夕日色の魔女の愛した蜂蜜
杜松の実
夜と昼を縫い合わせる線路
走る電車がある
絶えず円弧を登るとともに
下り
未だ巡らずいつでも架線は
昼と夜の境となって浮舟の
水鏡と現実かのように電車を分かつ
人気のない車内に
背がひとつ
無色の光に焙られ猫のような小さな影が
呼吸と同じくらい小さく
弾んでいる
膝に立てられ上体を支える白い腕は
日を逃れ
既に赤らんで熱がはりつく
下げた額の
滲んで玉汗となって眉まで流れ
均衡のシャボンは割れ
すっと眉間を離れ床
ゴム材の傷に弾かれ歪んで広がる
木々が窓を
覆う数瞬間 目の中までもが明滅に
苛まれ
出発して来た駅を省みようとしていた
橋脚のない思惟は
どこへ架かることもなく霧散し
日に透かされ
ダストのように失われた
数瞬が去り
躊躇いのない熱砂の太陽が
降り注ぎ
ゆれる若者と影を縁どって
掌ほどの
背の汗模様が重さみたく黒くなる
ねえ 起きてるんでしょ
男の斜向かい
まるで治療着のような仄かな緑を着る女が
外した眼鏡を両手に持って
問うている
艶やかな浴衣風の衣装は昼の反射光浴びて
はみ出し
満月のように夜を背に座っている
ねえ
その声でさえ暑く届いた
疲れてるから 寝かせてくれ
吐いた溜息な言葉も
口腔を
蒸気となって満たし膨らむ
どうしてって
天上の扇風機
足らない風を
首を振る
等間隔の扇風機らは互いに裏拍をとって
擦れ違う
故に一時向かい合わせと風が打ち合い
打ち消え
無風の境界線が刹那現れる
彼は背を皆
シートに押し付け胸を逸らし
頭を預ける
温められた埃の臭いが頭を被い
湿った毛布に包まれているようで
息を吐いた
帰りたかったからだよ
束ねた黒髪を肩から垂らして
車窓の夜は
星も月も現れず
鼻先に見る塗り壁くらいに
ぼやけた一様な黒が流れる
どうして 退屈だったの
嫌いにでもなった
可愛い人だったわ 向こうはまだ
帰りたがっていなかったのに
違うよ
違うって何が
全部さ
全部って
可愛くなかったってことかしら
そうじゃない
なら分かるように言って
知ったことか
ひとつの車両に二人きり
隣にも
他人気はなく空間は公共さを
帯びていない
女の声は妨げのなさに甘えて
踏み込む
ことをよしとして男の内へ問う
二人だけの
どこにでも見られるこの
交換の形は
時に目詰まり起こして対価が渡らない
斜になる二人は
互いが互いを逸らして向かいの
窓の先
ばかりに目が注がれる
夜の中では
何もかもが輪郭を溶かして
隠れ時折
何かかが濃淡な影として
張り付き
剥がれ落ちるように
後方へ
過ぎてゆく だがその陰気な景色は
涙ほどの涼しさも
もたらさず
教えてくれてもいいでしょ
理由はない
わたしにも言えないの
男の中から熱が
爆ぜた火の粉
――タタン タタン タタン タタン――
トンネルの壁打つ風が
木霊し
車内が俄かに影めいり
向こう
夜側半分は影と同化して宵闇の
雨上がり
見下ろす川面のよう
地に触れた
雷鳴同然の蜷局巻く風鳴は
トンネルの
長さと共鳴して肥大し
進むごとに
速まる電車に押され重なり
潰れ
一つとなって過ぎ去られてゆくごとに
間延びする
そんな風々が周に偏在し
窓をたたく
扇風機のモーター音は掻き消され
つつも聴かれ
波にさらわれ危うく顔を覗かせるような
断続さが
男の眼前覆う闇の中から微かに
息づいている
ただ直射を免れ気が健やかに
凪いで
その闇で押し黙って座る彼女の顔を
想像した
唾を飲み込み喉が渇いた
日が窓を射し
床の照り返しがシートで
男の顎を引き
半分を呑み込む暗幕は開け広がる夜の砂浜が
月明かりに
露わになってゆれる電車の床と
地続きで
繋がり曖昧な境界上 砂粒が振動に
跳ねる
両手を使って徐に
立てることを確かめるように
立ち上がり
顔の横に垂れる吊り革に
掴まる
昼の窓には田園がそうそうと流れ
先 雲ひとつなく星ひとつない
夜空がある
浜に埋もれるようにして佇む
半分となった一車両は昼の中
では走り
夜に向けて解放されている
崖下を臨むような
足取りを一歩男がとる
乾いた砂に
スニーカーが心地良く沈み込んだ
引く波音に
乗る宵風が押し出して
男は海へ
大きな月明りだけで影が先を歩く
置いて来た
夜店のようにひっそりとした電車
窓から
入る枠を出ない光だけが夜に
抗している
仄白い人影が渚を向いて
立っている
あと三歩というところで彼女と微笑みが
振り向いた
来たんだ
乳白色の衣服は彼女の背中に張り付き
夜の中で
花弁のように照らし出されている
なんで濡れてるの
泳いだから
解けた髪が
背中をキャンバスにする水墨模様に映る
浜に寄せる白波を
一つひとつ割って歩く
彼女の後姿
を思い浮かべることができた
男が傍で
胡坐を組み女もまた腰を下ろす
波音が
力強くもゆらぎに満ちて
余白が
気泡のように包まれている
海こそが
帰る先に思えて恐ろしく
誇らしい
男から立ち上がって手を差し出し
自然と女は
その手を頼りに立ち上がる
少し歩こうか
そうね
弓形の浜辺は月明かりに白んで
シルクロードと呼べそうなほど果てはない
半歩だけ
先を彼が歩き女が海側を付いてゆく
残された
電車の片割れを振り返ろうかと
思うだけだった
一様に濃紺な空はビロードが霞む艶やかさ
立ち消えゆく波模様さえ映しとる
連なって打ち寄せる白波の
砕けたガラスの粒が
月に引かれて泡立っている
夜の海って好き
そうなんだ
知らなかった
わたしも
間断のない波のざわめきが
二人の歩みを
繋ぎ沈黙が豊かな媒介となって
彼らを繋ぐ
月より下る冷たい風は
無臭無色で
女は腕を抱くようにして
さする
彼の半歩前を 今では歩いている
潮騒と
風が混ざり合う汽水域な白浜
シャツの下の男の腕にも
鳥肌が立つ
浴衣然とした女の衣服の
袖から
節の白い肘が出ている
生地は
傍目に薄く腿までの丈 先は
素足
幼い白さの肌はあくまで
にくづきの
良くなった手足の曲線に
自分と
同じだけの時をかけて大人になったのだ
触れたくなった
月を見つけて一人で遊ぶ
ゆらゆら揺れるのは
君はまだ知らないから
この道をゆっくり行く
一人で生きてく
ブレスは乱れ
フレーズの中で途切れつつ
歌われる歌
十五の夏誰も居ない二人きりの教室
睫毛の長い目を
参考書に落としながら歌った歌ら
『うねり』
はそこになかった まだ若かった
一人じゃないだろう
一人よ
一人と一人
振り向き二人の目は一条に繋がる
言葉足らずは
十数年堆積された信頼を土台とし
土台を微かに震わす
向き直った歩む背中越しのハミングは
先の歌のイントロ
間空いた君のその仕草に
間空いた君のその仕草に
夕暮れで見えるその欠片
夕暮れで見えるその欠片
君と僕とは流れる雲
君と僕とは流れる雲
月を見つけて一人で遊ぶ ah
月を見つけて一人で遊ぶ ah
乱れるブレスはちぐはぐで
月と海の間に
知らず知らず並ぶ二つの足跡が
揺らいで続く
歌い終えて二人は目を交わし
笑い声は
月に山に海に向かって解放され
何も無い空間へ
響かず返って来ず だからこそ
二人は笑っていられる
遠く稜線の
遥か向こうから月の威光が
漸うと
広がるつらりとした空 一向に
雲は訪れず
星は巡らない月は言いつけを
守っている
続く渚の絶えないゆらぎさえ
乾いて均質な
メトロノーム然とした色合い
ベール剥がされ時間もまた錆びる
もう女が
一歩先を歩いている
その項に深く夜が集まってゆく
帰りたかったのは
耐えられなかったから
男には
驚きの声を短く漏らした女の声が
届かなかった
俺にはさっぱり
自信がない
こっちは男で向こうは女
付き合うかどうか直行と分岐
二択それだけの
恋愛という舞台にいるためには
考えなければ
何を言うべきか どんな言葉が
相応しいのか
仕草や表情もこの場に合わせようと
窒息寸前だ
色々な正しいに反応することに必死で
そこに俺は居なかった
秩序めいた会話は窮屈で仕方ない
けど安全圏を
踏み出す能力も無い
機械仕掛けの月が
十五度
歯車が聴こえそうな程の正確さで
西へ回る
二人の歩みに釣られて揺れる
乾ききった
彼女の髪も波音と同調して
振り子のよう
裸足が踏む砂の音も硬く
シンクロしてゆく
男は黙ってただ待っている
肺の奥まで
澄んだ空気が初めて行き渡る
二人の進む浜の先
地平線と水平線の境に歪な起伏の影
――磯――
まだまだ二人にとって遠く
だが
終点があることを示す
不用意に
男が立ち止まり女は十歩ほど
歩いて
振り返る
わたしだって自信はない
でも
の言ってることは分からない
二人きりだから
やっと本当の自分になれる
居場所は
作るものでしょ
その他大勢
埋もれていると自分を見失う
どんなセオリーな会話でも
その骨組みを共有する
二人にはなる
わたしを安心させるのは
閉じた世界よ
開花
の早回しのように髪を翻して
女は前へ向き直り
終着の見え始めた歩みを再開させる
立ち尽くす
何を言おうにも言葉はきっと
何かに詰まった
踵を止めない彼女の背中は
操り人形のよう
彼女の背中はまっすぐ少しずつ
小さく
夜と混ざり合う粗雑な磯のシルエットに
紛れ
やがて仄白い衣装さえ
消えゆく
張りぼての見事に煌々と
発光する月が
二度目の回転を起こす
文也は仰向けで
月が視界に入らぬよう首を
やや傾けている
目は柔軟になって夜闇に適応し
風化しきった
宇宙色の中に天空を縦断する一筋の線
を見出した
如何なる質感も伴わない純粋な直線は
夜に溶けぬほど
黒く端を持たない無限に延びゆく
そんな線が何条も
空に架かって出鱈目に張り巡らされ
同じだけ
まっすぐに
交差する時だけ干渉し合い
零に近い僅かな曲率を生んでいる
砂の付いた腕を上げ
連なる間接を一つひとつ
引き伸ばし
痺れる感覚と指先を垂直に
掲げる
線と中指の爪が二重になって
どちらも透け
片目が閉ざされようとした刹那
文也がはっと
手を引っ込め顔の前にまじまじと
かざす
蜘蛛の巣に掛かったような感触が
指の腹に残っていた
空の線は変わらずそこに架かっている
立ち上がり砂を払う
確かに触れた
知って欲しいと磯へと向けて歩き始める
歩幅をうんと広くして
波音が段々と荒さを帯びてゆき
岩肌から
昇る腐敗臭が文也の乱れた呼吸を
浅くさせる
岩棚に乗る小さな橙の明かり
――電車――
駆け出していた 砂を踏みつけ砂に
足を取られ
沈みゆく夕日の最後
地平線を惜しむ欠片のような
凹んだ肺は
充分に膨らむことなく溺れるようにして
文也は走り続ける
砂を蹴って岩棚に飛び乗る
濡れた藻が
スニーカー底の溝に絡み付く
肩で息をする
のもやっと慎重な視線を足元に落として
駆け上がる岩山
両手の爪悉く泥が入り襟は汗で
濡れている
岸壁の明かりは夜に取り残された電車でなく
山小屋然とした
安普請なシンメトリーの三角屋根
文也の足取りが
胴と分裂したかのような無暗へと変わる
曇りガラスの
濡れた橙色が嵌め込まれた
分厚い扉
時間が
シェリー樽を開いたような茶色となって
染み込んでいる
メッキの剝がれた
真鍮のドアノブは握られると錆びた釘が
ぐらつき
蝶番が軋んで来客を知らせる
奥へと伸びる
数席のカウンターの中グラスを磨く
母くらいの
黒いワンピースを着た女性が一人
いらっしゃい
コースターが一つ出されるカウンター
壁側に二つ
Lの字のボックス席
吊り下げられる球形の照明は
橙色
ランプのようにぶれる陰翳含んで
店に灯る
いえ 人を探してるのです
この辺りで見失ったのでしょう
なら 待つのがいいわ
文也は席へつく
女性がおしぼりを手渡し
何か飲む
染めたばかりのような赤茶の髪が
風に吹かれた
躑躅の花みたく徐に揺れ
八の字に
垂れた双眸の無化粧な笑み
が文也を見下ろす
一面の棚を埋める酒瓶どれも
まちまちに減った
緑の液体らは多彩な幅を持つ
若い森の色
沼底の深碧 澄んだ蒼や煌めく
一滴だけの
緑を溢したような透明な液体
一つとして
同じ緑をした緑の液体は無い
ウイスキーはありますか
多分あったはず
女はカウンター下の戸棚を開け
視線が足元へ
額の横に流した前髪がはらりと
垂れる
腰をかがめて瓶の鳴り合う音がする
あったあった
引き出された無色な瓶
埃を被り
磨りガラスのように照明を返す
濃い琥珀色
の液体が一割ほど残っている
ボトルネック掴んで
髪色と同じその液体を掲げ瓶底に
手を添え微笑む
少ししかないけど
レコードにかけられたピアノトリオ
点々と灯る橙の明かりは夜と隣り合わせ
手を握られているような気分になる声に熱
飲み方は
ロックで
思わず鼻頭を掻いた
どうして自信がないの
カウンターに並ぶ二つのグラス一つは
半分に減っている
朝焼けの新雪のように灯を受け取る
白い指
グラスの縁三日月くらいを
行ったり来たりなぞる
熱くさせる声が
文也の顎を引き上げ
銀幕に見るような黒目が
彼を彼のまま
彼から離して言葉を紡ぎ出す
シンプルですよ
ひとつは僕に魅力がないから
そうは思わないけれど
もうひとつは僕には恋愛が何か
全然分からないのです
文也はグラスを手に取る
からんと回る氷
に押し出され流れるアルコールが
届き喉で熱く膨らむ
恋をしたことはないの
唾液が飲み下され酒はまろやかに
香りを立たせる
すみません 煙草を
貰ってもいいですか
後ろの棚から小さな四角い灰皿に
煙草とマッチを乗せて
グラスの隣に差し出される
ケースから一本抜き取り口へ咥え
マッチを擦る
煤に混ざって上がる固有の火薬の臭い
文也は鼻から
太く長く懐かしい煙を吐いた
あります でもそれは
随分前のこと
だから今の僕にとっての
恋愛は
ほとんど未知のもの
怖いですよ
どうして未知になるの
女の目が
やや開かれる
声もいくらか張られている
それだけで横隔膜が
押し上げられ声となる風が
吹き出されてゆく
思い出してみてください
小学生のころの恋と
中学生になってからの恋
さらには高校生それ以上
一括りの恋愛
でもどれも違っていた
環境の変化
自身の変化から恋愛そのものも
呼応して変わる
のだとしたら今の僕にとっての恋愛は
これまでの恋愛と
変わっているはずです
灰皿の上の煙草が
燻って
一条の煙を立ち上がらせている
吊り下がる
照明までゆき広がり
焼けたように
橙に染まって滞留している
初恋みたい
縁を親指と二本の抓んで
持ち上げ
僅かな手首の傾けに氷が
辷るように回り
薄く残ったウイスキーが
明かり透かして
黄水晶な木漏れ日を描く
恋愛っていうもの自体がその都度変わるって考え方
素敵だと思うわ
それって 毎回全部が
初恋だってことになるでしょ
彼女の視線はその回る氷にばかり
落とされている
文也は自分のグラスを取って一息に
仰ぐ
蒸気を飲んでいるような充満さ
頭まで
のぼせていった
ごめんなさい
ウイスキーそれで最後なの
アブサンでもいい
アブサンって
背後の棚に送られる目配せが
収まる緑らの液体が
インテリアでないことを物語る
お願いします
彼女は目を細めて微笑み
似たような
酒瓶相手に向き合って
唇に人差し指
小首傾げて思案に更け込む
グラスに溜まる
深緑の液体がねっとりと
唇に触れる
スプーン一杯ばかりを舐めるだけで
文也の平衡感覚を
激しく気化していくアルコールが
一回転させ
口腔に火傷をつくる
恋愛の舞台って言っていたわよね
それはどういう意味
何か同じもの
クラスだったり職場だったり
に所属していれば
女性と二人で話していても
意識することはあっても
固くはならない
舞台っていったのは
そういう所とは切り離された
特別さ
を表したかったのだと思います
マッチ箱の中
ねずみ色の影に赤い頭が2つ
抓み出し
赤褐色のやすりに二度三度と
擦る
灯らず赤い薬が煤に汚れていく
しけっちゃってるのかしら
軸がレの字に折れ
吸い殻の溜まった灰皿に捨てられる
咥えた煙草の
フィルターを指でなでた
みたいですね
レコードの針が跳ね上がり
余韻の裾が
路地に隠れる少女のように旋律は
はたと切れた
そうなると残されるのは
目の前の女の人が
付き合う人になるのかどうかになる
そういうことですね
目的と評価に閉ざされた
嫌な空間ね
女はカウンターを出てレコードの
電源落とし
空回りする円盤が漸うと止まる
のを見とって
座る文也に影が落ちるほど近づく
踊ろうか
文也が息を漏らし
目を丸くするのも構わず
手を取り
大丈夫 私だけを見て
踊れるから
導かれるままに立たされ膝が
柔らかくなって
たたらを踏み視界は傾く
腰に手を回して
手が引き寄せられ女の腰を
抱き掌が
やや沈み込む
二人はクラシカルに組み合い
ヒールの音が
リズムをつくって躍らせ
鼻歌が
カウンター席とボックス席の間
狭い空間を
ダンスホールに変える
寄せては消える波頭を
数え尽くすことはできない
時々刻々と
現れ続ける波は一つとして
同じでなく
それら全ては一つの海として
同じである
莉麻が幾度も白波を割き
一歩ごとに
月から遠ざかり浸かっていく
頬に
大きな一息を吸い込んだ
足が底を離れる
明かりは漸うと
威力を失い存在を欠いていく
絶対の闇
眼鏡のフレームが
見えなくなる
全身を包む流れはある
無音無臭
無温無色
真空の世界
無限に広がり一切の境界はない
無限の繋がりに晒され
莉麻の自分が失われ始める
省みようとしていた
おずおずと手と手を触れ合わせる
五本の指があることを
確かめるように握り合わせる
開いて重ね胸に当てる
目が閉ざされる
胸を貫く白線が見えた
掴むと鋼鉄のように硬い
空間を格子状に
白線は限り無く拡がっている
どこでも
四本の直線が一点で垂直に交わり
莉麻はその格子点の一つに居る
足を一歩
踏み出すと次の格子点に移る
口から大きな泡が溢れ上方へ
分裂しながら昇るのを
莉麻は縋るように目で追った
闇を区画する白い裂け目が
厚みを増してゆき闇は縮んでゆく
膨張は多様であり闇は白地によって
輪郭を得る像に映る
莉麻は一つひとつの目に映る像の名を
脳裡に呼び起こしていった
ろうそく
シャープペンシル
空き缶
猫
トマト
母と父と弟
誕生日に貰ったぬいぐるみ
ホトトギス
東横線
ホットドッグ
学校
窓
ライオンズマンション
金時山
時計
母が買って来たワンピース
蚊取り線香の豚
CDコンポ
初任給で買ったヘッドホン
文也
カップラーメン
中古の軽自動車
パソコン
向日葵の花
漸々と闇が閉じてゆき像は
形を失ってゆく過程
全てに目を通すことはできなかった
完全に闇が消え光
に満ち全てが溶け込み輪郭を欠いた
無
莉麻は全身に触れる大きな流れだけを
感じ取る
歩き始める
流れに乗り流れに逆らい流れと共に
流れを横切る
目的は無く自由がある
俄かに振り返る
楕円の姿見
莉麻を中心に全てが写り込む
腕を上げ指を伸ばし指先が
鏡に触れる
刹那
袈裟切りのように鏡が割れ
切れた指から血が
罅に染み込んでいく
鏡は音を立てて烈々と砕け
破片の花びらが舞い上がる
姿見は跡形無く洞穴のような
入り口が現れる
――コン コン――
朝が来たおもちゃのように文也と女は
ボックス席の中で
動きを止めて扉を凝視する
肩にもたれた姿勢のまま
文也の耳元で
迎えが来たのかも
太腿を借りてそこに手をつき
体を起こす
朝までは踊り続けられないか
靄がかった扉の窓に人影
遠ざかるように
薄らいで消える
立ち上がりカウンター席の背に掛けた
カーディガンを羽織る
行って来な
文也は呆けた表情から徐々に覚めて
差し出された水を飲む
手探りで座面の煙草を握ると
手放し立ち上がる
行って来ます
真鍮のドアノブを取り
押し開いた
奥へと伸びる直線な硬い空間
――電車――
左右の窓に昼と夜
座席はなく誰もが床に
思い思いの姿勢で座っている
足の踏み場はなく
肩と肩が当たり背で背を支え
膝と膝が擦れ合う
男も女も子供も年寄りも偏りなく
混在して話し合っている
向かい合わせの
向こうの車両と繋がる入口に立っているのは
目を赤くした莉麻
互いが互いを認め歩み出す
間を縫い
慎重に足を下ろす一歩一歩は
もどかしく
漸く手の届く距離になって両手を突き出し
握り合う
白熱している議論に負けぬよう
二人が声を張る
どこに行ってたの
分からない でも
わたし一人じゃない
ああ 俺がいるよ
見上げるいくつかの視線に気が付き
座ろうか
胡坐を組む膝と膝は自然と打つかる
莉麻の目は天井を見て
声の袖が震える
覚えてる
こくごでやった魔女の話
先生が聞いて来たの
どうして魔女は最後に
鍋に蜂蜜を入れたのかって
わたしは
気づかれないで最後まで飲み干すように
って答えた
俺は魔女の
せめてものやさしさだって
覚えているのね
ああ 思い出したんだ
そう
二人とも同じことを言っていた
でもわたしの答えには
みんな驚いていた
先生がどう取り繕ったか
忘れてしまったけれど
取り繕わなければいけない答えだった
学校はそんなところだ
正解だけがいつも求められる
脇に座る男が首を回して
莉麻に応える
授業だけじゃない教師だけでも
ない全員が
正しいか正しくないか
敏感になる
両拳を床について膝を浮かせ
体ごと回り
三人の輪が出来る
泣いてる女子がいた
俺はその子に
ティッシュを渡してあげた
親切ね 正しいんじゃない
ああもちろん
そしたら見ていた連中が
お前そいつが好きなのかって
俺はなんでって
聞き返してしまったんだ
なんで好きになるんだって
言い方が悪かったのだろう
女子たちが
好き勝手に怒って男子は
俺を偽善者だと
ティッシュの分だけ
一層悪者扱いだ
その通り
カラスの足が
浅焼けた男の目尻に浮かぶ
私はその窮屈の真っ只中
翡翠色のリボンタイを結んだ
制服姿の女が加わる
やっていいことダメなこと
その範囲を守るヒエラルキーがある
範囲を跨いでしまうと
最近調子に乗ってるって
お姉さんの時代にもあった
あったよ
莉麻でいいわ
そうだよね
馬鹿みたいだけど仕方ない
全員が安心して調子に乗れる
学校はそうあるべきだ
理想はね
あなた本気で言ってる
ありえない
いや可笑しくない
学校は本来
理想に顔を向けるべきだ
何を言ってもきれいごと
何の足しにもならない
どうすれば
誰もが調子に乗れる
そんな学校にできるのか
考えてみましょうよ
ひとつは序列だよね
教師が作ってる
教師だけじゃない
でも教師も作ってる
他はそれを真似しているのかも
真似か
モデルが居るってことだな
モデルは教師だけ
他にも親とか
テレビやネットにも
序列を作る要因があると思うけど
それなら
学校だけの問題じゃないってことだ
私たちの問題って訳だ
それなら
言葉の
車内一杯至る所から波紋を広げ
重なると波になり
豊かな海は香りを立ててかき混ざる
莉麻が話したかったことって
学校の正しさではなかっただろ
ええ
話してよ
次は耳を開くから
夕日色の魔女の愛した蜂蜜 杜松の実 @s-m-sakana
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