欠けを継ぐ
北野椿
第1話
口の端を強かに打ったのはずいぶん前のことで、鈍い痛みを抱えながらも床に着地した私は、絨毯の柔らかさに愚かにも胸を撫で下ろしていた。私を拾い上げたその時の客も、しばし私の体を見回して、湯呑みが並ぶ元の棚の一番奥に戻したので、その時の私は、この身の処遇が一八〇度変わってしまうなど想像もしなかった。
欠けた器というものが、人によってどう扱われるか。そんなことはご存知だろう。この身に纏う華美な柄でちやほやされていた私は、新しい客が来るたびに、一度伸ばされた手が潮の引くように下がるのを見ることになった。幸い、この部屋に泊まるのはせいぜい一人や二人だったので、客たちは私をほうって他の二つの湯呑みを重宝した。仕事仲間である彼らが水や茶を注がれて気持ちよさそうに啜られるのを、私はただ羨望の眼差しで見つめていた。客の装いがひとめぐりしたころ、感じていた絶望は諦念に変わっていた。そんな折に現れたのが作家だった。
解くほどの荷も持たずに現れた作家は、ほかの客がそうしたように、三つ並んだ湯吞みから、真っ先に私を取り出した。何度か一度、客は気づかずに私を手に取るものの、人肌に触れるのは久しぶりのことだった。作家は私にいい香りのするティーバッグ入れて、沸かした湯を注いだ。私はいつかの時のように、この真新しいティーバッグが役目を果たす前にごみ箱に捨てられるのを想像した。作家はティーバッグを上下させて、しばらく待つと私をぎゅっと掴んで持ち上げた。熱い眼鏡の向こう、きらきらとした瞳が私を見ている。ぴたりと手が止まる。立ち上る湯気が眼鏡を曇らせて、途端に表情が見えなくなる。私は次に来る悪態だったりため息だったりをやり過ごすために、目を閉じた。
ふうと吹きかけられた息が私の口の傷を撫でた。次いで、柔らかな唇が私の口に触れる。ずずっと啜る音に、この身が震わせられた。
作家は鷹揚だった。彼は一息つくときには決まって私を使った。物語が佳境に入ってくると、彼は私をノートパソコンの傍らに置いて、そのお話を私にも見せてくれた。描くのは身も凍るようなホラー小説だったけれど、彼の慈悲深さとの相違が私を微笑ませた。
作家がやってきて六日目の、ハウスキーピングでのことだった。作家が執筆をしている傍らで、新しく担当をするらしい客室係の婦人が甲斐甲斐しく働いていた。婦人は、ポッドの洗浄をしようと、私の傍らに手を伸ばした。
「あらいけない」という言葉が聞こえるや否や、その婦人は私を片手に廊下を歩き出した。ついにその時が来たのか、と思った。作家の滞在にお供できなくなるのは名残惜しいとも。私はこの廊下を通った器が一つたりとも戻ってこないことを知っていた。
「すみません」
清涼な声が婦人の肩越しに届いた。婦人は振り返る。ぐるりと変わった視界の中からその声の主を探した。立っていたのは作家だった。独り言ではない作家の声は、凛と部屋に響いた。
「その湯呑は処分されてしまうのですか」
「ええ」と婦人は答えた。「欠けているものはお客様に出せませんから」
「処分するかわりに」作家が婦人に近づいた。「私にいただけませんか」
婦人は困惑したようだった。
「備品をお客様に差し上げるわけには」
「なにもタダでというわけではありません。必要な額お支払いします」
「欠けていますよ」
「大丈夫です。前から気になっていたんです」
作家は私に目をやった。見つめ合った気がした。
婦人は「上のものに確認してまいります」と告げて、部屋を出ていった。作家がまだ使うといったので、私はまた元の棚に置いておかれることになった。作家は私を手にとって水を注ぐと、一口含み、またいつものパソコンの前へと置いた。
私は丁寧に旅館の包装紙に巻かれ紙袋に入れられて、作家と一緒に旅館を後にした。歩いているときの揺れだったり、ガタゴトという固い音と振動に揺られたりしてしばらくすると、キィと古いドアの開く音がした。
作家は、私を手早くキッチンテーブルの上に出すと、流しの開きから何やら用具を一式取り出した。作家が私を握って作業に取り掛かると、キッチンの棚に並んだ器から囁き声がした。器たちはどれももれなく金色に輝く一か所を持っていた。
触られて、乾かされて、触られてを繰り返して、作家が「よし、できた」といった時には、欠けていた私の傷口は金色に修復されていた。作家は恭しく私を器たちのいる場所へと置いてくれた。後から聞いたことによると、ここにいる器はみな欠けたのを救われて、こうやって金継ぎされて使われているそうだ。
ホテルを利用するのは気分転換のためだったらしい。あれから本の売れ行きも良いようで、作家は今日もノートパソコンに向かっている。
「休憩でもしませんか」
器がざわめく棚の中から、頃合いを見計らって、私はいつものように作家に声をかける。
欠けを継ぐ 北野椿 @kitanotsubaki
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