偽罪

炸裂餅

偽罪

初めて学校をサボったのは、高2の初秋であった。まだ夏休みの余韻を残しつつ、文化祭も終わって、半ば燃え尽き症候群のようになっていた私は、そのなんとも言えない虚しさに耐えられなくなり、ほんの出来心でその犯行に及んだ。

朝、母親にいつも通り『行ってくる』と一言言って、そのまま自転車を漕ぎ出した。

暫く進んだ後で、通学路でもない知らない裏路地に飛び込んで、前日に充電を満タンにしていたスマホの電源を入れた。

何か悩みがあるわけじゃない、学校に特別行きたくないというわけでもない、友達にも会いたい。

しかし、私は学校をこのままサボってしまおうと思った。

ただ、心の奥底につっかえる、濃厚なクリームのような虚しさだけが理由だった。

スマホで学校に電話した。先生に「自分じゃなくて保護者に電話してもらえ」などと叱られるのが怖くて、誰もいない裏路地で10分も横着してしまった。

しかし、それはただの杞憂に終わった。電話に出たのは名前も知らない事務員の人だった。私が風邪気味の演技をしながら休みますと言うのを、淡々と処理された。

ものの一分で電話は終わった。これで学校に行かなくて良くなった。

もう何も考えなくていい。学校に行って受ける面白くなくて意味のない授業も、楽しいとは思いつつもマンネリを感じてしまっていた友達とのコミュニケーションも。

その瞬間、私の心に確かにあったはずのつっかえが、さらさらと砂になって消えていった。

これがことさらに気持ちよかった。


それから、私は小一時間、行く宛もなく自転車を適当に漕ぎ続けた。ズル休み、ましてや学校をサボるなど初めてで、平日の昼にするべきことなど何もわからなかった。やりたいことも特段無かった。

漕いでいる間、自分のことを考えていた。

自分は何者なのか、何になりたいのか、どうすればもっと理想の自分に近づけるのか。

そんな意識の高い題材に頭を巡らせながら、時折学校をサボり1人自転車を漕いでる自分のしょうもなさに立ち戻って自嘲するのが、なぜだかたまらなく快感であった。

自転車に漕ぎ疲れた私は、マップで近いと表示された公園に立ち寄って、その端っこのベンチに腰を下ろした。

市街地の灰色を遮るように公園を取り囲む木々の葉が、爽やかな秋風とともに地面に落ちていく。

本来騒がしくあるべきのすべり台やブランコは、その色合いとは裏腹に無機質で、ピクリとも動かない。誰もいない公園に、静かな朝の響きだけが漂っていた。

これほど美しい光景は、観光地や意図的な芸術作品には作れない。まさしく目に映る何の変哲もないただの風景が、私のフィルターを通して生み出された私のための美しさなのだと自覚した。

つまり、この公園の景色自体は、美とは程遠い日常だけれど、私の気持ちが非日常に傾いているために、美しく見えるのだ。

私はベンチから立ち上がり、おもむろに周囲を見渡した。

目に留まる場所が一箇所あった。

それは、私が座っていたベンチの背後にあった、落ち葉のたまり場だった。

その周辺には、何匹かの蟻がうごめいていた。

私はしゃがみこんでそれを見つめた。

蟻が必死に足を動かして、落ち葉の下に身体を隠していたミミズの死骸を引っ張っているところだった。

統率が取れているようには見えず、意志があるようにも見えないのに、時間が経つにつれて、そのミミズの身体は引っ張られる。

落ち葉に隠れて、最初は半分ほどしか見えていなかったミミズの身体が完全に見えるくらいになった時、私ははっと気がついた。

この蟻も、ミミズも、そして落ち葉も、絶対に今ここに存在している。でも、もし私が学校をサボっていなかったら、彼らは誰にも認識されず、この世界には無かったこととして処理されてしまう。彼らの生きた証と実績を、私が学校をサボったことによって証明できるのだとしたら、これはなんと尊いことであろうか。

私の迷いは断ち切れた。サボったことへの葛藤が晴れた。

この光景を忘れたくないと思った。セーブをしようと思った。

人は、一人ひとりに記憶のセーブポイントがあると思う。ふとした場面で、何気ない日常で見た景色を思い出すことがないだろうか。

修学旅行というワードを聞くと、いつも最初に頭に浮かぶ光景、幼稚園と言われて、最初に思い出すあのときの景色。

それは意図的に記憶されたシーンではなく、何故か残っている日常の残り香だ。それを人生のセーブポイントのように、私は感じる。

今、この何気ない場面を、今自分が抱いているなんとも言えない感情とともに、セーブポイントにしよう。

きっとふとした時にこのときのことを思い出して、また初心に戻れるはずだ。

私はそう強く念じて、蟻の頑張りを見届けた。


急に不安に襲われた。それは公園を出て、また何気なく自転車を漕いでいたときのことだ。

こうしてサボっているのの目撃情報があって、問い詰められたらどうしようと思った。

普段休まない私のことを心配して、担任が親に電話でもしたらどうしようと思った。 

一度消えたはずの葛藤が戻ってきた。でもそれは、先程までの自分のしたことが正しいかどうかという葛藤ではない。ただ、親や先生に叱られたくないという防衛本能に基づく不安であった。

これはどうしようもなかった。それは自分が、未だ日常から解放されきっていないことを表していた。私は学校や家と全く関係のないことをすることで、自分を身体的にも精神的にも解放しようと思っていた。

しかし、精神はまだその植え付けられた鎖に、縛り付けられたままだった。


それでも私は自転車を漕ぎ続けた。お昼を回っても、弁当を食べずに漕いでいた。学校と家の間の区域をぐるぐるとした。一度学校の前まで行って、中を確認して離れてみたりもした。

そして、私は段々と、この見つかって叱られるかもしれないという不安が、何物にも代えがたいスリルとなって、逆に非日常世界を生み出す根幹の認識になっていると思うようになった。

つまり、見つかるかもしれないという不安そのものが私の負担になることで、いつ殺されるか分からない兵士や、いつ捕まるか分からない犯罪者のロールプレイと重なって、一つのゲームをやっているような感覚になったのだ。

それはすなわち、自分がゲームの中の世界というのを無意識的に擬似体験しているということだった。

これが、私の価値観を壊してしまった。


5時頃、私は家に帰った。朝渡された弁当は、適当な場所でかきこんでバレないようにしておいた。

母が玄関の前で仁王立ちしていたらどうしようという怯えがあったが、実際入ってみると恐ろしいほどいつも通りだった。母親が今日の学校の様子を聞いてきたので、もはや知ってて皮肉を言っているのかと勘ぐってしまったが、どうやらそうでもないらしい。

私は早々に自分の部屋に引っ込んだ。サボりは完全犯罪になった。

夜、私は部屋の中で布団にくるまり、このサボりの中での私の体験を『偽罪』と名付けた。

私は華麗な犯罪者、親や先生にバレないように、課せられた非日常という名のミッションを遂行する。

少し恥ずかしいくらいだが、今の自分を表現するのにピッタリだった。


それからは、暫く学校に普通に通った。

しかし、やはりふと、あのときの快感が頭を過ることがあった。

一ヶ月ほど後に、私は二度目のサボり(ミッション)を果たすことを計画した。

前回はお金を持っていかなかった。そしてずっと自転車を漕いで、風景に浸っているだけだった。

次はどうせなら、もう少し高校生らしいサボり方をしてみよう。もっとスリリングに、もっと俗に。

私はサボりにある種の期待感を寄せていた。今まで真面目な生徒としてやってきた私にとって、親に伝えず、先生を騙して学校をサボるなど、まさしく犯罪そのものだった。でも彼らをゲームの敵キャラのように見立てると、途端にスリリングな逃避行となって非日常にありつけるのだ。これは私にとって衝撃的だった。


中学生の頃、私は病んでいた。勉強が思うように行かない、習い事も趣味もなく、他人に見せつけられる特技もない。漫画読んでゲームして、学校のルールには意味も考えず従って、そういう無為な生活を続けてきた。

それに疑問を感じたのは、中学生2年生の頃だ。小学生の頃に読んでいた好きな冒険漫画の主人公の年齢、14歳に並んだのだ。

私の日常にはなにも刺激的なことはなく、同じような人と同じようなことを繰り返すだけ。しかもそこには信念も絆もない。やりたいこともなく、これをやりたいと周りに熱弁する勇気もない。

一方で、その漫画の主人公は、長所と短所がはっきりしていて、仲間がいて、毎日刺激的なシーンが繰り広げられていく。

空想だと分かってる、フィクションだと分かってる。でも納得がいかなかった。読んでいてつらくなるのだ、それは私がやりたかったことなのにと嫉妬してしまうのだ。

高校生にもなると、それはますます顕著になった。小学生の頃はお兄さんとお姉さんの話として見ていた恋愛漫画が、年下同士のイチャイチャになって、今や凄く子供に感じる。

幼い頃に思い描いていた『高校生』という『大人』が書き換えられて、小学生に毛が生えたような成長しかしていないお子様だと実感してみると、ますますそれらの物語が痛々しくて見ていられない。

私は常に非日常を欲していた。固まりきったこの心を砕いて作り変えられるほどの衝撃を必要としていた。

でも進んでも進んでも、何も変わらない。私は昔に比べて何が変わったというのか、むしろ劣化しているのではないか。


だから、私は学校を初めてサボったときの気持ちを忘れずにいた。あのとき初めて、私は大胆不敵な偽罪者として、先生や親というスリルをかいくぐりつつ、新たな自分に巡り会えたのだ。


来たる中秋の明朝、私は再び、裏路地で電話をかけた。

2回目は年頃に、ファミレスに行って読書とスマホいじりでサボってみた。いつも来ているようなファミレスだけれど、全く違うように見えた。

それからもたまにサボっては、いろいろな非日常を体験しに行った。

映画館で、元々見たいとも思っていなかった映画を、その場でチケットを買って見てみた。友達が授業を聞いているときに映画を見ているという背徳感と、行き当たりばったりで予定不調和な感じが良かった。ボウリングをしたことがなかったので、やってみた。案外楽しくなかったが、周りが連れと騒ぎながらやっているのを尻目に、孤独感を演出しながら1人でやるのは心地よかった。その他にも、カラオケ、ラーメン屋、ショッピングモール、遊園地、神社、寺、墓場、森……。ただ遊ぶための場所から、感傷に浸れるような場所にまで、たくさんの場所に一人で行った。

サボりは一回ごとに間を開けていたので、どんなにやってもバレることはなかった。

たまに、替えの服を持っていって、適当な場所のトイレで着替えてサボることもあった。

制服でリスクを感じながらというのもいいが、こちらはこちらで怪盗が変装して潜入捜査しているような感覚を味わえて楽しかった。


どんどん私の意識は、偽罪を犯すことに注がれた。

自分が主人公なんだと、この世界を私は受け入れ、何の先入観もなく感じているんだと思い込んだ。

学校をサボる、遊びに行く、帰り際に公園や神社に立ち寄って感傷にひたり哲学的思考を気取る。

これこそ私の人生の、極上のルーティンなんだ。

最低でも2週間は開けていたサボりのペースが、1週間ごとになった。それに、不安を感じつつも、新たなリスクだと解釈して幸せになれた。


そして、ペースを変えた直後、事件は起きた。 

流石に学校を休むことが多すぎて、そろそろ先生が親に連絡しそうだと私は感じた。

ゲームオーバーにならないためにも、一旦これを最後に間を空けよう。そう考えて、いつも通り自転車に跨った。

いつもの裏路地で電話をした後、今日は市内の少し離れたところにあるフラワーパークを見に行こうなどと思って、自転車を走らせていた。

その日は強い風が吹いていた。

街道に沿って下り坂。自転車のタイヤは自分の漕ぐよりも早く回る。車体が古いので、カタカタと音が鳴っていた。

ぼーっと考えをめぐらしながら走っていた。

突然のことだった。前方を歩いている老婆に激突した。

全く気が付かなくて、何が起こっているのな数秒気が付かなかった。その後で、自分が人を轢いたということを自覚した。

私は我に返って、急いでその老婆の元に駆け寄った。

大丈夫ですか、大丈夫ですかと声を掛け、倒れ込む老婆の容態を確認する。

大きな道ではなかったので、老婆と自分以外には人がいなかった。これでは助けも呼べない。

震える手をなんとか動かしながらスマホを取り出して、電話の画面に移動して。

そして119と打ち込んだ時、かすかなうめき声が聞こえてきた。

老婆は生きていた。しかし、どこからか出血していて、辛そうだった。

今まさに通報するという瞬間、私の脳裏にある考えが浮かんだ。

通報したら、学校や親にサボりがバレる。

そしたらゲームオーバーだ。

よぎったことは、老婆への心配でも懺悔でも、自分への嫌悪でもなく、ただ一つ、サボりがバレたらこの非日常が終わってしまうということだけだった。

誰もいない。老婆もうずくまっているし、誰に引かれたかなんて混乱して分かってないだろう。

今逃げれば、それこそ一番の非日常だ。


そして、私は逃げた。自転車は全くの無傷だった。

バレないだろうなどとは思っていなかった。しかし私はこの時まさに、警察と逃避行する犯罪者の映画を想起していた。

無意識の奥の奥で、求めていた非日常を得られた快感が次第に膨れた。

そのまま、県境まで逃げた。時刻はまだ午後2時だった。こんなに走っても、まだ学校は終わっていない。

そのまま河川敷にいって、草原の上に寝っ転がった。心臓がバクバクして止まらなかった。

倫理道徳は正常だった、気持ちの悪いうねるような罪悪感と絶望が胸に突き刺さり弾け飛ぶ。

アドレナリンで汗が吹き出して、筋肉がこわばり和らがない。

一度転がったが最後、腰が抜けて立ち上がることすらできなかった。

でも、最終的に私はこう思ってしまった。

なんて愉快な非日常だろうと。

今までの何倍も、何十倍も、何百倍も大きな快感が、私の体に染み渡るように広がった。これがいつも犯罪者の手を染めている溶液なのだと思った。

夏休みも文化祭も、自分が求めている青春とは全く違っていた。退屈で、ひねりのない、ただの行事でしか無かった。もっと異世界の体験を、私は求めていた。きっとこのサボりは、その復讐として始まったのだ。

真面目で抑圧されていた自分を突き動かしたのは、間違いなく物語の力。そしてとめどない快楽物質を貪る自分は、最低の『主人公』である。

私はその点で、この偶然による事故が引き起こした事件は、確かに嫉妬をぶつけた彼らに負けていない体験だと歓喜した。

その時の私にとって、これは偽罪の範疇だったのである。







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偽罪 炸裂餅 @ruitu

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