカは相変わらず下級生に憧憬を、幻想を抱かせるような、バタくさい顔をしている。

 短く切った暗灰色の、猫のそれのようなくせ毛はあくまでも優美な曲線をうなじに描き、伏せ目がちな瞳を飾る同色の睫毛は長く、そして少し開かれた血色の良い赤い唇からは、形のいい前歯が小さく濡れて光っている。

 すらりとした手足、他の少女たちより頭一つ分高い身長、そして強く押さえつけられて、見た目だけ慎ましやかなその胸は、王子の王子たる所以。

 ……彼女の生理がとても重いことも、過去にあった忌まわしい出来事も。何も知らない乙女たちは今日も遠くから、わたしの妹を愛でている。

 以前リューシカの妹である篠和小鳥に、リューシカの印象を訊ねてみたことがある。彼女は少し頬を赤らめながら、性的な匂いがしない、女くさくないところが好きです、と答えた。好きかどうかなんて訊いていなかったのだけれど。でも多分、それが全体的に付加された、リューシカのイメージなのだ。

「我が妹ながら、人目を惹くわね」

 いつの間にかわたしの隣に佇んでいた杏珠がリューシカを見つめたまま、呟くようにそう言った。

「あれを花の君に仕立て上げるつもり?」

「そう。リューシカほどの逸材なんて、この学園のどこにもいないわ」

「まがいものじゃない。……リューシカを花の君にして、あなたはどうしたいの」

「別に。楽しそうだな、って思っただけよ。まあ、我が文芸部にも少しは箔がつくというものでしょう、ね」

 言うだけ言って、杏珠はきびすを返した。長い黒髪がぱさり、と背中でゆれて。遠ざかっていく。

 わたしはその後ろ姿を見つめながら、いけ好かない、と思った。今回のことにきっかけがあったのかと後々訊ねられれば、多分、あの背中だとわたしは答えるだろう。

「……一花?」

 声がして振り返ると、わたしのすぐそばにリューシカが立っていた。……この姉妹はどうしてこうも音もなく近くに寄ってくるのだろうか。

 下級生たちが周囲を取り巻いて、何事かとわたしたちを見つめているが、リューシカは彼女たちを気にとめる様子もなく、憮然とした表情を浮かべていた。

「ごきげんよう、リューシカ」

「何か用?」

 自分から近づいてきたくせに、ことさら迷惑そうな顔で、リューシカが言った。孤独な不良少年のような瞳が、わたしを見下ろしている。

「あら、妹の顔を見に来たらいけない?」

「一花はわたしの姉じゃない」

「つれないことを言うのね。……お昼ご飯はまだ? 一緒に食べない?」

「どうしてわたしを誘うの。自分の妹を誘えば」

「リューシカ」

 わたしはリューシカの言葉を遮って、手を伸ばし、そっと彼女の頬に触れた。

 一瞬、リューシカの瞳が、小さく揺れた。

「あなたと一緒がいいのよ」

 リューシカはわたしから目を逸らして、一歩離れた。わたしの指先が頬から離れた。彼女の頬が、わずかに引きつっているように見えたのは、多分、気のせいじゃないのだろう。

「そういえば何を読んでいたの?」

「……なんのこと?」

「さっき、教室の窓辺で、何か読んでいたじゃない。小説?」

 わたしはちらりと、さっきまでリューシカの座っていたあたりに視線を向けた。

 座席に残るリューシカの残滓。思念のような何か。窓の外には薄紫色の空が広がっている。

「まあ、いいわ。行きましょう」

 くるりとその場で背中を向けて、わたしは歩き出した。リューシカが付いてくるのは、わかっていた。


 ミルクホールでランチを食べる手を休め、わたしはリューシカの姿を見ていた。サンドイッチを喰む姿が小さな虫のようで、美しいな、と思ったのだ。

 わたしが見ていることに気づいたのか、リューシカは口の中の物を飲み込むと、それ以上食事に手をつけようとしなかった。

「いい季節になったわね」

 小さく微笑みながら、わたしは言った。

 リューシカはどう反応していいのかわからないらしく、怪訝そうな表情を浮かべていた。

「中庭の林檎の樹が青々としていて花壇の矢車菊も綺麗だわ。もうすぐ初夏になるのね」

「そんなことが言いたくてわたしを連れてきたわけじゃないでしょ」

「あら、お天気や時節の話から入るのは、気が置ける人との会話での、初歩の初歩でしょう?」

 わたしが笑いかけると、彼女は完全に食欲をなくしたようで、テーブルの上に肘をついてこちらを睨んできた。

 そんな姿を見ていると、……脚をもがれたバッタみたいでかわいいな、と思った。

「あなた、文芸部よね」

 話の接ぎ穂になるかしら、と思って何気なく訊ねると、リューシカはわたしから視線を逸らしながら、少しだけ嫌そうに、ええ、そうだけれど、と答えた。

「それがどうしたの。一花には関係のないことでしょ」

「そうね。関係はないわね。ただ、リューシカはどんな小説を書くのかな、と思っただけ。だって、リューシカって家でもあまり読書なんてしなかったじゃない。好きな作家がいたなんて話も聞いたことがなかったもの。いったい誰に影響されたのかな、って。去年の学祭で文芸部が出した部誌……なんて言ったからしら、あれ。『虹の橋』で合ってる? それにもリューシカの作品は載っていなかったし。わたし、あなたの書く小説を読んでみたいと思っていたの。そうね。できたら私小説がいいわね。あなたの身に起きたことをひとつ残らず小説にできたらいいのにね。これから起きることを、余さず小説にできるといいのにね。いいことも悪いことも。きっと臨場感あふれる素敵な小説になると思うのだけれ」

 わたしの言葉を遮るように、リューシカの右手がわたしの頬を打った。パシン、と。ひときわ大きな音がして、ミルクホールが静まり返った。

 頬に手を当てるとそこが少しだけ、熱を帯びていた。唇が僅かに切れたようで、口の中に鉄くさい、血の味がした。

「わたしが小説を書くとしたら、それは、姉が消える話だわ」

「ふ、ふふ。姉ってどっちの姉かしら。わたし? それとも……」

 リューシカは椅子を蹴倒すように席を立つと、わたしを見ずに、ミルクホールから出ていった。

 いつものファンクラブめいた下級生たちも、そこに居合わせたシスターでさえ。

 誰も彼女を追いかけなかった。

 もちろん、わたしに声をかける生徒も、いなかった。


 花の君について、少し話したいな、と思ったのだけれど。上手に説明するのが難しい。

 確かなこと、それはその年の花の君に選ばれた生徒は三人の聖徒に祝福を受け、学園の象徴となる、ということ。

 ちなみに今年の聖徒は、二年椿組の伊波蕾果、同じく二年桜組の紫藤ユーミル、そして、わたしの妹の水枝笑夢。

 彼女たちは成績優秀者であり、カトリックの洗礼を受けた者であり、シスターの覚えのいい者たちであり、他薦によって選ばれる、他の学園では生徒会に類するもの、憧れの存在。例えるなら、そう、三人の薔薇さま、みたいな。

 彼女たちが為政者であるとするならば、花の君は……なんだろう。何のために存在するのか、多分、誰もその本質を知らない。

「お姉さまでも知らないことがあるんですのね」

 わたしの部屋で、わたしの上に跨りながら、笑夢が言った。

「興味がないだけだわ。それに、知らないことの方が多いに決まっているじゃない。空の高さも、海の深さも、わたしには想像もし得ないことだわ」

 キスの雨を降らせながら、笑夢がくすくすと笑っている。

 この光景を鈴音が見たらどんな顔をするだろう、と考えるのは、楽しかった。

 外では清廉潔白を絵に描いたような、三人の聖徒の一人である、大切な姉の狂態を見たら。鈴音はどうするだろう。発狂するだろうか。それとも一緒に混ぜてほしい、と肌を晒すだろうか。

「昼間リューシカに叩かれたところ。まだ赤くなっていますわ。それに唇も……」

「あなたの口づけの、口実になったわね」

 ふと思う。

 リューシカならどうするだろう。

 わたしの家に引き取られ、

 わたしと同じ学園に通うことを拒み、

 公立の中学に入学し、

 ……挙句、教師から性的暴行を受けたリューシカなら。

 わたしは笑夢の秘所の先端にそっと手を伸ばし、強く摘み上げた。

 笑夢はそれだけで果ててしまった。

 かわいそうなリューシカ。

 絶望に打ちひしがれた彼女の、まだ中学生だった彼女の顔を、わたしはきっと、一生忘れない。

「本当にかわいそうね。わたしと同じ学園に来ることになって」

「……何かおっしゃいました?」

 笑夢がわたしの胸に頬をつけたまま、吐息のような甘い声音で訊ねた。

 別に。なんでもないわ、とわたしは答えた。


 ごきげんよう、と声をかけられて振り返ると、階下に立っていたのは杏珠だった。

「先日はわたしの妹が粗相をしたみたいで。ごめんなさいね」

「平気よ。リューシカはわたしの妹でもあるのだから」

 放課後の、階段の、踊り場。

 夕闇が古びた校舎の中を、赤く染め上げている。

 わたしは杏珠を見下ろしながら……背の低いわたしが誰かを見下ろせるのは、こういう、階段みたいな場所だけ……小さく笑ってみせた。

 見下されるのがお気に召さないのか、それとも同じ場所で話さないと自尊心が許さないのか、杏珠はわたしが立つ踊り場まで、ゆっくりと上がってきた。

「わたしたちの邪魔だけはしないでね。まあ、嫌われ者のあなたが何をしようと、趨勢に影響しないとは思うけれど」

 リューシカがあんな風に激情にかられるのは、あなたが絡んだときだけね。わたしの耳元に口を寄せて、杏珠がささやく。わたしには従順なのに。不思議ね、と。

「わたしたちの邪魔、じゃなくて、わたしの、と言いなさい。わたしは最初から、リューシカの邪魔をするつもりはないのだから。あの子にしたいことがあるのなら、すればいいのだわ。でも、あなたは何もわかっていない。あの子のことも、花の君のことも。何もかも。まるでわかっていないんだわ」

 杏珠が髪をかきあげ、わたしを見下ろして。

「なら、一花にはリューシカのことがわかるというの」

 と、冷たい声で吐き捨てるように言った。

「馬鹿ね。誰かのことを真に理解できたと思うのなら、それはただの幻想。ううん、妄想と言っていいかもしれない。どのみち阿呆の所業に違いないわ。ただ一つ、言えることがあるとするのなら。リューシカが着くのなら花の君なんてただの造花だわ。誰かに作られた象徴になんて何の意味もないわ。あなたもリューシカの外見しか見えていないそこらの有象無象と変わりがないのね。表層的な人気にしか目がいかないのね。象徴というのはね、イコールで結ばれるということなのよ。花の君が学園の象徴であるのなら、それは学園とイコールであるということなのよ。空虚が空虚を埋めてどうしようというのよ。虚構で虚構を塗り込めてどうしようというのよ。だから最初に言ったじゃない」

 わたしは杏珠を睨みつけた。

「……まがいものだって」

 杏珠の手が、わたしの胸を押した。

 階段の上から転げ落ちそうになる瞬間。

 わたしは杏珠の制服のタイを掴んだ。

 絡まりながら落ちていくそのあいだ、わたしは笑っていた。おかしくておかしくて堪らなくて。

 杏珠は頭から血を流して、動かない。気絶しているようだった。

 わたしは右肩を脱臼し、左足も大腿骨のところからおかしな方向に曲がっていた。折れている、と思った。

 騒ぎを聞きつけて、校舎に残っていた女生徒たちが集まってくる。駆けつけたシスターが思わず十字を胸の上で切った。悲鳴。助けを呼ぶ声。泣き出してしまっている子までいる。


 ……集まった生徒たちの中に、頭一つ分背の高い、リューシカの姿が見えた。


 ああ、綺麗。

 そう思った。

 そう思える表情を、リューシカは確かに浮かべていた。

 わたしはリューシカに向かって、優しく手を伸べた。


 やっぱりこの子には、絶望がよく似合っている。

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